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ひまわり

作者: 前岡光明

 このお話は、あなたのお母さんが子供の頃、あるいは、おばあちゃんが子供だった頃のお話しと言ってもいいでしょう。

 昔も今も、時代が変わっても、子供たちの生きる姿に変わりはありません。子供たちは、皆、それぞれの悩みを抱えながらもけんめいに生きています。

 学校生活で、子供たちは揉まれて育ちます。

 未熟な子供たちの振舞いの中には、いじわるしたり、いじめたりして、他人の心を傷つけることがあります。自分が、どんなにひどいことをやっているのかわからないのです。そして、被害者の子は、平気なふりをしても、悲しくて、悔しくて泣き、あるいは、反発して怒っても、また、打ちのめされ、みじめな気持ちで必死に耐えています。

 そんな傷ついた気持ちを救うのが、あなた以上に苦しんでいる友だちを想い、手を差し伸べることなのです。


        第一章 となりの席

                       五月八日(月)

 ジリリン、ジーン、ジリリン、ジーン、

 けたたましい目覚ましのベルが、せまい部屋のよどんだ空気をきりさく。

 ハッ、と目をあけたトモエ。

 体をひねり、右手をのばし、時計をつかむ。

 寝ぼこ眼で見ると、

 六時三十分。

(もうちょっとだけ、寝かせて……)

 と、まぶたが閉じる。


 横で、もぞもぞ、お母さんが蒲団から起きあがる気配。

 気づいたトモエは、はね起きた。

 七時十分!

 立ちあがったお母さんの顔が、土色にむくんでいた。

「お母さん、寝ててちょうだい。私が朝ごはん作る」

 四年生になったばかりのトモエだが、お母さんの肩を抱いて寝かせ、かけ蒲団をかけた。

 腎臓をわずらっているお母さん。お母さんの体は、自力で尿毒を排泄できなくて、顔がむくんで苦しんでいる。

 でも、今日は月曜日で、病院で人工透析してもらう日だ。そうすれば、お母さんは元気になる。

 お父さんは昨日から出張で、あさって帰ってくる。


 トモエは着替えて、顔を洗い、台所に立った。

 ゆうべお母さんがしかけたご飯が炊きあがっているので、しゃもじでかきまぜ、むらす。それから、味噌汁のだしのなべを火にかけ、わかめとネギ、油揚げを刻んだ。次は玉子焼きだ。

 二つ下のチエが目をこすりながら起きてきた。

「おはよう」

「おはよう。てつだうわ」と、チエがテーブルで納豆をときだした。

 大きく目を見開き、二本のはしを握ってかきまぜる。固まった豆粒が小鉢からこぼれそうになる。手が疲れると、だんだん、はしの下の方を持つから、ねばねばが手についてしまった。顔をしかめたチエが台所に手を洗いにきた。

 ごはんのしたくができた。

「お母さんは、あとで食べる?」

「うん……、あとで」と、お母さんが枕からようやく顔を上げて二人を見た。


 トモエは、二人のお茶わんを洗った。

 チエがフキンでお茶わんを拭いてくれる。

 トモエは洗濯機を回した。

「だいじょうぶ? 遅刻しない……」と、お母さんの声。

 時計を見る。

 八時十分!

「わあ、たいへんだ。チエちゃん!」

 二人はランドセルを背負って、

「行ってきます」と、とびだした。

 トモエはかけっこが得意だ。チエの手をひっぱって、二人で、カタカタ、カタカタ、背中のランドセルを鳴らしながら走った。

 まっさおな空の、キラキラお日さまに笑われそうなほど、あわてて走った。

おかっぱのチエの顔が必死だった。

 校門をくぐる時、振り返ると、まだ後からくる人がいて、安心した。

 ハア、ハア、息を切らしながら、上履きにはきかえ、

「じゃあね」と、階段の下でわかれ、トモエは二階の奥の教室にいそいだ。

 席に着いたら、始業のベルが鳴った。

 あぶなかった。


 まだ胸の鼓動がおさまらないトモエに、となりの席のナカちゃんの細い目がほほえんだ。

「まにあってよかったね」が、黙っていても伝わってくる。

 トモエはうなずいた。

 ナカちゃんは、背はトモエと同じでクラスのまん中だが、ほっそりしている。おとなしくて、やさしい人なので、トモエは大好きだ。でも、ナカちゃんの家は、学校の反対側だから、学校でしか遊べない。


 トモエの席は、窓際の列のまん中である。

 窓から、さわやかな風が吹きこんで、いい気持ちだ。

 表で遊ぶことの好きなトモエは、こんな日に教室にいるのは嫌だが、勉強しに学校に来ているのだから仕方がない。

「お日さま、放課後まで待っててね」と、お腹の中でつぶやいた。

 すらりと背の高い穂積玲子先生が、

「おはようございます」と、教壇に立たれた。先生には小学二年生の男の子がいるそうで、お母さんのような雰囲気があって、何事もてきぱき処理される先生で、トモエは大好きだ。

 朝の会がはじまった。


 そして、算数の時間だ。

 トモエは、二桁のかけ算、わり算の計算がすらすらできる。ときどき、ナカちゃんが細い目で、「これでいいの?」とトモエに聞くので、教えてあげる。

 今も、ナカちゃんは、九九の7の段で混同して、「シチシ、二十四」と、まちがえた。トモエは、ノートの隅に、7×4=28と、書いてあげた。


 トモエは学校が大好きだ。友だちがたくさんいるから楽しい。

 そして、四年生になって、はじめてナカちゃんと同じクラスになって、となりの席で仲良くなれてよかったと思う。


 でも、このごろ、ちょっと嫌なことがある。ナカちゃんと話をしていると、すぐうしろの席の女の子がいじわるをする。

 その子は、ピンクの洋服が好きな、かわいい子で、頭がよくて、家来たちに囲まれて女王さまのようにふるまうから、トモエはひそかに、女王さまとあだ名をつけた。

 今も、トモエがナカちゃんのノートをのぞきこんで、二桁のわり算の計算の確かめをしていたら、「トモエちゃん、よそ見したらだめでしょう」と、女王さまのとがった声がした。

 しかたがないので、トモエはまっすぐ椅子に座りなおした。

 色白のナカちゃんが悲しそうな顔をした。


 授業が終わって、ナカちゃんは、

「さようなら」と、トモエに言って、女王さまとその仲間たちと帰っていった。ナカちゃんの家は女王さまの家の近くなので、登下校はいっしょだ。

(ナカちゃんが、いやいや、ついていくようだった……)と、トモエは思った。


 トモエはお母さんのことが心配で、いそいで家に帰った。

 青空に、白い飛行機雲がかかっている。






        第二章 消えた消しゴム

                       五月九日(火)

 次の日、朝から、しとしと小雨だった。

 きのう腎臓透析を受けて元気になったお母さんが、朝の台所に立った。

 今日は、はやめに、八時ちょうどに、チエと二人で家をでた。

 教室には、まだ五人しかきてない。

 雨の日は肌寒いし、なんとなくゆううつだ。ぼんやり校庭を見ていた。


 女王さまたちが教室に入ってきた。彼女がいると、その周りがざわめいて、すぐわかる。

 ナカちゃんもきた。

 また、女王さまの召使いの、背の高い子もいっしょだ。いじわるな人なので、トモエはひそかにノッポちゃんと呼んでいる。

 もう一人、女王さまの家来の小柄な男の子がいっしょだ。顔が四角で眉が太く、丸刈りで、トモエは、ゴリラ君と名づけたが、彼はけんかは強くない。

 ノッポちゃんもゴリラ君も勉強がにがてだから、勉強が出来る女王さまを崇拝しているのだ、とトモエは思っている。

 ノッポちゃんやゴリラ君はいつも女王さまといっしょにいるが、他にも女王さまの言うことを聞く人は、この教室に何人もいる。

 女王さまはお金持ちのお嬢さんで、はなやかで、男の子たちは、命令されるように頼まれると、言いなりになるようだ。また、シールとか、カードとかをたくさん持っていて、言うことを聞く子に配っている。キャンディやガムをあげることもあるようだ。


 トモエは、わがままな女王さまは苦手だと思うことがある。そしてこのごろ、自分と仲良くしているナカちゃんに、女王さまが意地悪するようだと、感じていた。


 今朝のナカちゃんは、元気がない。

 トモエが、「おはよう」と言っても、白い顔でうなずいただけだ。

 ずっと、細い目を机の上に落していた。

(どうしたのかしら?)


 雨の日の、窓をしめきった教室は、とじこめられた声がひびく。そして、皆が、他の人に負けまいと大きな声で話す。その叫び声が、ウワーン、ウワーン、うねるように高まる。


(ナカちゃんのようすが変だ……)

 いつもは、「あのね」と、トモエに話しかけるナカちゃんが、今日はじっとうつむいている。トモエが話しかけても、「うん」とうなずくか、首をふって、目を伏せる。

 そんなナカちゃんの細い横顔が、かなしそうだった。

(姉妹がいないナカちゃんは、学校でトモエたちとおしゃべりするのが楽しいと言っていたのに、どうしたのだろう……)

 トモエが、

「ナカちゃん、どこかぐあいが悪いの?」と聞いても、

「うん、へいき」と、小さな返事が返ってくるだけだ。


 休み時間の閉じこめられた教室は、ウワーン、ウワーン、ひどい騒ぎだ。

 トモエは、トイレに行こうと廊下に出た。

 きゅうに静かなひんやりした空気に包まれて、いらいらした気分がおちついた。


 国語の授業がはじまった。

 トモエがノートの書き損なった字を消そうとしたら、

(えっ?)

 筆箱の消しゴムがない。

 さっき、使ったばっかりだ。

(机の下に落としたのか……)

 下をのぞいてみた。

 いつもなら、「どうしたの?」と、いっしょに探してくれるナカちゃんが、今日は知らんぷりだ。

 いつものナカちゃんなら、自分の消しゴムを二人の間に置いて、「使って」と言ってくれるだろう。でも、今日は黙ったままだ。

(どうも、ナカちゃんが変だ……)

 ナカちゃんの顔が青ざめている。

(誰かが消しゴムを盗ったのなら、ずーっと席にいたナカちゃんは、知っている……)

 でも、トモエは、「私の消しゴム、ナカちゃん知らない?」と、聞けなかった。

(知っていたら、小さな声で言ってくれるはずだ……)

(知っていて言わないナカちゃんが変だ……)

 トモエは、ときどきナカちゃんの白い顔を見た。


 国語の授業が終わって、トモエがナカちゃんに話しかけようとしたら、立ち上がった女王さまが、

「さあ、ナカちゃん、帰るわよ」と、命令するように言った。

 となりの席のナカちゃんは、トモエに、ちょっとえしゃくして、机を離れた。

(さよならも言わないで……)


 外は、雨があがっていた。

 でも、トモエは、ゆううつな気分のまま、家に帰った。






          第三章 遅 刻


            一 

                     五月十日(水)

 次の日。

 きのう、きゅうにナカちゃんがよそよそしくなったこと、消しゴムがなくなったことが、頭の隅にあって、学校に行くのがゆううつだった。

 ごちそうさまをして、しばらくすると、チエが、

「お腹が痛い」と、青ざめてソファにうずくまった。

「トイレへ行ってごらん」と、お母さん。

(チエを置いて、先に行けない……)

(一人で遅刻して行くのはいやだろう……)

 こないだ、学校へ行く途中で、チエをいじめる男の子をトモエが叱ったばかりだ。チエにも、彼女なりに、学校生活の悩みがある。

(もし、チエがひどい病気だったら大変だ!)と、トモエは心配した。

 トイレから出て、チエのお腹の痛みがおさまったようだ。丸い顔が目をつむっている。

 二人で家を出たのは、八時三十五分だった。

(すごい遅刻だ!)

 でも、チエの手をにぎって、ゆっくり歩いた。

「もし、お腹が痛くなったら、先生に言って保健室へ行きなさいね。

 もし、家に帰るよう、先生に言われたら、お姉ちゃんの教室へ来なさい。いっしょに帰ってあげるからね」と、言い聞かせた。

 空一面、灰色の雲が覆っている。

 遅刻だと思うと、トモエはゆううつだったが、チエの方が大変だと考えると、気持ちがしっかりした。


 チエが二年二組の教室に入るのを見届けて、トモエは二階の奥の四年四組の教室に向かった。

階段を上りながら、ちらっと思った。

(このまま、家に帰ってしまいたい……)

(自分もお腹が痛くなって、保健室に行きたい……)

 そんな弱虫になりそうな自分に気づいて、お母さんの悲しむ顔が浮かんだ。

 お母さんは、口癖のように言う。

「お日さまが見ています。お日さまに見られて恥ずかしいことは、しないのよ。

 嫌なことから逃げ回って、こそこそ陰に隠れていてはいけません」

 重い腎臓の病気で苦しんでいるお母さんは、気がめいって、へこたれそうな時は、お日さまの光を浴びることを考えるのだそうだ。

「あたたかいお日さまの光に包まれていると思うと、ひとりでに元気が出ます」


 教室の後ろの入り口に立って深呼吸をして、強い気持ちになって、静かにドアを開けた。

 皆が振り返る。

 ピョコンと頭を下げた。

 ナカちゃんが目いっぱい寄せてくれた椅子の後ろを、体を横にして爪先立ちで通った。

 席に着くと、ナカちゃんがトモエを見つめて、「どうしたの?」って顔をしたが、すぐ教科書に目を移した。

 いつもなら、小声で、「何かあったの?」と聞いてくれるはずなのに、やはり、ナカちゃんは、トモエによそよそしくなったと、悲しかった。

 トモエは窓から外を眺めた。

 一面にねずみ色の雲が覆って、トモエの気持ちのように沈うつな空だった。


 一時間目の授業が終わって、穂積先生が、

「友江ちゃん」と、よく響く声で、手招きした。それで、先生の後をついて廊下に出た。トモエは、先生の言いたいことが、わかっている。

 歩きながら、遅刻したことをわび、チエの腹痛のことを話した。

「そうだったの。あなたは、いいお姉さんね。がんばってね」

 メガネの奥を光らせた先生は、トモエの肩をポンと叩いて、職員室のドアを開けた。

(先生の話し方は、元気な時のお母さんに似ている……)

 礼をしたトモエは、すぐにチエの教室に向かった。

 後ろのドアを静かに開け、中をのぞいた。

 チエが前を向いていて気づかないので、そうっと教室に入った。

 皆が、どうしたの? という顔でトモエを見守る。

「チエちゃんの姉ちゃんだ」の声に、チエが振り向いた。

 元気そうで、ほっとした。

「だいじょうぶ?」

「うん、なおったよ」と、丸い顔が笑う。

 前に、チエをいじめた男の子が、目を見張って二人の様子を見ていたので、

「チエちゃんがお腹が痛くなったら、助けてあげてね。

 君は、コウちゃんだね。よろしくね」と、声をかけた。

 その子は、「うん」と、うなずいた。


 二年二組の教室から、おおいそぎで席に戻って、二時間目が始まる時だった。

(おやっ!)

 机の上の筆箱に、きのうなくした消しゴムが戻っていた。

 トモエは、となりのナカちゃんの白い顔を見た。

 ナカちゃんは、トモエの視線に気づいたのか、いっしゅん、こっちを向き、「消しゴムが出てきてよかったね」と、いう顔をした。

 でも、トモエの気持ちは、引っかかっていた。

(誰がこの消しゴムを戻したのか、どうして言ってくれないの?)

 と、ナカちゃんに不満だった。

(この消しゴムを盗った犯人を、知っているはずでしょう、どうして教えてくれないの?)

 でも、トモエは、ナカちゃんにたずねなかった。

(教えたくないのなら、教えてもらわなくてもいい……)

 と、口をきいてくれないナカちゃんに、反発する気持ちになった。

 トモエはさびしかった。

 いつものナカちゃんなら、きのう、その犯人が消しゴムを盗ろうとした時に注意してくれただろうし、もし誰が盗ったか知らなかったとしても、さっき犯人が返した時に、「トモエちゃんに謝りなさい」と、言ってくれただろう。そして、そのことをトモエに話してくれたろう。

(ナカちゃんが変だ……)

(トモエのことを嫌いになったのかも知れない……)

(ナカちゃんは、女王さまの家来になったのだ……)

 と、悲しくなって、窓の外を見た。

 雲の隙間の、一筋のお日さまの光を見つけた。

 まっすぐ、あそこにだけお日さまの光があたっている。

(きっと誰か、お日さまの光を浴びて喜んでいる人がいるだろう……)

「お日さま、助けてください」と、トモエは胸の中で手を合わせた。



           二


 ふと、トモエは考えた。

(女王さまが嫉妬して、ナカちゃんに、私と親しく話しをしないように命令したのではないか?)

(だから、ナカちゃんは、私と話せないのだ……)

(おとといの帰り道で、そんなことがあったのだ……)

 そして、トモエは、すこしすねた気分になった。

(ナカちゃんが、自分よりも女王さまの方がいいのなら、ナカちゃんと友だちでなくなっても仕方がない……)

 トモエはさびしかった。

 思い切って、ナカちゃんに向きなおって話しかけたかったが、後ろの女王さまがにらんでいそうなのでやめた。


 休み時間、トモエは、その消しゴムを手に取って見つめた。

 そして、ノートの隅を消してみた。

 となりのナカちゃんが、じっと身動きしないでいるのが、かわいそうだった。

(でも、ナカちゃんは、私と離れても平気かも知れない……)

(もし、私と友だちでいたかったら、何か声をかけるだろう……)

 そんなトモエの耳に、後ろの女王さまがノッポと話す声が、聞こえてきた。

「病気でもないのに、遅刻するなんて、最低ね」

 トモエの体が硬直した。

(誤解されて悪口を言われたくない!)

 でも、振り向いて、彼女らに事情を話す気持ちにならなかった。

(すなおに話を聞いてくれる人たちではない……)

 トモエはうつむいたまま、頭を振って、女王さまの嫌な言葉を振り払った。

 そして、トモエは、「がんばってね」と言われた穂積先生の顔を思い出していた。


 この日、さいごの授業が終わって、トモエがぼんやり外をながめていると、

「ナカちゃん、行くわよ」

 女王さまの声とともに、となりの席のナカちゃんが立ちあがった。我に返ったトモエが振り向いて、「さよなら」と、言ったが、ナカちゃんは、「さようなら」も言わないで帰っていった。

 きのうと同じだ。


 家に帰った。

 お母さんが、ソファにもたれていた。

「友江ちゃん、元気がないようね。学校で何かあったの?」

「ううん、なんでもないわ」と、首をふった。

「人間の社会には、いろんな人が居ます。

 人とつきあって、嫌な目にあうことがありますが、そんな時はお日さまの光を浴びていることを思いなさい。お日さまはいつも変わりません。皆、お日さまに照らされています。どんな人のところにもお日さまの光は届きます。

 お母さんもこの病気になって苦しい時がありますが、ちゃんとお日さまは光を届けてくれます。ポカポカ温められて、元気な気持ちになれて、感謝してます。

 嫌なことがあったら、自分は、お日さまに生かされていると、思いなさい。

 どんなひどい時でも、お日さまは、あなたを見てくれてます。

 ウジウジした気持ちになったら、お日さまの当たるところに居なさい。

 今日は、一日、曇ってましたが、あした、お日さまは出ます」

 トモエは、昼間教室から見た、雲間からさす一筋の陽の光のことをお母さんに話した。

「そうね。その光を浴びた人は、幸運だったね」


 お母さんが、

「そうそう、銀行からもらったヒマワリの種があるわ。そろそろまかなくっちゃ」と、机の引き出しからタネ袋を取り出した。

 トモエは庭の花壇の隅を移植ベラで耕して二十粒のタネを蒔いた。

 お母さんは、

「ヒマワリは、向日葵と書くように、お日さまに向かって花を開きます。たのしみだわ」と、ほほえんだ。

 それから、トモエは家のお掃除をし、晩ご飯のおつかいに行った。






           第四章 対 決

                        五月十一日(木)

 次の朝。

 今日は透析で病院に行く日で、お母さんはとてもつらそうだ。腎臓が働かないから身体に尿毒がたまってしまうのだ。

 お父さんとトモエが朝ご飯をつくった。

 トモエとチエは、余裕を持って靴をはいたが、トモエはゆううつだった。

 途中で、チエの大きな目が見上げ、

「お姉ちゃん、お腹が痛いの?」と、手を握ってくれた。

 青空のお日さまが、手をつないだ二人の濃い影を地面に映していた。

 トモエは、さらに

「お日さまに生かされている」と語った、お母さんの顔を思い浮かべた。


 となりの席のナカちゃんが、来ていた。

 トモエは、元気を出して、「おはよう」と声をかけ、ナカちゃんの背中をすり抜けた。ナカちゃんは椅子を前に出して通りやすくしてくれた。今日はとくに大きく椅子を下げて、ナカちゃんのお腹が机に押しつぶされるのじゃないかと心配になるほど、前へ出してくれた。トモエは、うれしくて、「ありがとう」と、言った。

 ナカちゃんが、ほほえんでくれたが、元気がない。

 ナカちゃんはまるで病人のようだ。そして、きのうと同じように、トモエに話しかけてくれなかった。


 今日は、二時間目が終わって、トモエはトイレに行った。そのとき、ふと、また消しゴムがなくなったら嫌だな、と思った。

 帰ってきて席について、まっさきに筆箱を見たら、消しゴムは無事だった。

 でも、トモエは息をのんだ。

(一番長いエンピツの芯が折れている!)

 夕べ、ちゃんと削ったエンピツだ。さっきは二番目に長いエンピツを使って、この一番長いのは最後に使おうと考えたから、芯はとがっていたはずだ。

(また、誰かに、いやがらせされた……)

 トモエは、深い息を吐いた。

 そんなトモエのようすを、ナカちゃんの青ざめた顔が、チラッと横目で見たようだった。

(ナカちゃんはエンピツの芯を折った犯人を知っている……)

 女王さまの前で、ナカちゃんは犯人のことを言えないのだ、とトモエは察した。


 トモエは、さびしくて、不安で、ゆううつなまま、過ごした。

 なんだか、自分は一人ぽっちだ。トモエの周りの人たちが皆、トモエを無視しているような気がした。


 昼休み、女王さまの周りに家来たちが集まった。ピンクのセーターに白いスカートと白いハイソックスの女王さまは、ほんとうに華やかだ。

(女王さまの指示で、あの人たちはいじめる相手を決める……)

 すると、うしろからノッポの声。

「ナカちゃん、どうしたの? 仲間に入りたくないの?」

 ナカちゃんは、ふりむきもせず、背中を突っ張っている。

 すると、女王さまの声が、

「ナカちゃん、あなた、このごろ臭くない?」

 ノッポが、続けた。

「ほんとう、臭いわね」

 ナカちゃんは顔を引きつらせた。

 それから、ゴリラと他の家来たちが、おもしろがって「臭い」「臭い」「やーい、クッセー」と、はやしたてた。

 ナカちゃんは、机にうっぷした。

 思わず、トモエが、ふりかえった。

「止めなさい」と、声をはりあげた。

「なによ!」と、いきり立ったノッポが金切り声を上げた。

「なんだと!」と、ゴリラが目をむいた。

 トモエは、大きな目を見開いて、女王さまをにらんだ。

 女王さまが、まゆを吊り上げて、トモエに何か言いそうだったが、

「ふん」と横を向いた。おさげを結わえた金色のリボンが揺れた。

 それから、ノッポとゴリラに何やら耳打ちした。

 すぐに授業のベルが鳴った。


 トモエは、いよいよ女王さまたちと対決するのだと覚悟した。

「負けないぞ」と、身震いするほど緊張する。

 トモエは、窓から青空をながめた。暖かいお日さまの光がトモエの左腕の上に差している。

(お母さんの言うとおり、お日さまが、私を見守ってくれる……)

 トモエの気持ちがだんだん静まった。

 この時、何も言ってくれないナカちゃんのことは、トモエの頭になかった。


 放課になって、ノッポが女王さまのところに駆け寄った。

 トモエは緊張した。

 気づいたら、となりのナカちゃんの身体が震えている。

 そのノッポが、

「さあ、ナカちゃん、帰りましょう。いっしょに、来なさい」と言った。ナカちゃんがよろけるように立ち上がった。そのとき、ちらっとトモエと目があった。何かを訴えるまなざしだった。

 三人が、ナカちゃんをとり囲こんだ。

 聞こえよがしに、女王さまが、

「ゴギブリみたいだね」と、つぶやいた。

 ゴリラが、

「ゴギブリはバッチいね」と、大きな声。

 そして、ノッポが、

「ゴギブリは不潔だね」と、言い残し、帰って行った。


 トモエは、ハッと気づいた。ゾクッと体が震え、体の血が沈んでしまうようだった。

 今日、「ゴギブリ」って言葉を、よく耳にすると思っていたが、自分のことを言われているのだ。

 ナカちゃんが臭いと言われた。そして、自分はゴギブリと言われている。

 トモエは、くやしくて悲しくて何もできなかった。

 どうやって、家に帰ったかおぼえてない。

 ふと、ヒマワリの芽が出たか、気になって庭に出てみた。

 まだだった。

 じょうろで、たっぷり水をあげた。






           第五章 となりの空席

                        五月十二日(金)

 次の日。

 お母さんは朝早くから起きだして洗濯機を廻している。

 お母さんが元気だと、ほっとする。

 でも、トモエは学校に行くのがゆううつで、目をつむって蒲団に入っていた。

 そんな気持ちをお母さんに気取られないよう、顔を洗って、空元気にふるまった。

 トモエは、尻込みしたくなる自分の気持ちを励まして家を出た。

(チエがいっしょで、よかった……)


 ナカちゃんも女王さまたちもまだ来てない。

 窓の外に、白い綿雲がたくさん浮かんでいた。

 ベルが鳴る間際になって、女王さまたちがバタバタと駆けこんできたが、トモエのとなりの席は空いたままだった。

 この日、ナカちゃんは学校に来なかった。


 休み時間になると、女王さまのまわりに、ノッポと、ゴリラやその他の家来たちが集まった。

 窓の外を眺めているトモエの背中に向かって、

「ゴギブリ」

「ゴギブリ退治だ」と、浴びせる。

「黒いからゴギブリだ」

「あかで黒い」と、トモエの顔が日に焼けて色黒なことをからかっている。

 トモエは、いじめられているのが自分であることが信じられない。しかし、事実である。

 トモエは、雲をながめながら、身を震わせていた。

 雲がかかって、お日さまの光はトモエに届かなかった。

(どうして、こうなったか……)

(女王さまのご機嫌を取らなかったからだ……)

(でも、くやしい……)

(どうしたらいいのだ……)

 こんな目にあったのは、はじめてだ。


 休み時間、トイレから戻ってくると、筆箱のエンピツが二本も折れていた。

 泣き伏したくなった。

 でも、トモエは、気持ちを強く持って、周りを見渡した。ゴリラとかノッポとか、何人かが、トモエのようすを眺めていたようで、あわてて顔をそらした。

 トモエは振り返った。

 すぐうしろの女王さまは、机の上に広げた教科書に目を投じて、顔を上げない。

(演技だということはわかっている……)

 女王さまをにらみつけた。

 でも、エンピツを折ったのは、彼女ではない。彼女は自分では手を出さない。たぶん、ゴリラかノッポのどちらかだろう。

(いくら女王さまを問いつめても、彼女は知らないと言うだろう……)


 トモエは、窓の外を見た。

 白い綿雲が通り過ぎて、お日さまがまぶしい。

 トモエは、なんとか事態を打開しなければならないと思った。

(でも、どうすればいいのだ……)

 トモエは、穂積先生にエンピツのことを訴えようかと思った。

(でも、そんなことを先生に言いつけたら、皆に嫌われる……)

 ためらった。

 誰かに相談したかった。

 ふと、ナカちゃんの顔が浮かんだ。

(きのう、病人のように青ざめた顔をしてたから、どこか身体が悪いのかも知れない……)

(このまま、ナカちゃんと友だちでなくなるかも知れない……)

 と、思うと寂しかった。

 今のトモエは、外に出て、思いっきりお日さまの光を浴びたかった。

(皆とドッチボールをしたい……)

 そんなことを考えると、トモエの気持ちが、落ち着いてきた。


 誰もいないとなりの机を見て、思った。

(ナカちゃんは、女王さまたちにいじめられるのが嫌で、休んだ……)

(トモエと仲良くしているので、女王さまに意地悪され、苦しんでいる……)

 そう思ったら、胃のあたりの緊張がほどけ、お腹がグーッとなった。

(あんなにやさしかったナカちゃんが、急に自分を嫌いになるはずがない……)

 もし、ナカちゃんが自分をいやになったとしたら、こないだから、自分がナカちゃんが冷たいので腹を立てていたことが、原因かもしれない、と思った。

 トモエは、昨日、ナカちゃんが女王さまたちに無理やり取り囲まれて帰ったが、ひきとめて、自分が送ってやればよかったと、思った。

 それで、決心した。


 放課後、トモエは職員室へ行った。

 穂積先生が、机に向かって書き物をされていたが、

「どうしたの?」

「あのう……、ナカちゃんが休みましたが、病気ですか?」

「あなたは菜賀ちゃんと仲よしだから心配なのね。お母さんから、お腹が痛いので休ませてくださいと、電話がありました」

 トモエは、ほっとした。そして、このあいだお腹が痛いと言った妹のチエの顔が浮かんだ。

 そんなトモエのようすを見ていた穂積先生が、口を開いた。

「友江ちゃん、あなたは、菜賀ちゃんのことで、先生に何か言いたいのでしょう。

 先生はなんでも聞きますよ。

 秘密だって言えば、誰にも黙っています」

 でも、トモエは、急には言えなかった。

「あなたも、きょうは元気がなかったわね。お母さんのようすはどう?」

 トモエはどう話せばいいかわからない。

 先生は、

「私、これから急いで片付けなければならないことがあるの。ゆっくりお話ししたいけど、残念だわ。

 それで、今、あなたが思っていることをお手紙に書いて、明日あさってお休みだから、月曜日に、私にちょうだい。

 どんなことでもいいわよ。短くてもいいのよ」

 トモエは大きくうなずいた。


 家に帰って、トモエは、穂積先生へ手紙を書いた。

……私は、菜賀ちゃんがすきです。となりのせきになって、なかよしになれてよかったと思います。でも、このころ、菜賀ちゃんが変です。

 五月九日に、私のふでばこから消しゴムがなくなりました。

 十日に、その消しゴムが、ふでばこの中に戻っていました。

 十一日にエンピツの芯が一本、折られていました。

 そして、菜賀ちゃんが休んだ今日、十二日には、エンピツが二本、芯を折られました。

 菜賀ちゃんは、きっとその犯人を知っていて、止めようとして、ぎゃくにおどされたのだと思います。

 私は、そんな菜賀ちゃんのことを、どうして、ほんとうのことを話してくれないのかと、うらみました。そんな私のたいども、菜賀ちゃんの気持ちを傷つけたのではないかと、心配しています。……


 トモエは元気を取り戻した。

 日曜日は、お父さんとチエと三人で、家中の掃除をした。


 庭のヒマワリは、まだ芽を出さない。

(ほんとうに、芽が出るのかな?)

(芽が出たら、うれしいだろうな……)

 トモエは、夕方、水やりした。






           第六章 先生への手紙

                        五月十五日(月)

 月曜日は、お母さんの腎臓透析の日だ。お父さんが早く起きて、朝ごはんをつくってくれた。

 教室に入ると、今日も、となりの席はあいていた。


 一時間目が終わった時、トモエは、穂積先生を追いかけて、廊下で手紙を手渡した。

「ありがとう。後で読みます」


 二時間目が終わって、先生に呼ばれ、後を追って廊下に出ると、

「読んだわ。あなたの気持ちはよく分かりました。

 菜賀ちゃんは、今日もお腹が痛いそうよ。心配だわ。もっと、彼女のことを聞かせてちょうだい。 放課後、職員室へきてくれる?」

 席に戻ってきたトモエは、女王さまの不審そうに自分をながめている目に気づいた。


 この日も、休み時間になると、女王さまのまわりにノッポやゴリラや、他の家来たちが集まって、「ゴギブリ」だとか、「汚い」とか、「不潔だ」とかいう嫌な言葉を、トモエの背中に浴びせた。

(私を怒らして、振りむかせようと、挑発している……)

 しかし、今日は、女王さまの声がしないのは、自分が先生と話をしたからだと、トモエには分かっている。

 女王さまは、先生に見つかりそうな時は、隠れてしまう。トモエをいじめる人たちの中で、一番汚い、卑劣な人は、この女王さまだ。

 トモエは知らん振りして、窓から外を眺めていた。

 まっさおな空だ。お日さまがさんさんと照っている。その光を浴びてトモエの左肩がポカポカ温かい。

 でも、トモエは、心の中で、「どうして自分が汚いなんて、言われるのだろう」と、泣いていた。

(日に焼けて黒いのが、どうして、汚いって言われる?)

(そんなばかな話があるものか……)

(いつか、訂正させて、謝らせてやる!)

 と、攻撃的な気持ちも浮かぶが、すぐひるむ。

 トモエをいじめている女王さま、ノッポ、ゴリラ、その他のクラスメートの顔を次々に思い浮かべ、何とかあの人たちから遠ざかりたいと考えている、そんな自分がかわいそうになって、頭を振った。

 窓の外を見る。

 空は青い。

 まぶしいお日さまが浮かんでいる。

 お母さんの、「どんなひどい時でも、お日さまだけは、あなたを見てくれてます」という言葉が浮かんできた。

「私は最悪だけど、お日さまの暖かい光を浴びてます」と、トモエはつぶやいた。

 周りの声が気にならなくなった。


 放課後、約束どおり職員室に行った。

 先生になにもかも話してしまいたい気持ちもあったが、そんなことをしたら自分がみじめで、できなかった。

 誰もいない準備室で、穂積先生に聞かれるまま、ナカちゃんのことを話した。

 ナカちゃんが休む前の日の木曜日に、女王さま、ノッポとゴリラが、ナカちゃんを無理やり囲むようにして帰った。登下校する時に、いじめられているのではないか、と話した。

 先生は、メガネの顔を少し傾けて、じっと考えていた。

 それから先生は、トモエのお母さんのことを聞いたので、週二回、月曜と木曜に病院で透析すること、人工透析したら元気になるが、だんだん、身体がだるくなることなどを話した。

「ごはんのお手伝いをあなたがしているの?」と、おだやかな声。

「おかあさんのぐあいが悪い時は、お父さんか、私がつくります」

「そうなの。えらいわね。このあいだ遅刻したときも、千恵ちゃんのお腹が痛くてあなたが面倒をみたんだよね。あなたは、小さいのに頑張っているね。偉いわ」

 トモエは、とてもうれしかった。このやさしい穂積先生は味方だと思った。

 でも、トモエは、自分が「ゴギブリ」とか、「きたない」とか、言われていることは、先生に言わなかった。そんなことを知られるのは嫌だし、「どうして、そんなことを言われるの?」と聞かれたら、つらすぎる。

 トモエが、先生と別れ、カバンを取りに教室に入ろうとした時、女王さまのピンクの影がチラッと廊下に見えた。


 家に帰って、ヒマワリに水をやった。

 種をまいて六日目だ。

 お母さんが元気な声で、「そろそろ芽が出るわよ」と言った。






         第七章 小さく折りたたんだ手紙 

                           五月十六日(火)

 次の日、トモエが教室に入ると、となりの席にナカちゃんがいた。

 トモエは、ほっとした。

 ナカちゃんもトモエの顔を見て、安心したように、「おはよう」と、青白い顔でほほえんだ。

 そして、ナカちゃんが、そっと、小さく折りたたんだ紙を、トモエに手渡してくれた。

 トモエは、とてもだいじな物に思えたので、後で見るつもりで、カバンのポケットにしまった。

 女王さまたちがやってきた。

 トモエは緊張した。そして、ナカちゃんの細い体がこわばるのが分かった。

 女王さまが席に着きながら、おさえた声で、

「ナカちゃん。今日は出てくるかと思って迎えに行ったのに、どうして先に来たの?」と、目の前の硬直した背に、詰問した。

 ナカちゃんは、返事をしなかった。


 授業が始まってから、トモエはその手紙を取り出してひそかに読んだ。

……友江ちゃん、心配かけました。先生から、電話で、あなたの手紙のことを聞きました。私の方こそ、いろいろ秘密にしてすみません。……

 それだけだった。

 でも、うれしかった。

 ナカちゃんが、トモエを見たので、

「読んだよ。ありがとう」と、その手紙を手に、深くうなずいた。

 ナカちゃんといろいろなことを話したいが、教室では女王さまが聞き耳を立てていて、無理だ。校庭に行くのも、ノッポやゴリラが見張っている。


 休み時間になると、後ろの女王さまのまわりに、ノッポやゴリラが集まって、「汚い」「ゴギブリ」とか言う声がトモエの耳を刺した。

 でも、女王さまの声は聞こえなかった。先生に見つからないよう、用心しているのだと、トモエにはわかった。


 三時間目が終わって、トモエがトイレに行こうと席を立つと、

「トイレに行くぞ。手を洗うかどうかみてやる」と、ゴリラの声が聞こえたので、廊下でふりかえる と、ノッポとゴリラがあわてて立ち止まった。

 トモエは考えた。

(今トイレに行っとかないと、がまんできなくなる……)

 それで、廊下を走って、一階の低学年用のトイレへ駆けこんだ。

 席に戻ってくると、聞こえよがしに、

「逃げたから、手を洗わなかったんじゃない」と、ゴリラとノッポが女王さまに報告していた。そして、後ろから、「バッチイ」「ゴギブリ」「便所こおろぎ」と、さかんに言い立てた。

「ナカちゃん、そばによったら、あなたも汚くなるわよ」と、ノッポ。

 でも、意外にも女王さまが、

「止めましょう」と、ノッポとゴリラを、止めた。そして、

「ナカちゃん、あとで話があるわ」と言った。

 ナカちゃんは黙ったままだった。


 トモエは青空を眺めていた。

 綿雲がたくさん浮かんでいる。

 小さな、今にも消えそうな、あの綿雲が自分のようだと思った。でも、その雲は、消えそうでいても、消えない。

 ふと、ナカちゃんのことが気になって、となりの席を見ると、泣き出しそうな顔をして、机の上を見ていた。

 トモエは、

(ナカちゃんに声をかけてあげようか……)

(でも、女王さまがにらんでいる……)

 と、迷った。

(ナカちゃんも、あの小さな雲みたいだ……)

 と、気づいたとたん、

(さっきの手紙でナカちゃんの気持ちはわかっている……)

 と、強い気持ちが湧いてきた。

(ナカちゃんの力になってあげなければならない!)

 思いきって、となりを向いた。

「あのね、ナカちゃん」

 ナカちゃんがトモエを見た

(ナカちゃんの目がうなずいている!)

「先週、ナカちゃんが休んでいるあいだに、算数の三角形をやったの。教えてあげましょうか」

「うん、教えてちょうだい」

 はっきりしたナカちゃんの声だ。

 それで、二人は算数の教科書をのぞきこんだ。

 後ろの席の女王さまがいらいらして机を叩いている気配を感じたが、気にしないことにした。

「ゴギブリがくっついた」

「汚れるぞ」

 と、遠くからゴリラとノッポの声が聞こえたが、耳に届かない振りをした。

 二人とも、あまり熱中できなかった。それで、はじめの部分をゆっくりやった。


 授業がはじまった。

(ナカちゃんと、仲良しでいられる……)

 と、トモエは、ほっとしている。

 そうやって気持ちが落ち着くと、トモエは気づいた。

(私は自分のことだけを考えて悩んでいた……)

(ナカちゃんが苦しんでいることを少しも考えなかった……)

 トモエは、ナカちゃんの白い細い横顔をながめた。


 その日、ナカちゃんは、授業が終わるとすぐに、小さな声で「さよなら」とトモエに言って、女王さまから逃げるように、帰って行った。

「ナカちゃん、まって」と、女王さまが叫んだ。

 そして、

「おぼえてらっしゃい」の捨て台詞を、トモエは耳にした。


 皆が帰った教室で、トモエは自分の席に座っていた。

 さっきの女王さまの顔が浮かんでくると、むらむらと憎くなる。ノッポもゴリラも、皆、憎かった。あんな卑怯な連中には負けない。思い切ってけんかしようと思った。 

(でも、こっちはナカちゃんと二人だけだ……)

 何とか仕返しをしたいと考えると、頭の中がカアっと熱くなった。

 帰り道、お日さまに照らされると、そんな気持ちも少しおさまった。


 この日、トモエは寝つかれないで、いろいろ考えた。

(いつか、女王さまと対決してやる……)

 と、トモエの心の中に闘志が湧いてくる。

 女王さまのことを考えると、腹が立ってきた。むらむらと燃えさかる憎しみの炎をおさえかねた。

起きて、水を飲んだ。






           第八章 ヒマワリの芽


             一               

                          五月十七日(水)

 次の朝、とつぜん、穂積先生が宣言した。

「席替えをします」

「わあ」と、皆、立ち上がった。

 トモエはナカちゃんと離れるのが嫌だったが、席順の図を見て、「よし」と、叫んだ。ナカちゃんもトモエの顔を見て、うれしそうだ。

 ナカとトモエは、廊下側の一番後ろで、左右が逆になったが、いっしょだ。

 女王さまは元の位置、ノッポは、窓側の一番後ろ、ゴリラは真ん中の一番前だ。

 がやがやと移動が終わり、落ち着いた。

 トモエは窓際から離れ、お日さんに会えなくなったのがさびしかった。でも女王さまと離れられてよかったと思った。

 授業がはじまった。

 休み時間に、女王さまが、

「どうして、ナカとトモエがいっしょなの?」と言い出した。すると、皆も、ふしぎがった。これまで並んでいた人とは、皆、はなればなれになって、ふたたびいっしょなのは、この二人だけだった。


 このことがあってから、特別扱いのナカとトモエは、クラスの中で浮き上がってしまった。

 皆は、ノッポやゴリラをまねて、

「汚いのがくっついている」

「ナカとトモエのゴギブリじまだ」と言いはやし、

 そして、トモエが

「やめて」と抗議すると、ひどい時は、

「ウザイ」「死ね」とまで言うようになった。

 トモエは、ひとりぽっちじゃないから我慢できた。

 それからは、いつも二人でいた。

 ナカちゃんとトモエは、教室で「ゴギブリ姉妹」と言われていた。


 ナカちゃんは、学校にずいぶん早く来た。トモエも出来るだけ早く来ることにした。でも、お母さんのぐあいが悪いと、そうはできない。

 ナカちゃんは、帰りはいそいで走って帰るか、あるいは、トモエとゆっくり校庭でおしゃべりをして遅く帰るかだった。


 ある日、ナカちゃんの右腕があちこち赤く傷ついていた。

 前の日の帰りに、ゴリラが、ナカちゃんを追いかけて、後をつけてきた女王さまたちに捕まって意地悪され、ノッポとゴリラがつねったのだった。

 話を聞いたトモエは、自分だったら、どんなことをしてでも、逃げられると思うが、弱いナカちゃんがかわいそうだった。

 放課後、ゴリラがナカちゃんのまわりをうろうろしている時は、トモエが、家まで送って行くことにした。


 トモエは、廊下でゴリラが一人でいたので、

「あんたがナカちゃんの腕をつねって傷つけたでしょう。

 また、ナカちゃんを傷つけたら、先生に言うわよ」と言った。

 ゴリラの四角い顔が引きつって、あわてて背を向けた。


 この日、とうとうヒマワリが芽を出した。

 朝、トモエが見つけた。皮をつけたまま伸びた芽や、土が盛り上がったすき間から顔を見せたものなど、十個ほどあった。

 夕方、帰って来たお父さんが、言った。

「これは密集しすぎだ。大きく育てるなら、間引いて、肥やしをたっぷりあげなければいけない」

「お母さんが楽しみにしているから、大きく育てたいわ」と、トモエ。

 そのうち、肥料を買いに行くことにした。



           二 

                         五月二十二日(月)

 昼休み、トモエとナカちゃんが二人で校庭ですごし、戻ってきたら、二人の算数の教科書がなくなっていた。

 二人ともカバンに入れたままだった。

 ナカちゃんの細い顔が泣き出しそうになった。

 トモエはナカちゃんが心配で、しっかりしなければいけないと思った。 

 トモエは周りを見渡した。

 トモエと目があって、ノッポとゴリラがあわてて前をむいた。女王さまは机に目を落としていて、顔を上げない。

 ナカちゃんは唇をかんでいる。

 トモエは、穂積先生に告げ口したら、かえってひどい目にあうと思った。

 ナカちゃんに、言った。

「誰かのいたずらよ。泥棒するつもりはないでしょう。そのうちに出てくるわよ」


 教壇に近づいた先生が、立ち止まって教卓の上を見つめた。

 教科書を手に取って、

「あら、誰の教科書?」と、裏の名前を見て、

「友江ちゃんと菜賀ちゃんのだわ。どうして、ここにあるのでしょう? 友江ちゃん、ここにあるのを知っていました?」

「いいえ、誰か、カバンから盗ったのです」

 静まり返った。

 先生は教室内を見渡した。

「このような、人の大事な持ち物を隠すことは、いたずらの範囲を越えています。

 誰が、やったのですか? すなおに名乗って謝りなさい」

 誰も何も言わない。

 先生は、

「人の持ち物を取り上げるのは、泥棒です。盗られた人の身になってみなさい」

 皆、うつむいたままだった。

「そう、自分がしましたって、勇気を出して、言えないのね。

 見てた人はいるでしょう。告げ口したら、仕返しをされるのが恐いのね。

 わかりました。

 このことは、あとで、話し合いましょう。

 さあ、友江ちゃん、教科書を取りに来なさい。

 算数をはじめましょう」

 この時間、先生がこわくて、皆、静かだった。


 その日の放課後、女王さまが緊張した顔をして、ゴリラとノッポをうながし、帰って行った。後ろのドアのそばの席のナカちゃんには声もかけなかった。  

 トモエは、女王さまが先生に叱られるのを恐がって、あわてていると思った。

 そして、なんとなく落ち着かないノッポがあやしいと感じた。


 十二本のヒマワリが三センチほどに伸びた。お父さんが、

「ヒマワリを植え替えよう。肥料もやる」と言って、トモエとチエの三人で園芸店へ行った。

 お父さんは直径五十センチほどの深い穴を掘り、発酵油粕と化成肥料をたっぷり入れ、土と混ぜた。そんな穴を三ヶ所作った。

「この庭じゃ、三本しか植えられないな」

 丈夫そうな三本を選び植え替えた。

 トモエは、他の芽が、かわいそうだったが、仕方がなかった。



              三 

                          五月二十四日(水)

 朝の会で、穂積先生が、

「おととい、友江ちゃんと菜賀ちゃんの算数の教科書がここにありましたが、そのことで、自分が犯人です、と名乗り出た人がいます。

 その人の勇気を、先生はほめたいと思います。

 その人は、もう、そのようないたずらはしないと、先生と約束しました。その人は、友江ちゃんと菜賀ちゃんに、あやまります。だから、その人の名前は、私は誰にも言いません。それでいいでしょう」

 トモエはナカちゃんと顔を見合わせ、大きくうなずいた。

 その日、放課後、穂積先生に呼ばれて、二人は職員室に行った。すると、ノッポがいた。

 ノッポは二人に、

「すみませんでした。もうあんないたずらはしません」と、謝った。

 その謝り方が、ただ頭を下げただけなので、トモエは不満だった。

(ノッポちゃんとは、友だちになれない……)


 二人へのいじわるは、続いた。

 女王さまとノッポは、前のようにはトモエとナカをいじめなくなったが、トモエやナカに近づいて話そうとする子に、いじわるをしている。

「ゴギブリ姉妹の仲間に入りたいの?」と、おどしていた。

 トモエは、ナカちゃんといっしょだったので、耐えられた。


 トモエとナカちゃんは、二人っきりになると、これまでのことを話した。

 ナカちゃんは、トモエと絶対に口をきかないよう女王さまに命令されていた。

「ごめんね」と、ナカちゃんの白い顔が見つめた。

 トモエの消しゴムは、ノッポが盗ったのを、帰り道でナカちゃんが取り返して、次の日、筆箱に戻したのだ。長いエンピツの芯を折ったのはゴリラだ。二本折ったのも、たぶんゴリラの仕業だろうとナカちゃんが語った。

 そして、トモエが言う番だった。

 女王さまがきゅうに、二人にゴギブリと言わなくなったのは、先生にばれるのを恐れたのだ。いい子だと言われている女王さまは、先生に見つからないようにしている。だから、算数の教科書を隠した件では、ノッポに自首するよう命令したのだ。

「いつか、あの人たちを謝らせてやる」と、トモエが言うと、ナカちゃんがうなずいた。


 トモエは、教室で自由な時間がある時は、ナカちゃんに算数を教えた。そして、ナカちゃんはいろいろな本を読んでいるので、そんな本のことを話してくれた。

 トモエは、家に帰って、学校に行くのがつらい気持ちになったときは、ナカちゃんに手紙を書いた。学校で手渡すと、次の日、返事がきた。

 そして、ナカちゃんも手紙で、「あの人たちに負けない」と、強い気持ちをトモエに伝えた。

トモエは、ナカちゃんの手紙を大事に取ってある。

 もう、トモエは、ナカちゃんの気持ちを疑うようなことはない。ナカちゃんがあまりしゃべらない時があっても、気分がすぐれないのだろうと察し、静かに見守った。


 植え替えたヒマワリは、大きな葉を伸ばしだした。

 トモエは毎晩水やりしている。

 お父さんが、

「作物は、お日さまがたっぷり当たらないと育たない。特にヒマワリはそうだ」と言って、陰になりそうな柿の枝を剪定した。






           第九章 バケツの水


             一 

                          五月三十日(火)

 五月も終わりに近づいた。

 朝、学校へ行く途中、チエが立ち止まって、顔を見上げた。

「お姉ちゃん、ゴギブリって言われているの?」

「だいじょうぶ。お姉ちゃんは負けないから……。お母さんには黙っていてね」

 チエの丸い顔が小さくうなずいた。


 昼休み、廊下で女王さまと二人っきりですれちがったとき、彼女がリボンを揺らしながら、

「トモエちゃん、ナカちゃんとつきあうのを止めたら、意地悪しないよう、皆に言ってあげる」と、顔をのぞきこんできた。トモエははねつけるように、にらみつけ、首を振った。

 女王さまはあきれたような顔をしていた。

 そのことは自分の胸にしまった。

 こんな女王さまにはぜったいに負けないという気持ちが強くなった。

(いつか、この女王さまに謝らせてやる!)

 そして、ぜったいにナカちゃんを裏切らないと、一人誓った。


 トモエは毎日がつらかった。

 ナカちゃんの他にも友だちが何人もいると思っていたが、皆、離れていった。いや、前と同じように優しくしてくれる時があっても、女王さまがいると冷たいのだ。

 トモエの信頼できる友だちは、ナカちゃんだけだった。トモエを支えているのは、ナカちゃんを裏切ることはできない、という意識だった。

 ナカちゃんは、朝、女王さまたちに会わないよう、うんと早く来るか、回り道をして来る。帰りも同じようにしていた。放課になって、ゴリラがうろうろしている時は、トモエが送って行く。

 そんな、おびえて過ごすナカちゃんの気持ちは、ぼろぼろになっている。

 トモエは、自分よりもナカちゃんの方がかわいそうだと思った。それで手紙で励ますと、

「私は、だいじょうぶよ」と、返ってきた。

 こんな状態でもなんとか耐えているナカちゃんは、芯の強い人だと思った。

 トモエとナカちゃんの二人の席は、「ゴギブリ姉妹のゴギブリとう」と言われ、「汚いから近寄るな」と陰口を言われた。

 でも、教室内は、表面的には、波風が立っていなかった。

 女王さまとノッポが表立って手を出さなかったからだが、それだけ、陰湿だった。そして、クラスの大半の子は、自分に関係ない、と無関心でいるようだった。


 ヒマワリがぐんぐん伸びていく。

 トモエは、学校から帰ってきて水やりすると、心が休まった。

 まだ三十センチほどの高さだが、いずれトモエの背よりも大きくなる。

 トモエは、見るたびに大きくなっているヒマワリが頼もしかった。



            二 

                      六月八日(木)

 雨の日だった。

 図工の時間、工作で床を汚したので、皆で掃除をした。机を寄せる人。ほうきで紙くず、のこぎりの木屑を掃く人。床の雑巾掛けをする人。

トモエはナカちゃんと二人で、バケツに水を汲んできて雑巾掛けをしていた。絵の具でよごした床はなかなかきれいにならない。

 そのとき、トモエは、ポケットから紙切れが落ちたのに気づかなかった。


 とつぜん、そばでゴリラの大きな声、

「きのうの手紙で、私は、あの人たちがいつまで、こんないじわるをするのか、……」

 トモエは、ハッとした。

(今朝、ナカちゃんからもらった手紙!)

 顔から血の気が引くのが、自分でもわかった。

 トモエは両手をのばし、ゴリラに向かった。

 小柄なゴリラは身をひるがえした。机のあいだを、ガタガタぶつかりながら、逃げた。

 教室中を、しつように追いかけた。

 トモエはぜったいにその手紙を取り返す覚悟だった。

 最初はおもしろがって見ていた皆も、トモエの必死な形相に、ゴリラがやりすぎだと思ったのか、ゴリラがかき分けようとしても、身体をよけず道を開けなくなった。

 ゴリラは教室の隅に追いつめられた。

 ハアハア、息が上がったゴリラ。四角い顔が歪む。

 怒り狂ったトモエが両手を伸ばしてつめ寄ると、ゴリラはその紙切れを、バケツの水の中に落とした。

「あっ」と、皆が息を飲んだ。

「ばっちぃから、洗いな」と、ゴリラが言った。

 トモエは、かがんで、その手紙をひろいあげた。

 皆、青ざめたトモエの顔を見守った。

 大粒の涙があふれたが、トモエは泣き出さなかった。

 トモエは、奥歯をかみしめた。

 左手でそのバケツをさげると、立ち上がった。いきなり、バケツの水を、

 バッシャ

 目の前のゴリラの顔に、ぶちまけた。

 不意を撃たれたゴリラ。

 雑巾が、胸に張りついて、ペタンと落ちた。

 ゴリラは、両手で顔をぬぐったが、つっ立ったままだ。

 太い眉を寄せて、戦意はない。

 びしょぬれだ。あごから、ぽたぽたしずくがたれる。

 やがてゴリラは、ワナワナ、ふるえだした。

 寒いのだ。

 皆、あっけにとられた。


「ひどいわ」と、女王さまがわめいた。彼女の右足にも水がかかっていて、右足の上靴と白いソックスを脱いだ。

 ナカちゃんが、床の水溜りを雑巾で拭き取りだした。

 トモエは、今度は、ノッポをにらんでいた。


 穂積先生が駆けこんできた。

 一目で状況を察した先生は、

「下の教室が大変だわ。菜賀ちゃんを手伝って、床の水を拭きなさい」と、指示した。

 何人かが雑巾を手にしゃがむ。

 その中にノッポがいた。

 女王さまは、逃げるように自分の席に戻っていた。

 ぼうぜんと立っているトモエのそばに、ナカちゃんがきて、

「平気だよね」と、励ましてくれた。

「うん」と、トモエはうなずく。

 先生は、床拭きの様子を見ている。

 すぐに片付いた。

 先生はびしょぬれのゴリラに、

「さあ、職員室に来なさい。着替えましょう」

 すると、女王さまが、泣きながら訴えた。

「私は家に帰ります」

「あなたは、ソックスが濡れただけでしょう」

 と、先生は取り合わず、ゴリラの背中を押しながら出て行った。

 掃除を片付けた皆は、席についた。

 女王さまは、机に伏してベソをかいていた。


 ゴリラが、ねずみ色のだぶだぶのトレーニングウエアを着て戻ってきた。

 校長先生のだそうで、腕が長くて手が出ない。

 誰かが、思わず、「ゴリラみたい」と言ったので、皆が、笑った。


 そのうち、ゴリラのお母さんが着替えを持ってきた。

 トモエとナカちゃんが校長室に呼ばれた。

 工場の作業服姿のゴリラのお母さんは、

「今、先生に話を聞きました。この子が、お嬢さんたちにいじわるして、すまなかったね」と、悲しそうな顔で、二人に謝った。

 そして、小さくなっている息子の頭を、ゴツン、げんこつで叩いた。

「もう、こんなことはさせないよ」と言って、恐い目で息子をにらんだ。


 校長室を出て、穂積先生が、

「だいじょうぶね」と、トモエの顔をのぞきこんだ。トモエは大きくうなずいた。






           第十章 校長室

                       六月九日(金)

 穂積先生は、朝からあわただしかった。

 きのうの夕方、校長先生のところに、女王さまのお母さんが抗議の電話をかけてきて、お母さんが朝から学校へ押しかけてきたのだ。

 算数の授業を副校長先生が代わりにして、穂積先生と校長先生が女王さまのお母さんの応対をしていた。

「どうしても、友江という子に会わせてください」と言うので、とうとう、校長先生は穂積先生に言って、トモエとナカを校長室に呼んだ。そして、女王さまとノッポとゴリラも連れてこられた。

 美しく化粧したお母さんは、眉をひそめてトモエを見た。

「あなたは、女の子のくせに、ひどい乱暴するのね」

 トモエは、お母さんのほうを向いた。

「服をよごしたのは、すみません。

 でも、私は、この人にはあやまりません」と、女王さまを指さした。

 神妙にうなだれていた女王さまは、キッとなってトモエをにらんだ。

「まあ、なんて失礼な人でしょう。こんな悪い生徒がいると、先生も大変ですね」と、お母さんが目をむいた。

 すると、穂積先生が、

「奥さん、それは言いすぎです。友江ちゃんは家で朝ごはんを作っています。学校の掃除でも何でも、そっせんしてやります。友だち思いのいい子です。そして、クラスで算数が一番の、優秀な生徒です」

(穂積先生は、このお母さんより少し若いだろうが、威厳がある……)

 トモエはうれしかった。

 お母さんが、我が娘の顔を詰問するように見つめたが、やがてうつむいた。

 それは、真顔の穂積先生が、女王さま、ノッポ、ゴリラの三人に向き直ったからだ。

「ねえ、君たち、友江ちゃんのことを、さいしょにゴギブリとか、汚いとか言って、いじめようとしたのは誰ですか?」

 女王さまがうなだれた。

「そう言えって、皆に言ったのは誰ですか?」

 女王さまがまっさおになった。

「誰が、さいしょに友江ちゃんと菜賀ちゃんをいじめろって、言いましたか?」

 ノッポとゴリラが顔を見合わせた。

 女王さまが、そのふたりをチラチラ横目で見て、ワナワナ震えている。

 そして、とうとう、小さな声で、

「トモエちゃんがナカちゃんの席に乗り出して、おしゃべりをするから、注意したのです」と、言った。

 穂積先生の「誰ですか?」の問の答えは、明らかだった。

 女王さまのお母さんがそわそわしだした。

 そして、穂積先生が、女王さまのお母さんに向かって言った。

「私が見たところ、友江ちゃんと菜賀ちゃんの二人の授業態度は、他の子とおなじです。けっして、騒がしいとか、人の邪魔をしているとかはありません。

 そして、私は、勉強がわからないところは、教え合いなさいと、クラスのみんなに言っています」

 黙って、穂積先生の言うことを聞いていた校長先生が、言った。

「穂積先生の言うとおりです」

 不利を覚ったお母さんが、頭を下げるようにうつむいて、

「そうでしたか。

 あとで、この子をきつく叱ります。すみませんでした」

 女王さまは唇をかんで、なみだ目になっていた。

 校長先生が、

「君たち、ゴギブリなんて言われたら、どんな気持ちになります?

 毎日、いじめられたら、どんなにつらいか、考えたことがありますか?

 何か言いたいことがありますか?

 もし、自分が悪かったと思ったら、ナカさんとトモエさんに謝るべきです」

 ゴリラが、まず、

「ごめんなさい」と、謝った。

 彼は、きのう謝ったばかりだから、神妙だ。

 それから、ノッポが、ぎごちなく頭を下げた。

「ごめんなさい。許してください」

 今度は、本当の気持ちのようだとトモエは感じた。

 しばらくして、うつむいていた女王さまが、お母さんを、ちらっと見上げてから、

「もう、しません。ごめんなさい」と、小さな声で謝った。







          第十一章 ヒマワリのつぼみ

                         七月一日(土)

 七月の最初の日、土曜日の夕方、穂積先生が家庭訪問に見えられた。先生は、事件の経過をお母さんに報告した。

「今度の件では、クラス全員で何回も話し合いました。

 そして、クラスが、まとまりました。

 そのうち、また席替えをします。もう、二人の席は離れてもだいじょうぶです」

 お母さんが言った。

「友江が苦しんでいるのは分かってましたが、私は、あの子なりに乗り越えられると思ってました」

 それから、先生に問われるまま、お母さんが、病気のことを話した。

「そうですか。来月に、お姉さんの腎臓を移植されるのですか。すばらしいわ。

 ご成功をお祈りします」と、先生はお母さんを見つめた。

 お母さんはやさしくほほえんだ。


 この時、トモエは、この間、お母さんが、

「私のお姉さんは、自分の体が少しぐらい弱くなっても、あなたが助かる方がいい、と言って、二つある腎臓の一つを私にくれる決心をしたのよ」と、泣きながら二人の娘に語ったことを思い起こしていた。そして、このことを自分は忘れないだろうと思った。


 トモエは、先生を見送って表に出た。

 先生は、眼鏡の奥の目を細めて、トモエの頭を、強くなでてくれた。そして、トモエの顏を見て、深くうなずかれた。

 トモエは、どうもありがとうございましたと、言おうとしたが、胸が詰まって言葉にならなかった。深くおじぎしただけだった。


 空に夕焼けが広がっていた。

 トモエはジョウロを持って、庭に出た。

 ヒマワリは、トモエの肩ほども伸びている。げんこつのように固そうな緑色のつぼみがついている。

 もうすぐ咲くだろう。

 これが咲いたら、ナカちゃんが見にくることになっている。






 お母さんの手術は成功しました。

 トモエは学校で楽しく過ごしました。

 でも、中学に入るとき、ナカちゃんが遠くへ引っ越していきました。とても悲しみました。

 高校に入って、トモエは女王さまと仲良しになりました。自分勝手なことをする人だけど、彼女はそのことに気づくと、すぐに謝ってくれます。寂しがり屋で、友だちのことを大事にする人だと分かりました。

 トモエは思いました。誰とでも友だちになれるのです。その人のことをよく見てあげれば、助け合うことが出来るのです。


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