〈三〉ゴールデン・スランバー
「……物騒だな」
その日、朝食後の珈琲を啜りながら、バーダがふと呟いた。彼女の視線の先には朝刊の大見出しがある。その新聞は俺も先ほど流し読みをしていた。
「ああ、どこかの銀行が襲われたんだっけ」
「銀行ではなく、造幣局だよ。ユナリアに流通する紙幣と硬貨を製造する機関だ」と、バーダが訂正する。「何者かが爆発物を仕掛けて施設の一部を破壊したらしい。幸い、死傷者は出なかったらしいが……ふむ、施設復旧の目処は立ってない、か」
「よく分からないな」と俺は洗い物を片付けながら呟く。「金を盗むならまだしも、金を作る工場をぶっ壊して犯人に何の得があるんだ?」
「債券市場の操作にインフレ阻止。まぁ、経済的影響は計り知れんから、それで得をする連中は確かに存在するよ。あと、旧帝派によるテロという可能性もあるか。しかし……」
と、そこでバーダは億劫そうに溜息をついた。
「面倒だな。念のために今日、銀行に行って来よう。紙幣不足となると急場の現金が下ろせなくなるかもしれん」
「え……いや、あれだけあれば充分じゃないか?」
言いながら、俺はバーダの書斎にある金庫を思い出す。一度、彼女がそれを開けるところを目撃したが、中には一〇〇ドル紙幣の束がぎっしりと詰まっていた。
「念の為だよ。ソード、お前もついてこい」
「いや、銀行くらい一人で行けるだろ」
「現金護送は傭兵の専売特許だろうが」
「仕方ないな」と俺はため息をつく。「それじゃデートに付き合ってやるよ」
「デートじゃないわよ、バカ」
「冗談だろ、真に受けるなよ」
「受けてないわよ」
心底嫌そうに顔をしかめるバーダの横から、イヴが顔を出した。
「ソードさん、洗濯物は干しておきました。すみませんが、乾いたら取り込みをお願いします」
「あいよ」
エプロンを外しながら振り向くと、既にイヴは身支度を終えた後だった。
「それじゃ、お姉様。私、アルバイトに行ってきます」
「ええ、気をつけてね、イヴ」
仲睦まじい姉妹のやり取りを横目に、俺は台所の戸棚を開けて今日の買い出し品のチェックを済ませる。それを終えた頃には、既にイヴは家を出た後だった。
いつもの光景。既に日常となったサイクル。穏やかな生活。
それらは俺の望むべきものだが、最近はむしろそれが不安の種になりつつあった。
……我が主、バーダロン・フォレスターはこの一週間、徹夜をしていない。今朝もこうして清々しい顔で朝の珈琲を啜っている。いつもであれば、俺が昼食の準備をし始める頃にノロノロと不機嫌そうに階段から下りてくる女が、だ。
それが意味するところはつまり——終わったのだ、原稿が。
「最近は随分と早起きだな」
俺はキッチンカウンターに寄りかかりながらそう訊ねてみた。
「うん? ああ、今は出版社と校正作業中だ。ゼロから文章を紡ぐよりは楽な仕事だよ、私にとってはね。何せ、私の書くテキストに校正すべき点など殆ど無いからな」
バーダは自信満々に言う。
「抱えている他の連載原稿も、向こう半年程度は仕上がっている。しばらくはのんびりできるさ」
椅子の背もたれに身を預けながら、天井に向けて両手を伸ばすバーダ。しかし、俺は知っている。バーダロン・フォレスターは『のんびり』することなどは出来ない。余裕が出来ればどうせ新作のことを考え始めるに決まっているのだ。そうなれば、きっと俺のこの穏やかな生活など薄氷のごとく砕け散るに違いない。
「ふむ」と、バーダは天井を見上げながら呟いた。「せっかく余裕も出来たことだし、そろそろ『傭兵と小説家』の次巻の取材を……」
「ほら、銀行に行くんだろ」と俺は間髪入れずに言葉を遮る。「とっとと準備しろよ」
「何よ、珈琲ぐらいもう少しゆっくり飲んでも良いでしょ」
「俺も市場で買い物をしたいんだよ。ほら、急げ」
急かす俺に億劫そうな視線を向けてから、バーダは渋々立ち上がり、身支度の為に自室に戻っていった。
俺はひとまず胸をなで下ろす。
あいつがあの小説の続きを書くということは、どうせ俺がまた酷い目に遭うと決まっているのだ。
◆
考えることは皆同じということだろう。
グランヨーク銀行の本店は、今朝の新聞を見て現金を下ろしに来た客で混雑していた。そのため、バーダが現金を無事に下ろすまで、俺はホールの灰皿の横で四本の煙草を吸わねばならなかった。戻ってきたバーダは現金の入った鞄を抱えながら、疲弊した様子で愚痴る。
「まったく、どいつもこいつも新聞に踊らされおって」
「……その『どいつもこいつも』の中に、お前は入ってないのか?」
「うるさい。ほら、とっとと家に帰るぞ」
バーダは投げやりに俺に鞄を押しつけると、すたすたと銀行から出て行った。
その日はイクスラハの収穫祭の初日で、大通りにはたくさんの露店が連なっていた。透き通った快晴の秋空の下で、多くの人々が収穫されたばかりの野菜や肉を求めて行き交っている。エールとワインの酔いに身を任せ上機嫌で歌う者や、商品の売り文句を大声で叫ぶ商人、道ばたには大道芸人らしき一座の姿もあった。
俺とバーダはそんな賑やかな街中を歩く。祭りの空気に触発されたのか、先ほどまで不機嫌そうだったバーダの表情も少し和らいでいるように見えた。
露店で食材の買い出しも済ませたところで、バーダが「疲れたから甘い物が食べたい」などと言いだした。その目線の先にあるカラフルなパラソルの出店を見て、俺はやれやれと首を振った。この女はアイスクリームに目がないのだ。
街中のベンチで、二人でアイスクリームを片手に小休止を取る。そこでふと、バーダが呟いた。
「なんだか、夏に行ったハイカーゴの大火祭を想い出すわね」
「ああ、イヴが頭からポップコーンを被ったやつか」
そのときの様子を想い出してお互いに口元を緩める。
奇しくも、俺たちは噴水のある広場のベンチに腰掛けていた。そこは半年前、俺が初対面のこの女に顔面を蹴り飛ばされた場所である。それがこうして、お互いに笑い合える関係になるとは、誰が想像しただろう。
周囲には俺たちと同じように、ベンチや噴水の縁に腰掛けて屋台の食べ物を楽しむ人々の姿がある。額に入れておきたくなるくらい、脳天気で平和な秋の日の一場面だ。
「……ソード」
と、そこで唐突にバーダが問いかけてきた。
「——おまえは今、幸せか?」
冗談めかした様子ではなく、真剣な声色だった。俺は訝しむ。
「何だよ、急に」
「いや」と、彼女はばつが悪そうに言う。「……たまに分からなくなることがあるのよ」
茶化した返答を用意していた俺は、彼女の口調の変化に口を噤んだ。
「私の書いた本で他人の人生を変えたことなら、たぶんいくらでもあると思う。でも自分のこの手で、あなたほどに人生を変えてしまった人を、私は知らない」
彼女の口元には、どこか諦観めいた微笑が浮かんでいた。
「——ここであなたと出逢わなければ、あなたは以前のままのあなたで居られたのに、とも思ったのよ」
「おまえには感謝してる」
と、俺はバーダの方も見ずに即答する。
「幸せかどうかは分からないが——とにかくおまえのおかげで、俺は以前よりはマシな生き方が出来てると思うぜ」
俺は目の前を行き交う群衆を見つめ続ける。少なくとも今の俺は、もうそこに『彼女』の姿を探すことは無い。それくらいには、俺は前に進めているのだ。
「……感謝、ね」
何処となく歯切れの悪い言葉のように、バーダはそう繰り返した。そして俺の方を見やると、二秒ほど意図の分からない沈黙を挟んでから、問いかけてきた。
「——それだけ?」
「は?」
俺は虚を突かれ、言葉を失う。それ以上の答えを求められると、俺としても返答に窮してしまう。故に、俺は彼女の目を見つめ返すことができない。
「——今言えるのは、それだけだ」と、俺は苦い顔で答えた。「俺はおまえと違って、言葉の扱いは苦手なんだよ」
「そう」と、バーダはどこか安心したように頷いた。「それならいいの」
俺は頭をぼりぼりと掻いて、大きく溜め息をついた。
「……とっとと俺をおまえの無茶苦茶な取材旅行に連れ出せ」
バーダは意外そうに目を瞬かせながら、俺を見る。
「何度も言うが、俺は傭兵だ。こういう生活は俺の性に合わん。しかも、未だにきちんとおまえから報酬も貰っている。多少の無理難題は呑み込めるくらいの報酬をな」
俺の言葉に、バーダは可笑しそうに目を細めた。
「——まったく、心強い傭兵だよ、おまえは」
と、そこで彼女は意気揚々と立ち上がる。
「これほど頼もしい言葉をくれるなら、私も遠慮はいらないな。ちょうど取材に行ってみたい国があったんだ」
「……言っておくが、『多少の』無理難題だからな? 『多少の』って意味は……って、何だと? 今、『国』って言ったか?」
「ロンド・ヴェルファスには一度、足を運んでみたいと思っていたところなんだ。そうと決まれば早速、船のチケットを手配しよう」
「ロンドって東歐州か? ちょっと待て、真珠海を越えるのか?」
俺はそれを聞いてたじろぐ。ユナリア大陸から東歐州のロンド・ヴェルファスまでは距離にして四〇〇〇マイル以上もある。どう考えても、この夏に体験した以上の長旅になることは間違いない。
「準備を進めないとな。忙しくなるぞ、ソード」
瞳を爛々と輝かせて言うバーダを、俺はもう引き止められる気がしなかった。やれやれ、と俺は辟易の溜め息をつく。口は災いの元《Out of the mouth comes eveil》、とはよく言ったものだ。
——災いは傭兵には付きものだ、と諦めるしかない。
◆
帰り道の街角で、予期せぬ人物とばったり出くわした。予期せぬというより、予期すらしたくない人物であった。その人物について詳しいことは一切知らないし知りたくもないが、ゴルド・ボードインという名前であることだけは残念ながら俺の記憶に残っていた。この記憶さえ無ければ他人でいられるのに、と俺は自分の記憶力を憎々しく思う。
「お、なんだ、ソードに作家先生じゃねェか」
俺たちを見かけるなり、ゴルドは揚々とした調子で話しかけてきた。バーダが意外そうに答える。
「ボードインか。夏の一件以来だな」
「先生の本の貼り紙をよく街中で見るぜ。商売繁盛で羨ましい限りだ」
そう言って、ゴルドはカラカラと笑った。その様子を見て俺は訝しむ。一週間ほど前にヒュウと一緒に会ったとき、奴は苛立った様子で
そのときとは見違えるほど上機嫌に見える。
「……なんだ、コカインでも打ったのか。ほどほどにしとけよ」
俺が憎々しげに言うと、ゴルドはそれを鼻で笑い飛ばした。
「その程度じゃ、俺の気分は晴れねェな。なァに、ちょっと睡眠不足の種を摘み取ることが出来ただけさ。今日は良い日だ」
俺には奴が何について話しているのか全く理解出来なかった。首を傾げる俺たちを余所に、ゴルドは背伸びをしながら大欠伸を挟む。
「さて、それじゃ俺は久々に熟睡を満喫させてもらうぜ」
そんなことを言いながら、清々しい顔で去って行くゴルド。その背中に俺は「永遠に寝てろ」という呪詛を放っておいた。
「……相変わらず、よく分からない男だな」
「な? つくづく、雇う傭兵を俺にしておいて正解だっただろ」
そう嘯くと、バーダは俺の顔をしげしげと眺めてから、諦めたような吐息をついた。
「何だよ」
「別に、何でも無いわよ」
◆
フォレスター邸に帰ると、バーダは早速、旅行の準備に手を付け始めた。トランクを開いて服を詰め込んでいたかと思えば、何かを思い出したかのように本棚の前で文献を漁り出し、かと思えばタイプライターに向かって何かのメモらしき文章を叩いている。どうやら彼女の頭の中では、新しい物語を作るための計画が着々と進行しているらしい。
「イヴも連れていくのか」
彼女の背中に問いかけると、バーダはしばらく考えてから頷いた。
「ええ、連れて行くわ。里帰りみたいなことになるけど、今のあの子なら大丈夫でしょう」
「……それじゃ、俺はヒュウにとっとと新しい人材を見つけることを進言しておくか」
俺はやれやれと首を振りながら、バーダの書斎を出ようとする。が、そこで想い出したようにバーダが言う。
「そういえば、イヴ、まだ帰ってないの?」
俺は壁に掛けられた時計を見やる。既に時刻は十六時を廻っていた。イヴのバイト時間はとっくに終わっている筈だ。
「面倒な団体客でも来てるんじゃないか」
と、俺はそんな適当なことを言って、一階へ下りて夕食の支度に取りかかった。
しかし、俺がチキンをオーヴンに入れる頃合いになっても、イヴは帰ってこなかった。既に太陽は沈みかけ、夕闇がイクスラハの街並みを呑み込もうとしている。さすがにおかしいと思い、俺はヒュウの店へと直接出向いてみることにした。
「何かあったのかしら……」
「バーダ、おまえは家に残ってろ。イヴとすれ違いになるかもしれないからな」
屋敷を出るとき、バーダとそんなやり取りを交わしながらも、俺はそれほど深刻には考えていなかった。どうせ予期せぬ残業にでも出くわしてしまったに違いない。
だが、俺のそんな楽観的な予測に反して、喫茶『緑の騎士』にもイヴの姿は無かった。
「え? イヴくん、まだ帰ってないのかい?」
ヒュウ曰く、イヴは時間通りに十五時半には退勤したらしい。そこで俺の中で不安が疑念へと変わる。何かマズいことが起きているような気がした。
——あの少女の中には、人類の叡智の貯蔵庫たる『未来王の手記』が埋め込まれてある。もし、それを狙った何者かが——つまり、歴史改変者がイヴに何かしたのだとしたら……。
フォレスター邸に戻ると、バーダは既に身支度を調えていた。待っている間に、彼女も俺と同じ思考に行き着いたらしい。バーダは不安を押し込めながらも、冷静な口調で言う。
「ニコラス・テラーの元に急ぐぞ、ソード」
◆
イクスラハ湾岸区にある、ジャズフェラー精油研究所建設予定地。完成は来春の予定とのことだったが、その一画には既に小さなラボが完成していた。水硬性石灰コンクリートとかいう資材で作られた正方形の箱のような建物で、その中の研究室は見たことも無い機材で埋め尽くされてあった。
その部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけた黒髪黒瞳の青年が回転椅子に腰掛けている。元・未来王にして現在のイヴの造物主である発明家——ニコラス・テラーである。
「あり得ない」
それが、我々が状況を説明した後のニックの第一声だった。
「確かに、イヴの身体の中には『未来王の手記』が存在する。でも、その事実を知っているのは僕たちだけだ。第三者がそれを目的にイヴを誘拐するということは考えにくい。第一、彼女に対して誘拐、いや、拉致という行為は普通の人間には不可能だ。それは君が一番よく知っているだろう、ソード?」
俺は腕組みをしながら頷く。イヴの身体はこの夏の事件のせいで機械仕掛けの身体になっている。そこに付与された機能を鑑みると、常人が彼女を力尽くでどうにかするという行為が如何に難しいか分かる。
つまり、不埒な輩が彼女を誘拐する、ということは考えられない。
「それじゃ、どうしてイヴは帰ってこない? 自分から家出するような奴じゃないぞ、あいつは」
俺の反論を、ニックは右手を挙げて制した。そして顎の先で自分のデスクの上を指す。そこでは見慣れない計器のようなものが明滅していた。硝子窓が付いた箱の中に、地図のようなものが表示されている。
「イヴの身体には僕だけが探知できる発信器を埋め込んでいるから、もうすぐ彼女の位置情報が分かる。この時代には人工衛星なんて飛んでいないから、少し時間がかかるけど……出た。北緯四〇・七五三〇七、東経七三・九七七二九、これは」
「——イクスラハ中央ターミナル、か」
バーダがぽつりと呟いた。その言葉がきっかけだったかのように、急にその地図に表示された点の動きが激しくなる。ニックが眉を寄せて言う。
「この動き、まさか鉄道に乗ったのか? しかし、何故?」
「気絶させられて、列車に乗せられたってことはないのか?」
俺の問いに、ニックは首を横に振る。
「いや、彼女に意識が無いとすればこの計器で分かるよ」
「ニコラス」と、そこでバーダが問いかける。「本当に、『未来王の手記』の存在を知る人間は私たち以外にいないのか?」
「知っているのは身内だけだ。ジョナサンに、君の友人の二人、ナイツ士長とアンダープラチナ嬢だけ。あとは……」
と、そこでニックが何かに気づいたように言葉を止める。しかし、一瞬の沈黙の後に首を横に振った。
「馬鹿な。『彼女』が僕に対して、こんな裏切り行為をする筈がない。少なくとも、『未来王の手記』の力が必要なら、事前に相談をしてくる筈だ」
「その『彼女』とやらは」と、バーダは冴えの入った瞳で問いかける。「いつもはどんな手段でおまえにコンタクトを取ってきたんだ、ニコラス? まさかその人物が直接訪問してくるわけではあるまい」
「え? ああ。いつもなら、仲介役の青年がやってくるよ。彼が『彼女』と話せる通信機を持って来るんだ。『彼女』に対しては、こちらから連絡を取ることは出来ない。まぁ、『彼女』の公の立場を考えれば当然かもしれないけれど……」
「——仲介役の青年、か」
バーダはその言葉を繰り返して、暗鬱そうに溜め息をついた。その口ぶりから察するに、どうやら彼女には今回の件の全貌が見え始めているらしい。
バーダは落ち着き払った様子で言う。
「今回の犯人が分かった。事情は分からんが、とにかく急いでいるらしい。そこに不幸が重なったんだろう」
「不幸って何だよ?」
俺の問いかけに、バーダは何故か憐憫の込められた口調で答えた。
「……連絡役の身に降りかかった、『金髪の傭兵』という不幸だよ」
◆
俺とバーダ、そしてニックの三人は、急いでイクスラハの中央区に駆けつける。
日中、俺たちがゴルドと出逢った一画から一本裏路地に入ると、目的のものはすぐに見つかった。
路地裏のゴミ捨て場に埋もれるようにして、第零騎士団隠密監視役——ゾウイ・ミラージュが、目をぐるぐると回しながら気絶していた。




