第5話 『賢者は歴史から学ぶ①』
ニイロ史料編纂所の事務所。
ところどころひび割れした壁紙に貼られた連絡用のボードには、アスタが書き込んだであろう連絡事項、それからニイロ直筆の落書きが描かれている。
回すことも、ローラーを転がして動くこともできなくなったオフィスチェアは、誰かが座るたびにギシギシと耳障りな軋む音をたてた。
デスクは四つあるものの、アスタとニイロしか社員はいないため、残りふたつのデスクは荷物置きと化している。
崩壊前の世界であったなら、事務所というより学生のぼろっちい部室、という評価を容赦なく下されたであろう場所だった。
「それじゃあ、そこに座ってちょっと待とうか。すぐに説明用の史料を持ってくるから。アスタくんが」
入口の横に仕切りも何もなく置かれたソファーに、リイナが座る。
案の定、ソファーも何処からか拾ってきた年代物であり、中身の綿はぺしゃんこで、バネはちょっと動くだけでミシミシと音を立てる上に固かった。
「素晴らしいソファーですね。臀部に当たる感触は、コンクリートより僅かにマシというくらいです。これほど劣悪なものは、崩壊前の世界だと粗大ごみという名前で呼ばれていました」
「来客用のソファーを、そこまで褒めてもらったのは初めてだよ」
リイナの皮肉を軽く受け流して、彼女の対面にあるもうひとつのソファーへと腰掛けるニイロ。
ソファーがギシッと大きな音を立てるが、お構いなしにくつろいでいる。
ローテーブルを挟んで、向かい合う二人。
「……その頓珍漢な服、リイナちゃんのお気に入りかい?」
ニイロがおもむろに、リイナの着ているメイド服を指さす。
「いえ。ワタシを作ってくださった博士の趣味です。同じく博士が用意してくれていたチャイナドレスやセーラー服なども、ワタシが眠っていた研究所の地下バンカーにあったのですが……」
「ですが?」
「いいから早く服を着てほしい、というアスタ様の指示に従い、近くにあったこの服を選択しました」
その話を聞いたニイロは、ケラケラと笑った。
「まぁ、アスタくんは純情ボーイだからねぇ。女に対する免疫がほぼないんだよ」
「ですが、ワタシには生物的な意味での性別という概念がほぼ存在していません。ワタシは女性ではなく、機械です」
「そういう理屈っぽいことで判断しないんだよ、あの子は。まぁ、それが良いところなんだけどね」
そうやって、リイナとニイロが雑談をしていると、幾つもの史料が入った箱を両手で抱えているアスタが、ローテーブルにその箱を置いた。
「ふぅ、また重労働だ……。所長も手伝ってくださいよ」
「ありがとう、アスタくん。私も女の子だからね、重い物を持つのは男の子の役目だ」
ぶつぶつと文句を言いながら、リイナの隣に座るアスタ。
そんな彼が持ってきた箱を開け、ニイロは大量の史料を取り出した。
「さて、それじゃあ歴史の授業を始めようか。たしか、リイナちゃんが眠ったのは、いまから百年ほど前だったね?」
ローテーブルに広げられる、様々な形の史料。
何らかの公的な文書。
私的なやりとりを行っていた手紙。
ありふれた新聞記事の切り抜き。
いろいろな媒体での情報が、リイナの前に置かれた。
「ここにあるのはどれも、私たちが発見した史料の中で、おおよそ百年前くらいの出来事が書かれているものだ。かなり苦労したよ。なにせ、崩壊前の世界はどれもこれも電子化されているものが大半だったからね」
ポーカーテーブルのディーラーのように、ニイロは流麗な手つきでどんどんと資料を出す。
それら情報の化石を、ジッと見るリイナ。
そこから読み取れる事実は、リイナにとって衝撃的なものばかりだった。
「人類史上最大規模のパンデミックを引き起こした殺人ウィルス……。間違いありません、博士も同様のことを最後に言っていました。このウィルスが、人類世界が一度崩壊した元凶です」
リイナの言葉を聞いたニイロは指を鳴らす。
しかし、その表情はアスタと同じく、決して晴れやかなものではなかった。
「やはり私たちの考えるとおりだったね」
「は、はい……。けれど、これが真実だったとなると、この後の歴史も……」
「あぁ、かなり悲惨だよ」
リイナは二人の言葉に反応することもなく、ただひたすらに人類が辿った悲惨な歴史、その断片を読み解き続けた。
リイナが博士によって、研究所の地下バンカーで眠りについたのが、アスタたちの生きている世界よりおよそ百年前。
そのとき、まだ崩壊してなかった世界では、前代未聞の感染力と致死率を誇る感染症が流行していた。
医療機関は次々にパンク。それに連鎖して多くの生産、流通機能が麻痺。社会はあっという間に機能不全に陥った。
この感染症はただの風邪だ。
特定の国家や秘密結社による陰謀だ。
そういった何の根拠もないデマが数多く流布され、宇宙にすらその生存圏を広げようとしていた先進的文明社会は、その高度に発達した情報伝達網が仇となり、混乱状態となる。
そして、その混乱によって世界各地の権威主義体制の国家が暴走を始め、もともと世界中で燻っていた争いの火種は、幾つもの国を巻き込む戦争の大火、第三次世界大戦となったのだ。
「感染症と、第三次世界大戦……。このふたつによって世界は一瞬にして崩れ去った。これが、百年前に起こった出来事ですか?」
ニイロの目を見つめるリイナ。
しかし、ニイロはまだ終わらないとばかりに、次の箱からまた史料を取り出した。
「いまリイナちゃんが読んだのは、キミが育った文明社会が崩れたときの出来事。これから先は、私たちが衰退期と呼んでいる時期の出来事だ。これは、いまからざっと五十年前までに起こったことかな?」
リイナはまた、黙ってそれらを読み始める。
衰退期。
感染症と第三次世界大戦の勃発による文明崩壊後から五十年間にわたるこの期間を、ニイロがそう名付けたのは、この期間の人類は何ひとつとして新たな発明や発見、いわば進歩を行えなかったからだった。
まるで、隕石の衝突による氷河期を超えるため、哺乳類が穴に隠れ潜んだように。
権力や金、コネがある人間、所謂富裕層は文明の崩壊直前から地下のシェルターに隠れ、嵐が過ぎ去るのをジッと待っていた。
しかし、多くの一般市民はそういったものとは無関係であり、感染症と戦争が続く地上に取り残される。
地上では感染症によって次々と死者が出る中でも戦争は止まらず、核兵器こそ使われなかったものの、無人機や軍用アンドロイドなどを用いて、数え切れないほどの破壊と殺戮が行われた。
当然、研究や文化など、社会的な余裕があって初めて行われる文明的な活動は鳴りを潜め、敵を殺すための武器と、食いつないでいくための食糧の生産だけが行われ始める。
その武器も生産設備の破壊と人手不足、技術の喪失によって徐々により前時代的なものが目立つようになり、やがては二十世紀前半ごろの武器や兵器が主流となっていった。
流血は更なる憎悪と憤怒、そして破壊を招き、それがとどまることはなかったのだ。
そしてその憎悪と憤怒は、わが身可愛さに地下シェルターへと隠れた、富裕層へも向けられ始めた。
「……シェルター狩り。こんな凶行が、本当に行われていたのですか?」
「そこにある史料の通りさ。嬉々としてシェルターを襲う者、自分を代わりに入れろと迫る者……。貧すれば鈍する、衣食足りて礼節を知るってヤツさ。かつて、文明社会で絶対だと信仰された人間の倫理や道徳は、予想以上に脆かった。それだけの話だよ」
息絶える寸前まで弱った文明を、さらに自らの手で、真綿で首を締めるようにじわじわと嬲っていった。
科学。
文化。
知識。
倫理。
有形無形を問わず、人間のありとあらゆるものが衰退し、更なる崩壊へと世界が向かっていった暗黒の五十年。
ニイロがこの忌むべき期間を衰退期と名付けた理由が、リイナには嫌というほど理解できた。
「……人類とは、かくも愚かなものなのですね」
リイナは、表情を変えない。
しかし、その声には大きな失望と、悲しみがにじみ出ていた。アンドロイドとは思えないほどしっかりと、そして重たく。
「あぁ。人類はその歴史の中で、多くの過ちを繰り返してきた。……だが、この過ちはその中でも特にひどい。まぁ、歴史を学ぶ人間は、こんなものでも見て見ぬふりはできないけどね」
自嘲気味に笑うニイロと、ひと目でわかるほど肩を落としているリイナ。
どうしていいか分からないアスタは、とにかくリイナの肩に手を置いた。