2.
赤茶色をした、高い高い壁が威圧感を放ち、不法に侵入しようとする者の悉くを阻む。
元々が辺境にある城塞都市であったこともあり、その壁は難攻不落。対戦時は敵の進撃を食い止め、現在に至るまで街の住人を見守ってきた。
けれど、それは壁の内側の住人の話。
街の外、スラムに生きる人々にとっては、その壁は象徴であった。新鮮な食べ物も綺麗な飲み水も、温かなベッドも穏やかな暮らしは全て、壁の内側にある。
ただただ〝壁〟と呼称される無機質のそれは、外に住む者達にとっては、絶望の象徴だった。
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──頭痛い。
覚醒して最初、少年──レイヴンの意識は訴えてくる頭痛を感じた。ズキズキと痛む頭に手を添え、瞼を開くと木製の天井が視界に映った。
(……?)
はて、自分は一体全体、どうして居たかと視線を巡らせる。次に目にしたのは窓から差す日の光り、次に自身を見やり、相変わらずのボロ布に不思議と安堵する。
柔らかな感触を背後に感じ、今更ながらその感触に驚いて跳ね起きよろしく、両手と反動を使って飛び起きた。
「寝起きからテンション高けぇな。オレ血圧低くて無理だわー」
やる気のない声が聞こえる。木製のボロい──アンティーク調の机に腰掛け、煙草を吹かす神父──マーカスの姿があった。
徐ろに立ち上がり、机にあった水差しを持って近付くと、「飲め」と半ば放る様にレイヴンに差し出した。ちゃぷちゃぷ鳴るその後に中身は液体だ、と思考したところで
(みず……!!!)
思考を放棄して水差しにかぶり付いた。味などしない筈の、緩くなった水分が喉を潤していく。
「いい飲みっぷりだ」
揶揄う様な声も気にせず飲み続ける。直ぐに水差しの中は空になった。
(あっ……)
「そんな顔しなくても水ならまだある……が、その水の対価を払ってもらおうか」
勢い良く飲み干してしまった。水は貴重だ。何を要求されるのか戦々恐々とするレイヴンに、「なに、大したことじゃない」とマーカスは笑い掛ける。
「今から此処に人が来る、だがオレには少し用があってな。代わりに伝言を頼む」
それくらいならお安い御用だと首肯すれば、「よし」とマーカスも頷いた。
「『3日待ってくれ』と伝えてくれ。それだけでいい」
何の話しか分からないが、簡単な内容で良かったと安堵する。
「分かりましたシンプサン」
「頼んだぞ…うん?何かニュアンス可笑しくない?」
マーカスと呼ぶのは失礼だろう。シンプソン神父、とも呼び辛い。ならばと思い付いたのが略して〝シンプサン〟である。
短いやり取りを終え、マーカスは窓を目一杯開けると、そこから身を乗り出し「晩に戻る、でもこれは伝えるな」と言い残し部屋から出て行った。
(なんで扉から出ないんだろう…?)
疑問に思うも視界に映ったもう一本の水差しに意識は傾く。走り寄るとこれまた勢い良く飲み干した。
『ゴンゴンゴンゴン!』
「マーカス!開けなさいッ!居るのは分かってんだよ!!」
マーカスが出て行かなかった扉が乱暴に叩かれ、外から女の──けれどドスの効いた声が響く。
(お客さんだ)
扉が壊れてしまいそうだ、と恐る恐る扉を開け「マーカスぅぅ!テメェ何時になったら支払うんだゴラァ!金払えネェなら腎臓でも金玉でも売っ…てアラ?」
錠を外すと同時にブチ切れながら侵入した女に見られ、レイヴンはビクッと肩を震わせた。
「ボク、1人?金髪のエセ神父見なかった?」
先程とは打って変わって優しい声色だ。整った顔にも微笑みを浮かべている。燃える様な真っ赤な髪に、少し厚めの化粧は女の美貌を引き上げていた。
娼婦──ではなさそうだとレイヴンは思った。胸元を大袈裟に開き、体のラインがはっきり分かるドレスは扇情的で、その身体付きも肉々しい。スラムの娼婦なら、こんなに健康的な身体はしていない、そう思った。
「よ、用があると、窓から出て行きました」
「あのクサレチンポ野郎がぁ…!」
素直に応えるレイヴンにまたも女は豹変するも、それは一瞬だった。直ぐにまた優しい顔をすれば
「ボクはどうして此処にいるのかしら?」
と微笑み掛けてくる。最早取り繕う必要も有るのかと思うも、怖いので言えない。変わりに
「3日待ってくれ」
「何…?」
「シンプサンから、伝言です。み、『3日待ってくれ』と伝える様に言付かっています」
びくびくしながらも伝言を絞り出すと、女は頬に手を当て眼を閉じる。
ややあって、「ボクはマーカスとどういう関係なのかしら?」と優しく問い掛けた。
「レイヴン、です。シンプサンに名前を頂きました。パシリにするって言ってました」
如何せん、レイヴンは正直過ぎた。
「〜〜〜ッッ!はぁ。分かったわレイヴン。伝言ありがとう」
憤慨遣る方無い、と言った様子で女は頬を痙攣らせながらも笑顔だった。その笑顔が、レイヴンにはとても恐ろしかったのは秘密である。
「ところで、言葉遣いも丁寧だし、見た目も…まあ綺麗にすれば整ってるけれど、元は貴族か何か?」
ボロボロではあるが、五体満足。指の欠損すらない。言葉遣いは綺麗で市井の者とも思えない。元は貴族か良いとこの商家で、紆余曲折を経て落ちぶれたのだろうと当たりを付ける。
何処で拾ってきたのか、何ともまぁ自分の弱味を捉えているなと、女はマーカスに心中で舌打ちした。
「分からないんです。自分が誰だったのか、何も分からなくって……シンプサンに話したら、名前と水を頂けました」
「そう…大変だったわね……ロイ」
「此処に」
何時の間にか女の傍に現れた細身の男──ロイに驚き、レイヴンは1歩後退さる。
「この子に着る物と──ああ、先に綺麗して──それから食事の準備を」
「…はぁ、またですかアリシア姉さん?」
「アタシがお腹が空いたの!この子は…そう!マーカスの連れよッ!アイツが現れるかもしれないでしょう?」
呆れたと肩を竦めるロイに、女──アリシアは拗ねた様に言い訳した。尚もプリプリと言い繕うアリシアに「分かりましたよ…」とロイが折れた。
「着いてこい」
手首を掴まれ引き摺られる様に扉の外へ。階段を降りるとそこは食事処だった様で──とても良い匂いがする──昼も過ぎ人影は疎らだが、談笑の声とカチャカチャ食器を叩く音が聞こえる。
ぐぅ〜
(お腹空いたな…)
無遠慮に鳴る腹の虫に気付いたのか、苦笑するロイと目が合い途端に恥ずかしくなった。
「坊主はツイてるぜ。姉さんに気に入られた。後で腹一杯食わしてもらえ。だがその格好はいただけねぇ。身を清めて、まともな服を着ろ。見た目ってのは大事だ。人は第一印象が大事だ。マシな格好してない奴は、往々にして舐められちまう」
そういって建物の外に連れ出し、井戸の前まで来ると何処から取り出したのか白地の手拭いをレイヴンに投げ渡す。
「それで拭け…いや、もう被っちまった方が早いか。手ぇ上げろ…ほら、目瞑ってろよ?……よし、もう一度だ」
慣れた手つきでレイヴンから服を脱がし、頭から水を掛ける。自身の服──舐められない様に、高そうな服だ──が汚れることも厭わず、ロイは続いて小瓶を取り出すと、中の液体を手に垂らしてレイヴンの頭を揉みくちゃにした。
「うお、汚れてんな坊主……どら、これで…完璧だろう」
最後に水をひっ掛けられ、されるがまま棒立ちしていたレイヴンはぶるりと身を震わせる。
(寒い!)
春の陽気にも負けず、井戸の水はキンキンに冷えていた。頭から掛けられれば当然の様に鳥肌が立った。
両手で顔を拭い、開いたレイヴンの眼に映ったのは、高く聳え立つ赤茶色の壁だった。ぐるりと周囲を囲う楕円形の造りのそれは、外敵から民草を守る鉄壁である。
「ロイ、さん……ロイさん!」
「おぉ、突然どうした?」
「ここはどこですか?」
レイヴンの問いに唇を尖らせ、ロイはさて、なんと答えた物かと考えに耽る。やがて、
「ここはアーデウス領の領都アーデウス、の中の比較的安価で泊まれる安宿、の庭?…まあ井戸の前だ」
クルクルと跳ね回る茶髪を掻きながらロイはそう言って、新しく取り出したタオルでレイヴンの身体を拭きあげていく。
(領土アーデウス……壁の中だ!)
初めて──かは分からない。分からないが、少なくともレイヴンの記憶にはなく、初めての壁の内側の景色をその眼に焼き付ける様に見回した。
「わぷっ」
「呆けてないで早く着ろ、風邪ひくぞ」
これまた何処から取り出したのか、ロイに衣服を投げ付けられた。いそいそと袖を通していく。
「少しデカいが…まあさっきに比べりゃ断然マシか」
膝下まで隠れるカーキ色のハーフパンツにぶかぶかのグレーのシャツ。新品とも高級品とも言えないそれは、レイヴンにして着る姿をじろじろと見られるのに気恥ずかしさを覚えた。
『ぐぅ〜』と再び鳴った腹の虫に、頬の朱色の濃度が上がる。
「はっはっは。さっさと戻って飯にするか」
カラカラと笑うロイに腕を引かれ、ロイの言う所の安宿へと戻る。
少年の手を引く無骨な掌は、とてもゴツゴツとして、とても優しかった。