陽の姫君は月を追う
「陛下、私の父とは何度も話をしておりましたよね?」
「……それが、どうした?」
「あの父が、娘を望まぬ政略結婚になど使うと思っているのですか?」
思わぬ問いかけに、王は顔を上げた。
彼女の父は、賢君と名高い。偏見もなく、物事の本質を見抜くことができる男だ。だからこそ獣王は、彼の国との国交を重要視し、彼女の父もまた獣王を評価して受け入れた。――さらに言うと、直接話せばとても気安く、どこか茶目っ気のある性格で、三人の子供達を溺愛していたが――
「確かに、あの王らしくないとは思った。だが、事実として、お前はこうして政略結婚をしようとしているだろう?」
「ええ、間違いなく政略も兼ねた婚姻となるでしょう。しかし、父がそれだけであなたに縁談を持ちかけたと、本気で思っているのですか?」
「なに?」
「だとすれば、陛下は父を見誤っていますよ。お父様は、確かに大義も見据えて動くお方ですが……何よりも個を重視する。ひとりひとりにとって良い道の中で、全体にとっても良い、そんな選択をする人です」
王としては甘いのかもしれませんがね、と姫は続けるが、だからこそあの国が栄えているのは獣王も知るところだ。人であることを忘れず、民に寄り添う思考をしているからこそ、あの王は民に好かれていた。
「私が言うのも何ですが、望まぬ政略結婚を娘に課すなど、父は断固として拒否します。自信を持って断言できます。ですが……私自身も望む政略結婚であれば、話は別です」
それは、王の思考が停止するには充分すぎる言葉だった。
「……な、ん、だと?」
「そもそも、前提が違うのですよ、陛下。どうして父が、あなたにそんなことを提案したか。それは、私がそれを望んだからです。……私から、父に言ったのです。あのような素敵な方と一緒になれれば、それはとても幸せだろう、と」
王がその獣の口を軽く開いたまま、閉じなくなった。まさに人と同じく顎を落とした状態なのだろう。そんな王に、姫はゆっくりと語り始める。
「あなたこそ、覚えていますか。初めて会ったあの時、あなたがどうして怪我をしたのか」
「………………」
「あなたは、人間よりも遥かに強い。本当なら、襲撃者など軽く命を奪うこともできたはずなのです。でも、あなたはそうしなかった。怪我をさせないように、無力化することを優先した」
少しだけ間を置いて、王が何とか思考を取り戻す。混乱する頭を整理しながら、彼女の言葉に答えていく。
「……それは、打算だ。ようやく交流を持てるようになってきた今、人間を殺すなど避けたかっただけだ。戦場ならば、何人を殺してきたか分からない」
王の語ることは事実だ。独立運動に参加し、そのリーダーとなり、こうして王になるまで、武力を振るったことは数え切れない。月獣と人間を問わず、奪った命の数も。
「それも本当なのでしょう。それでもあの場では、あなたは誰も殺そうとはしなかった。ですが、決定的な被害が出なかったために暴徒は止まらず……ついに彼らは、無差別に武器を振るい始めました。あなたを攻撃するためだけに、逃げ遅れた子供まで巻き込んでボウガンを乱射して……」
あわや、犠牲者が出るところだった。だが、そうはならなかった。
「あなたがあの子を庇っていなければ、彼は死んでいたかもしれません」
狂気の矢から子供を守ったのは、獣王だった。咄嗟のことで完全に防ぐことはできず、身を呈して攻撃を受け止めた。腕や腹に何本も矢が突き刺さったが、そこは月獣の肉体、内臓にまでは届かずに大事には至らなかった。
「……子供は、どんな種族であろうと価値のあるものだ。それを奪わせるわけにはいかないと、思ったんだ」
「自分の身が傷付いても、ですか?」
「俺にとっては、大した傷にはならないと分かっていたんだ。別に、命を捨てる覚悟でああしたわけではない」
「それでも、痛みは感じるでしょう。そう簡単に、できることではありません」
己の身か、見知らぬ他者の身か。咄嗟に後者を選ぶのは、いかに理由があろうと難しいだろう。だが彼は、自分より他人を選んだのだ。その上で驚愕したのは、王の第一声だ。
『怪我はないか。そうか、それならば良い。すまん、私のせいで巻き込んでしまったな。……私の傷? 気にすることはない。この程度ならば、放っておいてもすぐに治る』
血を流しながら、王が真っ先に案じたのは、巻き込まれた子供の身だった。姫の言うとおり、月獣と言えども痛覚は人間と同じ。それでも、矢で貫かれた苦痛よりも、彼は被害者のことを優先した。いくらそれが致命傷ではないと言っても、その姿は姫に衝撃を与えた。
「月獣を化け物と呼ぶ人間は、未だに多い。ですがあの時、思ったのです。子供のために身を呈することができるあなたと、見境なく人を傷付ける襲撃者……いったいどちらが化け物だ、と」
それがきっかけだった。その後、去ろうとする彼を引き留めて治療を施した彼女は城に戻ったが、そこで彼こそが亜人の王であることを知った。
人間の間でも、彼の噂は錯綜していた。何よりも強き賢獣だと称える者も、無数の化け物を従える残虐な暴獣だと貶める者もいた。彼女の祖国は王の方針もあり、他の国と比較すれば友好的な方なのだが、それでも国全体としては否定寄りなのだ。それだけ、今の世界では亜人を否定する意見が強い。
だから、知りたくなった。本当の亜人王とは、どのような人物なのか。そもそも、亜人と呼ばれる存在について、本当の意味で知ろうとしていなかったことに気が付いた。亜人という言葉そのものが、差別的な意味合いを含んでいることすら意識していなかった。
だから姫は、王と話をすることを望んだ。機会を見付け、後学のためという建前で、彼の話を聞いた。王も嫌な顔はせず、淡々とだがそれに応えてくれていた。そんな姿を見ていた父は、彼女と王が共に参加する会食などを増やしてくれた。
『あなたは何故、王になろうと思ったのですか?』
ある日、そう問いかけた。獣王はいつもの通り、表情も変えず、しかしはっきりと答えてくれた。
『要因は様々で、簡単に言える話ではない。だが、敢えて言うならば、私にその力があり、それが求められていたからだ。……我らとて、平穏と安定を望んでいた。そのためには、全ての月獣を纏める存在が、王というシンボルが必要だと考えたのだ』
『シンボル……王とは象徴である、と?』
『無論それだけではないが、役割のひとつであることに違いはなかろう。……私がそれになることで、争いの日々に終止符が打てるのならば、迷う必要もなかった』
そんな会話の節々から、彼が尊敬できる人物であることは姫にも十分に伝わった。彼が心から平和を望み、そのために尽力していることは、疑うべくもなかった。そして、理解が進めば進むほど、姫は己を恥じていった。
「……私も、あなたを襲った者を諭す資格など、本当はなかった。だって私は、何も知りませんでしたから。そのくせ、あなたと出会う前、心のどこかでは……月獣は荒々しく戦いを好む存在だと言う噂を、疑っていなかった。知らぬ間に、偏見を持っていたのです」
「………………」
「あなたは、どんな時でも優しかった。何も知らないうちは、機嫌が悪いのかと思うほどに淡々としておられましたが……その実、どんな時であろうと民のことを考え、全力を尽くしていた。いつでも穏やかで、決して相手を軽んじたりしなかった。……あの男に威圧された時、理解しました。あなたが常日頃、どれだけ私に気を配ってくれていたのかを」
姫の言葉を、王は黙って聞いていた。いや、返答が出てこないと言った方が正しい。軽蔑され、罵られる覚悟で胸の内を明かしたと言うのに、姫が語っている内容からは、自分への嫌悪が全く感じられない。むしろ、これでは――
「自覚してからは、より素直にあなたが見えました。そして、あなたと言葉を交わす度に、あなたのことを、素敵な方だと感じる想いが強くなっていきました。最初は、偉大な王への憧れに近いものでしたが……次第に、思うようになってしまったのです。このような人と共に歩んでいけたら、と……」
――まるで、好意を伝えられているようではないか、と。そんなはずはないと、自分の欲望が勘違いさせているだけだと、一種の強情な思考に囚われた王は、否定の理由を探す。
「俺は、月獣だぞ? お前から見たら……獣と変わらないのだろう? 人間は、人間の男を好きになる、ものだろう?」
「中身から知ってしまいましたから。それに、偏見さえ捨ててしまえば、その純白の毛並みも、精悍な顔付きも、人間から見ても美しいと思いますよ」
「しかし、それは男に対する美しさの感覚とは違うだろう。種族の違いとは、そう軽いものでは……」
「……ふふっ」
「な……? 何故、笑う」
「ごめんなさい。ですが、どれだけ理由を探そうと、人間の私をずっと好きだったと言ってくれた直後です。全く説得力がありませんよ?」
「………………」
そう言われて初めて、己の言葉が間抜けであることに気付き、王は呻く。思考が全く回っていない。鼓動が早まり、普段の冷静さはほぼ消し飛びつつある。
彼も最初に惹かれたのは姫の性格にだが、今となってはその姿をも心から愛らしいと思っている。それに関しては、別の理由もあるのだが。
「もっと早く、口に出しておけば良かったのですね。私もこの縁談を聞かされた時、そしてあなたが条件付きでも了承してくれたと知った時、天にも昇るような気持ちだったのだと」
「そ、れは……」
姫も、気付いてしまった。王の怯えに、その心の傷に。彼は、ただ力が強すぎただけの、普通の心を持つ男であることに。だからこそ。
「好きです、陛下。私はあなたのことを、ずっと前からお慕いしていました。……あなたという男性に、恋い焦がれていたのです」
はっきりと、姫はそう口にする。誤解を招く余地が一切ない、真っ直ぐな気持ちを、伝える。
王が目を見開き、硬直した。狂おしいほどに望んでいたが、どこかで諦めてしまっていたもの。愛する者から、自分も愛されているという事実。
耳と尻尾がせわしなく動き始める。何かを求めるように天を仰ぎ、自分でも分からないままに激情だけが荒れ狂う。それを吐き出すことができず、彼はしばし沈黙することしかできなかった。
姫は、そんな王を待った。彼が自分の言葉を飲み込んでくれるまで、静かに。
「……嫌われてしまったのだと、思っていた。お前は、俺の前では、笑顔を見せてくれなくなったから」
そんな言葉に、今度は姫が目を見開く番だった。




