〈序〉無実の血族
「光の街なんて無いのよ」
歌うように告げる女の表情は寂しげだった。しかし、それを聴く男は、その声にどこか安堵のような響きを感じていた。ランタンの明かりに横顔を照らされながら、女は続ける。
「世界が一つの篝火になるなんてことは無い。すべての人が、自分だけの孤独な火を持っているだけ。街はたまたま、それが集まって輝いているように見えるだけなの」
西向きのバルコニーから見下ろす世界は、延々と続く真夜中の荒野だけであった。そこには旅人や行商人の灯す焚き火すら無い。月すらも既に西に沈みかけ、夜明け前の殊更に深い暗闇だけがそこにあった。
少なくとも二人には、そこに光は愚か、この先の未来すらも無いように見えた。
荒野の岩のように黙して聞いていた男は、やがて口を開いた。
「それも、君の世界の本の言葉か?」
女はそこで、見透かされたことを自嘲するかのように、少しだけ口の端を吊り上げてみせた。
「——ええ、そう。私の世界で、最も有名な賞を取った作家の言葉よ。尤も、彼は賞を欲しなかったそうだけど」
「その賞が彼を欲したというわけだね」と、男は言葉を静寂に溶かし込むように呟いた。「いつだって、最上の名声はそれを望まぬ者を選ぶね。きっとそれはどの時代も、どの世界も同じなんだろう」
そう嘯く男の顔を、女はじっと見つめた。
「あなたも同じね」
男は答えなかった。
「あなたも、世界に選ばれてしまった側の人間でしょう」
「それは君も同じじゃないか」
「私は自分で選んだのよ」
「ならば、私だってそうだよ」
それはお互いに理解していた。此処に立つ自分は、これまでに幾度となくあった分岐を、自分の意志で選んできたが故の結果だということは。そしてそこには確かに、それ故の後悔も傷のように刻まれていた。
女が真面目な声で問う。
「出逢わなければ良かったって思う?」
「もしそれを後悔するとすれば」と、男は首を横に振った。「きっとは私はそれと同じくらい、これまでの自分の選択を後悔しなければならないよ」
お互いに今の立場でさえ無ければ、そこに憂いなど無かっただろう。親密な未来を夢見ることも出来ただろう。しかし、それは有り得ないのだ。その夢想の根元を辿ってしまうと、彼らは出逢うことすら出来なかった。
女はしばしの沈黙の後、そっと男の胸に顔を埋めた。それは支えを求めるような、切実な抱擁だった。
「——あなたがやろうとしているのは、人々の胸の灯火を真に一つにしようとするようなもの。本当の光の街を造ろうとするものだわ」
「君はそれを愚かと思うか」
「いいえ、むしろ逆よ。この時代はまだ眠りに就いたまま。誰かがそれをそっと起こしてあげなくてはならない。そしてきっとそれが貴方なのよ」
男はそこで、女の肩が震えていることに気づく。続いて、自身の胸元に熱量を感じた。彼が慈しむように背中に腕を回すと、女は堪えきれなくなったかのように吐き出した。
「私は違う。私の使命はむしろ逆、人々の孤独な灯火の一つ一つを、自らが吹き消していくようなもの……本当は私には、貴方の隣に立つ資格すら無いのよ」
その嗚咽を聞きながら、男は悟る。この女には、もう自分以外に掴む手が無いのだと。故に、それは彼の決意をより強固なものへと変えた。
彼は彼女の両肩を掴み、その涙で濡れた瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「三年待ってくれ」男は、鋼の意志と共に言う。「必ず、君をこの城から連れ出してみせる」
「そんな約束をしていいと思っているの?」女は男を突き放すように顔を逸らした。「その約束は、あなたにとっては呪いに等しいものだわ」
「構うものか」
男は再び女を引き寄せ、そして、その耳元で告げた。
「君が最後に私の腕の中にいるのなら、呪いなどいくらでも受けよう」
女の胸中に針が突き刺されるような感覚があった。それは甘美なものでもあり、そして痛みを伴うものでもあった。返す言葉の出ぬ女の口を、そっと男が奪う。
月すらも沈んだ夜は、常世のあらゆる目からその二人の姿を隠していた。
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ユナリア合衆教皇国の『前進する息吹』と称される国家成長の時代は——この恋から始まったのだ。
【傭兵と小説家】
-第3部-
The Blood of The Harmless Bullet.




