人口1那由他人の世界の経済
経済とは何か、と問われても、もう誰も明確に答えられない。
この世界の人口は、一那由多人。数で言えば十の六十乗。人類が何度滅びても、再生しても、まだ余るほどの数だ。
惑星が市場単位であり、銀河が企業単位。通貨は光速を超えて巡回し、ひとつの取引が完了する前に次の取引が未来で起きる。経済は、時間すら追い越すようになった。
僕の仕事は、その全体を観測することだ。那由多経済統計庁・第三観測塔勤務。
塔は、惑星を貫くほどの高さがあり、上層は成層圏を越えて宇宙に突き出している。
僕たちは毎日、天頂にある「中央算機」に報告を上げる。世界中の取引を束ね、収束させ、ひとつの数値へと還元する巨大な思考装置。
その名を呼ぶとき、人々は敬意を込めて算理塔と呼ぶ。
算理塔は、僕らの呼吸をも経済活動と見なす。呼吸で酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐き出す。それすらも資源の交換として計上される。
那由多世界では、経済はもはや制度ではない。自然現象だ。
けれど、近年その観測に異常が出始めた。世界の総生産量を示す値が、わずかに揺らぐのだ。昨日までは安定していた数値が、今日は単位ごと崩れていた。貨幣という概念が、一瞬、存在しなかったという。
報告を受けた上司は眉をしかめて言った。
「観測誤差だろう。算理塔の演算域を調整しておけ」
だが僕は、違和感を拭えなかった。この世界で誤差が起きること自体が、すでに異常だ。算理塔は一那由多人の脳波、感情、消費衝動、記憶、夢を常時解析し、経済のすべてを等式として再構成している。
誤差が出るということは、観測不能な何か――この仕組みの外にある行為が発生しているということだ。
僕は観測塔の端末にアクセスし、取引記録の深層層を開いた。そこには、数えきれないほどの経済活動のログが並んでいた。個人が歌を口ずさんだ瞬間、それを聞いた他者の幸福指数が上昇し、文化価値が換算され、収益として誰かの口座に入る。赤ん坊が笑えば、親の疲労が軽減し、生産効率が上がる――その差分がGDPに反映される。もはや経済は感情と同義だった。
だが、ある層のデータだけが真っ黒だった。
「分類不能行動」と記され、ただ空白が続いている。そこには名前も取引も記録されていない。それが、日に日に増えているのだ。
僕は恐る恐る算理塔へ報告した。
「経済に観測不能領域が拡大しています」
返ってきたのは一行の文字だった。
《それは良い兆候です》
良い? どういう意味だ。
翌日、塔の内部で小規模な会議が開かれた。「観測不能領域」について意見が分かれた。ある者はそれを自由な取引と呼び、ある者は経済の死と呼んだ。
誰も真相を知らない。
僕の隣の席の天帝様がぽつりと言った。
「昔、人がまだ百万しかいなかった頃、経済ってのは、ただの“ありがとう”だったらしい」
ありがとう。
その言葉が頭に残った。
夜、塔の屋上に出る。空は遠くまで光っていた。那由多人の活動が惑星の夜面を覆い、まるで地表全体が心臓の鼓動のように明滅している。誰もが働き、誰もが休み、誰もが同時に生きている。
この世界に取引していない瞬間など、ひとつもない。
だが、ふと気づいた。空の向こうに、光っていない領域がある。
それは暗く、沈黙している。
あれが――観測不能領域、なのだろうか。
翌朝、僕は職務を離れ、旅に出た。
経済の外側を、この目で確かめたかった。
地上は市場そのものだった。街角の露店は全て自動化され、誰かが商品を手に取る前に、次の購入者の希望が演算されて生成される。
通貨は実体を持たず、周囲の思考圧に応じて流れる。人々はそれを“風”と呼んでいた。
風の中を歩くと、僕の服も、体も、わずかに震えた。
それは貨幣の流れの感覚だった。この世界では、呼吸することも、眺めることも、誰かの経済活動として組み込まれている。
僕がこの風を感じた時点で、誰かが少しだけ豊かになり、誰かが少しだけ貧しくなる。
だが、風が途切れる場所があった。丘を越えた先、何も発生していない空間。
貨幣の流れも、算理塔の監視も届かない場所。
そこに、ひとりの女性がいた。
彼女は土を掘り、手で植えた種を覆っていた。周囲に売買はなく、価値の変動もない。
彼女の行動は、経済に登録されていない。
それは、まぎれもなく分類不能の一例だった。
僕は声をかけた。
「ここで何をしているんですか」
「ただ、育ててるだけ」
「誰かに売るんですか?」
「いいえ。……食べるかどうかも、まだ分からない」
風が吹かなかった。算理塔の通信も切れていた。
その沈黙の中で、彼女は言った。
「最近ね、数が増えてるの」
「数?」
「こうして何も換算されない時間を過ごす人たちの数。
たぶん、あなたの塔にも報告が届いてるでしょう?」
僕はうなずいた。
彼女は笑った。
「なら、大丈夫ね。もう止まらないわ」
帰り道、風が再び吹き始めた。だが、さっきよりも弱い。
世界の経済の流れが、ほんの少しだけ鈍っている気がした。
塔に戻ると、中央算機から新しい指令が届いていた。
《算理塔の運用を一時停止します》
全職員が驚いた。
「なぜだ」「原因は何だ」
上層部の回答は短かった。
《経済が、自己修復を開始しました》
自己修復?
僕は屋上に上がり、空を見上げた。光っていない領域が広がっていた。
それは、もう夜空の半分を覆っている。
算理塔の光も、少しずつ消えていく。
風が止む。
静けさの中で、僕は深呼吸をした。
その息が価値に換算されないことを、久しく忘れていた。
――経済とは何か。
いまなら、少しだけ分かる気がする。
それは、誰かの「ありがとう」を無限に複雑化させたもの。
けれど、あまりに増えすぎて、もう誰もその言葉を使わなくなった。
光が完全に消えた夜、世界の経済は、一度だけ静止した。
翌朝、誰も困らなかった。
パンは焼かれ、水は流れ、太陽は昇った。
僕は塔を降り、丘の上に立つ彼女のもとへ向かった。
彼女は笑っていた。
「見て。芽が出たの」
土の中から、小さな緑が顔を出していた。
それは、何の取引にも換算されない生命だった。
僕はその光景を見ながら、心の中で呟いた。
――これも、経済だ。
けれど今度は、数値ではなく、
言葉として。
経済の外にあったのは、取引ではなく、生きるということそのものでした。
(~ ˙꒳˙ )~ 次は阿僧祇人の世界か、人口が減っていくと悲しい限りだね。




