敵意と覚悟
「…………」
残された姫は、王の背中を見送った。すぐに、陛下がいらっしゃった、王が来たなら安心だ、などと言う人々の声が彼女にまで届いてくる。
(……陛下は、とても慕われているのですね)
残された姫は、王の言い付け通りに大人しく待つことにした。こうした問題を実際に目の当たりにしたのは初めてだが、この国において王がどれだけの力を持つかは理解しているつもりだ。確かな能力。圧倒的なカリスマ。彼ならば、言葉通りにすぐ片付けて戻ってくるだろう。
「私は、どうすれば良いのでしょうか」
ぽつりとそんな言葉を漏らして、俯く。
今日、街の中を巡り、改めて実感した。王は、この国のためであればどのような事もやってのけるであろう。例えそれが、望まぬ相手との婚姻であったとしても。
これは政略を兼ねた重要な結婚だ。自分達が結ばれる事は、両国の関係において非常に重要な意味がある。彼女の祖国にとっても有益ではあるが、恩恵は間違いなくこちらの国の方が大きい。ただでさえ異端視されている月獣の国が、世界に認められるための一歩になるのだから。だから王は、自ら縁談の破棄などしない、と姫は考えている。
「ならば、私が……ですが」
何が最善か、まるで検討がつかない。そうして、考え込んでしまった姫は、己に近付く存在に気付くことができなかった。
「……何故、ここに人間がいる?」
そんな男の声に、姫は顔を上げる。
目の前には、鳥の外見を持つ月獣がいた。鳥の月獣は翼の代わりに腕を持ち、空を飛ぶ能力はないが、身軽さを武器に戦う一族である。猛禽類の特徴が色濃く出た男は、怪訝そうな表情で姫の様子を伺っていた。その視線の中にどこか刺すような気配を覚え、姫は少したじろいだ。
「わ、私は、視察として街を巡っていたのです」
「視察……ならば、貴様が、ソルファリアの姫か……」
隣国の姫が滞在していることは、国民にも周知されている。逆に言えば、この国に滞在している人間は彼女くらいだ。そのため相手もすぐに彼女の素性を理解した。しかし、その途端に男の目付きはさらに鋭くなった。
「陛下は、どちらに?」
「少し、外しております。しばらくすれば戻られるでしょうが……」
「そうか。ならば……好都合だ」
――そんな言葉と共に、男は姫を乱暴に壁へと押し付けた。
「きゃっ!?」
「嘆かわしい。このような小娘が、陛下を誑かしているとはな……!」
「な、何を……」
突然の行動に、姫はただ混乱するだけだ。
男は、明らかに怒りで我を忘れている。姫はかつて、この男のような目をした人物がいたことを思い出した。――それは、王と姫が出逢った日の話で――だが、今はそれを考える余裕はなさそうだ。
「貴様に尋ねよう。貴様の滞在は、陛下と貴様の縁談を進めるためのものだと噂されている。それは事実か?」
それはまだ、公に周知されてはいない話だ。この滞在の果てに出た結論をもって、両国で正式に発表されることになっている。だが、姫が一ヶ月も滞在するという事態に、噂としてはどちらの国にも広まっているのは知っていた。
「……じ、事実、です」
「そうか。貴様と陛下が婚姻、か。全く、馬鹿げている! 」
嘲笑しつつ、男の手に力がこもった。姫は痛みに思わず小さな声を漏らした。
「陛下は確かに人間との融和を語ってはいる。だが、人間と婚姻だと? 虫酸が走る……王家の血に人間を混ぜるなど、認めるわけにはいかぬ! そうやって我らを懐柔し、手駒とするつもりか、ソルファリアは?」
「そ……そんな意図はありません!」
「黙るがいい。人間の言葉に我らがどれだけ欺かれてきたと思っている? 貴様達は貧弱な代わりに狡猾さを武器とする。ならば我らは、この力をその礼として振るわせてもらうのみだ」
月獣は、種族による差こそあれ、基本的には人間よりも身体能力が高い。もしも一対一で人間と月獣が戦えば、よほどでない限りは月獣が勝利するだろう。ましてや、戦いなど知らぬ姫と、屈強な男では、抵抗すらできるはずがない。
「陛下は偉大な方だ。そして、これからの国の在り方を定めていく方でもある。この国を、ルナグレアを……貴様達の好きにさせてたまるものか」
義憤にとらわれた男は、元より姫の言葉を聞くつもりなどないのだろう。力任せに姫の身体を掴んだ。
「王との婚姻を破棄することを約束しろ。そうしないのならば、ここで貴様を殺してやる」
姫の視線を無理矢理に自分に合わせてから、男はそう告げた。恐らく本気だと、姫にも分かった。それほどに深い人間への反感を、この男は持っている。
恐怖が、姫の思考を埋め尽くしていく。こういう者がいることについて、覚悟はしているつもりだった。それでも、実際に目の前に死を突き付けられれば、話は違う。白くなった頭の中に「元々悩んでいたのだから良いだろう」「嘘でもここは従っておくべきだ」という考えが反響する。
それでも、彼女は声を絞り出した。
「嫌、です……!」
「……何だと?」
想定外の返答に、男の表情が固まった。姫は、吹っ切れてしまったかのように、言葉を続ける。
「陛下が縁談の破棄を望まれるならば、私は潔く身を引きましょう。ですが……他の者からの言葉で諦める程度ならば、私は従者達に引き留められた時点でこの国に来ておりません!」
「な……」
「そもそも、分かっているのですか? 私を殺せば、あなたも極刑は免れませんよ。こんな場所で、逃げ切れると思っているわけではないでしょう?」
「そ、その程度は覚悟している! 貴様に、貴様ごときに、我々がこの国に懸ける思いが分かってたまるものか!」
「国に懸ける思いならば、理解しております! それを理解せずして誰が王族を名乗れますか!」
姫の勢いに、男の側がたじろいでしまった。命を脅かされた人間の女が反論してくるなど、想像だにしていなかったのだろう。
「陛下はおっしゃっていました。争い続ける月獣にようやく生まれた安住の地なのだ、と。あなたは、命を懸けてでもこの国をより良くしたいと考えているのでしょう。ですが、それは私も同じです。両国の未来のために、私とて覚悟しています」
「…………!」
「もしも私が、ここで嘘でもあなたに従うと言えば、それは陛下への裏切りに他なりません。そのような不誠実な女に、この国の王妃となる資格などないでしょう。ですから……あなたの命令は、拒否させてもらいます!」
そう、はっきりと言い切ってしまった。男は思い切り表情を歪め、拳を振り上げた。月獣の腕力であれば、素手で人間を殺すことは決して難しくはない。
「どこまでも、不快な女だ! 良いだろう! ならば、貴様の下らない覚悟ごと、ここで……!」
「ここで、どうするつもりだ?」
――男の振り上げた腕が、何者かに掴み上げられた。
「ぐ、がっ……!?」
「あ……」
突然の痛みに、男は思わず姫を掴む手を離した。それと同時に、彼の身体が宙に浮く。遅れて、全身が激しく地面に打ち付けられる。投げ飛ばされたのだ、と理解するのと同時に、身体中から激痛が沸き上がってきた。
一変した状況に混乱する男は、それでも怒りに任せて己を投げた存在を見た。人間を駆逐しようとしただけなのに何者が邪魔をしてきたのか、と。だが、相手の姿を見た瞬間、その怒りは全て驚愕へと変化した。
「へ、陛、下……!?」
「……貴様は、自分が何をしたか、理解しているのか?」
「ッ……!?」
心臓を握り潰されるような感覚が男を襲う。痛みすら忘れるほどの、圧倒的な恐怖が。
それは、男の本能だ。目の前の存在が圧倒的な格上であると、それに逆らうことなど決して出来ないという本能に、彼の全身から力が抜けてしまった。




