崩れ去る仮面
「その後も、お前とは、会談の合間に話す機会が何度もあった。月獣の在り方を知るために、様々な質問をしてきたな。他愛もない内容ではあったが、月獣のことを知ろうとする人間がいると言うことは、非常に貴重な体験だった。お前から話す時間を求められた時は、特に驚いたがな」
始まりは、単なる興味と打算。しかし、その打算は、長続きしなかった。
「かつては……無礼な真似を、致しました。あなたは時間を押して父と会談を続けていたのに。私のような小娘に、いつも時間を使わせてしまっていました」
「違う!!」
突然、王が吠えた。今まで、大きな声など上げたことのなかった彼の、鋭い言葉。唐突な反応に姫が思わず身を縮めると、王は苦々しげに小さく謝罪を呟き、俯いた。
「そうではない。そんなことを、言ってほしいわけではないのだ。私は、ただ……」
言葉を探すようにしながら、王は口ごもる。苛立たしげに尻尾がせわしなく揺れる様子が、思考が整理できていないことを表している。姫は、そんな王のあまりにもらしくない姿に、何も言えずにいた。そして。
「いつからだろうか。何をするにも、集中できなくなったのは」
そんな独白が、始まりだった。
「気が付くと、あの時のことばかり考えているようになった。微笑むお前のことを、思い浮かべていた。お前に笑ってほしいと、あの笑顔をもう一度見たいと……そればかりを願うようになった」
「陛下……?」
いつも泰然としていた王の口調が、徐々に乱れていく。獣の表情が、苦しげに歪んでいる。王という立場による仮面が、少しずつひび割れていく。
「そのうち、お前と話す機会は増えていった。会談の合間の僅かな時間、どれも他愛ない話だったが……そのたびに、思いが膨れ上がっていった。お前は臆することなく、私と話してくれた。それだけで、胸の隙間が埋まるような気分だった」
人間からすると見た目で判断がしづらいが、王はまだ若い。
少年の時から革命に参加して、実力により指導者の地位を勝ち取り、そのままこうして王にまで登り詰めた男。だが、その実年齢は、今年で25歳。寿命から人間に換算すると、まだ成人を果たしたばかりの青年だった。
彼には、若さを補えるだけの天賦の才能がある。紛れもなく、他者を超越する能力の持ち主だ。しかし、心はそうではない。その内面は、年相応のものでしかなかった。
「私は王だ。それも、力によってこの座を得た。敬われ、同時に恐れられるべき存在だ。そうなるように振る舞っているつもりだ。あの男の反応を、見ただろう」
王は男を威圧し、彼は死の恐怖に震え上がった。月獣にとって、王とは、支配者とは絶対でなければならない。少なくとも今は。それを分かっているからこそ、王は必要となる王の姿を演じ続けていた。
「だから、私と対等に接してくれる者など、この国のどこにもいない。いてはいけない。……かつての親友すら、ひとりの従者として扱わなければならなかった。そうしないと、全てが崩れてしまうと考えたからだ」
それは全て、彼自身が決めたことだ。建国直後という不安定な地盤で、王としての自分が綻ばないように。親友も、そんな王のために徹底して従者の態度を崩さない。それでも、友と呼べる存在すらいなくなってしまった、という事実がもたらした孤独感は、凄まじいものであった。
「月獣の誰もが、私と対等ではない。しかし、人間は私を恐れる。当然だ。私は人間にとっては化け物でしかなく、一瞬で命を奪える力がある。そんなものを受け入れてくれる人間など、そうそう簡単にいるはずがない。対等なのはお前の父ぐらいだったが、彼とも王と言う立場の上では、気安い仲とは言えない。……お前と出逢うまでは、気軽な雑談など、久しくしていなかった」
覚悟はしていた。王になったことを後悔しているわけではない。ずっとそれに耐えてきたし、これからも耐えるつもりだった。
「誰かと、ただ他愛もない話をしたのが、本当に久しぶりだった。お前は月獣ではないから、私は、お前には絶対の王として振る舞う必要がなかった。そしてお前は、人間でありながら私を恐れなかった。無論、友好国の姫に対する礼節は意識していたが、それでも……月獣の誰と話す時よりも遥かに、お前とは気楽に話すことができた」
だが、彼は飢えていた。飢えから目を逸らし続けていただけだった。ひとりきりで全てを背負えるほど、彼の精神は強くなかった。ずっと無理をしてきた。とっくに、限界が来ていた。
「もしかすると、最初はただの逃避だったのかもしれない。だが、そのうちに、そうではなくなっていった。気付いてしまった。話せれば誰でも良いのではないことに。私はいつしか、お前との会話を望むようになったことに。お前と会えずにいると、苦しくてたまらなくなることに」
異種族である自分にも、対等に接してくれる優しい娘。彼女を知り、その心の清らかさを理解していくのに比例して、抱いていた興味は、次第に別のものへと変化していった。
最初は彼も、その感情を自分で否定しようとした。勘違いだと思い込もうとした。だが、無理だった。肥大していく胸の炎を、誤魔化すことなどできなかった。
「自覚してしまった、どれだけ孤独だったのかを。お前と過ごしていると、それを感じずに済むことを。だから、婚姻の話が来たときは……平静を装うだけで、必死だった。私は……私、は……俺は……!」
そして今、彼が今まで堪えてきたものは、ついに溢れ出した。感情を抑えつけていた仮面が、砕け散る。
「……ただ、お前にそばにいてほしかった。惹かれていた。焦がれていた! お前と話す時間が、楽しくて仕方なかった! 政略など関係無く……お前が好きだった。ずっと前から、本当に好きだったんだ!!」
王として作り上げたものではない、その下にあった本来の姿、ひとりの青年としての言葉。絞り出すように、吐き出された想い。言い切ってしまってから、王はゆっくりと肩を落としていく。
「それでも、叶うことはないと……人間が、月獣に、亜人に想いを寄せてくれるはずがないと思った。諦めようと、していたんだ。そんな時に、婚姻を持ちかけられて……俺は」
抑えられなかった。どんな言い訳をしてでも、彼女と結ばれたいと思ってしまった。ずっと耐えてきた王にとって、それはあまりにも魅力的で、それ故に残酷な提案だった。
「そうだ。俺は、お前の幸せよりも、お前の自由よりも、自分を優先してしまった。そのためにお前が、望まぬ婚姻を結ぶことになると知りながら」
「……陛下、あなたは」
「国のためなど、建前だ。もちろん、国交を深めたい思いや、互いのわだかまりを解きたい思い、そのものは嘘ではない。それでも……自分が一番分かっている。俺はそんな理由に甘えて、己の欲望に負けたんだと」
強烈な自己嫌悪。それが、王を縛り付けていた。自分さえ耐えていれば、彼女はこんな目に遭わずに済んだ。自分のせいで愛しい相手が辛い思いをしている。好きな相手を苦しめる存在が、消し去ってしまいたいほど憎かった。それが自分であるからこそ、余計に。
「……情けないな。本当に、情けない。お前のために、俺から婚姻を破棄しようと思っていたはずなのに。いざ、お前からその話をされた途端に、耐えられないほど苦しくなった。黙って受け入れれば良かったのに、それすら出来ず……あまつさえ、こんな言い訳めいた話をしているのだから」
「………………」
「済まなかった。軽蔑してくれてもいい。このような弱く愚かな男は……嫌われて当然だ」
そこまで言い切ってから、王は口を閉じ、俯いた。己の弱さをさらした今、全てはもう終わったのだと、そう思った。
「……陛下」
そして、王の告白を静かに聞いていた姫は、ゆっくり口を開く。
「あなたのお気持ちは、理解しました。ならば次は、私の番です」
――彼の勘違いを、正すために。




