【短編】メスガキの憂鬱
「お兄ちゃんなんて、どうせザコだからチョコレート貰えないんでしょ?」
「そんなこと言いに今日もわざわざ隣県まで来たのか、キミは」
2月14日。
現代の恋に冷めた男子的には既に形骸化したイベントではあるのだが、人生を楽しむことに敏感な女子には大切な日であるらしい。コハルは、昔から憧れていた近所の兄へチョコレートを届ける下準備のために小さなアパートまでやってきていた。
「まぁ、お兄ちゃんって昔からモテないもんね」
「そうね」
「それで、えっと〜。ほら、顔もあんまりカッコよくないし〜」
「仕方ないね」
「というか、セッキョクセーがないんだよね。だから童貞なんでしょ〜」
「返す言葉もないね」
「んも〜〜っ!!」
特に腹の立つような性格をしていない青年は、昔からこうしてコハルの生意気な言葉をのらりくらりと躱していた。というか、テメーよりふたまわりも小さな少女の言葉で精神を揺らされることなど、人生に大した期待をしていない彼にはありえねーのであった。
「それで、なにさ。コハルちゃんがチョコくれんの?」
「はぁ? あげないけど?」
「えぇ、やだなぁ。俺、コハルちゃんのチョコが欲しいなぁ」
加えて、青年はこうして女性の心をくすぐるのが上手い。きっと、恋愛に興味がない故の無意識の産物なのだろうが、とにかく、彼は女性を喜ばせるために自分をピエロに出来る余裕を持っていた。
それは、独占欲だったり、支配欲だったり、或いは庇護欲だったり。とにかく、彼は程よく女性の持つ潜在的な欲求をくすぐるのである。
実際、コハルがバレンタインデーの早朝にやってきた理由も、「こいつ、実はモテてるんじゃねぇの?」的な懸念があり、ならば先手を打って他の女と会う時間を削ってやるのが得策であると考えたからである。
サプライズを潰すという少女にしてはあまりにもリアリズムを重視した考えではあるが、しかし、だからこそコハルが本気で兄に恋していることも伺い知れるだろう。
「ぷくく。お兄ちゃん、あたしみたいな小さな女の子のチョコなんて欲しいんだ。やっぱロリコンなんじゃん」
「にゃーん」
「なにそれwww かわいくないからwww」
「くぅーん」
「ね〜えwww」
流石、メスガキの扱いも慣れたものである。どうせ何を言っても素直に返事をしない彼女なのだから、適当なことを言って笑わせてあげるのが最も合理的であるだろう。
「というか、こんな休みの日に一人で何やってたの?」
「部屋の掃除。終わったら、飯でも作ろうかと思ってた」
「ふぅん。お兄ちゃん、料理なんて出来たんだ」
「どうせなら一緒に食べよう、その後で遊んであげる」
「うん。……いや、そういうんじゃないから。まぁ、お兄ちゃんがどうしてもって言うならいいケド」
「どうしてもコハルちゃんと遊びたい」
「……んもぅ」
どうもペースを崩されてからかいきれないコハル。ほとんど毎週会いに来ているのだが、それでも見ないうちに兄が更に大人になってしまったような気がして、幼いながらに憂鬱を覚えてしまう。
そんな彼女を横目に、呑気な音楽を流しながら、コハルの言葉に耳を貸しながら、時間をかけてチンタラと掃除を終わらせ、ようやくスパゲッティを茹でる兄。
作業台に置いたカセットコンロのフライパンで、みじん切りにしたニンニクとニンジンとタマネギとひき肉を炒め、トマト缶で煮込んでいる。これにタバスコと粉チーズを親の敵のように振りかけて食べるのが、彼は大好きであった。
コハルは、そんな兄の背中を見ながら自分のまだ膨らんでいない胸に手を当ててため息。どうやら、片手間での相手が寂しかったらしい。
見られていないところでは物憂げな表情を浮かべる、彼女もただの恋する乙女なのだ。
「なに落ち込んでるのさ」
「は、はぁ!? そんなの勝手じゃん!?」
「誤魔化さなくていい、俺には背中にも目がある。それくらいの感覚がなければ、この一年間とても生き残れなかった」
「……ばぁかじゃないの?」
「当ててあげよう。『どうやったら、背後から一撃で始末出来るかなぁ』といったところか」
「始末www 違うからwww」
「じゃあなんだい、ママにも言えないような悪いことしちまったのかい」
ある意味、そのとおりである。
コハルは、兄を見ていると、時々どうしようもなくエッチな気分になる自分に悩んでいる。しかし、男子をからかって遊ぶ自分が惑わされているだなんて認められず、それが悪いことだと思い込んでいるせいで誰にも相談出来ないのだ。
「あぁ、あたしはなんてかわいいのかしら。こんなにかわいい女の子なんて、きっと生きているだけで罪なんだわ。あはん」
「ちょっと、勝手なこと言わないでよ。小説だと本当にあたしが言ってるみたいになるでしょ」
おまけに、兄にからかわれるのが実は嬉し恥ずかしい感じがしていて。「あぁ、ひょっとするとあたしってエムなんじゃないかなぁ」という、性的な知識を身に着け始めた頃の気の強い女子的にはゼッテーに認めたくねー苦悩も上乗せされているのだった。
「でも、他にキミが悩むようなことなんてないじゃんね。勉強とか運動が出来なくたって気にするような性格でもないし」
「あたしの何を知ってるワケ?」
「キミの知らないキミのことまで、兄はすべからく知っているのである」
「ん、うぇへへ。ねぇ、マジでキモいんだけど」
自信たっぷりに肯定されて、妙な安心感が嬉しくて、思わず変な笑いがこみ上げニヤけるコハル。しかし、本当にそうならば自分の恋心も知っていなければおかしいと思いあたり、途端に顔を真っ赤にすると内ももに手を挟んでモジモジしながら俯いた。
意外なことだが、コハルは頭がキレるタイプであった。しかし、だからこそ、裏をかいたり奇想天外に笑わされることが、彼女の屈辱を優しく撫でて快感を分からされる結果に繋がるのだろう。
「ほら、出来たよ。食べよう」
「……ふん。言っとくけど、おいしくなかったら食べないから。あたし、料理の味にはうるさいもん」
ちょっとワガママを言ってみたものの、好きな男の料理が食べられないなんてことは、コハル的には絶対にありえねーのである。なんなら、食事のマナーや作法には厳しい両親に育てられているため、好き嫌いなんてちっともねーのであった。
「うまいか?」
「まぁまぁかな」
「そりゃよかった」
妙に育ちのいい食べ方を一瞬だけ見つめ、冷めきったインスタントコーヒーを啜る兄。その仕草を見て子供扱いされていると感じたコハルは、キッと睨みつけると黙ってフォークに麺を巻き口に運んだ。
「……お兄ちゃん、やることなくて一人でエッチなことばっかしてんでしょ」
「藪から棒に何を言い出すかね、キミは」
「あたしが来るからエッチな本とかゴミ箱の中を片付けたかったんでしょ」
「さぁ、どうでしょう」
「ふん、やっぱスケベなんじゃん」
「そういう小生意気なことは、口のソースを拭いてからにしなさいな」
言って、コハルの口元を拭ってやる兄。詰めの甘い少女はカッとなって彼の手を払ったが、すぐに冷静になって誤魔化すように食事を続ける。
「大体、年下の女の子にからかわれて熱くなるのは支配欲のドキツい金持ちかプライドだけ高い世間知らずのオトナモドキだけだぜ。コハルちゃん。そんなもん、普通のメンズじゃ屈辱に感じる方が難しいし、そう感じる大人をキミみたいなマセガキが気に入るとも思えない」
「じゃあ、お兄ちゃんはあたしがこんなことしても何とも思わないの?」
キッチリとスパゲッティを食べ終わってから、彼女は胸元を開けてチラリと淡い膨らみを見せびらかす。
「はい、お返し」
すると、今度は兄がシャツを脱いで胸を見せ返す。ここでコハルをクラッとさせたのは、脱いだ時に舞った彼の匂いであった。
「ぇぅ」
小悪魔と呼ぶには、あまりにも初心であるように見える。しかし、実態は兄が更なる悪魔というだけである。悪を制するのは正義ではなく、更なる大きな悪でしかないのだ。
「お、大人気ないよ。そんなやり方」
「そう思うってことは、キミのスケベさも相当なモノだな。変態め」
「ねぇ! ヤだ!」
「イヤだと言ったって、それが抗えない欲求ということはキミ自身が一番理解しているだろうに。だから、男の子をからかうのが楽しいんだろう?」
「……ほんっと」
「あぁ、最っ高の気分だね。生意気なガキ言い負かすのは。カーッハッハッ!」
「カッチーン! むっかついたーっ!!」
ついに何も言い返せなくなったコハルは、兄の首に抱き着くと首筋を舐めるという直接攻撃に出た。ここまでバカにされた以上、自分をエロい目で見させなければ気が済まなくなったのだ。
「空中戦か! いいだろう!」
それを受け取った兄は、ノリだけで思いついたセリフを言い放ち、抱きつかれたまま立ち上がると逆に強く抱き締める。その力強さに心臓が爆跳ねして思わずギュッと腕を掴んだ瞬間、今度は壁に押し付けられてしまった。
「ひゃわぁ!?」
半裸のせいで肌がピッタリとくっつき、伝わってくる兄の体温にコハルの変な気持ちが危ない領域へヒートアップしていく。
一方で、さっきからまともに取り合わずギャグで片付けようとする兄の態度が悔しくて、グチャグチャになった感情は強く彼を抱きしめることでしか発散できなかった。
「ほんと、マジでムカつく」
「いいね、もっと負け惜しみを言ってごらん」
「マジでムカつく! こんなに思い通りにならない男なんて大っ嫌いなんだけど!?」
彼女は、兄がイタズラ好きだからメスガキになったのだろう。
「ちょっとくらいさ! マジメにやってくれてもいいんじゃん!? ずっとヘラヘラしてさ!」
「ふぅん。キミ、本当にマジメに答えて欲しいの?」
「そう言ってんじゃん!」
「そうしたら、全部ここで終わっちゃうよ」
突き刺さるような冷たい温度の言葉が、胸の内側でズキリと痛む。そんな、まるで殺されたんじゃないかと思えるほどの苦しみを放ったのに――。
「……え?」
兄は、優しく微笑むだけだった。
「うりゃ」
「あひゃあ!」
涙がジワリと浮かんだ瞬間、兄はコハルの耳を舐めた。ゾクリと震える感覚に身を縮めて、なるほど、これが本当に劣情を煽られるということなのかと、少女は蕩けた赤ら顔で思った。
「大変だよ、コハルちゃん。このままくっついてたら、いっぱい幸せになってバカになっちゃう。気持ちいいの我慢できなくておかしくなっちゃう」
「ひゃ、ひゃめへ。みみもとひゃめ」
「エッチな気持ち、どうやったら元に戻るのか分からなくて怖いよね。あぁ、大変だ。もっと好きになっちゃうの、止められなくて大変だ」
いよいよ、誤魔化し程度に反抗していた力が抜けて、このまま行ってしまいたいと感じた時、突如として兄は彼女の体を離す。
「な、なんで?」
すると、彼はあっけらかんとした涼しい表情で優しく言った。
「こんなふうに、情緒をメチャクチャにした上で歯の浮きまくるセリフでキミを蕩かそうとする奴にもきっと会うだろう」
「ほぇ?」
「今回の出来事でキミが得た教訓は、男をからかって悦に浸るのも程々にしておいたほうがいいってことかな」
「な……っ。か……っ。んもおおおお!!」
声にならない声をあげ、兄をポカポカと叩くコハルの心の内たるや。どう考えても一線を越えたいたずらの、それを絶対に誰にも明かさないと見透かされている力の差を、コハルは嫌になるくらい実感していた。
「そう怒らないでよ、何か甘いモノでも奢ってあげるから」
「……ふん。それくらいで許してもらえると思わないでよね」
「なら、早く大人になりなさい。そしたら、今日の続きを教えてあげよう」
トドメの一撃に、どうせ嘘だと分かっていても、切なく期待してしまう自分の弱さに悲しくなる。
「ところで、チョコレートは?」
「絶対にあげないに決まってんでしょ!?」
叫んでしまった手前、鞄から取り出すワケにもいかなくなってしまった。
さて、どうやってこのチョコレートを渡せばいいだろう。コハルの憂鬱は、今日も留まることを知らなかった。
キモすぎて逆にいいんじゃないかと思えてくる