仕事おわり
アラビアナ半島の小国、インドミナ――。
小さいながらも、堅実な国家運営と強靭な兵力で、くせのある半島国家の中でも一目置かれている存在だ。
その強兵を養う訓練場も、夕暮れ時を迎えて、昼の熱気を解放しつつある。兵士達は、たっぷりと汗を吸った鎧をロッカーに突っ込み、ぬるい浴場で汗を流す。一週間続いた集中訓練も、今日で最終日。兵士達の声も明るい。
そんな、開放感あふれる更衣室に、一人の男が呆けたように座る。どうやら、そうとう疲れているらしい。
「……年々、鎧が重くなるな……」
ポツリ、とつぶやく男。
もう青年と呼ばれる年齢ではない。鋼の様な筋肉に覆われてはいるものの、周りの若い兵士と比べると、いくぶんか見劣りする。
「転職かぁ……」
竜騎士独特の真っ黒い兜を撫でながら、つい、男はそんな事を考えてしまう。体力的に衰えを感じるとともに、なんとなく、平凡な自分の将来像が見えてくる頃でもある。それなりに、悩み多き年代といえる。
そんな、難しい年頃の感傷に、土足で踏み込んで来たのは、長身の若い兵士――名はアサダという。
「え!ドクさん、辞めちゃうんですか!」
ジロリとドクは、この後輩を睨み付ける。
「辞めねえよ。辞める時は、モリア(第一竜騎士長)の首を掻っ切ってからだ」
「ははははは。目の敵にされてますからね」
「俺が何をしたんだっての」
「昔、派手にやりあったんでしょう?あの人、ああ見えてねちっこいですから」
「俺が内勤の時だぞ?もう3年も前の話なのに」
「60歳の人にしてみれば、つい最近の話ですよ。とにかく、もうすぐあの人も退職なんですから、我慢していればいいんです」
「言われなくても分かってるよ。この、合理主義者め」
ドクは、いつもどおりテキトーに兜を拭って、ロッカーに突っ込んだ。
「また、そんなしまい方をして……。道具を大事にしろってオッキーに注意されたばかりじゃないですか」
「だからウエスで拭っただろう?もともと、汗で腐食するような部材で造っちゃいないんだ。くせえだけなら、問題ない」
「そういう、可愛くない所が嫌われるんですよ」
「論理的って言えよ。道具をピカピカに磨く時間があるなら、他にやる事がくさるほどある」
「まったく……。今日も、図書館へ寄って帰るんですか?」
「いや、今日は直帰だ。流石に疲れたよ」
「じゃあ、磨けばいいじゃないですか!」
「可愛い後輩に、ポイントを挙げるチャンスを与えようと思ってな。ほれ、勝手にロッカーを開けて、中の道具を手入するのを許可してやろう」
「おつかれさまでしたー」
「てめえ。お前は先輩の敬い方ってのを知らないのか?」
「先輩の背中を見てきたので」
「俺の背中じゃない事は間違いないな。そんな不遜な態度を取ったことがない」
ドクは、荷物を担いでロッカーを離れた。浴場には寄らず、帰るらしい。アサダの声が背中から届く。
「奥さんによろしく。また、美味しい料理を食べさせてください」
「酒を持参するなら、いつでも来い」
片手をあげて、ドクは更衣室を出た。
外に出ると、もう、日は暮れていた。
訓練場は山の中腹にあり、街の様子が一望できる。やさしく瞬く街の灯りが、ドクの気持ちを穏やかに高揚させた。
月明かりに照らされた(というよりか、月明かり以外にない)山道を抜け、街に降りる。週末の喧騒をくぐりぬけつつ先を急ぐと、辺りは高級住宅地になる。豪華な門扉には目もくれず歩を進め、アーチ状の橋を渡れば、ようやく庶民が暮らす住宅街。夕餉の香りが漂う狭い路地を2、3回まがれば、そこがドクの自宅だ。こじんまりとした、どこにでもあるような家だが、愛すべき我が家である。
ドクは木製のドアの前で、身だしなみを整え始めた。どうやら、一週間ぶりにあう妻に、最低限の気を使っているらしい。襟を正し、靴紐を直し、髪を撫でつける。
しかし、何ともならないものがある。
匂いだ。
くんくんと、自分の体を嗅いでみると、いやはや、とんでもない匂いがする。これなら、竜の糞の方がまだマシなくらいだ。ドクは浴場に寄ってこなかった事を後悔しつつ、手荷物から手ぬぐいを取り出す。
この手ぬぐいも、実は訓練中に使用しており、お世辞にも清潔と呼べる代物ではない。しかし、ドクは自身の匂いよりはマシだと判断したらしい。おもむろに、ソイツで体を拭き始めた。
この時間、路地に人影は殆どない。だが、さすがに屋外で裸になるわけにはいかず、服の隙間から手ぬぐいを突っ込む。モゾモゾと、時間をかけて身体を拭っていると――。
ガチャ。
玄関の扉が開いた。
そこに立っていたのは、女性。化粧っ気がなく、華やかな感じはしないものの、野花のような愛らしさがある。穏やかさと、快活さが同居しているような、独特の雰囲気が特徴的だ。
ドクの妻、リンダである。
「……お、おかえりなさい……取り込み中だったかしら?」
驚いた顔をするリンダ。それもそうだ、一週間も帰ってこなかった夫が、家にも入らず、玄関先で半裸になっているのだ。混乱しない方がおかしい。
「…………体をね……拭こうかと……」
ドクもバツが悪い。整えた服も、乱れてしまっている。
「……なぜに?」
「とんでもない匂いが、体のいたるところから……」
「家に入って、浴室に行けばいいのでは?」
「……いや、それだとリンダさんに嫌われるかなぁと……」
「何をいまさら」
リンダは、おもむろにドクの手を引いて、身体を引き寄せる。
「あなた汗、臭いどころか、味まで知っているんだけど?」
並ぶと、頭一つ分違う二人。自然と、リンダが上目遣いになる。ドクはバツの悪さも重なって、思わず顔を背ける。
「それに……」
「なんでしょうか?」
「夫の帰りを待つ妻に、一刻も早く顔を見せてあげようとは思わなかったのかな?」
「……………考えが及ばず……」
「まったく……」
強く抱きしめられるドク。
顔をうずめるリンダ。
「でも……」
「はい?」
「ご飯の前に、お風呂に入って」
「あ、はい……」
思わず離れるドク。
リンダもそれを引き留めようとはしなかった。
汗は生乾きが一番臭い――。