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第一章 迷宮の眠り姫

トレドミン、ワイパックス、ドグマチール、セロクエル、ジプレキサ、マイスリー、サイレース、ベンザリン、べゲタミンA,西園寺礼子が一日に飲む薬である。

 きっかけは些細なことだった。朝目が覚めたとき、いつものように寝室の天井を眺めながら、礼子はこれから始まる一日が、とてつもなく激しいものに感じられた。ベッドから起きて、顔を洗い、身支度をし、学校へ行く、そんな当たり前のことが、どうにも苦痛に感じられたのだ。

 ただの甘えじゃないの?

 礼子のそんな様子を見た家族ははじめそう思った。

 だが礼子は違った。授業の予習復習は欠かさなかったし、高一の時には生徒会委員も勤め、担任の教師からも信頼される優等生だった。成績だって決して悪くなかった。それなのに、一生のうちで一番輝く十七歳という年齢にあって、礼子は躍動する自分の身体の手足に文鎮を乗せられたように、これまで当たり前にやってきたことが当たり前に出来なくなっていた。

 礼子のそんな様子を見た母親は、躊躇した挙句、都内の某病院の精神科に受診してみることを進めた。

 静かな部屋だった。

 時折遠くに呼び出しの放送が聞こえる以外は、音の少ない部屋だった。周りを見ても、外科のように松葉杖や包帯を伴っていなかったので、誰がどんな病状なのか分からなかった。そんな待合室で待つこと一時間。礼子にとって生まれて初めての診察が始まった。

 木の絵を描くように言われた。真っ白な紙と鉛筆を渡されて、礼子はどんな絵を描いたらよいのか迷った。紙の上を鉛筆がなぞること十分。礼子にとってベストの、木の絵が完成した。その後、問診となった。

 あなたは今辛い、とても苦しい状況にある、けれどもその辛さに必死で耐えて、それを乗り越えようとしている、一生懸命になっている、そんな状況が伝わってくる絵ですね。

 主治医はそういった。そしてカルテを取りながら、夜は良く眠れるか、食事はきちんととっているか、対人関係で不安は無いか、家族とはうまくやっているか、等を聞かれた。

 始め礼子は、生まれ持った真面目さゆえに、それらの質問にいちいち必死になった。

 だがいくらもがいたところで、病気は彼女の身体にがっしりと根を張ってしまっていた。なのでどの答えも、彼女の病状を雄弁に物語るものとなった。そして約三十分の診察の後、彼女に診断が下された。

 統合失調症。礼子が終生侵される病気の名前が告げられた。この病気は治ることがない。運がよければ「寛解」と呼ばれる小康状態になれる。しかし薬は一生のみ続けなければならないという。十七歳という年齢の礼子にとって、それは重い碇のように、若さゆえにはじける心を押さえつけた。

 彼女にはもう青春という大洋へ漕ぎ出すことも、恋人という太陽に照らされることもなかった。全ては処方箋の中に、九種類の薬のなかに封じ込められた。

 病状は悪化していた。もともと神経が敏感な上に、友達づきあいが晩生だった。彼女はまもなく学校で孤立し、友達もいなくなった。

 昼休み、礼子はよく図書室に行った。そこでなら、さして周囲に気遣うことも無く、のんびり出来たのである。

 薬を処方されたにもかかわらず、不眠が彼女を襲った。礼子の眠りは、烏のような悪夢に襲われてその柱を折られた。死神の大鎌が、眠りの上に振り上げられ、容赦なくそれを切り裂いた。礼子は次第に弱って、止まりかけのオルゴールのように、生活という旋律のトーンを乱していった。

 礼子は電車に乗れなくなった。

 あれほど好きだった朝の車窓からの眺めが、今では彼女の心を不快にする要因でしかなかった。そして何を見ても、電車の外の風景も、乗っている乗客も、朝日が差し込む車内も、全てが重苦しく、吐き気を催すものになってしまった。

 こうして礼子は不登校児となった。日がな一日、自分の部屋で、睡眠薬を飲みながら、眠っていた。しかし眠りは相変わらず浅く、礼子の身体の疲れを十分に取るものではなかった。

 こうして礼子は、二週間に一度の診察へも行けなくなった。

 死ぬことばかり考える日々が続いた。その挙句、彼女は自殺未遂をした。

 浴槽で、左の手首をカッターナイフで切った。一回目は傷が浅すぎた。二回目の時、これまで自分を支えてくれた家族のことを考えた。三回目、冷たいナイフの刃の感触がありありと感じられた。血が出た。赤い噴水のような血が、浴槽へ流れ込んだ。

 母の帰宅がもう少しでも遅かったら間に合わなかったろう。仕事から帰った母は、浴槽に倒れている娘を発見し、百十九番通報した。

 失血量がさほどでなかったので、二本の点滴でなんとかなった。

 入院を検討されたらどうでしょうか。

 こんな主治医の言葉を母親が聞くようになったのは、一年もまもなく終りに近づく初秋の頃だった。

 武蔵野に、あるんです。精神病専門の病院が。そこでじっくりと療養されると良い。

 聖セシリア病院。遡ること百二十年。明治の中ごろに立てられたサンタ・ディーヴァ診療所をその淵源とする。病床数は日本有数。清潔な病室と整った医療環境。日本でも五指に入る名門病院である。

 父と母は相談した挙句、学校は一時休学にし、礼子をそこへ入院させることに決めた。

 礼子は特に抵抗はしなかった。というより、精神の骨が折れる限界に来ていた。

 不眠、食欲の減退、どれも仮借なく礼子に襲い掛かり、その心臓をえぐった。

 入院って、どれくらい?三ヶ月?それとも半年?

 行きの車の中で、礼子は父親に訊いた。父親は言った。

 今は先のことは考えずに、目の前のことをこなすようにしよう、と。

 礼子は窓の外に見える風景が次第にその顔色を変えていくのを見た。街が終り、道は上り坂になり、林の中の道へと入った。

 車に揺られること一時間。とうとう車は病院の門に着いた。

 病院の門はバッキンガム宮殿を思わせる、黒塗りの格子に金の装飾で、百合の花と葉の文様があしらわれていた。門の両側には電灯を持った門柱が、晩秋の灰色の空高くそびえていた。

 門のところにある守衛所から紺色の服を着た門番がやって来た。彼は車の窓を開けた父親と、焼き栗のような口調で二言三言交わすと、門を開けた。

 両側に林がある道を走ること一分ほど、まもなく車は、聖セシリア病院へと着いた。

 お城みたい。

 病院を初めて見たときの礼子の一言はこれだった。

 目の前にある病院の正門は、乾いた大理石の柱に青磁色に塗られた金属製の門扉が開け放たれ、両側にある小門が、通用門として使われているようだった。門の上には鳥居のように、青外波の浮き彫りに旭日のレリーフがあしらわれた鉄板が渡されていた。

 車は病院内へと入ると、母と礼子を下ろした。

 晩秋の武蔵野の風は重たい。鉛の服を着た巨人の歩みのように荘重なその風は、この聖セシリア病院内でも吹いていた。それは港に舞い飛ぶ海鳥のように縦横に吹き、礼子の前髪を揺すった。病院の正面は、さながら祭壇のような威容を誇って、一階部分にはゴシック様式のアーチが連なり、六本のコリント式の装飾を施された柱が、ファサードを構成していた。両脇には楡の古木が、供えられた生花のように佇んでいる。病院正面の重箱のような建物からは、左右に翼楼が伸びていた。それは石英のようなガラス窓を連ねて、正面の広場を両手で覆うように取り囲んでいた。あの窓の数だけ病人がいる。あの窓の数だけ人生がある。そう考えると、これからまもなく自分がなろうとしている、「入院患者」というものに一抹の恐怖感を覚えた。

 車を駐車していた父が戻ってきた。

「これが病院だよ」

 そう言って父は、目の前に聳え立つ、スクラッチタイルで飾られた建物を指差した。

「行きましょう。予約をとってあるのよ」

 母が言った。

礼子は黙って頷いた。

そうして礼子達は、入って行った。それが荘厳な迷宮の入り口だとは知らずに。


10日間が過ぎ去った。

 礼子が入院してから、少しは病院の生活にも慣れた。

 ただ病院食だけは苦手だった。初めてそれを食べたときのことを、礼子は一生忘れないだろう。食事は朝の八時に、各病室へ配られる。礼子がいた個室へも、それが届けられた。

 礼子ははじめ病院食のおかずを見た。見たところ、にんじんと大根の細切りの和え物と、焼き魚がついていて、それと白米、そして青い野菜の葉と卵が浮いている正体不明の汁物が出されている。

 礼子はそのうち、まずにんじんと大根の和え物を口に入れた。しかし、違うのだ。何が違うかと言うと、その見た目と実際の味である。目の前にあるのは確かににんじんと大根の和え物なのだが、およそ舌の上に広がる食感は、実際のそれとは正反対である。まず口に入れた瞬間、ザワっとした感触が感じられる。だが、味がない。と言うより、まるでプラモデルを食べているようだ。とき卵のスープも飲んではみたが、およそ卵の味とは程遠い、塩水を飲んでいる気持ちだった。白米もまずく、洗剤で漂白されたかのようだった。こんな具合だったから、礼子は三度の食事が苦痛だった。だがしかし、毎回おかずを残すわけには行かず、礼子は何かの作業のように、淡々とそれらを口に運んだ。そうしていればただ単調に、毎日が過ぎていったからである。

 朝布団の中で目が覚めると、礼子は施錠された窓ガラスのカーテンを開けて、外の風景を眺める。

 礼子が入院している第三病棟からは、眼下に病院の中庭が見える。病室は二階だったので、庭の様子は手に取るようにわかる。

 院長の方針で、美しく整備された中庭は今はかれた芝草に覆われ、花もない寂しい庭だったが、春には植えられた四本の桜の樹が美しく花開き、散歩をする患者で賑わうという。

 今はただ、晩秋のうら寂しい空気の中、枯れた芝草と、アンテナのような桜の樹の枝が、寒空の下枝を広げている。

 礼子は時折、花のない中庭へ散歩に出ることがある。入院していたのは閉鎖病棟だったので、入り口のドアは施錠され、どこへ行くにも看護士の付き添いが必要である。

 礼子は車椅子にのり、看護士に押されながら、日がな一日、枯れた中庭で過ごすのだった。花のない庭は、礼子にとってむしろ心地よかった。今の礼子にとって、春の喜びや生命の躍動はいささか刺激が強すぎたからである。

「これでいいのよ」

 礼子は時々こう言った。

 寒空も、北風も、薬臭が混じった病院の廊下も、礼子にとって心地よかった。

 朝起きて、カーテンを開け、食事をし、読書をする。昼休みから午後にかけて病院の中庭を散歩し、夕方には再び病室へ帰る。夕食の後、ごく短い自由時間があり、そして消灯。

 毎日が時計のように規則的だった。そんな病院の生活の中で、礼子には二人の親友が出来た。

 一人は須藤遙。青山学院付属高校在籍中の女子高生である。礼子とは年も近いこの娘とは、中庭の散歩の時に知り合った。

 彼女の趣味は詩を書くことで、いつも紺色の革製の表紙で閉じられた聖書ほどの大きさのメモ帳を手に、中庭の枯れ草や、桜の樹を見ながら、手を動かして詩作に励んでいた。

 栗色の髪をセミロングに伸ばし、髪の穂先は白い首筋を覗かせていた。ビー玉のような瞳を輝かせ、小さな鼻、彫刻のような謙虚な口元に笑みを浮かべ、緑色のパジャマを着たこの娘は、聖セシリア病院内で恐らく一番元気なほうだろう。だが手首にはそれを経験したものだけがわかるあの傷跡が、ありありと残っていた。白い皮膚の上、透けた静脈の上に苦悶の轍を残すその傷跡は、彼女がリストカッターであることを物語っていた。

 初めて合ったとき、彼女は中庭の枯れた草木を眺め、ノートに書き留めていた。

 もともと病室の窓から、毎日のように中庭に現れるこの娘のことを見ていた礼子は、ある昼下がり、娘が中庭にいるのを見て、すぐに散歩をしたい旨を看護士に告げた。

 こうしてある晩秋の日の午後、二人の娘は互いに初めて会うこととなった。

「あなたいつもここにいるわね。何をしているの」

 こんな礼子の問いに、娘は答えた。

 ここの子達と話をしているの。見た目は枯れていて、殺風景だけど、土の中にある身体は生きているのよ。この桜の樹も、ちゃんと話しかけてくれる」

 そう言って少女は、冬枯れた桜の樹を指差して微笑んだ。

「詩、見せてくれない?」

 礼子がこういうと、少女は照れながら、手にしたノートを礼子に見せた。


 さくらのき

 今日も枯れてる桜の樹。

 カラスが飛んでる空の下

 虚空に枝をのばしてる

 そうして春を待っている。

 その枝に咲く花々が

 陽に輝いて咲き誇る


「これは冬の巻よ」

 娘はそう言うと、中庭にある四本の桜の樹を見てこう言った。

「春には春の巻があるの」

 そう言って、なにやら楽しそうに中庭を眺めるのだった。

 もう一人は看護士の杉崎聡子である。

 彼女の入院が決まってから、今日のこの日まで、彼女の面倒を見てくれている存在である。

 病院に来て最初の三日間は、夜満足に眠ることも出来なかった。そんな時、「追眠」といって、

睡眠薬を追加投与することがあった。夜の二時三時に、聡子は何の嫌味もなく、睡眠薬を持ってナースセンターからやって来た。そうしてマイスリーやサイレースを渡しながら、「じゃあおやすみなさい」と、夜通しの看護の疲れも見せずに笑顔で言っていた。

 医師による診察では、本当の苦しさを言うことも出来ず、相変わらず苦しんでいた礼子だが、聡子にだけは別だった。彼女には正直に、むしろ医師に対してよりも正確に、彼女の気持ちを打ち明けた。

 入院が決まって寂しいこと。病気の成り行きが心配なこと。三度三度の食事がまずいこと。聡子になら、礼子は何のためらいもなく話せるのだった。

「礼子さんは人見知りがはげしいわね」

 恐らくは二十代であろうこの看護士は、礼子にとって姉のような存在だった。その人のよさそうな笑顔になら、何でも打ち明けられそうな気がしていた。

 とまれ、施錠された扉の中の毎日が続き、完全に病院のペースにあった生活をしているうちに、礼子はかすかに、しかし着実に自分の折れかけた精神の骨が、元通りしっかりと戻るのを感じていた。

 そんなある日のことである。秋が終り、季節は初冬に移ろうとしていたその矢先、礼子には思いがけない来客があった。

 高校の同級生が、彼女の見舞いに訪れたのだ。

 彼の名は御手洗嘉一郎。礼子とは小学校の頃からの幼馴染である。二人はよく、近所にあった八雲神社の境内で遊んだ。春には草花をとり、夏にはセミをとり、秋には栗拾い、冬には焚き火をして遊んだ。礼子の中で、金色の額縁の中に納められている幼年時代をともに過ごした仲だった。中学の時にいったん別れたが、高校の時再会し、愛も変わらず幼年時代のように、一緒にCD店めぐりをしたり、夏休みには一緒に京都へ旅行したこともある。

 彼は生来の音楽好きで、五歳の時に、幼稚園の情操教育の時間に聞いた「白鳥の湖」がきっかけで、無類のクラシックファンになったのだ。

 小学校の時、父の所有するレコードで世界の名曲の類は一通り聞きつくし、高校ではオペラにはまっていた。好きな作曲家はヴェルディで、「ドン・カルロ」に出てくるヴェールの歌や、「シモン・ボッカネグラ」にでてくる合唱曲の魅力を熱く語っていた。

 レイちゃんも聴きなよ。

 そういっては二枚組みや三枚組みになっているCDの箱を礼子の前に差し出し、しきりに聴くことを進めるのだった。

 雨もよいの午後、彼はやって来た。


 白百合の花束を手に、彼はやって来た。杉崎に来客がある旨を告げられた礼子は、彼の姿を見るなり、こう叫んだ。

「かいっちゃん?」

「そうだよ。レイちゃん。今日はお見舞いに来たんだ」

「でもどうやって?まさか?」

「そう、自転車でね」

 そう言って御手洗は、礼子の寝ているベッドの枕元にやってくると、その脇にあるデスクの上にそれを置いた。

 礼子は思った。聖セシリア病院は精神科の専門病院だ。隠しておいたはずなのに、なぜ分かったのか。自分が精神疾患で入院していることを知ったら、御手洗は何と言うだろう。

「お母さんに訊いたんだ」

 御手洗は言った。琥珀色の瞳、小さく尖った鼻、柔らかそうな黒い髪。今の礼子にとって御手洗は、かつて自分が暮らしていたあの平和な日常の象徴だった。太陽が輝き、声は踊る、あの楽しく屈託の無い生活の申し子だった。入院して一ヶ月、礼子は忘れかけていた健常者の面影を、目の前の一青年の姿に見出していた。しかし礼子は、今の自分にはそれがいささか不似合いなような気持ちがしていた。病院の寝台の上にあって、礼子は骨を抜かれた犬のように、柔弱な自分の姿を恥じた。

「かいっちゃん、悪いんだけど」

 礼子は言った。

「今の私は、昔の私とは違うの」

 そう言って礼子は、枕元に置かれた一つの銀製の写真立てを見つめた。礼子が家から持ってきたその写真立ての中には、井戸水のように瑞々しい、入学したての頃の風景が写されていた。その写真の中には、礼子を中心に、仲の良かったクラスメートたちの姿が踊っていた。御手洗もその中にいる。だが今は違う。入院の真相を隠して、突然休学した礼子にとって、親友たちの存在は褐色の記憶となった。その胸元に、その肩に、かけられている手は、今は冷たく、粉雪の如くもろい想い出となって、二度とは帰らない青春の破片となっていた。携帯の番号も変えた。入院している理由も言わない。そうすることで礼子は、幸せな十七歳と言う年齢の真っ只中にあって、花咲く青春の交わりに終止符を打ったのだった。礼子にはもはや太陽も、親友も、焼けるように熱い日常も、忘却の彼方へと去ってゆくのみだった。そんな中、御手洗だけは、ただ一人、その青春の分け前を与えるかのように、礼子の前にいた。

「誰にでも苦しい時はあるよ」

 全てを知っているこの青年は、この一言を彼女に言った。

「かいっちゃん、私、もう隠してもしょうがないから言うけど、統合失調症なの。この病気は治らないのよ。一生薬を飲み続けなければならないの。だからかいっちゃん、私のことは忘れて」

「そんな言葉はレイちゃんに似合わないよ」

 御手洗は言った。そうして幼年時代と変わらぬ笑顔で、オカリナのような無垢な声で、こう囁いた。

「苦しいときには助け合う、それが人間の生き方だろう?」

 礼子は言葉も無かった。病気の真相を知られた恥よりも、苦しんでいることを知られた屈辱よりも、ただ正しい人の穏やかに言葉に、礼子は胸が熱くなった。潮のようにざわめく心は音を立てて、礼子の瞳にどこまでも澄んだ波を打ち上げた。幾条もの光が、頬を流れた。聖者でもない、偉人でもない、ただ一人の正しい者によって、礼子は救いの光の中に微笑んだ。

「かいっちゃん」

 礼子はそう言って、御手洗の手を握った。子羊を守る牧童のように優しい手が、礼子を包んだ。御手洗の胸の中で、礼子は泣いた。とめどなく泣いた。後から後から溢れる涙がとまらなかった。

「僕たちはいつも一緒だよ」

 他に言葉は要らなかった。一人の青年の抱擁が、一人の少女を救った。

「ごめん、泣いたりして」

 礼子は言った。ひとしきり涙が収まると、礼子は改めて、御手洗に来院の礼を述べた。

「それにしても大きな病院だよなあ。僕、ここへ来るまでいくつ階段を登ったか、いくつ廊下を歩いたか、いくつ部屋を通り過ぎたか覚えてないよ」

「この病院は日本有数の規模なの」

 そう言って礼子は、窓の外を眺めた。病棟で囲まれた中庭には、いつも通り枯れた桜の樹が立っていた。その木立の向こうに見える無数の白い窓が、ガーゼのような霧の向こうに並んでいた。雨は一息ついた模様だった。ところどころから聞こえる院内放送の声が、霧の中に滲みこんでいった。

「ねえレイちゃん、ここは第三病棟だよね?僕、病院の案内所で、一体この病院がいくつの病棟を持っているか調べたんだ。そしたらなんと、十だって。信じられるかい?この病棟と同じだけの病棟があと九つもあるなんて」

 こんな御手洗の言葉を受けて、礼子は言った。

「ラビリンスね」と。

 御手洗と礼子が通うのは、都立北嶺高校。都内きっての進学校である。進学先もレベルが高く、東大をはじめ、主要国公立大学へ数百名が進学する。礼子もそんなサラブレッドの中の一人だった。

 負けないからね。

 模試の前にはよくこう言って、二人で点数、判定を競争した。礼子が目指すのは御茶ノ水女子大。御手洗が目指すのは東京大学文科三類。志望校は違えども、二人は良きライバルとして、互いに己を磨いていた。

 そんな二人の最後の思い出は、秋の文化祭だった。

 礼子たちのクラスでは、喫茶店をやった。これにはおまけがついていた。教室をクラスメートたちの撮った写真で飾り、閲覧してもらうという企画だった。礼子と御手洗は二人で土日を利用し、鎌倉へ行った。その時に稲村ガ崎で、由比カ浜で、鶴岡八幡宮で、撮った写真を飾った。

「眠り姫?」

 礼子が訊いた。御手洗は真面目な顔で頷いた。

「この病院にはね、眠り姫がいるんだよ。交通事故にあって、重傷を負い、植物状態になっている少女がいるって噂なんだ」

 そして御手洗は声のトーンをグッと押さえて、こう囁いた。

「その少女にはね、不思議な力がある。予言だよ。未来を予言出来るんだ。眠りながら、その少女はしゃべるんだ。詩のような言葉を。それが現実に起きた事件と照らし合わせてみると、信じがたい話だけれど、見事に一致しているんだそうだ。この病院の中で働いている研究者の中には、精神医学の権威がいて、彼女の症状を研究して論文を書いているらしい。まあ、あくまで噂だけどね」

 それを聞くと礼子は、この夥しい寝台の群れの中に、信じがたい傑物が潜んでいるような気がして、かすかに心が躍った。御手洗は言った。

「聖セシリア病院は有名だから、いろんな噂が僕たちの間に流れてる。これは半分冗談だろうけど、レイちゃん、ここの病院長って、誰だか知ってる?」

 御手洗にそう聞かれて、礼子は言った。

「院長は確か、小野田清吾。精神病理学の世界的権威で、明治から続くこの病院の三代目の当主よ」

「その院長がね」

 御手洗は言った。

「戸籍が無いらしいんだ。理由はよく分からないけど、今の日本で、彼の存在を証明するものは無い。なんでも明治の始め頃、下級士族だった先祖が、版籍奉還のどさくさ紛れに、役所に証明の書類を送らなかったって。だから小野田院長は存在しないんだ」

「信じられない話だわ」

 礼子は言った。

「だって医者って、社会的信用があってこそのものでしょう?ましてこんなに大きな病院の院長が、戸籍が無いなんて、信じられないわ」

「あくまで噂だけどね。」

 御手洗は言った。

 二人の再会は、面会時間の終了を告げる院内放送によって終りを告げられた。御手洗は笑顔で別れを言うと、きっとまた来るからといって、礼子の手を握り締めた。

「じゃレイちゃん、またね」

 そう言って御手洗は、手を振りながら、鍵のかかる扉の向こうへと帰っていった。

 一袋の砂糖のような疲れが、礼子の肩にかかっていた。今夜は良く眠れそうだ。


病院の地図が欲しい?

杉崎聡子はそう言うと、押していた車椅子を一瞬止めた。

ある初冬の日の午後、二人は病院の中庭を散歩していた。その時に、礼子は杉崎に、病院の地図が欲しい旨を伝えたのだった。

「そんなもの手に入れてどうするの?」

 こう尋ねる杉崎に、礼子は言った。

「眠り姫がいる病室を突き止めたいの」

「眠り姫?」

 そう言って杉崎は、半ば驚いた顔つきで礼子を眺めた。車椅子に乗りながら、礼子は続けた。

「そう、眠り姫よ。杉崎さんも知ってるんでしょう?未来を予言するその子のことを」

 礼子がこう言うと、杉崎は明らかに作り笑いと分かる顔つきで、こう言った。

「この病院にはいろんな噂が流れているけど、それは嘘よ。私もこの第三病棟が管轄だから病院全体のことは分からないけれど、そんな子がいるという話は聞かないわ」

「でも私聞いたの。友達の御手洗に。この病院には眠り姫がいるって」

「そんなことよりね」

 杉崎が言った。

「今はあなたの病気を少しでも軽くすることが大事よ。病状が良くなれば、一般の病棟へ移れるわ。それに今友達って言ったけど、本当にそうかしら。礼子さん。あなたぐらいの年頃の子だとね。もっと違う意味の関係なんじゃないのかしら」

 杉崎にそう言われて、礼子は一瞬自分の胸がのぼせ上がっている思いがした。その血液が、その声が、力を得て自然と速く流れ、大きくなっていくのを感じた。次の瞬間、礼子は自分の頭がふらつき、頬が赤くなるのを感じた。

「違う!そんなんじゃないわ」

 礼子は言った。

「さあ、それは分からないわよ」

 そう言って杉崎は、時折見せる少し意地の悪そうな顔をした。口元に猫のような小さな微笑を浮かべて、礼子を眺めた。礼子は車椅子の車輪を自分の手で回し、中庭の芝生の上に乗り上げると、次の瞬間、左手を止め、右手のみで車輪を回し、杉崎に真正面から向かい合った。

「杉崎さんの意地悪」

 こういわれて杉崎は笑った。修道女のような静かな笑いだった。

「それはそうと、病院の地図とは難しいわね。実は私も、この病院の全貌は知らないの。五年間ここで働いているけど、院長室はおろか、あなたの言う眠り姫がいるという特別病棟も知らないわ」

 そう言うと杉崎は、中庭から見える、並んだ白い病室の窓の群れを眺めた。

「あの病棟の向こう、山の中に立っているこの病院の全容は、包帯でくるまれた手のよう不透明な膜で覆われているわ。それにね礼子さん、これは私が思うんだけど、私たちはこれより先に進んではいけないような気がするの。なぜって、それを知ったら、なんだかとても恐ろしいことが起こりそうな気がするわ。人には見てはならない物がある。太陽を直視してはいけないように、見てはいけない太陽があると思うの。あなたの好奇心は歳相応に分かるけど、あまり深く気にしないほうがいいわ。それに何度も言うけど、その噂は嘘よ」

「でも杉崎さんは、自分はこの病院の全貌は知らないって言ったわ」

 礼子はそう言うと、半ば挑戦的な目で、杉崎を見つめた。

「杉崎さんの知らない部分に、この病院の正体をつかむ手がかりがあるような気がするわ。ねえお願い、地図を頂戴」

 そう言われて杉崎は、一瞬水をかけたように真面目な目つきをして礼子を眺めると、次の瞬間、こう言った。

「分かったわ。でも一つ約束して欲しいことがあるの。もちろんあなたの行く先には必ず私がついていくことになるだろうけど、無理はしないって。くれぐれも無茶はしないって約束してちょうだい。そうすれば私、なんとかして病院の地図を手に入れてみるわ」

 二人がそこまで話し終えたとき、例の少女が、グレーのチョッキを羽織って、また中庭に現れた。

「あら、こんにちは。詩人さん。きょうはどんな詩を書くのかしら」

 礼子がこう言うと、少女は照れくさそうに笑い、いつも手にしているノートを眺めた。

「冬が来たから、北風の歌を書くの。とっても綺麗な詩よ。私、冬が好き。他の人は夏だとか、春が好きと言う人が多いけれど、私は遠くにカラスの声が聞こえる冬が好き。風がどこまでも澄んで、空気が重たくなる冬が好き。だから私、これからが楽しみなの。だっていろんな冬の顔が見られるんだもの」

 そう言って娘は、その場にしゃがみこむと、その右手で、枯れた芝草をなでた。

「土の中は命の氷室よ。地上の木は枯れて、花は絶えるけれど、土の中の身体は生きている。こうして土を触っていると、植物たちの声が伝わってくるわ」

 そう言われて礼子は、目の前にいる少女が、純真な真心の持ち主であろうことを感じた。

「じゃあ遙さん、冬の歌を聞かせて」

 こう言われると娘は、いつものノートを広げ、鉛筆を手に、詩を書いた。約十分間、娘はそうして鉛筆を動かしながら、時折口元に笑みを浮かべて、作品と向き合っていた。そうして後、礼子にノートを渡した。

 北風の歌

 遠い国からやってくる。凍える冬の軍勢が。遠い国からやってくる。全てを殺すあの風が。通り過ぎる時手を振れば、優しい顔で微笑んだ。あの北風はどこへ行く。町と林と森の中、今日も北風吹いてゆく。その懐に抱かれる、一人の少女の思い出は、春を知ることもなく、冬の最中で息絶える。誰も彼女を救えない。たった一人の少女の死、それが呼ぶのは魔の手だと、ずっと後になり人は知る。ナイフのような北風に、無数の悪魔が隠れてる。通り過ぎてく北の風、黄昏時にやってくる、捧げられるは少女の血。全てを覆う暗黒が、聖セシリアを飲み込んだ。


 以上のごとき詩を読んで、礼子はなにかしら危ういものを感じた。目の前に見える枯れた桜の木と芝草、病室の窓。それらをみて書いたはずの詩なのに、およそ風景の面影を感じさせないその詩に礼子は当惑した。

「ちょっと変わった詩ね」

 礼子は言った。

「先生に教えてもらったとおりのことよ。私、嘘は書かないわ」

「先生?」

 礼子が訊いた。

「先生って誰のこと?」

「それは秘密」

娘はそう言って、ノートを閉じると、病室へと戻っていった。娘の後姿を見て、礼子はなにやら不吉なものを感じた。看護士の杉崎も同じようだった。

「ねえ杉崎さん。今の子が言った先生って誰のこと?病院に詩を教える先生なんているの?」

「分からないわ」

 杉崎が言った。そうして冬枯れた中庭を時折通り過ぎる患者たちを眺めていた。

 二人は知らなかった。聖セシリア病院の底に沈殿している謎を。そしてまもなく二人は、ある事件を目の当たりにすることになった。開放病棟の一室で、それは起きた。礼子が蜂蜜のような眠りの中にいる時、全ての始まりとなる事件の幕が上がろうとしていようとは、誰が考えたことだろう。


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