竜と人
竜の生息域には、一面に(とんでもなく広大な面積だが……)堀がめぐらされている。翼竜でなくとも、彼等が本気になれば簡単に飛び越えられるシロモノだが「ここからは世界が違う」と両者に意識させる為に作られたらしい。
「呼び台」といわれる竜と人間との少ない接点は、その堀にかかる橋の途中にある。竜騎士は、何の飾気もない木製の台の上で笛を吹き、パートナーの竜が来るのをひたすら待つ。
「音色は三種類あって、それぞれ緊急度によって使い分けるんだけど、今日は『手が空いていたら来てくれ』っていうレベルの音色を使う。シルバを会わせたいのは山々だけど、彼女にも生活があるからね」
ドクはそういって、頑丈な石造りの橋を渡る。面識の無いシルバが誤って攻撃しないように(ほとんど、その可能性はないが)、リンダは堀の向こう側で待機している。
周囲は一面の草原――。
大人の腰高以上の草が、山脈の裾野に広がっている。幅は狭いが、力強い川の流れが景色にアクセントを加えており、濃厚な花々の香りが生命の色気をかきたてている。
日は少し陰り、西の空は茜色に染まり始めていた。
リンダは数メートル離れた橋のたもとで、夫の背中を眺めている。
ドクが台の上に登る。
大きく息を吸うのが、背中越しからでも確認できた。
「フオォォォォォォォ」
どこか間の抜けたような――それでいて、どこか危険の香りのする、複雑な音色が周囲に響く。すると、先ほどまで停滞していた空気が、一気にざわつき始めた。虫も、草も、木々すらも、これから起きる出来事に震えているようだ。
「クオオオオォォォォォ」
どこか、遠くで雄叫びが聞こえた。
甘い、優しい、でも、種別の差を感じる声だ。
ドクはリンダを振り返り、笑顔を見せた。どうやら、先ほどの声がシルバのものらしい。リンダは、高揚感を得るとともに、同じくらいの不安をかきたてられた。きっとそれは、生物として正しい直感だろう。なにしろ、相手は生物界の頂点に君臨する種族なのだ。
「クゥウゥウウウウゥウウ」
最初の雄叫びは、かなり遠くで聞こえていたはずなのに、二回目の雄叫びは、もうすぐそばで聞こえた。見ると、橋の向こうに広がる草原に、船の軌跡のような引き波が見える。
速い。
猛スピードで、草の海をかき分けて近付いてくる灰色の物体。伸びた草の所為で、身体全体は見えないが、見え隠れする背中に西日が反射して、きらめいている。
来る――。
橋の向こう岸、草の途切れる所に目をやったリンダだったが、その行動は裏切られた。現世における最強生物は、驚異的跳躍によって、リンダの眼前に突然現れたのだ。
もう言葉もない。膝に力も入らない。思わず、へたり込んでしまう。
それほどまでに、その個体には迫力があった。
体高は3メートルに届きそうである。長く伸びた尻尾を入れると体長は7メートルぐらいありそうだ。鈍く光る灰色の羽毛が全身を覆っていて、大きな鳥のように見えなくもない。顔も爬虫類というより、猛禽類に近い印象だ。硬質化した口元と、鋭い目が独特の精悍さを与えている。
ただ、いずれの身体的特徴の中でも、最も特筆すべきなのがその爪である。脚の人差し指に装着されたソレは、身体の大きさとバランスがとれないほどに巨大――まるで、死神の鎌だ。事実、他国では作戦陸竜騎士を「死神」とか「魂の農夫」等と呼んでいたりする。
「急に呼び出して悪かった。ただ、今日はぜひ、俺の大事な人にシルバを紹介したくてね」
甘えるように、そして、少し意地悪そうにドクを小突くシルバ。きっと、生物という枠を度外視すれば、恋人同士の様に見えるだろう。
「さあ、こっちだ。あそこで、座り込んでいる(!?)のが俺の奥さん。リンダだよ」
ドクが優しく首に手を回し、シルバをリンダの方に向かせる。
「リンダさん、ほら、会いたがっていたシルバだよ。美人でしょ?この眼元から後方に伸びる模様が、アイシャドーみたいでセクシーなんだよ」
なるほど、両目の端から黒い模様が背中の方に伸びている。
「ほら、怖くないよ」
リンダに近付く人と竜。人馬一体とはよく言うが、この関係性は、なんというかもっとセクシャルな感じがする。
意を決したリンダが、スッと立ち上がってシルバの顔を見る。人として――それも、尊敬する相手と接するかのように――と、ドクから言われているので膝を折って挨拶をする。
「ドクの妻、リンダです。夫がいつもお世話になっています」
一応、笑顔には定評のあるリンダ。
しかし、美しく恐ろしい顔をしているシルバは、まるで表情を変えない。
――表情が豊かだと聞いていたけれど……。
素人には分からないのだろうと、リンダは諦める。でも、夫を数々の戦場で守ってきてくれた相手だ。礼を失せぬようにと、自分を鼓舞する。もともと「いえいえ、こちらこそ」なんて答えが返ってくるとは思ってはいなかった。
しかし、当の夫が首を傾げている。
「どうした、シルバ。そんな仏頂面して……」
――あ、これってやっぱり仏頂面なんだ……。
「俺の大事な人なんだ。尊敬する人でもある。っておい、何でソッポ向くんだよ」
――ん?これってもしかして、そういう事か?
「あ、今度はなんだよ急に、そんなに甘えてきて。やめろって、バカ、ちょっと、そんなにくっつくな!」
――まちがいない。
――これはパターンAね。
リンダは俄然、気合が入った。スイッチが入った。
にぶい夫は気が付いていないようだが、これは間違いない。
「ドク、ちょっとどいてて」
「え?それはちょっと、危ないかもしれないし……」
「大丈夫。この女も、そんな安易な形で決着させたがらないでしょう」
ドクは首をひねる。
「何の話?」
「女と女の話。ねえ、シルバさん――」
体格差は歴然(というか、生物としてありえないマッチング)。
しかし、今のリンダに恐怖感などありはしなかった。
「私もだまって譲るつもりはありませんから」
シルバの顔に、表情が浮かんだ。
いや、リンダが読み解けたと言った方がいいのかもしれない。
――「私の方が深く結ばれている」ですって?こっちは嫁だっつ~の!
龍虎は、短いが堅牢な橋の上で、初めて相対した。
もうちょっと、俗っぽい言い方をすれば、修羅場である……。