〈八〉テキストエッジ・エンカウンター
「このコーヒーって飲み物はどうも好きになれねえなァ」
ゴルドはカップに口を付けた後で眉を寄せた。ヒュウが苦笑する。
「そうかい? 何なら、紅茶もあるけど」
「いや、構わねぇよ。それに心底嫌いってわけじゃァないんだ。俺には良さが理解できない、ってだけのことさ」
「……だったら飲むなよ」
俺はあさっての方向を向きながら呟いた。我々は二人ともカウンター席に腰掛けていたが、俺とゴルドの間には一つ分の空席があった。
「せっかくの奢りなんだ、飲まないわけにはいかないだろう。人情の分からない奴だなァ、おまえは」
ゴルドが皮肉っぽく口の端を上げる。俺はじとりと、隣のさらに隣の席を睨みつける。
「ゴルド、てめえがその席に着いてから、ヒュウは一言たりとも奢りだなんて口にしちゃいないんだが」
「くく、俺だって何も言っちゃいねえぜ。目の前に勝手にこのコーヒーが出てきたんだ」
「まったく……もう僕の奢りでいいから、ソードもゴルドもくだらない口論はやめなよ。せっかく久々にこの三人が揃ったんじゃないか」
俺は金髪から視線を外し、ヒュウに提案する。
「なあ、ヒュウ。せっかくだし、これからは三人揃ったら一人殺すことにしないか」
「はは、そりゃァいいや。で、誰を殺すんだ? 協力するぜ」
「ソード、何が『せっかく』なのか分からない上に、その提案は被害が外部に広がりそうだから撤回した方がいい」
苛つく俺、挑発するゴルド、それを冷徹に諫めるヒュウ。どうやらこの関係性は傭兵組合が潰れた程度では変化しないようだ。俺は辟易しつつも、しかめっ面で問いかける。
「だいたいおまえ、何しに来たんだよ。まさか飲みたくもない珈琲を飲みにきたわけじゃないだろ」
ゴルドは涼しい顔で珈琲を一口啜り、そして不敵に微笑む。
「おいおい、口には気を付けろよ、ソード。せっかくおまえに良い話を持ってきてやったんだからな」
その話にまず先に食いついたのは、俺ではなくヒュウだった。
「ソードに、良い話? まさか仕事の紹介とかかい?」
ゴルドは得意げに指を一本立てた。
「正解だ。さすがヒュウ、察しがいいな」
俺は不審に眉を寄せる。
「紹介だと?」
「ああ。哀れな失業者に、心優しい俺が仕事を分けてやりに来たってわけさ」
ゴルドの表情は「感謝しろ」と言わんばかりに得意げだ。頼んでもいないのに、恩着せがましい奴である。俺は手をひらひらと振って無関心を表す。
「却下だ。まだ俺は人生をドブに捨てたくない」
「今だって充分にドブみてえなもんじゃねぇか、なァ?」
「ドブ底の主が言うなよ」
「主だからこそ分かるんだよ」
「……どっちもどっちだね」
いがみ合う俺たちを前に、ヒュウが呆れたような溜息をついた。
その後、気を取り直した様子でヒュウが訊く。
「それで、分けてやるって言ってたけど、そのゴルドの仕事ってのはいったい何なんだい?」
俺は鼻を鳴らして嘲笑を浮かべた。
「ドブさらいか何かだろ、どうせ」
しかし、ゴルドも俺と同じような嘲りの表情を返してきた。
「前にも言った筈だぜ、血生臭い仕事だってな」
不敵な笑みを漏らしながら、奴は答える。
「つまるところ、今も昔も変わらない―――傭兵稼業、ってことさ」
その答えに、俺は呆れてしまった。
「傭兵? 生き残ってる組合に入ったってことか? 馬鹿馬鹿しい。どうせまたすぐ教会に潰されるのがオチだ」
対してゴルドもまた、呆れたように首を左右に振った。
「相変わらず脳味噌の弱い奴だな、ソード。傭兵と言ってもやり方はいくらでもあるんだよ」
「ということは、まさか自由契約ってことかい?」
ヒュウの言葉に、ゴルドが指をぱちんと鳴らす。
「その通り。やっぱりソードとは頭の作りが違うなァ」
苦虫を噛んだ後で、俺は非難の言葉を口にする。
「自由契約って、そんなのありかよ。要するに、自営業で傭兵やるってことだろ? 傭兵稼業は教皇庁に禁止されたんじゃなかったのか?」
俺の疑問に、ヒュウが首を振って答えた。
「組合に幇助されている国家予算の削減が目的と謳われている以上、現段階で教会が指示できるのは『傭兵組合』の撤廃のみだね。まぁ、例の理想郷政策の方針から言えば先行きは不透明だけど、まだ個人で傭兵稼業を営むことまでは禁止されていないよ」
ゴルドがその解説に頷く。
「ま、法の抜け道ってやつだな」
「でもよ」
と俺は反論する。
「そんなことって現実的に出来るもんなのか。つまり今まで組合が負担してた部分を全部個人でやらなきゃいけないわけだろ」
その疑問に答えたのもヒュウだった。
「確かに、個人事業として傭兵をするとなると、業務開拓や経理事務なんかまで全て個人で行わなければならなくなる。特に仕事の見つけ方は難しいだろうね。ある程度のコネクションを元来から持ってなければ、ほぼ経営継続は無理だ」
「法の抜け道どころか、茨の道じゃないか」と俺は悪態をつく。「というかゴルド、おまえにそんなコネクションあるのか?」
しかし、ゴルドの表情には未だ余裕の笑みが張り付いたままだ。
「幸い、俺ほどの腕になれば引く手数多ってとこでね」
どうやらそれなりのコネは確保できているらしい。つくづく、理不尽な世の中だ。負け惜しみとは思いつつも、俺の口は蔑みの言葉を吐いていた。
「どうせ、陽の当てられないようなコネなんだろ」
「今まで傭兵に陽が当たることなんかあったか、ア?」
俺は押し黙る。ゴルドの言い分はもっともだった。
「ということは」とヒュウが口開く。「ソードへの仕事の紹介っていうのも、その傭兵の依頼なのかい?」
「言ったろ、引く手数多ってな。依頼内容の期間が先に受けてた仕事に被っちまったんだ。断っても良かったんだが、今後を考えりゃ客に好印象を残しておくに越したことはないだろ?」
そこでゴルドは俺を指さす。
「それで、どこかに腕の立つ傭兵上がりが転がってないか、と探してたわけだ」
俺は答えずに無言でコーヒーを啜った。
自分で言うのも何だが、いつも口汚く罵り合ってはいても、俺たちはお互いの力量に関していえば認め合っている。ましてや、ヒュウも含めて俺たちは傭兵時代に背中を預けて死線をくぐり抜けてきた仲だ。ゴルドの野郎が俺に目を付ける理由は頷ける。
俺が沈黙していると、ヒュウが対面から声をかけてきた。
「いい話じゃないか、ソード」
「残念ながら、今は選抜試験の勉強で忙しいんでね」
億劫に手をひらひらと振る俺に、ヒュウは皮肉げな笑みを向けた。
「賭けてもいいけど、君が騎士団員になれる確率よりも、自由契約の傭兵稼業を営んでいける確率の方が圧倒的に高いと思うよ」
俺はコーヒーカップの横に置かれた問題集に視線を落とす。悔しいが反論は出来そうにない。
「それに」とヒュウは付け加える。「また傭兵に戻れるんだよ」
傭兵に、戻れる。
それは再び街壁を越えて、地図を辿り、誰かを守るということ。
それを想像すると、組合の閉鎖以降、胸中を漂っていた薄暗い気分が少し紛れた。同時に、懐かしい倦怠感が蘇る。
ヒュウはそんな俺の顔をのぞき込みながら、悪戯っぽく言う。
「それとも、君は騎士団員の仕事に何かやりがいでも見つけられそうなのかい?」
俺は即座には答えられなかった。
綺麗事や感情だけで人生を送れはしない。それは一般論だ。安定した収入のある騎士団員と、先行きの見えない自由な傭兵稼業。どちらがマシな人生を送れるかは一目瞭然だ。それくらいは俺にだって理解できる。
そう、理解はできる。
―――納得は、別だ。
「……仕事の内容によるさ」
俺はぽつりと答える。苦し紛れのような答えだった。
ゴルドが嬉しそうに目をぎらつかせた。
「かか、ってことはおまえの中で答えはもう決まってるんだなァ」
俺はその目を睨みつける。
「言っておくが、殺しの依頼なら絶対にしないからな」
「安心しろよ。今回てめえに紹介するのは今まで通りの護衛任務だ。依頼人を目的地まで運ぶ。得意だろ?」
どこか安堵したような顔で、ヒュウは俺に確認してくる。
「受けるんだね、ソード」
「まずは一度だけだ。明日の飯に困ってる身分じゃ、背に腹は代えられない」
俺は頬杖をついて、顔を背けた。何となくゴルドの策略に乗せられたような気分でばつが悪い。
そんな俺を見て、ゴルドはカラカラと笑った。
「おまえは本当に愉快な奴だぜ」
そして奴は不意に、俺の前に置いてあった試験の教本に手を伸ばした。
「それじゃ、こいつはもういらねえな」
言うが早く、ゴルドはその本を宙に放り投げる。
瞬間、奴の腰に差した長物の煌めきが走った。
俺の目に捉えられただけで六閃。
刃が鞘に収まる音に一拍遅れて、教本は床に落ちる前に紙吹雪となり、盛大に店内に散った。
その様子を見て、ヒュウが目頭を押さえる。
「誰が片づけると思ってるんだい、まったく……」
俺は唖然としていたが、我に返ると同時にゴルドの胸ぐらを掴む。
「てめえ、俺の本を!」
しかしゴルドはまったく気にせず飄々とした体だ。
「アア? だって受けないんだろ、試験」
「そういう問題じゃねえ! 俺が金出して買った本だぞ!」
「どうせ来週の廃品回収で便所紙になる運命だろ、くどくど言うなよ」
「だったら便所紙に代えて弁償しろ!」
「ソード、それはさすがに暴論すぎると思うよ……ていうかやっぱり便所紙にするつもりだったんじゃないか」
「かかか、自分でも身の程をわきまえてたってことか」
「まあ、ソードが試験勉強なんてガラじゃないしねえ」
「おまえらな、人を馬鹿扱いするのも……」
そのとき、入り口脇に置かれた柱時計の音が店内に響く。
午前十時、喫茶店『緑の騎士』の開店を告げる音だ。
それとほぼ時を同じくして、まるで図ったかのように店の扉が開いた。先ほどのゴルドのような乱暴な開け方ではない。それは客の来店を告げる、涼やかな鐘の音だった。
俺に胸ぐらを掴まれたまま、ゴルドがにやりと笑う。
「……時間ぴったりか。律儀な依頼人だなァ」
ゴルドの呟いたその独り言は、しかし俺の耳を通り抜けていった。
現れた客を目の前にして、ゴルドを掴む俺の手の力が抜ける。
そして何故かカウンターのヒュウもまた、珍しく感情を顔に出していた。
沈黙する我々の前で、その客は凛とした佇まいで問うた。
「待ち合わせ場所と聞いていたが……依頼した傭兵はどちらかな」
俺は愕然として一歩後ずさる。長い黒髪と鳶色の瞳、彫像的な顔立ち。そして傍らに持つは牛革の旅行鞄。見間違う筈もない。
「おまえは……」
「まさか、そんな」
俺の言葉をかき消すように、ヒュウの呟きが漏れた。その顔は俺と同じく動揺している。
「フォレスター、先生……?」
呼ばれた女は、ふっと吐息をつくような笑みを漏らした。その様子はどことなく嬉しそうだ。
「ふむ、私の顔が知られているとは、図書館喫茶の名は伊達ではないらしい」
そう呟き、芝居がかった調子で肩にかかった黒髪を振り払う。
「その通り。私の名はフォレスター」
自信に満ちた顔で、彼女は名乗る。
「小説家、バーダロン・フォレスターだ」
それが昨日、俺の顔面に上段蹴りを叩き込んだ犯人の名前だった。