第7話 『賢者は歴史から学ぶ③』
ニイロ史料編纂所の窓、地上から約13メートルの高さにある窓から、その主であるニイロが躊躇なく飛び降りた。
まるで、鳥が空へと飛び立つように悠然と。
それが当たり前の動作であるかのように。
普通の人間ならば狂気の沙汰、ただの自殺行為だろう。運が良くても骨折や捻挫、打ちどころが悪ければ死ぬ恐れもある。
普通の人間ならば。
赤いレザージャケットを鳥の翼のようにバサバサとはためかせ、ニイロが大地に降り立つ。
骨折や捻挫どころか、傷ひとつない身体で。
何事もなかったかのように腰に佩いた刀、悪喰弁天の鞘に左手を添えている。
「────出てきたよ。何の用かな?」
その異常な登場の仕方に度肝を抜かしつつ、ニイロの前にいるごろつき五人は彼女に向けて銃を構える。
フレームまで錆びたオンボロの拳銃を持った、ひげ面の男。
バレルからハンドガードに至るまで手作りの銃を構えた、際どい服装の女。
雑多な銃火器や自作の武器で武装し、統一感のない服装で思い思いに略奪や暴行、破壊行為に勤しむ彼らの名称は、レイダー。
人間が持つ負の側面を濃縮したような連中であった。
そんなレイダーたちと対峙するニイロ。
「ニイロォ……。その澄ましたツラァ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしてやんぜぇ」
レイダー集団の中心にいる親玉らしき大男が、右手に構えた大口径リボルバーをニイロに向ける。
鈍く光るステンレス製のフレームと、およそ20センチもある長い銃身が特徴的なそのリボルバーは、50口径というおおよそ人間に撃つには大きすぎる弾薬を使用するとんでもない拳銃であった。
まさに、ハンドキャノンと表現するのが相応しい。
「この、オレサマのイチモツ並みにデケェ銃はな。人間どころか、戦前の軍用兵器すら貫通する弾を撃てるんだ。人間なんざ撃った日には、肉の霧になっちまうぜぇ」
「そうかい。とりあえず、近所迷惑だから早いとこ何処かへ行ってくれないかい?」
しかし、そんな物騒極まる代物を向けられてもなお、ニイロは気に掛けることもなく、のんびりと煙草を咥えて、火をつけている。
ぷわ、と口から呑気に紫煙を吐き出すニイロ。
明らかに、彼女はレイダーたちをコケにしている。
レイダーの親玉は、怒りのあまり構えた拳銃を震わせながら、品性の欠片もない大声を上げる。
「聞け、クソアマ! こっちはマジだぜ! ……だが、オレサマは寛大だ。オメーも顔と肉体は極上だからな。素っ裸になって土下座して、オレサマの女になるっていうんなら、考えてやらねぇこともねぇ」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて、舐めまわすような視線をニイロの身体に向け、その裸を想像するレイダーの男たち。
それが、ニイロの逆鱗に触れた。
ピリッ、と辺りに電気のようなものが奔ったような錯覚。
建物の窓から観戦していたリイナとアスタは、周囲の気温が一気に数度ほど下がったのではないかとすら思えた。
「アスタ様。もしや、ニイロはいま────」
「……キレてるね、確実に」
窓の縁を掴むアスタの手が、僅かに震える。
これは、まずい。
アスタがそう呟いたとき。
「そうまでして、死に急ぐこともないのにねぇ……」
ニイロの右手が、腰に佩いた刀に伸びた。
彼女の愛刀である悪喰弁天、その刀身がゆっくりと姿を現す。
刀身に特殊なコーティングが施された、高周波振動刀。文明崩壊前の科学技術によって生み出された妖刀である。
68センチの刀身が、レイダーたちに冷たい殺意を放っていた。
まるで、獅子や虎に睨まれた小動物のようにすくみあがる、有象無象のレイダーたち。
その親玉だけはどうにか戦意を喪失していないが、彼の中で燃え上っていた怒りや欲望は、冷水をかけられたかのように鎮火してしまっている。
右手に刀を構えた女性一人に、武装した集団がここまで怖気づくものなのか。
リイナは改めて、ニイロという人物のただならぬ強さと怖さを実感していた。
「私も、寛大だからね。いま頭を下げて帰るなら、この刀は振るわない。けど、あくまで向かってくるんなら……」
ニイロが、悪喰弁天を両手で構える。
刀の柄は額より僅かに上、そして左足を前に。
「命の保証は、できないよ」
上段の構え。
刀剣のリーチを最大限に活かし、振り下ろされた高速の一撃で勝負を決する構えである。
呼吸すら憚られるほどの緊張が、周囲に満ちた。
下手に動けば、即座に斬られる。
レイダーたちの人数は五人。対するニイロはたったの一人で、銃火器すら持っていないというのに、そういう確信がレイダーたちにはあった。
ニイロという女性はいま、この場を完全に支配している。彼女の一挙手一投足に、誰も彼もが否応なく注目せざるを得ない。
たった一人の女に。
たった一本の刀に。
五人のごろつきが怯え、すくんでいる。
その事実に苛立ちを覚えたレイダーたちの親玉が、痺れを切らした。
「テメーら! ビビるこたぁねぇ! 囲んでヤっちまえ────!」
否、切らしてしまった。
ニイロが、動いた。
そう。動いた、なのだ。
文明崩壊前の軍用アンドロイドとして、人間の肉眼など遥かに凌駕する動体視力を有するリイナですら、そう表現するのが限界であった。
鉄杭を地面に打ち込むがごとく、ニイロが己の右足で地面を蹴ってレイダーとの間合いを詰めたということは、辛うじてリイナも視認できた。
しかし、その先が分からない。
皆が気づいたときには既に、ニイロはレイダーたちの後方に立っていた。
彼らの武器は全て両断され、ある者は頭部のヘルメットを、ある者は胸部の服を、そしてある者は目に装着したゴーグルを斬られていたのだ。
到底、人の身で為せる業ではない。
ニイロが口に咥えていた煙草の紫煙が、その離れ業の余韻のようにゆらりと、レイダーたちの近くを漂っていた。
そして、ニイロが鞘に刀を収めた瞬間。
「に、に、に……。逃げろぉ────ッ! バケモンだぁ────ッ!」
何が起こったかを誰も把握していなくとも、誰が勝ったのかは火を見るより明らかであった。
親玉を含めたレイダーたちは、いっそ清々しいまでの無様な逃げっぷりでその場を後にする。
そんなレイダーたちを後目に、ニイロは三階の窓から戦いの行方を見守っていたリイナとアスタに対して、いつもの彼女のように気の抜けた顔で煙草を咥えたままピースサインを見せる。
あきれ返るほどの強者が、そこにいた。
これが、ニイロ。大阪という名の地が滅びた後、数多の修羅が跋扈するダイハンを生き抜いてきた女性の強さ。
「リイナちゃん! 確かにキミは強いし、賢い!」
ただただ圧倒されるリイナに対して、ニイロは軽い調子で声をかける。
「だが、まーだ全然この世界のことを知らない! キミのいた世界、キミの知っていた人間は、もうないんだよ!」
彼女は短くなった煙草を地面に落とし、それを靴の踵で踏み消すと。
「だから────!」
跳躍。
ニイロはまるで階段を一段飛びで上るような気軽さで、三階の窓まで跳んだのだ。
彼女はそのまま窓の縁に手をかけて、まっすぐにリイナの瞳を見つめて口説く。
「まずはこの世界と、この世界に住む人間について、知ることが大事だと思うんだよねぇ。回収者でもしながら、さ」
にこり、とあからさまな作り笑顔を浮かべるニイロ。
「とりあえず所長。窓の縁にぶら下がるのは、品がないのでやめてくださいよ」
「それもそうだね」
アスタに注意され、ニイロはそそくさと窓から室内へと入った。
「……なんだか、まんまと丸め込まれたような気もしますが。ワタシがこの大阪……、いえダイハンという場所をあまりに知らないというのは事実です」
「えっ、それじゃあ……」
リイナのその言葉に、アスタが期待の眼差しを向ける。
ハァ、とニイロに対する当てつけのように大きなため息をついたあと、リイナは言った。
「なりましょう、回収者に。……アスタ様との相棒の件に関しては保留のままですが」
大袈裟なまでに両手を挙げて喜ぶアスタ。
「やった──! ……って、そこは保留なんだね」
「まぁまぁ、何事にも段階ってものがあるからね。せっかちな男はモテないよ、少年」
推薦状のひとつでも書いておくよ、と言ったニイロは再び自らのデスクにドカッと座る。
そして、下手な鼻歌を垂れ流しながら、さながら地獄沙汰の引き出しをガチャガチャと漁り、しわしわの紙切れを取り出した。
「さて、と。それじゃあ、改めて────」
その紙切れにインクの切れかけたペンで適当なサインをして、彼女はそれを自らのデスクの前に立っているリイナへと差し出した。
「人類の、過ちの向こう側にようこそ。リイナちゃん」
その紙を受け取ろうと、ゆっくり手を伸ばすリイナ。
しかし、胡散臭そうに目を細めて笑うニイロを見た時、彼女はこのまま素直に受け取るのがどうにも癪に思えてしまった。
思うだとか、感じるだとか、そういった反応はその脳みそから足の指に至るまでが機械で構成されたアンドロイドとしては、全く不自然なものである。
だが、思ってしまったのだから、思ってしまえるのだから仕方がない。
リイナはニイロの手からパシッともぎ取るように紙を受け取ると、口をへの字に曲げた。
「随分と、しょぼくれたパスポートですね」