39、ベルメのヘソ、奇跡の泉
「ちゃんと奥の湧き水を汲んできましたよ。おや、パンを食べずに待っていてくれたんですね」
大きな容器を持ったイチニーさんが、私達の方に戻ってきた。確かに、私もリゲル・ザッハも、手にはイチニーさんからもらったパンを持ったままだ。
「そんなんじゃねーよ。ベルメのヘソで変な質問をするな」
(嘘発見器だっけ)
だけど、不思議な水場だな。湧き水があるということは、泉なのかな。海の一部なのかもしれない。
ベルメの海底ダンジョンの泉といえば、私は見つけたことがないけど、体力も魔力も全回復する奇跡の泉というものがあるらしい。乙女ゲーム『フィールド&ハーツ』の攻略情報に書かれていたことを、ふと思い出した。
あっ、でも、奇跡の泉は、水たまり程度の大きさだと書いてあったから、ここのことではなさそう。濃い霧のようなものが水面を覆っていて反対岸は見えないけど、ここはガランとした広い空洞になっている。この水場は、結構な大きさがあると思う。
「ミカンさん、どうしました? 彼に怖い話でもされましたか」
「あっ、いえ、この水場は泉なのか海なのか、って考えてました」
イチニーさんが差し出してくれたマグカップを受け取ると、彼はふわっとした笑顔を見せた。
「海水は飲めないので、これは飲み水ですよ」
「あ、そうね。ありがとう」
(わっ、綺麗なマグカップ)
茶渋は一切付いてない。新しいマグカップなのかな。私は潔癖症ではないけど、やはりこの世界の、茶渋がコッテリとこびりついたカップには抵抗がある。
「使い捨てのカップなので、清潔ですよ」
「えっ? あー、はい」
私はすぐに考えが顔に出るみたい。私がなかなか口を付けないからか、イチニーさんもリゲル・ザッハも、大丈夫だと証明するかのように、先に飲んで私に微笑みかけてくれる。
私は、その水を一口飲んでみた。
(えっ? これって……)
足の疲れがパッと消えた。もしかして、これって、奇跡の泉の水なのかな。
「あの、この水って……」
「ベルメのヘソの水だ」
(だから何?)
「ヘソって何ですか?」
私がそう尋ねると、リゲル・ザッハは少し驚いた顔をしている。バカにされているのかもしれない。
「海の民でなければ、冒険者じゃないと知らないことですよ、リゲルさん」
イチニーさんはそう言うと、ニコニコと笑みを浮かべながら、パンを取り出して食べ始めた。私もそれにつられるように、パンをかじる。
(バターの香りがたっぷり〜)
予想以上に美味しくて、私は大きなパンをあっという間に食べてしまった。そして水を飲むと、私は完全復活していた。
(ふぅ、お腹いっぱい)
リゲル・ザッハは、2個目のパンを受け取り、パクパクと食べている。このバターの香りは食欲をそそるのよね。どこでこんな美味しいパンが売られているのかな。
「お嬢ちゃん、ベルメのヘソというのは、ベルメの海のいろいろなチカラが集まっている溜まり場という意味だ。この場所の霧は、真実をあばく。そして、湧き出す水には豊富なマナと精霊の加護が含まれている」
「あっ、だから嘘は通用しないって……」
「あぁ、そうだ。それに、この水辺の水は強い毒を帯びている。ベルメの悪いものも溜まっているんだ。だから、霧のある水場の水には、不用意に触れてはいけない」
「えっ? 毒? なぜ、貴方は……」
「ふふん、毒の水のすぐそばにいることが不思議か? ここは、一切の魔法が発動できない。奇襲をくらうことがないからだ」
(魔法が使えない?)
「でも、さっきイチニーさんは水の上を……」
「正確に言えば、魔力を放つことができない。だから、自分にかける魔法は使える。ここの霧の影響を受けないからな」
「あぁ、なるほど」
すると、黙っていたイチニーさんが口を開く。
「リゲルさんはなぜ追われてるんです? 海底ダンジョンの入り口で、冒険者と会いましたよ。転生者を含む4人でしたけど」
(えっ? みっちょん?)
「俺がパーティを抜けたから、俺に強制できなくなったからだろ。名前を持たないおまえには関係ない話だ」
「はいはい。じゃあ、私は聞かないようにしますね」
そう言うと、イチニーさんは拗ねた子供のように、私達から離れた。でも声は聞こえる距離よね。
「お嬢ちゃん、あんたの知識を借りたい。ベルメのヘソの水は、異世界人は利用していたか?」
「ゲームの話でいいんですか?」
私がそう尋ねると、リゲル・ザッハは軽く頷いた。
「あぁ、この世界にいる俺達からすれば、未来に起こる実際の話だ」
(確かに、そうね)
「私は見たことがないんですが、奇跡の泉というものがあるという情報はありました。水たまり程度の小さな泉の水を飲むと、体力と魔力が全回復するそうです」
「ふぅん、じゃあ、その水たまりがあれば、ベルメのヘソには異世界人は来ないのだな?」
「私は、ここは知りませんでした。奇跡の泉は、確かボス部屋の近くで目撃情報があったようです」
「ボス部屋? なんだ? それは」
「えーっと、扉などで仕切られた部屋です。そこに足を踏み入れると強いモンスターが出てきます。ボス部屋に踏み込むと、大抵、戦闘不能になるので、私は変な場所には入らないように気をつけていました」
「ほう! お嬢ちゃん、それは重要な情報だ。ベルメの海底ダンジョン内で、異世界人に立ち入らせたくない場所へ通じる道には、ボス部屋があればいいのか。なるほどな。そうすれば、楽に守れる」
リゲル・ザッハは、爽やかな笑みを見せた。彼がこんな笑みを見せたのは初めてかもしれない。
「あの、リゲルさんは……」
「あぁ、俺の母親は、このベルメの海を守るザッハ家の者だからな。異世界人の立ち入り場所として、この海底ダンジョンかザッハの孤島のどちらかを提供しろと、要請されている」
「ザッハの孤島というのは初耳です」
「ふふん。俺も、ザッハの孤島は絶対に拒否している。だから、ベルメの海底ダンジョンしかないのだ。そのボス部屋というものと湧き水の水たまりを作って、異世界人の行動を制限することにしよう。お嬢ちゃんに会えてよかったよ」
ニッと笑って親指を立てる彼は、まさしく乙女ゲームで会ったリゲル・ザッハそのものだった。




