妻が連れて行って欲しい場所
ドクが図書館を出たのは、午後2時を過ぎた頃だった。
強烈だった日差しは穏やかになったものの、まだまだ、暑い。工事中の作業員達は、もろ肌を脱いで、大粒の汗を垂らしている。ドクも、額に浮かぶ汗をぬぐいながら、家に帰った。
「ただいま――」
「あれ?早かったね」
夕食の仕込みをしていたリンダが、パタパタと駆け寄って来きた。
「ポンコツだから、そんなに長く集中力は持たないんだよ。今日はカレー?」
「はずれ。よって、今日の晩御飯はヌキです」
「ええ!?」
「じゃあ、泣きのラストチャンス。今日の晩御飯は、何でしょう?不正解だった場合は、腎臓を頂きます」
「何その恐怖ルール!!」
「はい、それじゃあカウントダウン開始――10、9、4、2、1……」
「算数!!」
「正解は、魚介の香味野菜煮込みです!」
「自分で言うのかよ!っていうか、それってブイヤベースだよね?」
「良いイワシと、アサリが手に入ったので♪」
「それは楽しみ」
良い港のあるインドミナの市場には、新鮮な魚介類が多く並ぶ。そのため、住民の多くが肉よりも魚介類を好む傾向があり、ドクも例外ではない。
ちなみに、リンダのブイヤベースの隠し味はカレー粉。スパイスの香りをかぎ分けたドクも、あながち間違っていない。
「砂抜きの支度さえしちゃえば、出掛けられるから、ちょっと待ってて」
リンダが台所に戻り、ドクはリビングのソファーへと向かう。ドクに「妻を手伝う」という選択肢が無いわけじゃあないが、ここは敢えて手伝わない。
彼女は、頭の中で手順を決めて仕事をしているので、イレギュラーな要素は、混乱を生むらしいのだ。こういう時は、「いつもありがとう」という感謝を込めて、任せるに限る――と、夫は信じている。そして、その読みは、あながち間違っていない。
聞こえてくる鼻歌。
会話はない。
それでも互いの存在を感じているし、何をしているのかも分かっている。下手をすると、何を考えているかも知られているかもしれない。
コミュニケーションは会話だけじゃないのだ。
「お待たせ。じゃあ、出掛ける準備をしましょう」
10分もしないで、リンダはエプロンを外しながらやってきた。結婚したての頃は、料理本を片手に右往左往していたのに、今は素晴らしく手際がいい。
「まだ、行先を聞いていないんだが……」
「ふふん。聞きたいかね、竜騎士どの」
「なんだよそのノリは。まあ、行く場所によって準備するものも変わるからね、聞きたいよ」
「では、教えてしんぜよう。私はシルバに会いたい!」
シルバとは、ドクのパートナーである竜の名だ。
「なるほど、だから夕方か……」
竜は、夕方になると攻撃性が収まり、おとなしくなると言われている。ほとんど迷信だが、竜と直接接する事のない一般市民には、信じられている。
「この時間、シルバは山の方へ行っているかもしれないけど、行くだけいってみる?」
「行く!」
「じゃあ、もう出ないと帰りが大変だ」
「何か準備するものはある?」
「虫さされ防止に、薄い長袖ぐらいかな。暑いから、飲み物は持って行こうか」
「シルバにお肉のお土産とか……」
「彼女は、受け取らないよ」
「そんなものなの?」
「そんなもん。それでも最低限の注意は必要だから、向かう途中で注意事項は教えるよ」
家から竜の生息域まで、30分以上かかる。最低限の注意事項を説明するには十分な時間だ。
「怖い?」
「怖い。でも、『怖い』と思っている人間に危害を加える様な事はしない。大事なのは、彼等をリスペクトすること。撫でることも、関係性によっては侮辱にあたる」
「なんだか、緊張してきた。お腹痛い」
「まあ、注意事項さえ守れば、子供でも見学できるんだし、まず大丈夫。専門家も、ここにいるしね」
ドクは自分の胸を叩く。
「何が心配ってわけでもないんだけど、漠然と緊張してくる……」
「トイレは今のうちに行っておいた方がいいよ」
「デリカシー!!」
リンダの手刀が、ドクの首を捉えた。
悶絶するドクをよそに準備は整い、出発の段となった。
「そ……それでは、行きますか」
「おおー」
二人が目指すのは、国土の多くを占める竜の生息域のうち、竜騎士になる竜が暮らす地域。ルシャイ山地の裾野に広がる草原である。竜騎士は、ここに設置された「呼び台」と言われる場所で、パートナーの竜を呼び出す。
「その笛がこれ」
「知ってるよ。いつも、そこら辺に置いているから、お弁当と一緒にバックに入れてあげてるでしょう」
「そうでした」
「でも、改めて見ると不思議な形だね」
「まあね。これは、竜の頭蓋骨から作るんだ。ほら、ここの喉の部分。ここを笛師が加工して、専用の笛を作る」
「失くしたり、壊れたりしたら?」
「危険で広大な生息域を、身体一つで探すしかなくなる。それで、命を落とした人もいる」
「――ドク?」
「なに?どうしたの」
「それ、この前、ソファーの下に落ちてたよね……」
「ああ、集中訓練の前ね。あの時は、あせったよ~」
「その前は、私の実家に忘れてきて……」
「まったく困ったもんだ」
「ねえ……」
リンダの声質が変わる。
「なに?」
「ローンが残っている間は、その笛は絶対死守だからね!!今度、雑に扱ったら、あなたの恥ずかしい話を小話にして売りさばくから!!!」
「!!!??」
リンダが所有しているドクの秘密を思えば、十分すぎる脅迫だった……。