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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

見習い魔術師リッツと呪われし古代の女王

 つま先上がりの道の両側には、紅蓮の花たちが控えていて、そよ風に花弁を揺らしながら少女を迎えるが、彼女は一顧だにせず、庭園の道を登っていく。

 金剛石(ダイヤモンド)が敷き詰められたその道には、回復の神秘(ルーン)がほどこされていて、少女のミュールの先がいくら沈み、踵が宝玉の配列を乱そうと、磁石に吸い寄せられるように、全てはあるべき姿に回復する。


 ここは王の庭園。花も風も光も、あらゆる全てが祝福された楽園。


「……などと、馬鹿らしい物言いだのう」

「自分には分かりかねます」

 道が平坦になるまで登ると、その先は崖になっていて、視界が開ける。

 紅蓮は赤。赤は9時の方向。世界を紅蓮に染める、夕焼けの色。

 この夕焼けに向かって、剣を振るう兵士の眉や、兜からのぞく髪もまた、紅蓮を帯びている。

 少女はこの色が好きだった。

 調和という名のもとに、全てが進みも戻りもしない、この庭園の世界で、目の前の兵士だけが変化していく。正確には、その切っ先が。剣閃を生む動作から、軌道から、無駄というものがそぎ落とされていく。

 

 少女の瞳の中には、ちゃんと昨日の彼が放った剣閃が残っている。それは目の前の彼と重なる。

 やっぱり、今日の方が速い。いつかは、音や光すらも追い越す剣戟を、この兵士なら放つことになるのだろう、と少女は思う。

 その時には、彼の赤髪はとても長くなり、その武威は崖の向こう、夕陽に向かって広がる王都の街をあまねくおおうようになり、そして……。


「ふんっ!!!」

 少女は絹のドレスの両膝を折り畳むように跳躍。

 兵士のうなじに向けて、ミュールの踵を鋭く突き出す。


 直撃すれば兵士の頚椎は相応のダメージを負うはずだが、少女はそんなことは起こりえないと、初めから分かっている。

 実際、彼女が蹴り飛ばしたのは兵士の残像であり、兵士は納刀を終えて、少女の後方に回り込み、

「無礼をお許しください」

 と静かにのたまって、空中の彼女の背と膝の裏に甲冑の腕をさし入れる。


「本当に無礼だのう。いつになったら、そなたはわらわの蹴りを受けるのか」

「自分にも分かりません。しかし、いつもにも増して鋭い蹴りに、少々驚いております。いかがなされたのですか?」

 少女を抱きかかえる兵士の問いに、彼女は沈黙する。

 まつ毛の長い瞳は強く、兵士を射抜くが、真紅の唇は固く結ばれている。

 彼女は、寂しくなった、とは言えない。

 未来には栄光しかない。悲哀など不純の極みであり、存在するべきではない。

 だから、少女は何も言えないし、赤髪のかかる兵士の瞳を、必死で見上げるだけだ。


「……月蝕の闇は4年後です。間に合って見せます。覚えておく必要はありませんが、言葉の響きは胸に深くとどめておいてください。これは自分の誓いです」

 兵士の言葉に、少女は目を大きく開いた。

 月蝕の闇。月が赤く欠けるその夜の闇の中で、龍に守護されて、不死の鳥が生まれる。

 龍から鳥を奪い、王国に持ち帰った者は、あらゆる褒賞が約束される。

 財宝、名誉、栄達、望むものは、形のあるなしに関わらず、王により下賜される。


 そう。望むものは、何でも。例えそれが……。


 少女の頬を涙が伝った。

 それは王国をおおう紅蓮の雲の光を受けて煌めく。

 兵士の瞳の中に映るその煌めきと、この姿を絶対に忘れないだろう、と少女は思った。

 それは予感に近い確信。


 ※※※※※※※※


 バケツ(つるべ)の形をしたその半島は、王都から馬で7日の距離にあり、陸路から訪れるには、けわしい山脈を越えねばならない。

 万年雪をいただくこの山脈の環境は厳しいが、峻峰(しゅんぽう)をゆく人が命を落とすことはほとんどない。これは緊急避難用の山小屋を兼ねた監視所に、山賊が一目で逃げ出すような、屈強な兵士たちが控えて、旅人の安全を保障しているからだ。


 この山脈のふもとには、温暖湿潤な穀倉地帯が広がる。

 だから、夏の終わり頃、半島に至るために山脈を越えた者は、必ずため息をつく。

 小麦畑が黄金の海となって、南の彼方まで広がるその威容は見る者の胸を打つ。

 この黄金の海は、西に広がるエルゲル海の青と対をなしている。

 温かな南の海に特有の、目が覚めるような青。


 この青に白く散らばる島々は、王侯の所有地としての歴史が長い。

 どの島にも豪奢な別荘が建てられているし、果樹園や浜辺は完璧に整備されている。

 が、夏の間は人気(ひとけ)がほとんど無く、静かなものだ。


 活気が出るのは冬。

 寒さを逃れるために、貴族たちが一斉に訪れる。

 エルゲル海の一帯は、年間を通じてとても過ごしやすい。

 なので諸侯は領地の人間たちが冬の寒さにふるえる間、温かい海で泳ぎ、浜で釣りをし、果樹園の木からブドウの実をもいで食し、自家製の果実酒をあおる。

 王国の一種の者達にとっては、この地域に別荘を持つことが、人生の目標だったりする。


 一方、つるべの底、半島の南部は北部と対照的で、石灰岩質の荒野しか広がっていない。

 だから、物好きな旅人が南に下ろうとすると、彼はこの酔狂のために、命を賭ける羽目になる。

 

 陽は南に進むほど、過酷なほどに強くなっていくし、荒野にまばらに自生する灌木の根元には、凶悪な獣や精霊が獲物を待ちかまえている。

 降水量が少ないため、大きな河川は存在せず、めったにない泉は野盗に占拠されている。

 近づくと、身ぐるみをはがされて、奴隷船に乗せられてしまう。


 旅人は北部との落差に驚くが、ここはまだ生死の()の入り口に過ぎない。

 さらに南下すると、つるべの右下を北東から南東に向かって走る、活火山地帯が見えてくる。

 そして、その黒い津波のように大きく迫ってくる、火山の威容を目にした時点で、装備の乏しい旅人の死は確定してしまう。火山から流れた致死性の有毒ガスが大気に充満しており、旅人の肺を侵すからだ。


 したがって、一般人が火山地帯の向こうを目指すには、海路を利用しなければならない。

 エルゲル海に浮かぶいくつかの大きな島と、島にしつらえられた港を経由すれば、旅人たちは安全に半島の東に向かうことができる。

 航路を少し北に取れば、つるべの右底、つまり半島の東南端の岬に位置する、小さな村にたどり着くこともできる。

 この村はスリオンという。人口500人に満たないこの裏寂れた漁村の高台には、海神の神殿があったとされるが、現在は赤茶色に風化した土台しか残っていない。


「観光客は受け付けていないんだ。人手が足りなくてね」

「いえ。観光目的ではありません。クエストに参加しにきたんです」

 淡々とした少年の言葉に、赤髪の青年は書類から目を上げた。

 自警団本部のカウンターに片肘をつく姿勢はそのままに、まじまじと少年を眺める。


 目深にかぶった黒のBARRETT(キャスケット)はフェルト製。

 同じ色のマントをはおる肩。その幅は広くもせまくもない。

 中背の丸顔。目も鼻も口も大きすぎず、小さすぎないためか、丸眼鏡がやけに大きく見える。

 眼鏡のレンズは薄い。この上部にBARRETT(キャスケット)からはみ出た黒髪がかかっている。

 膝丈の茶色のチュニックをしめるベルトには、山羊皮のポシェット。

 ゆったりとしたズボン。はいているのはつま先のとがったダックビルシューズだ。

 一般的な旅人の服装だが、Rucksack(背負い袋)がやけに大きい。

 丁寧になめされた革の表面に走る、いくつものひび割れが年季を物語るそれは、少年が背負うというよりも、逆に少年が抱えられているような印象がある。

 

「……王都にはSSランクで申請していたはずだが」

「はい。請負証にもそう書いてあります」

 応えながら、羊皮紙を懐から取り出し、カウンターに広げる少年。

 羊皮紙に視線を落とし、目を見開く青年。


神話(SSS)ランクまで請け負い可能、だと? しかも、見習いの身分で? 君、これは……」

「偽造ではありません。認印は王都ギルドの正式なものです。神秘(ルーン)からも分かるはずです。そもそも、僕が偽造なんかする意味がない。とにかく、僕はクエストをこなしにきたんです」

 少年の、レンズの奥の瞳が冷たくなった。

 そんな少年に見下ろされる青年。彼はその表情から、困惑を隠すことができないままに、請負証の羊皮紙に刻まれた認印に手をかざす。

 込めた神秘(ルーン)に反応して、羊皮紙に記された文字列全体が青白く発光する。


『クエスト内容:スリオン近郊に出現した迷宮の支配者、古代の龍を退治し、龍が守護する不死鳥の(ひな)を持ち帰って欲しい。

 定員:50名。

 クエストランク:SS

 報酬:金貨100枚及び迷宮の財宝

 特別報酬:龍を仕留めた者は、王立騎士団への入団資格を得るものとする。

 

 依頼者:スリオン村長代行デュセ・レッドハート

 請負者:リッツ・ゲートマン

 請負者情報:見習い魔術師(SSSランクまで請け負い可能)』


「……改ざんの形跡はないな。つまり君は王都ギルドが正式に認めた冒険者ということだ。しかし、世の中は広いのだな。君のような少年が応募してくるとは」

 感心するような物言いの青年は、表情に不満を浮かべた。

 そんな彼に、少年はマントの肩をすくめる。


「そうですよね。でも、僕には僕の事情があります。貴方は残念でしょうけど。でも、もっと残念なお知らせがあるんですよ」

「それは」

「王都からのクエスト参加者は、僕1人です。嵐の中、船が座礁しました。今頃、港に救助依頼の鳩が到着しているころです。応援が来るにしても、不死鳥の羽化には間に合いません」

「リッツ君」

「はい」

「君にはクエストの放棄をすすめる」

 赤髪の青年の声はおごそかで、そこに敵意も見くびりもなかった。

 リッツ少年は、青年の言葉に返事をする代わりに、眼鏡の奥の目で、真意を問う。


「……王都からの応援が君1人だけなら、このクエストは危険過ぎる。若い身で、わざわざ消滅(ロスト)することはない」

「でも、デュセさん。貴方は行くんでしょう? 迷宮に」

 リッツ少年の問いに、デュセはしばし押し黙った。


「……ああ。私は行く。君に君の事情があるように、私には私の野心があるのだ」

 デュセの瞳が強くなった。

 そんな彼に、リッツ少年は少しだけ、その口角を上げた。


「なら、僕が行かない理由はありません。スリオン村の皆さんと、デュセさん、貴方と僕で、古代の龍を倒しましょう」

 リッツ少年は手を差し出し、デュセ青年はその手を握った。

「分かった。ではクエストの同胞として、君を迎えよう。よろしく頼むぞ。リッツ君」


 ※※※※※※※※


 赤髪の青年、デュセが見習い魔術師の少年と握手を交わす16年前。


 箱庭にいる、と9歳の少女ヒルダは、海神の遺跡で明確に実感した。

 箱庭といっても、遺跡が小規模なのではない。むしろ、土台の石は海風や嵐にひび割れながらも、しっかりと残って、同心円を描きながら高台のふもとまで広がっていて、その広がりは少女に船酔いのような感覚をもたらした。

 思いは古代にはせられ、土台がまだいしづえとして機能していた頃の荘厳が、まるで目の前にあるかのように、ヒルダに迫ったので、彼女は尻もちをついた。

 そして意味もなく、泣きたいと思った。


 小さ過ぎる。

 この海神の遺跡と比べて、スリオン村の港は、営まれる生活は、ささやか過ぎる。


 海が荒れない日。父は陽が上がる前に漁に出て、母は見送り、収穫済みの魚を潮風に干す。

 ヒルダは母を手伝いながら父を待ち、昼を回った頃に舟は帰ってくる。父は舟の修繕に取り掛かり、母は夕餉の支度を始める。ヒルダはやっぱり母を手伝う。


 海が荒れた日。誰も石造りの家から出ない。父と母は手分けをして、網の修繕をする。ヒルダはやっぱり母の方を手伝う……という繰り返しに飽きて、ヒルダは夜中にこっそりと身を起こし、海神の遺跡に出発した。これは9歳の子どもにとっては未知に挑む冒険だったが、漁村から遺跡に至る坂道は1本であり、村を囲むように高くそびえる絶壁の向こうに、月が消える前に、ヒルダは遺跡に到着した。


 濃紺の空は星々に埋め尽くされている。

 月明かりに黒くそびえる絶壁はおごそかで、そのおごそかさは、肩越しに村を振り返ったヒルダの目に飛び込んできた、エルゲル海の巨大な広がりと種類を同じくする。

 そして、全ての広がりは、荘厳は、この遺跡に収束すると、同心円状の配置から微動だにしない、土台の石たちが主張している。それは月光に煌めきながら。


 この遺跡は、遥かなる古代にこの世界から去った海の神は、確かに全てを支配していたのだと、風に幼い黒髪をなぶられながら、ヒルダは確信しつつ、やっぱり思う。


 箱庭にいる。遺跡はこんなに壮大なのに。古代のこの場所は世界の中心だったのに。

 おそろしく長い時をへだてた現在、スリオンの村人たちは、ささやか過ぎる日常に、人生をとらわれている。


 落涙しながら、そこまで思って、ヒルダは分からなくなった。両親が営む生活が箱庭だからといって、ではどうすれば良いのか。母が教えてくれるのは網の繕い方。魚の干し方。小さな日常の、さらにこまごまとしたことばかり。そして、いくつかのルール。罰則はないけれど、破ると村中の人間から白い目で見られる、不文律。


「……帰ろ」

 少女はつぶやき、幼い腰を遺跡の土からあげた。

 不文律の1つを破っている彼女自身を、悟ったからだ。


 子どもが海神の遺跡に立ち入ってはいけない。

 これはスリオン村でも一番(ふる)い不文律だ。


 遥かなる古代にこの世界を去った海神は、子どもを愛する神だったから、隠されてしまう恐れがあるそうだが、ヒルダはそれが本当かどうかを知らない。

 だから、遺跡を去る時、期待と不安が足元から立ちのぼってくるような錯覚を、ヒルダは覚えたのだが、特段変わったことは何も起きないままに、少女は村まで帰ってきてしまった。


 足音を忍ばせて、自宅の扉の隙間に細い肩を滑り込ませる時、ヒルダの胸に安堵がこみ上げた。

 冒険は終わったのだ。

 そのまま、自分の寝床まで、息を殺して歩き、毛布に身をくるんだ時、ヒルダは両親の寝息にとても安心した。温かな日の潮騒に耳を傾けているような、そんな気分だった。


「箱庭は箱庭」


 瞼を閉じながら、ヒルダはつぶやきつつ、思う。


 この小さな世界の日常を、私はちゃんと愛そう。


 そう彼女が誓った10年後。

 19歳になったヒルダは、青年と出会った。

 それは嵐が明けるの間際の早い朝で、雨はまだ降っていたし、波は高かった。

 港に舟の様子を見に行ったヒルダは、財産の無事を確認したあと、ふと、誰もいない浜辺を歩きたくなった。嵐はもうすぐ明けるが、波が高いので今日は休漁だ。

 でも、陽は東の雲が切れるのと同時に上がる。


 9歳の時のような冒険心は、19歳のヒルダからはとうに薄れて久しかったが、それでも、荘厳を愛する気持ちは残っていた。黒い雲が開いて、水平の果てから、陽が黄金色に世界を割る。その瞬間は、限りなくいかめしく、栄光がヒルダを満たす。

 

 ヒルダはこの荘厳な感覚を一番に愛していたのだが……その朝。

 これは彼女の中で、二番目に降格した。


 何故か。理由は単純だった。

 彼女は、一番を見つけたのだ。

 嵐が去り、雨が上がったが波の高い浜辺に打ち上げられた青年を、ヒルダは見つけた。

 刹那、水平の果てから太陽が昇った。

 光線がヒルダの瞳を刺し、青年の赤髪を、燃えるように煌めかせた。


 19歳の彼女は時の停止を感じたが、すぐに我に返って、おそらく難波者だろう身元不明者の救護をするべく、嵐の雨で硬くなった砂の上を、駆け出した。

 

 ……その6年後。

 ヒルダは同じ浜辺に立っていた。

カモメは南東から吹きよせる風に乗って円を描く。

 水ぎわに波は穏やかに寄り、薄く高い雲はもうすぐ黄金色の夕を帯びる。


 美しいと名高いスリオン村の夕景を、ヒルダは心待ちにしない。

 待つのは、もっと別の存在だ。穏やかで、しかし力強く、賢明なのに時折迷子の子どものような目をする、赤髪の青年、デュセを彼女は待っている。

 視線は右肩から茶色のチュニックの胸の前に垂らした三つ編みに落ちているし、浜仕事で皮膚の厚くなった両手の指先もそれを撫でる。遠くから知らない誰かが見れば、それはハープを弾く女神に見えるかもしれない。

 が、ヒルダは彼女自身を美しいとは思っていない。賞賛の声は記憶にとどめているし、求婚を断ってきた事実も認めている。けれど、ヒルダのそれはとてももろい。

 もろくさせているのは、赤髪の青年の容姿だ。どれだけの時を共に過ごしても、彼の美は揺らがない。

 背の高い、しなやかで強靭な肉体が一番の輝きを放つのは、デュセが剣を構え、振るう時。

 その瞬間、世界は止まる。再び動き出した時には、全ては過去形になっている。


 実際、村を襲った悪魔亀(デビルウェール)は甲羅ごと両断された。

 迷宮が出現して以来、モンスター達は巨大化し、たびたび大群となって村を襲うが、この全てを切り伏せるのは、赤髪の彼の剣戟だ。

 そうして切り伏せられ、両断、あるいは細切れになった肉のかたまりから、筋となって地を伝う赤を見下ろす時の彼は、どこか物うげで、その姿は神話の戦士のように、ヒルダの目に映る。

 美貌は25歳の彼女を不安にさせる。


 自分は彼に釣り合わないのではないか。

 デュセと結婚ができないのは、出自のはっきりとしないよそ者と結婚してはいけない、という村の不文律が原因ではなく、デュセが、自分ごときが近しくなってはいけない人物なのではないか。


 ヒルダが胸に抱く疑問は、彼女を痛めるが……。


「待たせたね」

「遅い。でも、来てくれてありがとう」

 ゆっくりと砂を踏む足音に続く声に、ヒルダは視線を落としたまま向き直り、そのまま抱きついた。

 顔は見ない。見られたくなかったからだ。

 彼女は直前まで、とても悲しい顔をしていたし、青年の厚い胸に顔を埋めているこの時も、悲哀のきざしは去ってはいなかった。むしろ、幸福が感情を引き立る。それは、星が夜を明確にするように。


「礼を言う必要などないよ。君はいつも言うけれど」

「私たちは他人よ。他人には礼節が必要なの」

「それも、もう終わる。古代の龍を倒せば、私は王立騎士団の入団資格を得る。そうしたら、身元の知れない者ではなくなるし、私は君を妻として迎えることができる。父君も許して下さるだろう」

 穏やかな青年の声が、ヒルダの耳の奥に優しく届くが、彼女は顔をあげない。

 代わりに、抱擁の腕に力を込める。

 彼女は何も言わない。言葉が浮かばないし、もし浮かんだとしても、それが正しいのか、分からないからだ。


 沈黙の時間が、波の静かな音を強調する。


「……大丈夫だよ。古代の龍は強いらしいが、今日、王都のギルドから応援が到着した。見習い魔術師の少年が1人だけどね」

「何それ……!!!」

 ヒルダはおもてをあげた。眉根が寄せられている。瞳にこもるのは不安と非難。

 そんな彼女の頬を、赤髪の青年は優しく撫でる。


「大丈夫だよ。彼はおそらく強いし、元々私1人でも倒せるんだ。王都に応援を手配したのは網元殿のはからいだからね」

「本当?」

「本当だよ。それよりも、ヒルダ。ちゃんと覚悟をしておいて欲しい。私は君から、この美しい夕景を奪うことになる。王都には王都の荘厳があるだろうけれど、それでもここには劣る」

 言いながら、青年は目を水平線に投げた。

 青を残す空の下、水平線に向かって海は橙のグラデーションを描きつつあった。

 

「うん」

 短く頷いてから、ヒルダは改めて青年を見上げた。

 黄金を照り返す赤髪が美しい。

 力強い首も、鋭角を形作るなめらかな顎のラインも。

 誰よりも、何よりも大切な存在なのに、遠くに感じてしまうのは……。


 この瞬間、水平線に見入る彼が、迷子の子どものような目をしている。

 そのことを知っているからだ、とヒルダは思う。


 デュセは夕の海に向かう時、彼自身を忘れる。赤いまつ毛にふちどられた瞳は、黄金の水平線しか映さなくなる。そして、迷子のような顔をする。

 ヒルダはそんな彼を見る時、声をかけて良いものかどうか、迷う。不安になる。そして、距離を感じる。だから、はやく王都に行きたいと思う。


 ※※※※※※※※


「……などと、馬鹿げたいちゃつきぶりだのう」

「女王様」

「なんじゃ」

「蛇を使って覗き見するのもいかがなものかと思われます」

「……」

 少年の手が羊皮紙をかざす。

 少女が目に巻いていた包帯を解く。


 2人の行動はほぼ同時だったが、少年の方がほんのわずかに速かった。


 羊皮紙の表面に水のような膜が張り、それは鏡となり、少女の視線を反射。

 彼女は大理石の彫像となった。


 が、すぐに彫像にひびが入り、パラパラと宿屋の床板に破片が落ちて、少女は復活。

 可憐にして妖艶な瞳に不快を浮かべる。


「失礼じゃの。大罪の魔女の弟子よ。何故女王たる妾に背を向けるのじゃ」

「石になりたくないからです。それに、今は明日の準備中です」

「準備など妾が寝入ってからで良かろう。ほれ。巻いたぞ。こちらを向けい。そして栄誉に震えるが良いぞ」

 少女の声は幼く妖艶だった。

 が、リッツ少年は心から面倒くさいと思った。

 けれど態度に表した瞬間、事態がさらに悪化することを、経験則的に知っていたので、少年はため息をこらえて、満面の笑顔と共に少女を振り向く。


 神秘(ルーン)が施された青の細身のチュニックドレス。

 7色の宝玉で編まれた首飾りから、肩に流れるラインは儚い。

 ドレスの肩ひもは金が編み込まれている。

 ベッドに立てられた片膝は、ドレスに深く入ったスリットから出て、視覚的に危ういが、それよりも少年、というよりも人類に危機感を抱かせるのは、月桂冠を抱く頭部にうごめくおびただしい蛇たちである。


 虹彩に縦の割れ目が入った黄色い瞳たちが、少年を一斉に見つめるので、どうしても彼の背には寒いものが走る。

 が、それを顔に出したら、事態はもっと面倒くさいことになる、と、リッツ少年は知っている。


「うむ。歯向かわずによくぞ妾を向いた。褒美に、妾はそちに我が血を約束しよう。青と赤、どちらを所望するのじゃ?」

「赤をお願いします。助かります」

 これは本音だった。


 少女はメデューサ。神話の怪物である。

 遥かなる古代、女王であった彼女は、知と勝利の神殿で女神の怒りに触れ、呪われてしまった。

 美しかった髪は全て蛇に変わり、その瞳を見る者は等しく石化するようになった。

 しかも神話級に強力で、彼女の流した涙でないと、石化が解かれることはない。


 実際、神殿から王国に戻った彼女は、人民が彼女の姿に怯え惑うさまを憂いて、王国の土をミュールのかかとで踏んだ瞬間、全てを石に変えた。

 その直後、王国を津波が襲った。

 結果、神殿をのぞいたあらゆる土地が、海の底に沈んだ。


 こうして女王だった彼女は、気位以外の全てを永遠に失い、途方もない時間をさ迷い歩くこととなったが、同時に力も得た。それは神秘(ルーン)を凌駕するほどの。

 

 人としての身分を剥奪された少女は、成長、つまり老いから解放されたし、あふれる呪いは肉体を強固にした。戦士100人にもひけを取りようがないほどの、怪力。

 呪いの神秘(ルーン)は少女の血液にも及び、彼女の動脈から流れる赤い血は、死者をよみがえらせるようになったし、反対に静脈の青い血はあらゆる生き物を殺す致死の毒となった。


 極めつけは、その涙である。

 少女のそれは、石化を治癒する。


 こういった特性を、リッツ少年は長らくの付き合いから知っていたし、危機感も覚えていた。

 もし、彼女の目を見てしまったら。石になってしまったら。

 涙を流してもらえるだろうか。


 自信がない。ひとかけらも、ない。


 6年前。

 リッツ少年の師匠である大罪の魔女が、少女のために、海中呼吸薬を調合した。

 この調合は完璧で、小舟の上で服薬を終えた少女の顎には一時的にえらが生えて、足は尾びれがつき、海中を歩けるようになった。

 彼女はそのまま嵐の海に飛び込み、深く深く潜水。

 王国の宮殿に至り、遺跡をめぐり……古代に恋仲であった兵士の彫像を発見、

 彼女はその彫像を背に負って、小舟に戻り、丸1日、眺めて過ごした末に、落涙。


 兵士の石化が解かれた瞬間、少女は海に飛び込んだ。

 変わり果てた姿を見られたくなかったからだ。

 恋仲であった青年に、蛇がうごめく頭部をさらすよりも、嵐の海で波にむせる方がましだと、彼女は思った。


 だから、兵士であった青年を乗せた小舟が、スリオン村に接する潮に乗ったことも。

 青年が村の乙女と恋に落ちたことも。

 女王である彼女は不満には思わない。ただ、王立騎士団に入団を志願されては、困る。

 騎士団は少女と、気が遠くなるほどの昔から、対立している。

 たくさんの騎士たちを、少女は石化させてきたし、負わされた傷の腹いせに、彫像を拳で砕いてきた。

 

 大罪の魔女と知り合ったおかげで、イノシシの形の八重歯は差し歯に代わったし、蛇の頭をのぞけば怪物じみた見た目も幾分ましになったが……。

 それでも、やはり少女は古代の恋人に、その姿をさらしたくはない。もちろん、敵対もしたくない。

 最近は王立騎士団と戦うことも滅多にないが、今後もないとは言い切れない。

 だから、青年の王立騎士団入りを、絶対に阻止する必要がある。


「……と、女王様がお思いなのは分かってるんですけどね」

「なんじゃ? 何が納得いかぬ? 高貴なる妾の切ない想いが分からぬほど、大罪の魔女の弟子よ。お前はうすらとんかちなのか?」

「いえ。違うんです。女王様なら、石化させてしまっても、また涙を流せるんじゃないかな、と思って」

 リッツ少年の言葉に、少女は沈黙した。包帯の奥の瞳が大きく開く気配を、少年は察した。


「気配りに欠けた発言でした。すいません」

「……許す。が、妾は寝る。悲しくなったから、ふて寝じゃ。大罪の魔女の弟子よ。気が済むまで準備でも何でもするが良い」

「はい。おやすみなさい」

 チュニックドレスのまま布団をかぶる少女に頭を下げながら、リッツ少年は後悔した。


 涙を流すという行為は、そんなに軽いものではないのだ。

 それは、女王なら、なおさら。


 少女は二度と兵士に涙を流したくはない。

 敵を石化させることに心は痛まないが、古代の恋人の居場所を奪いたくはない。

 それが、現在の彼が目標にする場所であるなら、なおのこと。


「デリカシーがないなあ」

 昼間、少女が石化しながら隠れていたRucksack(背負い袋)

 その皮と、施された神秘(ルーン)具合を確認しながら、少年はつぶやく。


 そうして、気付く。

 自分のために、泣いてもらいたいわけではない。

 涙を流すよりも、くつろいで、気楽な笑顔を見せて欲しい。

 

 彼にそう望ませるのは、少女が歩んできた歴史だと、彼は自己分析をしている。

 海神の巫女として育てられた王女。

 数奇な運命の末に女王となり、結局海神にささげられ、女神の神殿で穢されて、呪いを受け、全てを失うも、敵対する勢力と孤独に戦い続けた末に、神話の怪物と畏怖されるようになったしまった少女は、同情するにあまりある。

 けれど、その同情は女王の誇りを傷つける。


「厄介だなあ」

 少年はつぶやいた。

 視線を窓に向けると、四角い枠の中に、夜と星がひしめいている。

 波音に合わせるように、星々は瞬き続ける。


 ※※※※※※※※


 迷宮の最奥部、燃え立つ不死鳥の巣を背に、古代の龍は大きく目を見開いた。

 煉獄の息が効かない。


 黒マントの少年は、業火とも形容される火焔に平然としている。

 

 もう一度、龍は息を吐く。今度は、ありったけの意志を込めて。

  

 溶けよ。

 燃えよ。

 灰に戻れ。


 耐火の神秘(ルーン)が施された大理石。

 迷宮の空間を構成する石たちの表面が、赤く白くただれるように溶ける。

 が、龍に右手をかざした少年は、やはり平然としている。


『こやつの右手は、目に見えぬものを奪うのじゃ。龍よ。お主の炎は熱を奪われた。しかも妾もいる。2対1じゃ。勝ち目はないぞ』

 Rucksack(背負い袋)からもぞもぞと出てきた異形の少女が龍の言語で呼びかけてきたので、龍はますます刮目した。


『勝ち目のあるなしではない。我は我が盟約のために、雛を守らねばならない』

『頑固者め。良かろう。お主には古代の恨みがあるのじゃ。月蝕の闇をすっぽかしおって。おかげで妾は嫁に行きそびれた』

 言葉と共に、異形の少女の帯びる気配が濃く黒くなった。


『やめてください。いくらなんでもはしゃぎすぎです』

『ぬ?』

『あと、龍さん。謝ってください。貴方のせいではありませんが。そもそもは古代王国の暦の計算が狂っていたのが原因ですが』

 少年の言葉に、龍は首を傾げた。

 そうなのだろうか。古代王国。

 聞き覚えのある言葉だと龍は思うが、それ以上は思い出せない。


『……遥かなる古代の話なのです。海神に捧げられると運命つけられた女王様を救う、唯一のすべが、月蝕の夜に、龍さん、貴方を倒すことだったのです。が、月蝕の予測は外れて、期限がきてしまった。女王様は海神に捧げられて、色んな不幸が重なって、結局お嫁に行きそびれました』

 それは人間の都合だろう、と龍は思うが、少年の目は真剣で必死だった。


『分かった。事情は納得しかねるが、すまない。謝ろう』

『分かれば良いのじゃ』

『良かった。安心しました。では、龍さん。今度は僕のお願いです。心して聴いて下さいね』


 ……少年が語った事柄に、古代の龍は瞠目した。

 海神に瀕死の重傷を負わせ、古代王国が海の底に沈んだ元凶となった男が、ここ、不死鳥の巣に向かっている。少年は途中まで男に同行していたが、目を盗んで男から離れ、先回りしてここまできた。


 目的は説得。

 不死鳥の巣から離れて欲しい。男に殺されないために。

 

『我は我が盟約のために、雛を守らねばならない』

『知っています。でも、だから良かった。今月は赤曜月(9)です。豊穣と成長の神秘(ルーン)は有効です』

 少年は羊皮紙を胸の前に広げ、左手を当てた。

 とたん、その表面の凹凸が赤く発光する。


『貴方の炎から奪った熱も、使うのに勝手が良いです。神秘(ルーン)は冷たいから、雛が凍えてしまう』

 つぶやくように言いながら、雛の巣に歩き出す少年。

 そんな少年に、龍の本能が反応。

 表面の赤くひび割れた巨大な尾が、横凪に振るわれ、少年を迷宮の壁に押し潰そうと迫る。

 

 刹那。

 異形の少女が目から包帯を解き、尻尾を一瞥。


『何、だ、と……?』

 龍は驚愕した。

 尻尾の半分が、灰色の石と化した。

 それも一瞬で。


『尻尾ですませてやったのじゃ。感謝するが良い』

 吐き捨てて、解いた包帯を巻きなおす少女。

 いつの間にか、龍の横をすり抜けて、巣を登り始めた少年。


 龍は何も言えない。

 動けもしない。


 2人は何かが違う。特に、この異形の少女は……。

 龍は混乱する。本能は襲撃と逃走の2つを主張。かなわない。逃げ出したい。

 しかし不死鳥の雛を守らねばならない。それが、本能に組み込まれた盟約だからだ。


『良かった。無事に終わりました』

 少年の声に、龍は我に返った。

 視線を巡らせると、そこには燐のような青い炎をまとった鳥がいた。

 

『豊穣と成長の神秘(ルーン)、今月限定の魔法です。鳥さんは元気に飛び立ちますから。龍さん。天井を開いてあげてください。できるのは盟約によれば(・・・・・・)貴方だけのはずです』

 その通りだった。

 龍が成長を認めなければ、迷宮の天井は開かない。

 それが不死鳥の創造主との、盟約だからだ。


『……分かった。奇妙なる魔術の行使者よ。我は認めよう。不死鳥は我が庇護から離れるほどに』

 龍はそこで一度言葉を切った。


『美しい』

 ためた言葉を、龍が火焔と共に吐いた瞬間。

 大理石の天井が割れ、左右にスライドし、下弦の月が浮かぶ夜空が現れた。


 この夜空と、羽根を広げ飛翔を始めた不死鳥の青い姿、そして尻尾を石化させたまま不死鳥を追って浮遊を始めた龍の姿に、少年は納得。

 空間が()()()()につながっている。

 迷宮にデュセたちと共にもぐったのが、朝だった。

 どんなに時間がかかっていたとしても、まだ正午にも至ってないはずだ。

 なのに、本物の夜空が広がっている。


「先生なら喜ぶんだろうな。こういう場所」

「呑気じゃの。ここは崩れる。大罪の魔女の弟子よ。埋もれる前に、行くぞ」

「あ、はい」

 少年が振り返った時には、少女は揺れる大理石の上を歩き出していた。

 その後ろ姿に、少年は彼女の心を察する。


 一言で表現するのならば、複雑。

 龍からは謝罪を得た。

 遥かなる古代、彼女を解放するはずだった不死鳥は、飛び立った。

 そして主を失った迷宮は、崩れる。


「デュセさんたちは大丈夫でしょうかね」

「ふん。見くびるな。奴は我が兵士()()()男じゃ。崩落する迷宮から無傷で帰ることなど、お茶の子さいさいよ」

「……じゃあ、いいんですね。女王様。貴女の依頼をこなしても」

「妾に二言はない。くどいぞ。大罪の魔女の弟子よ」

 二言は結構ありまくりじゃないかなあ、と思いながら、リッツ少年は迷宮から脱出するべく、少女のチュニックドレスの背を追った。


 ※※※※※※※※


 迷宮が崩落と共に消失した日。

 怪我人を数人出したものの、自警団の全員が帰還を果たしたことを受けて、スリオン村では祝いの宴が催された(安否不明は王都ギルドから派遣された見習い魔術師の少年だけだったが、冒険者の消滅は往々にしてあることなので、彼の探索と追悼は、神父が宴の前に短い祈りを捧げた程度で終わった)。


 この宴の主役は、赤髪の青年、デュセだったが、彼は始終押し黙ったままだった。

 彼は、自らの力量不足を恥じていた。


 最奥部にすら到達ができず、不死鳥の雛は手に入らずに、冒険は終わった。

 雛がなければ、王立騎士団に入団を志願することはできない。

 つまり、ヒルダとの結婚もできない。


 ― いや、それよりも……。―


 喪った記憶の手がかりが、迷宮にある気が、彼はしていた。

 不死鳥という言葉を聞いた時、スリオンの漁村の日々では経験したことのない種類の高揚が、胸にこみ上げ、肺を焦がしたのだ。

 その高揚こそが、記憶の鍵になる。


 もしかしたら、以前、龍に挑んだことがあるのかもしれない。

 または、龍殺しの英雄を目指していたのかもしれない。


 もちろん、記憶があってもなくても、漁村の人々、特にヒルダの両親に対する感謝の念は変わらない。

 ヒルダへの愛情も。


 しかし……。


「つまらない顔をしているな。伊達男が台無しだぞ」

 網元の声に、デュセは我に返った。

 青年が顔を上げると、赤ら顔の網元が、優しく笑っていた。


「元々、こういう顔です」

「どういう顔でも、村を考える者ならば、迷宮の消失に胸を張るべきだ。不死鳥よりもモンスターの被害が、村を追い詰める。自警団団長なら、それくらいのことは分かっていて当然だろう?」

 厳しい言葉のわりに、網元の声色には、いたわりの情があふれていて、デュセは声につまった。

 が、無理矢理うなずく。


「……はい」

「うむ。それに、ワシとしてはだな。正直喜んでいるのだよ。剣士として稀に見るデュセ。君を王都の連中にやらんで済むことを」

「それは……」

 あまりにも残酷な言葉だ、とデュセは思った。


 身元の知れない男は、村人の娘と結婚することができない。

 そして、ヒルダは自分以外と結婚しようとはしない。

 自分たちは永遠に、中途半端なままだ。


 記憶の欠けた、この頭の中身のように。


 失意の苦渋に、思わず顔を歪めるデュセに、網元はあわてて首を横に振った。


「すまん。意地の悪い言い方だった。デュセ。スリオン村は君を必要としている。そして、ワシは君もこの村を必要とし続けてくれることを願う。しっかりと妻を迎えて、家庭を築き、髪が白くなり孫に囲まれるまで、スリオンで……」

「身元の知れない私では無理です」

「息子になれ。ワシは、君に不服がないのなら、君を養子に迎える。デュセ。君が網元を継ぐことに反対をする者はいない。もちろん、ヒルダの親も、君には義理の息子になって欲しい、と望んでいる」


 エールの瓶が地面に落ちる音がした。

 落としたのはヒルダだった。

 彼女は両手で、その口元をおさえていた。


「ヒルダ……」

 返事の代わりに、ヒルダは赤髪の青年に抱き着き、村人たちから歓声があがった。


 その夜。

 

 幸福に、したたかに酔った寝台の上で、デュセは人の気配に目を覚ました。

 

 迷宮ではぐれたリッツ少年が、不思議な色をした果実を手に、青年を覗き込んでいた。


「目が覚めましたか」

 静かな声に感情はこもっていない。

 眼鏡の表面は、窓からさし込む月光を反射して、白くくもっている。


「無事だったのか。良かった。消滅(ロスト)したのかと思っていた」

「おかげさまで。はぐれてしまって、穴に落ちてさんざんでしたけど、外につながる通路から出たんです。消失に呑み込まれる前で、幸いでした」

「そうか」

「はい。……僕は王都に帰ります。その前に、仕事、じゃなくて挨拶をしにきました」

 リッツ少年は、彼に上体を起こす青年に、手を差し出した。

 デュセはその手を握った。


「貴方の本当の名前は、ウパシャシャス。(ふる)き海の神を一刀に切り伏せた英雄です。

 でも、貴方はそんなつもりはなかった。元々は、貴方の剣は龍さんに振るわれるはずだった。

 けれど暦が狂っていたために、月蝕がこなくて、ウパシャシャスさん、貴方は龍の守る不死鳥の雛を手に入れることができなかった。

 だから王女を貰うこともできず、彼女は色々な不運が重なって女王になってしまい、海神の供物になった。海神は女王を気に入り、知と勝利の女神の神殿に連れていって、彼女を穢した。

 女神は怒って女王を呪い、怪物に変えた。この村には海神の神殿の遺跡がありますね。

 あの遺跡が遺跡じゃなかった頃、貴方はここを襲撃し、破壊し、海神を待ち伏せて、海ごと(・・・)叩き切った。

 そして、怪物となってしまった女王の呪いの力で、貴方は石に変わり、神の制御を失った海に呑み込まれた。

 おそろしいほどに長い時をへて、貴方が目を覚ましたのは、女王がウパシャシャスさん、貴方のために涙を流したからです」

「君は、何を言っているんだ?」

 青年は動揺していた。

 耳は頭は少年の言葉を理解できない。

 が、胸は熱く焦げる。それは、龍に挑もうとした時と同じように。

 デュセの視界はにじむ。

 潮の匂いがするその頬を液体が伝う。

 

 そんな青年に、ウパシャシャスに少年は言葉を続ける。


「理解する必要はありません。それに……僕の右手は形のないものを奪う(・・)んです」

 声が青年の鼓膜に届いた時には、彼は分からなくなっていた。

 彼自身の存在が。言語が。記憶が。

 

「そして僕の左手は、奪ったものを与える(・・・)んです」

 寝台から上体を起こしたまま宙の一点を見つめ、よだれを垂らす赤髪の青年の耳に、リッツ少年はささやく。左手は果実を握っている。そして、果実は発光する。

 丸い表面には、いくつもの神秘(ルーン)が象形の文字として浮かび、沈むように消える。


 最終的に、青年は仰向けに崩れ、その肉体を寝台の布とばねが受け止めた。

 そんな彼にため息を小さく1つついてから、リッツ少年は腰元から短刀を抜き、切っ先を果実にあてて、注意深く、切れ込みを入れていく。

 

 30分後。液状にすり下ろされた果実を、リッツ少年はデュセの、なかば開いた口に注いだ。

 その目は真剣そのもの。


 全てを注ぎ切り、青年の喉がごくりと音を立てた時、リッツ少年はもう一度、今度は大きくため息をついてから、寝室をあとにすべく、扉に向かった。


 ※※※※※※※※


 翌日。

 スリオン村から20km離れた海の上を、少女と少年は歩いていた。

 彼らの足元には、波の形をした石がある。

 正確には、波を形作る海水()()()石だ。

 少女が足を踏み出すたびに、足から先の30mが石に変わる。

 石は少女が歩き去った後、5分程海面に浮いては、ゆっくりと沈んでいく。


 彼女の後ろに付き従うリッツ少年は、今日が凪の日で良かった、と思う。

 波は高くない。だから、なだらかな砂丘をゆくのとさほど変わらない。

 南から吹く風は温かで心地が良いし、しかも航路から外れているため、この不思議を見とがめられる不安もない。唯一の不安があるとすれば……。


「大罪の魔女の弟子よ」

「はい」

「あやつの記憶はちゃんと奪ったのだろうな」

「はい。もうあの人は古代の兵士でもなんでもないです」

「そうか」

「はい」

「もちろん、お主は余計なことを吹き込まなかっただろうな」

 吹き込んだけれどちゃんと奪いました、とは言えないので、少年はポーカーフェイスの維持に努める。


「守秘義務は果たします」

 そう。義務が生じざるをえないほどに、この少女は恥ずかしがりやなのだ。

 特に、過去の恋人に対しては。

 もう、全てが悠久の向こうのことなのだから。

 忘れて、今を生きて欲しい。


 こんなことを想ってしまうから、結局Rucksack(背負い袋)から出ることも、必然的に6年ぶりに、昔の恋人の姿を見ることも、なかった。もちろん、見せることも。

 リッツ少年の師匠である、大罪の魔女の施術のおかげで、イノシシのような八重歯は矯正済みだというのに。蛇の頭をフードで隠せば、十二分に可憐で妖艶な美少女となるのに。


 ― 美()()か。―


 女神によって成長を奪われた少女。通常ならその呪いを解くことは不可能なのだが……。


「女王様」

「なんじゃ?」

 立ち止まり振り返った少女に、少年は静かに声を発した。


「まだ赤曜月(9)です」

「ふむ。だからなんじゃ?」

「豊穣と成長の神秘(ルーン)は有効です。不死鳥を成鳥にしたように、女王様。貴女を成人女性の姿にすることは可能です。神の呪いがありますから、今月一杯ですが」

 美しく成長した自身の姿に興味はないのだろうか。

 少女は未来の自分を望むのではないのだろうか。

 魔法が人を助けるのなら、呪われた怪物であるこの少女を助けても良いのではないのだろうか。


 少年の問いの言葉は、こうした疑問から出たものだったが、少女は蒼穹をあおいで、包帯ごしに、高い空を薄くたなびく白雲に、その目を細めただけだった。


 沈黙のままに歩き出した少女を、少年が追ってから、5分後。


「妾は今でも美しいのじゃ」

「はい」

「主の師匠である大罪の魔女のおかげで、八重歯も元に戻った。可憐だった頃のそれそのものじゃ」

「はい。綺麗に整っていると思います」

「成長した姿は、魅了の神秘(ルーン)すら帯びることじゃろう。妾はナルキッソスのように、鏡に恋焦がれるのはごめんじゃ。それに……」

「それに、何ですか?」

「それに、見せる者もいない。妾がどれほど美しかろうと、それは只の満足じゃ」

「僕が……」

 言いかけたリッツ少年の唇は、少女が立ててあてた人さし指に封じられた。


「大罪の魔女の弟子よ。そなたが一人目になった暁には、妾の美貌を拝謁させてやろう。お主にはまだ早い。それに、赤曜月(9)は何度でも巡ってくるのじゃ。そうであろう?」

 少年はうなずくしかなかった。


 そんな彼に、少女はとても楽しそうに笑った。

 上空の日が、七色に弾けるような錯覚を、リッツ少年は覚えた。

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