1.
「成る程…頭良いなお前」
少年は呆けた頭で自身の状況を説明した。何処から何処まで話したか定かではないが、食べ物を恵んでもらう為に色街に居た事を伝えたところ、先程のお前頭良い発言を頂けたのだ。
そう、少年は呆ける程に目の前の彼の言葉に少なくないダメージを負っていた。
「その、本当に神様は居ないの…?」
「いや、だから知らん。会った事も話した事もない」
聖職者に在るまじきこの発言である。
「神様はいつも僕たちを見てて、信じていれば救われるとスラムのお婆さんが」
「たまに連絡くるアレか?神の声が届いたー、神命であるーみたいな。あんなのはお偉いさんの金策みてぇなもんだよ。布教して寄付金貰わなきゃ経営成り立たねぇし、広報担当のシエラちゃんも文章考えるのめんどいってこの前飲み会で愚痴ってた」
(さ、最悪だーッ!!!)
項垂れる少年に、彼の掛けた言葉は
「──そのバーさんは、救われたのかい?」
先程、物言わぬ骸となった老婆の顔が頭を過ぎる。世界に絶望し、呪い、声にならぬ声で語り掛けていたではないか。
信じているだけでは、救われない。世界はそんなに、優しくはない。
「まあ、なんだ。もしカミサマってのが居たとして、もしオレが会うなり話すなりできたなら──」
少しの間があり、訝し気に顔を上げた少年には
「その時はこのマーカス・シンプソン神父が伝えといてやるよ。煩せぇバァカ!!ってな」
威勢良く、神への冒涜を嘯く自称神父の姿は、少年の目に眩しく映った。若い頃に陥る、アウトローカッケェ的なノリである。田舎だとヤンキーがモテる。
だが、これだけは伝えねばなるまいと、使命感にも似た何かが、少年を突き動かした。
「シンプソン神父さん、変な名前ですね」
「よしそこに直れクソガキ。変なのは名前じゃねぇ、組み合わせが悪かっただけだ!」
シンプソンシンプサンシンプソンシンプサンシンプソンシンプサンシンプソンシンプサン……ふふっ
「笑いやがったなテメェ絶対泣かす…!」
(え……?)
ハッとした。口元に手をやれば、成る程確かに笑っている。弧を描く自身の唇に、少年は驚いた。
(笑えたんだ…まだ)
実感してしまえば、それは堰を切った様に、止め処なく溢れてきた。
「ハ、、、あはははははは!!」
喉は擦れたままでも、笑い声が絶えることはない。この感情は、久しく感じる事のなかった喜びの感情だ。
一頻り笑うと、神父の怪訝な表情に気付いた。失礼過ぎただろうかと眉根を寄せる少年を他所に、神父はコートの内ポケットから鈍色の小さな箱を取り出した。
徐ろに取り出したのは──煙草?──口に咥え、その先端に人差し指を翳す。
ボォ
と小さな炎が指先に生じた。驚きのあまり口をあんぐりと開いた少年に向け、「フゥ…」と紫煙を吹き掛ける様に吐き出した。
初めて嗅ぐ臭いに、少年は盛大に咽せた。
「体に悪いよ」
涙目になりながら告げた少年に
「大人だからいいんだよ…」
投げやりな言葉が放たれる。何処か面倒臭そうな表情ではあったが、神父の目は少年を真っ直ぐ見つめていた。
「クソガキ──名前は?」
その問いに少年は目を伏せる。
「……分かんない」
そう、少年は自身の名も、それどころかこれまで生きてきた記憶の殆どが消失していた。親の顔も、何処で産まれ何処で育ったのかも、何が好きだったのかも分からない。気付いた時にはこのスラムで、ボロの服を着て彷徨っていた。
「ほーん?」
興味があるのかないのか、神父は適当に相槌を打つ。
「此処が何処で、自分が誰なのか、何も…何も分からない」
「そりゃ少し違うな」
「?」
短くなった煙草を指で弾き、紫煙を燻らせながら神父は言う。
「此処はクソッタレの掃き溜めで、お前は名前のないただのクソガキだ。それ以上でもそれ以下でもない」
だから
「お前は今日からレイヴンと名乗れ」
「れいぶん?」
「何処からかやってきたワタリガラス…いや髪黒いし汚ねぇし」
割と雑な命名である。けれど、少年の心に満ちたのは、先の大笑いと同じか──それ以上の、暖かい感情だった。
「レイヴン……」
「そう、今日からお前はレイヴン。このオレ、マーカス・シン……マーカスの助手という名の雑用係という名の、体の良いパシリだ」
「は?」
だから
「うっ──」
突然襲ってきた目眩。
視界がぐるぐる暗転し、平衡感覚を失う。立って居られず、堪らず尻餅を着く。そのまま地面に倒れ込めば、糸が切れた様に意識を失った。
「──今は寝ろ。ガキは寝て育つモンだ」
神父の呟きは、紫煙と共にスラムに消えた。