〈一〉収穫祭間近
西海岸から帰省して二週間も立つと、あれほど濃密に満ちあふれていた夏の香りは、まるで風が連れ去っていったかのように消え失せてしまった。九月も半ばを過ぎ、イクスラハの商店街では、秋の収穫物が店頭に賑わいを作り始めている。
人間は食わねば生きられないし、そして食うのであれば美味いものの方が良いに決まっている。故に少なからずこの季節は、俺にとってもそれなりに楽しみのあるものであった。
その日の朝も俺は西区の商店街に足を伸ばし、軒先に連なる様々な食材の選別に勤しんでいた。収穫祭が近いせいか、路面店には実に豊富な野菜や果物が並んでいる。大きなジャガイモやカボチャ、たわわに実った葡萄や林檎など、その色彩も然る事ながら、多重に折り重なった新鮮な香りたちが俺の気分を少し高揚させた。
「よう、今日も早いな、傭兵の兄ちゃん」
屋台の青果商の親父が、威勢の良い声で話しかけてくる。知り合ったのは二週間ほど前だが、今やすっかり顔馴染みである。
「早朝の方が良いものが揃っていると知ったからな。そのカボチャをくれ。違う、その隣のやつだ」
「はっはっは、目聡くなりやがったな」
遠慮無く言う俺に、親父は気持ちの良い笑顔で返してくる。
「おかげさまでな。ああ、そっちのタマネギもだ、五つ買うからひとつおまけしてくれ」
剣を腰に差した男がこうして朝市を回って歩くのは珍しいらしい。そのせいか、最初の頃、この屋台の連中は物珍しそうに一方的に俺に話しかけてきたものだ。露天商には話し好きが多い。だがそのおかげで、俺は今やこの朝市の情報通の一人になっていた。どの店が買い得で、どの時間帯なら良いものが揃っているか、今の俺はその辺の主婦よりも詳しく把握している。
「しかし傭兵の兄ちゃんは金持ちだね」
野菜を紙袋に詰めながら、屋台の親父が言う。俺は首を傾げた。
「金持ち? どうしてだ?」
「だって、いつも一〇〇ドル紙幣で買い物していくじゃないか」
ああ、と俺は納得する。それは我が雇用主が横着して、俺の買い出しの時はいつも一〇〇ドル紙幣を一枚手渡すからである。俺は皮肉っぽく口元を歪めてみせた。
「本当に金持ちだったら、毎回ちゃんと釣り銭を貰ったりしねぇよ」
「はっはっは、それもそうだ。ほれ、お釣りだ」
手渡された紙幣と硬貨に、俺は違和感を覚える。よく見ると、五〇ドル紙幣だけが普段と違っていた。いつもの白髪で眼鏡を掛けた男の肖像画ではなく、まだ若さの残る壮年期の男の横顔が描かれている。俺は思わず店主に抗議する。
「おい、親父。なんだこの五〇ドルは。偽札じゃないのか」
「何言ってんだい。二週間も前から刷られてる新紙幣だよ。肖像画がヒッコリー枢機卿からビシャス枢機卿に変わったんだ。知らんのかい?」
その説明を聞きながらも、俺は今なお疑わしげに紙幣をじろじろと眺める。そんな俺を見て店主は呆れたように笑った。
「どうやら、兄ちゃんは本当に金持ちでは無さそうだな」
俺は苦い顔を浮かべて、そのまま釣り銭をジャケットの内ポケットに突っ込んだ。
一通りの買い物を済ませ、大きな紙袋を両腕に抱えながら、広場の時計台を見やる。そろそろあの女も起きてくる頃だろう。戻って遅い朝食の準備に取りかからねば——そんなことを考えている自分自身に、ふと我に返って辟易を覚える。
……やれやれ、これじゃまるで主夫だな。
視線を下ろすと、腰の鉄剣が物寂しそうに俺を見上げている気がした。そんなに恨めしそうに見るなよ、まったく。
声がかかったのは、そのときだった。
「おや、ソードじゃないか」
振り向くと、見知った顔があった。線の細い顔に金髪、そしてフレームレスの眼鏡をかけた男である。図書館喫茶『緑の騎士』の店主にして俺の旧友、ヒュウ・グリーンだった。彼もまた、その両手に大きな紙袋を抱えていた。
「よう、ヒュウ。買い出しか」
「ああ、そうだけど……君はいったい何をしているんだ?」
ヒュウは驚愕と怪訝を合わせたような顔で俺をじろじろと眺めている。
「俺も買い出しだよ。フォレスター家の主の為にな」
自虐的に言って、俺は口の端を曲げてみせる。ヒュウは笑い出した。
「まさか、君が本当にフォレスター先生の家で使用人をやっているとはね」
「使用人じゃねぇよ」
俺は苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
二週間前、西海岸から帰ってきたときの話である。ひょんなことから、俺は雇用主であるバーダロン・フォレスターの邸宅に居候をすることになったのだ。
愉快な話ではないので思い出したくはないのだが、西海岸に連れ出されていた一ヶ月の間に、下宿先の女将が俺の部屋に別の入居人を入れてしまったのである。これに関しては女将の早合点もあるが、何より行き先も告げずに部屋を一月も留守にしてしまった俺にも責任の一端があるので、恨み言はあまり言えない。何より問題だったのはその後だ。
八月も終わりを迎え新年度を控えたその時期では、新たな下宿先を見つけることもままならなかった。短期の安宿ですら、イクスラハに出稼ぎにやってきた連中でいっぱいだった。
どうしたものか、と途方に暮れていた俺に救いの手を差し伸べたのは、この夏の事件で知り合った少女、イヴであった。
先の事件で身寄りを失った彼女は、バーダロン・フォレスターが後見人となり、対外的にはその妹という立場でフォレスター邸に居候することになっていた。イヴはあの貞操観念の要塞である女流小説家を説き伏せ、使用人の扱いで俺をその屋敷に住まわせようと口利きしてくれたのである。寵愛する妹の頼みとあってはさすがのバーダも断れなかったらしい。
そういったわけで、俺はあの小説家バーダロン・フォレスターの傭兵兼、フォレスター邸の家事手伝いということで、あの屋敷に住んでいるのである。
「フォレスター先生はどうしているんだい?」
朝市を同じペースで歩きながら、ヒュウが訊いてくる。
「連日徹夜で執筆中だよ。部屋からほとんど出てきやしない」と、俺は首を竦めて見せた。「まったく、家でのあいつの姿を世間に見せてやりたいぜ」
稀代の天才女流小説家バーダロン・フォレスターは、大衆からは雲上の貴人のごとき扱いを受けている。しかし、自宅での過ごし方ははっきり言って不精、不規律、粗略そのものである。昼夜逆転は当たり前、丸一日食事を抜いて原稿を書き続けることもあれば、気難しげな顔で唸り声を上げながら屋敷を徘徊しているときもある。それも髪はぼさぼさで足取りはおぼつかず、さながら幽鬼のごとき様相である。夜中に手洗いに立った俺が廊下であの女と遭遇したときなど、思わず心底からぎょっとしたものだ。
辟易する俺の横顔を見ながら、ヒュウはくすくすと笑っていた。何がおかしいのか、と俺が憮然としていると、奴は意味深な視線で俺の顔を覗き込んだ。
「いや、随分と打ち解けたものだなと思ってね。春先に僕の店で知り合った時なんて、まるで氷塊みたいに冷え切った雰囲気だったからさ」
「そりゃ何千マイルも一緒に旅をしてりゃ、氷塊も遠慮も擦りきれるさ」
「氷が溶けて見えてくる景色もある」
「それが綺麗なものとは限らないぜ」
と俺が顔をしかめてみせると、ヒュウはまた可笑しそうに笑った。
「とはいえ、フォレスター先生の新作が間もなく読めるというのは喜ばしいことだ。出来れば、それまでには僕の方も少し暇が出来ると良いんだけれど」
言いながら、ヒュウは小さく憂鬱そうな吐息をついた。どことなく疲弊した面持ちである。
「なんだ、浮かない顔だな。商売がうまくいってないのか?」
「むしろその逆さ。近所のダイナーが一つ店を閉めてね。おかげで昼時は息つく暇も無いくらいに繁盛しているよ。おまけに、これまで雇っていた従業員が家庭の事情で辞めてしまったものだから……」
「なるほど、本を読む暇も無いほどに忙しいってことか」と俺は気楽に笑った。「新しい人を雇えば良いだろうに」
「それがなかなか見つからないから困ってるんだよ」
と、ヒュウは再び溜息をついた。見かねて俺は提案する。
「俺で良かったら手伝ってやるぞ。どうせバーダはしばらく原稿につきっきりで、傭兵としての仕事は無いからな」
「却下だ。君みたいな目つきの悪い男が給仕なんかしたら、店に閑古鳥が巣を作りそうだ」
この野郎、俺のせっかくの好意を。
横目で睨み付ける俺を無視して、ヒュウは続けた。
「まぁ、愛想が良くて仕事も機械的に早くて、出来れば品性も伴った人材がいたら紹介してくれ。万が一、いや億が一、君の知り合いにそんな人がいれば、だけれど」
「おう、任せておけ」
平坦な声で言った後で、絶対に紹介なんかしてやるものか、と俺は心の中で付け加えた。
街区の外れ、ちょうど曲がり角に差し掛かった、そのときだった。
我々二人はばったりと、これまた見慣れた人物に遭遇した。ヒュウはその人物に意外そうに眉を上げ、俺は逆に両の眉を寄せて皺を作った。その金髪の男はどこか退屈そうな、或いは不機嫌そうとも言える面持ちであった。
「ゴルドじゃないか」
ヒュウが奴の名前を口にすると、その男——ゴルド・ボードインは億劫そうに我々を見やった後で、少しばかりその瞳に喜色を宿した。
「あァ? なんだ、ヒュウにソードじゃねぇか」
「珍しいね、君がこんな朝から出歩いてるなんて」
「いや、正確には『こんなに夜遅くまで』ってとこだな」
ゴルドは揶揄するように嘯く。なるほど、夜通し出歩いて今に至る、というわけか。呆れ果てる我々を前に、ゴルドは退屈そうに大きな欠伸を挟んだ。
「何だよ、随分と暇そうだな。仕事が無いのか?」
ここぞとばかりに、俺は上から目線で言ってやった。しかし、俺の予想に反してゴルドはすんなりと頷く。
「ああ。ここの所、毎日が退屈で仕方ねぇよ」と、そこで奴は俺の方に視線を向けた。「そうだ、ソードよ。おまえ、この夏から何か違和感は無いか?」
「違和感?」
「ああ。誰かにこっそり見られてるような気持ち悪ィ感覚さ。胸糞が悪くて仕方ねェ。昨夜からずっとそいつの正体を明かそうと思ってるんだが、煙みてぇにすぐ消えやがる」
ああ、なるほど。それで珍しく不機嫌そうだったのか。
俺にはその正体に察しが付いていた。この夏から、ということは、例の西海岸への旅でゴルドと一時的に旅順を共にしたときからだろう。
ならばおそらく、その奇妙な視線の正体は第零騎士団の隠密監視役、ゾウイ・ミラージュである。彼は聖女ハヴァンディアの側近の一人で、国の重大極秘事項を知る我々を日夜監視しているらしいのだ。
俺の脳裏に、あのへらへらした軟弱な銀髪男の顔が過った。正直言って、あの男自体には全く害が無い。あらゆる人物に即座に変装できる隠密のスペシャリストではあるが、戦闘能力で言えば、或いはバーダよりも貧弱な男なのである。俺とバーダは最近はもう監視されていることも忘れてしまっていた。
しかし、獣並みの嗅覚を持つゴルドには、その監視の視線が妙に気に障るらしい。
——良い気味だ。
俺は妙に清々しい気分になり、思わず口元が綻んだ。ゴルドが訝しげに俺を睨んでくるが、気にしない素振りをする。ヒュウはそんな我々二人を見やり、いつものような呆れの吐息をついていた。詳細を把握したわけではないだろうが、おおよその構造は掴めているのだろう。
「とにかく」と、ゴルドは苛立たしげに言う。「ソード、おまえも何かに気づいたら教えろや」
「おう、任せておけ」
と、俺は再び平坦な声で言った。




