ある日、不思議な事が起こった
ある日、私は死んだ。
そのようになったと告げたのは、見知らぬ男性だった。
最初は意味不明の一言であったが……男が手を振ると共に自分が死ぬまでの光景が突如として頭の中で再生され、その圧倒的なリアリティに思わず頬を抓り、痛みを感じ。
私は様々な質問と意見、反論を重ね、それを否定しようとしたが……最後には納得せざるを得なくなり、俯いたまま金魚の様に口を開閉させることしかできなくなるまでに至った。
認めさせられたのだ。
自分が理不尽に死んだのだと。
「私が、死んだ」
「そうだ。あちら側で言うところの、『心臓突然死』というやつでな」
「そんな……何とかならないんですか?」
生きている間は実感の乏しかった生への渇望が、胸の内から湧き上がって止まらない。
しかし男は無情にも首を振り、それはできないと言った。
「その"何とか"というのが、元通りに生き返らせて欲しいという話であるのならばそれは不可能だ。例外を除いて、死んだ人間を生き返らせるわけにはいかない」
「そんな……では、何故私は今ここにいるのです? もしや、何らかの救いがあるのではっ!?」
「そんなものは無い、お前という個人は死ぬ。その運命は捻じ曲げられない――だが、お前がただ何も残さず消え失せるしかないかといえば、それもまた違う」
「それはどういう……」
男性は、両方の手の人差し指を一本ずつ上に立てると、私に握った指を向けて言った。
「お前には二つの選択肢がある」
「……聞かせてもらえますか?」
男性は右の指に視線を向けて言う。
「まず一つは、お前という存在をこのまま消滅させるという、通常の選択肢」
次に男性は、左の指に同じく視線を向けて言う。
「そしてもう一つは、お前を消滅させつつも、記憶を引き継がせて別の世界に新しく誕生させるという選択肢」
「――さぁ、どちらかを選べ」
私は暫し考え、言葉を紡ぐ。
「右の方はともかくとして……左の方はつまり、物語か何かでいうところの異世界転生ということですか?」
「それに近い」
「それはつまり……」
私は心の中で歓声を上げた。
絶望が罅をいれて崩れていくように、未来が明るくなっていくかのような錯覚さえ覚えた。
「つまりそれは……生き返れるということなのでは」
「違う。先程も言った通り、『お前』は死ぬ。そして死人は生き返らない」
「……え?」
冷水を浴びせられたかのように嬉しい気持ちが止まった。
男性はゆっくりと、語りかけるような口調で告げる。
「記憶を引き継ぐといったな? だが、お前は飽く迄"生まれ変わる"……つまり、『別人』、或いは他人になるのだ。それは"今私と対話しているお前"ではなくなり、ただ"転生後のお前"という姿形が似ているだけの他人になる。だから仮に、お前が"生まれ変わった"とした場合、そのお前は、"今のお前"を自分とは別人として認識することになる。すなわち……生き返りではない。決して」
「……」
「お前は救われない。お前は生き返らない。お前は死ぬ――いや、この言い方が悪いか……お前は、既に"死んだ"。ただ、お前の知らない誰かに、お前が生きていたという証のような何かを無理矢理刻み込めるというだけに過ぎない」
「……」
「さぁ、返答しろ。消滅か、転生か」
抑揚の無い声で、まるでこちらの都合等知ったことではないとでも言うように、男は言い放つ。
目の前の存在が神か天使か悪魔かは、分からない。
しかし、とにかく『私』という人間は既に終わった存在で、今こうして自意識を持ち会話できている時点で奇跡のようなものなのだろうということは何となく理解できた。
消滅か、転生か。
どちらにしても『私』は救われないと目の前の男は言った。
納得はできないが、『私』が何も残さずにただ消えるよりは、何かを残して消えることができるだけ慈悲があるのかもしれないと結論づけられた。
私は言う。
「私は……左を選びます」
「そうか」
男が両手を下ろすと共に、私は目の前がぐらぐらと揺れていく様な感覚を覚えた。
一瞬地面が揺れているのかと思ったが、どうやらそうではなく私の足元が覚束なくなっているらしい。
やがて立っていられなくなり、身体をゆっくりと横たえた。
何もかもが曖昧になっていく。
目はもう見えず、熱くも冷たくもない。
痛みもなく、私はこの喪失感こそが無というものであると実感することができていた。
そうして何もかもが知覚できなくなる直前に、私はほぼ無意味な物体と化した耳に音を拾った。
「さらばだ、小さき者よ。お前は死に……そして新しき何者かが生まれるだろう」
私は消えた。
私は死んだ。