1. 辺境の元聖女
ガルルルゥゥゥ……
唸り声を上げて周囲を威嚇する漆黒の獣。
見上げる程の巨躯を覆う毛を逆立てている姿は、一見すると犬の様な形態をしています。ですが、その黒い獣はそんな可愛らしい存在ではありません。
全身は闇夜の様に漆黒で、険しく歪みおぞましい顔は見た者を威圧するのです。彼の唯一白い部分である口から覗く牙は、恐ろしい程に太く、鋭く、あれに噛まれれば痛いだけでは済まないでしょう。
「ちっ、なんて巨大なヤツなんだ!」
「おい、迂闊に近づくな!」
「分かってる。だがこのままだと囲いを突破されるぞ!!」
その黒く悍ましい存在を町の男衆が手に持つ武器で牽制しながら、逃げられないように囲んでいます。しかし、それ以上は何の手も打てずにいたのでした。
それも仕方がないでしょう。
これ程の大物はここ辺境の地『リアフローデン』でも滅多にお目に掛かれません。
これ程に強大な『魔』を内包した獣――
「くそっ!」
「なんて禍々しい黒だ」
「内包する『魔』の瘴気が半端じゃない!!」
「忌々しい『魔獣』めっ!」
――そう『魔獣』は……
この犬型の真っ黒な獣は『魔獣』と呼ばれる存在です。自然界の獣とは違う摂理に生きており、この世界の理から外れた生物。
いえ、もしかしたら彼らは生物ですらないのかもしれません。
人間を含む生物は母から生まれ、食べて、活動して、寝て、成長し、愛を育み、子をなし、老い、そして死にます。その流れこそが、この世界の生きとし生けるものの真理であり、正常な営みなのです。
しかし、この『魔獣』は『魔』の澱みが蓄積し、その中から発生しています。
そして、彼らは世界より生じる『魔』を糧とし、それを内包し、強い力を持って周囲へ害意を齎すのです。自然界の生物は『食』の為に命を狩りますが、彼ら『魔獣』は食事の必要がなく、ただ衝動だけを持って破壊を行います。
『魔獣』は母から生まれず、生まれながらにして強靭な力を持ち、寝る事も、愛する事も、子をなす事もなく、ただ生への憎しみだけをまき散らして活動する『魔』が形を持った存在。
その身に大量の『魔』を取り込み、それが故に全身を闇の如く漆黒に染めた忌むべき存在。
だから、『魔獣』とは決して私達人間とは相いれない存在なのです。私はそんな彼らを滅し、『魔』を払わなければなりません。
それが私の義務だから。
「遅くなって申し訳ありません」
町の男衆と『魔獣』が睨み合う緊迫した状況の中、私はまるで遊楽の待ち合わせに少し遅れてきたかのような、この場に相応しくない軽い挨拶を述べながら『魔獣』の方へと歩みを進めました。
「シスター・ミレ!」
「近づき過ぎだ!」
「幾らあんたでも危険だ!」
彼らの心配も尤もでしょう。
これ程の『魔獣』ですから相当に強力であるのは間違いありません。
「大丈夫です。後はお任せ下さい――」
彼らを安心させる為に、私はにこりと微笑んでみせました。
それを隙だと思ったのでしょう。
私を警戒して上体を沈めて構えながら威嚇の唸りを上げていた『魔獣』が、解き放たれた矢の様に一気に襲い掛かってきました。
ですが、私がスッと手を前に翳すと、事前に詠唱していた『神聖術』が発動し、私と『魔獣』の間に光の壁が地面から音も無く立ち昇り『魔獣』の行く手を阻みます。
「――直ぐに済みますから」
グガアァァァァァア!!!
光の壁は『魔獣』を包み込み、彼は光に圧迫され断末魔とも取れるような凄まじい咆哮を上げましたが、もう彼にはどうする事もできません。
「すげぇ!」
「こんな巨大で強そうな『魔獣』が手も足もでないのかよ」
「これが聖女の力……」
『聖女』――
嘗て私はその名で呼ばれていました。
ですが、それも昔のことです。
今の私には相応しいとは言えない形容詞でしょう。
元聖女である私の生み出した聖なる光によって、『魔獣』から煙の様に黒い瘴気として噴き出していた『魔』が次第に浄化され、彼はその存在を徐々に失っていきました。
「終わりです……」
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