お前なんか一生結婚できないって笑ってたくせに、私が王太子妃になったら泣き出すのはどういうこと?
「お前なんか一生結婚できないよ」
あの日のカイルの笑い声が、今でも耳に焼き付いている。
鋭くて、残酷で、私の心をえぐるような……。
私の名前はエノレア・ベルモント。地方の小さな伯爵家の末娘。
淡い青髪にブルーの瞳。背が小さくて、華やかさのかけらもない女。
母からは「もう少し愛想よくしなさい」と言われ、姉たちからは「エノレアは地味だね」と笑われてきた。
でも一番辛かったのは、幼馴染のカイルの言葉だった。
侯爵家の次男で、私より三つ年上。
金髪に緑の瞳で、社交界でもそれなりに人気がある。昔は優しいお兄さんみたいだったのに、いつからか私をからかうことが多くなった。
「エノレアって、本当に女?」
「そんな地味な顔じゃ誰も振り向かないって」
「嫁の貰い手なんていないでしょ」
最初は冗談だと思っていた。でも、だんだん本気に聞こえるようになって。私が何か言い返そうとすると、「冗談だよ、冗談」って笑ってごまかす。
それでも私は、密かに彼が好きだった。
昔の優しいカイルを覚えていたから。いつか、私のことを女性として見てくれるかもしれないって、淡い期待を抱いていた。
だから十八歳の誕生日の日。私は勇気を出して、カイルに想いを伝えようとした。
「カイル、あ、あの……私!」
「ああ、エノレアか。誕生日おめでとう。でも残念だなあ、もう十八なのに、まだ縁談の一つも来てないんでしょ?」
私の言葉を遮って、カイルは首を振った。
「え、あ、うん……」
「まあ、そうだよな。見た目もダメなのに、愛想もよくねえもんな」
その日、私は部屋で一人泣いた。枕を濡らして、声を殺して。
私はきっと、一生独身で過ごすのだろう。ひっそりと、誰にも愛されず、生きていくのだろう。
そう思っていた。
運命が変わったのは、それから半年後のことだった。
王都で開催される春の舞踏会。毎年恒例の華やかな催しで、貴族の子女たちが一堂に会する。私なんて招待されるはずもないと思っていたのに、なぜか招待状が届いた。
「エノレアも一応は伯爵令嬢だから」
父がそう言ったけれど、きっと数合わせだろう。
でも、一度でいいから王都の舞踏会を見てみたかった。
当日、私は母の古いドレスを仕立て直したものを着ていた。
他の令嬢たちのような豪華さはないけれど、淡いブルーの生地は私の肌に合っていると、侍女のシルヴィアが言ってくれた。
「お嬢様、とてもお美しいですよ」
シルヴィアは優しい嘘をついてくれる。でも、嬉しかった。
舞踏会場は想像以上に華やかだった。シャンデリアの光が踊り、美しいドレスを纏った令嬢たちが花のように微笑んでいる。楽団の音楽が響くその世界は、夢の中にいるみたいだった。
でも、私はといえば、やっぱり隅っこにいた。
壁際の椅子に座って、お茶を飲みながら、その光景を眺めているだけ。
──私なんかが踊ったら、お相手に迷惑をおかけしてしまう
きっと笑われるだろう。あの地味な伯爵令嬢が何をしているのかって。
そんな時だった。
「お一人ですか?」
振り返ると、そこに立っていたのは──王太子殿下だった。
レオンハルト・アルバート・ロゼンベルク。王国の第一王子で、王位継承権第一位。銀髪に青い瞳、まるで絵画から抜け出してきたような美しさ。
私の心臓が、ドクドクと音を立てた。
「あ、は、はいっ!」
声が震えてしまう。どうして王太子殿下が私なんかに?
「お名前は?」
「エ、エノレアです。ベルモント伯爵家の……」
「ああ、ベルモント伯爵のお嬢様ですね。お父様にはいつもお世話になっております」
殿下は微笑まれた。その笑顔が、あまりにも美しくて見惚れてしまう。
「もしよろしければ、お話しませんか?」
「え、私なんかとですか?」
「なんかなんて言わないでください。あなたはとても魅力的な方だ」
私が、魅力的?
度の過ぎた冗談だと思ったが、殿下の瞳は真剣だった。
私たちはテラスに出て、夜風に当たりながら話した。殿下は私の話を真剣に聞いてくださって、時々相づちを打ったり、質問をしたりしてくださった。
「内政についてはどうお考えですか?」
「そうですね……。民の暮らしを第一に考えるべきだと思います。貴族の贅沢よりも、庶民の生活の安定が大切かと」
「素晴らしいお考えですね。具体的にはどのような政策がよろしいとお思いですか?」
私は震える声で、日頃考えていたことを話した。
税制のこと、教育のこと、医療のこと。きっと的外れなことを言っているに違いない。でも、殿下は最後まで聞いてくださった。
「とても聡明でいらっしゃる。そして、優しい心をお持ちなのですね」
そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。
「そんなことありません。私なんか、ただの田舎の令嬢で……」
「またなんかと言いましたね」
殿下は苦笑された。
「あなたは自分をあまりにも過小評価している。私から見れば、あなたは他の誰よりも輝いて見えますよ」
瞬間、私の目に涙がにじんだ。
目の前がぼやけて、うまく殿下の顔が捉えられない。
「……なにか傷つけてしまいましたか?」
「いえ、違うんです! 嬉しくて、その、ごめんなさい、急に」
殿下は優しく微笑んで、そっとハンカチを差し出してくださった。
「エノレア」
殿下が私の名前を呼ぶ声が優しく響く。
「今日、あなたとお話しできて……本当によかった」
「わ、私も、とても楽しかったです!」
殿下は少し躊躇うように口を開きかけたが、やがて微笑んで頭を下げられた。
「それでは失礼いたします」
私は慌てて頭を下げる。本当に、夢みたいな時間だった。
それから三日後。ベルモント伯爵家に一通の手紙が届いた。
王家の紋章が押された、正式な書状。
「お、王太子殿下からエノレア様宛にお手紙です」
使用人のトーマスが震え声で報告する。
「なんですって?」
母が立ち上がり、姉のクレアとアリスも慌てて駆け寄ってくる。父も新聞を放り出して、私に鋭く視線をぶつける。
「王太子殿下からだと? エノレア、お前なにか粗相をやらかしたのか?」
「え、してない、と思いますけど……」
「エノレア、あなた本当に王太子殿下とお話ししたの?」
母が心配そうに聞く。
「舞踏会で、少しだけ……」
「少しだけって、どのくらい?」
姉のクレアが身を乗り出してくる。
「テラスで、三十分くらい……」
「三十分も!?」
家族全員が驚愕の表情を浮かべた。
「そんなに長く? 一体何をお話ししたの?」
アリスが詰め寄ってくる。
「内政のことや、民の暮らしについて……」
「政治の話だと?」
父が眉をひそめる。
不安が押し寄せてくる。私、何か失礼なことを言ってしまったのかもしれない。王太子殿下を怒らせてしまったのかもしれない。最後は泣いちゃったし……。
不安を蓄える私をよそに、父が震える手で封を開いて中身を読み上げる。
「『ベルモント伯爵家令嬢エノレア・ベルモント殿へ。先日の舞踏会でお話しさせていただき、深く感銘を受けました。つきましては、正式にお嬢様への求婚を申し入れいたします』……」
静寂。
そして、母が卒倒した。
「お母様!」
大騒ぎになった。父は腰を抜かし、姉たちは目を見開いて私を見つめている。
自分の目でも手紙を確認してみたが、父の読み上げた内容に相違はなかった。
間違いなく、王太子殿下からの正式な求婚状だ。
「舞踏会でちょっと話しただけで、求婚? そんなことがあるの?」
クレアが信じられないといった様子で首を振る。
「エノレア、あなた何か隠してることがあるんじゃないの? 本当にただ話しただけ?」
アリスが疑うような目で見つめてくる。
「本当に、ただお話ししただけです!」
父がよろよろと立ち上がって、手紙を何度も読み返している。
「ともあれこれが本物なら、我がベルモント家にとって、千載一遇の機会だ……」
「でも、どうして? どうしてエノレアなの?」
アリスがつぶやく。その言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。
そうだよね。どうして私なんかを選んでくださったのだろう……。
翌日、正式な返事を出すために王宮を訪れた。
馬車の中で、私の心は激しく揺れ動いていた。
本当にこんな私でいいのだろうか?
王太子妃なんて、務まるのだろうか?
鏡に映る自分を見つめる。相変わらず地味な顔。華やかさのかけらもない。
どうして殿下は、私なんかを選んでくださったのだろう。
王宮に到着すると、使用人たちの視線が痛いほど突き刺さった。
「あの方が……」
「王太子殿下の……」
ひそひそと囁かれる声が聞こえる。
殿下は執務室で私を待っていてくださっていた。
「お返事はいかがですか?」
私は深呼吸をして、震える声で答えた。
「は、はい。謹んでお受けいたします! でも」
「でも?」
「本当に、私でよろしいのでしょうか? 私は地味で、取り柄もなくて、殿下にはもっとふさわしい方がいるんじゃないかと……」
殿下は優しく微笑まれた。
「エノレア、あなたはなぜそんなに自分を卑下するのですか?」
「だって、私なんか……」
「またなんかと言いましたね」
殿下は立ち上がり、私の前に歩み寄られた。
「あなたは美しい。あなたの聡明さ、優しさ、民を想う気持ち──そのすべてに、私は心を奪われたのです」
その言葉に、私の目にまた涙がにじんだ。
「でも、私には他の令嬢のような美貌は……」
「他の令嬢など、どうでもいい。私が選んだのはあなたです。他の誰でもない、あなただけです」
「殿下……」
「私と生涯を共にしていただけませんか?」
殿下がそっと右手を差し出してくる。
私はボロボロと涙を落としながら、その手を取った。
「は、はいっ。こちらこそお願いします!」
殿下の顔に、安堵の表情が浮かんだ。
「必ず、あなたを幸せにすると約束します」
その言葉に、私の心は温かくなった。
婚約が正式に決まると、王都の社交界は大騒ぎだった。
「あの地味な伯爵令嬢が?」
「王太子殿下の目は確かなのか?」
「きっと何か裏があるに違いない」
「あんな田舎者が王太子妃だなんて」
そんな声が飛び交った。街を歩けば視線が痛く、社交界では陰口を叩かれる。
私の不安は日に日に大きくなっていった。
でも、一番辛かったのは、故郷に帰った時だった。
「ハッ、いったい何の冗談だよ、それ」
カイルの声が震えていた。いつもの余裕は、どこにもない。
私たちは実家の庭園で話していた。彼が急にやってきて、殿下との婚約の話について突っかかってきた。
「お前が……お前が王太子妃? 嘘だろ?」
「嘘じゃない。私、レオンハルト殿下の婚約者になったの。正式に」
カイルの顔から血の気が引いた。そして、急に顔が赤くなった。
「ありえない! そんなの絶対にありえない! 馬鹿な冗談はよせよ!」
「冗談で、こんなこと言わないわ」
「お前に王太子妃なんて務まるわけがない! だ、だいたい、お前なんかが王太子の目に止まるわけないんだ。そ、そうだな。王太子はお前を見せ物にして国民全員で馬鹿にするつもりなんだ! 恥かく前に婚約は撤回してもらうんだな、は、ははは」
その言葉は、昔と同じように私の心を刺した。
私はその場で俯き、拳をグッと握る。
「そんなこと、ない。殿下は私のことを幸せにしてくれるって……」
「お前みたいな地味で冴えない女が、何を勘違いしてるんだ!」
カイルの声が裏返った。
「ど、どうせ王太子の遊びだ! 美人に飽きてちょっとお前を弄ぼうとしてるだけなんだ! お前なんか、すぐに捨てられる! そしたらお前はどうなる? 王太子に捨てられた女として、一生笑い物だぞ!」
涙が出そうになった。でも、必死に堪える。
「カイル、どうしてそんなひどいことを言うの?」
「ひどい? 現実を教えてやってるんだ! お前は昔から何も変わってない! 地味で、つまらなくて、魅力のない女なんだ!」
苦しい。言葉の刃は時に、本物の刃物よりも鋭い。
耐えていた涙がいよいよ溢れてきそうになった、その時だった。
「──口を慎みたまえ」
凛とした声が響いた。振り返ると、レオンハルト殿下が立っていた。
「レ、レオンハルト殿下……!?」
カイルの顔から血の気が失せた。
殿下は今日、私の婚約発表の準備で王都から来てくださる予定だった。でも予定よりずっと早い……。
「君は……カイル・ハーヴェストだな」
「は、はい……」
カイルがガクガクと震え始めた。
「エノレアの幼馴染らしいな。しかし幼馴染がこのような暴言を吐くものなのか?」
殿下の声は静かだったけれど、怒りがにじんでいた。
「も、申し訳ございません……その、つい……」
「つい?」
殿下の瞳が鋭くなった。
「エノレアを侮辱することを私は許さない。たとえそれが幼馴染であろうとな」
その威厳ある声に、カイルは膝をついた。
「申し訳ございません……申し訳ございません……」
でも、私はもう聞いていなかった。
カイルの謝罪も、周りの騒めきも、どうでもよくなった。
だって、この人が私を選んでくださったから。この人が私のことを見てくれているから。
「エノレア」
殿下が私の手を取られた。
「少し歩こうか。君に会いたくて予定より早く来てしまった」
「殿下……」
「婚約者になったんだ。そろそろ、名前で呼んでくれないか」
「れ、レオンハルト様……」
私が照れくさそうに呼ぶと、レオンハルト様は柔らかく微笑んだ。
私たちが歩き去る時、後ろでカイルが何か叫んでいた。
「エノレア! 待ってくれ! 俺は、俺は!」
でも、振り返らなかった。もう、振り返る必要なんてない。
長い間私を縛っていた鎖が、ようやく断ち切れた気がした。
「なんでだよ……なんで、なんでだ! 俺が、俺が先だったのに……!」
耳に届いたのは、しゃくり上げるような泣き声だった。
カイルが、泣いている。
直接、その姿を見たわけではないけれど、背後から聞こえた嗚咽に、私は確かにそれを感じた。
──あの時笑っていたくせに。
結婚なんてできないって、嘲っていたくせに。
今になって泣くなんて、どれだけ身勝手なんだろう。
──お前なんか一生結婚できないよ
あの声は、もう私を傷つけることはない。
私はもう「なんか」じゃない。
誰かの価値で測られる人生は、もう終わったんだ。
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