〈二十七〉七万八千二百七十九年の奇跡
その女が僅かに腕の向きを変えただけで、俺は力の方向を捻られ、バランスを崩して床を転がった。フェイト・モルガーナ・スタンリーは——いや、我が剣の師匠、マリーン・サーティーンは、そんな無様な俺を冷笑と共に見下ろしていた。
有り得ない光景だった。この女は確かに十年前、あの夜に、死体となって転がっているのを俺は見ている。
俺を、ペリノアを、アタヘイの子供たちを、不死の怪物にした大人たちの一人。あの街の惨劇の元凶。俺は歯を食いしばり、怨嗟の目で奴を見上げた。
そんな俺の傍らでバーダは驚愕に目を見開いていた。
「マリーンって……たしか……」
あの春先の旅で、あの山からイクスラハへ帰る道中、俺は彼女に語ったことがあった。俺のアタヘイの友人たちのこと、その暮らしのこと、そして、俺に剣を教えてくれた師匠のこと。誰に想像できたというのか。まさかその師が生きていて、ユナリアの経済界を牛耳る存在になっているなどと。
「あなたの怒りは尤もだわ、アーサー」
そう言って、彼女は手近にあった椅子に悠然と腰掛けた。
「本当は私は、あなたの前に出てくるべきでは無かったのかもしれない。でも、仕方がなかったのよ。この限られた手駒の中で、確実にトーマス・レメルソンを止められそうだったのは、あなたたちしかいなかったから」
「何を、勝手なことを……!」
再び立ち上がり剣を構えようとする俺を、しかしバーダが制した。
「待て、ソード!」手を広げて、俺の前に立つ。「まずは話を聞こう」
「話す余地なんて無い」俺は構わず一歩前に出る。「こいつは、俺たちを地獄にたたき落とした連中の一人なんだぞ」
「そうね」と、先生は悲しげに目を伏せる。「私はあなたを導く師匠であり、あなたを滅ぼす魔女でもある」
「だからこそ、今この場で俺が……!」
「駄目よ、ソード」バーダはその細腕で俺の身体を止める。「あなたに、彼女は殺せないわ……!」
その確信めいた言い方に、俺は眉を寄せる。
「殺せない、だと?」
「この女が、何の策も無くおまえの前に現れると思うか」彼女はそう言って魔女を睨む。「おまえの恨みを買っていることを充分に理解した上で、だ」
マリーン先生は、その口元に妖しげな笑みを浮かべた。それは自身を嘲っているようにも見えた。
「さすがはフォレスター先生」と、魔女は言う。「その通り、アーサーでは永劫の時をかけても、私を殺害することは出来ません。たとえ私の心臓を、その剣で貫いたとしてもね」
そこで彼女は笑みを消し、冷酷な瞳で俺を見やった。
「でも、言ったでしょう。今の私はあなたを滅ぼす魔女だって」
「どういう、意味だ……?」
「——あなたに私は殺せないけれど、私はあなたを殺すことが出来る」
バーダは最初から悟っていたのだろう、俺の横で忌々しげに歯噛みした。そして俺は戦慄と共に理解する。まさか先生は、あの霊薬を……。
バーダはそこで、大きく息を吸い込んだ。そして、自分自身も側にあった椅子に腰を落とす。そして、じろりと対面の魔女を睨んだ。
「説明するつもりはあるらしいな」
「ええ、私は今日、その為に此処に来たのだから」
「ならば話せ」バーダは泰然自若として問う。「私にも、何よりソードにも、それを知る権利がある筈だ」
もっとも、貴様に道理が通じるのならばな、と彼女は付け加えた。
「さて、それじゃ何から話したらいいものかしら……」と、その魔女は困ったように微笑む。「私に関しては、語るべきことが何万年分もあるのよ」
「戯れ言を」
バーダが呆れた様子で頭を振ると、それを見た魔女はくすくすと可笑しそうに笑った。
「誇張じゃないわ。私は年数で言えば七万八千二百七十九年を生きてるの」
突拍子も無い話に、俺とバーダは疑い深げに眉を寄せた。
冗談めかした口調でこそあったが、彼女が口にしたその具体的な年数は、我々の間に奇妙な生々しさを残した。真偽の判断に惑う我々を楽しそうに眺めながら、魔女が続ける。
「そうね。やはり順番に、一番最初の『私』から話すべきでしょうね」
魔女は涼しげな顔で椅子に腰を下ろし、肘掛けで頬杖をつきながら語り始める。
「改めて自己紹介をしましょう——私の本当の名前はルイ・クズミ。先端人類文化追録研究所(Institute of Advanced Human Culuture and Additional Record)、通称AHCAR機関に所属する文化人類学者。そして、交差時点励起を阻止する為にこの世界にやってきた、歴史改変者の一人よ」
◆
「私がこの世界にやってきたのは、正暦一八四三年の春」
その言葉から、魔女の独白は始まった。
「私の西暦世界での年齢は三〇をとうに超えていたけれど、この世界に転移したときには私の身体は五歳児くらいまで退行していたわ」
そういえば、と俺は思い出す。あの聖女——ハヴァンディアも見た目は十四歳程度だったが、実際の年齢はもっと上だというようなことを言っていた。
「それは」とバーダが問いかける。「その転移の影響によるものか?」
対して、魔女は静かに頷いた。
「異世界線歴史逆行は、その名の通り時間の流れに逆らう行為なの。本来であれば、十歳の子が九年前に戻ればその子は一歳になってしまう。十一年前に戻れば、存在すら消えてしまう。時間に逆らえばその肉体もその報いを受ける。それはまるで林檎が重力に逆らうことが出来ずに地に落ち続けるのと同じこと。この世の摂理なのよ」
「だが」バーダが口を挟む。「おまえたちはその林檎を宙に浮かせ続けることに成功した」
「素敵な喩えね」と魔女は楽しそうに微笑む。「その通り。人類はその時間逆行による影響を最小限に抑える技術を生み出すことに成功した。しかし、それでも限界はある。私たちの時代から手を伸ばせる歴史はせいぜいが五〇〇年以前、即ち十九世紀までが上限だった。それでもギリギリのラインだったの。成功するものもいれば失敗するものもいた」
俺は眉を顰める。
「失敗?」
「酷いときには存在が消失してしまったり、軽いものだと記憶を失ったり」
後者については、まさにまったく同じ事例を知っていた。それを掬い上げるかのように、魔女は続ける。
「幸いなことに、私の場合はあのニコラス・テラーや——そう、聖女アトラビアンカのように、自身の記憶の喪失までには至らなかったわけだけれど」
その名前に一瞬、バーダの表情が哀切に歪んだ。それを悟られまいとするかのように、彼女はすかざす問い返す。
「それで、貴様が転移した先がイヴィルショウ山岳地帯、つまりはアタヘイの町だったというわけか」
「ええ。もともとアタヘイの民の祖先はAHCAR機関の人間だったから、私はすぐに受け入れられたわ。そこから、私は『最愛の霊薬』の精製に協力を始めた。その主導者であるウーゼル・トゥエルヴ博士のもとでね」
突然口にされた親父の名前に、俺は視線をそらして舌打ちを漏らした。二度と耳にしたくない名前だった。
「やがて街には十三人の子どもたちが生まれた。私は表面上は彼らの教育係、ということになった。特に健常な肉体を育てることを重点項目とされてね」
「……そこから先は知っている」と俺は口を挟んだ。「合点がいったよ。あんたは俺たちを実験体にするために、剣の稽古をつけてたってわけだ」
俺の脳裏にイヴの姿が過った。そうだ、俺は彼女と同じだ。奴らの計画のために育てられた実験体——言うなれば、この魔女は俺にとってのレメルソンだったのだ。
「いいえ、それは違うわ」と、しかし魔女は即答する。「『そこから先の話』をあなたが知っている筈がない。だってその回のあなたは、今のあなたと別人なんだから」
——何だって?
この女が何を言い出したのか、俺にはまったく分からなかった。
「アーサー、今のあなたにも本当に申し訳ないと思っているわ。でも、『最愛の霊薬』を完成させることは絶対に必要だったのよ。正確には、それを投薬されたアーサー・トゥエルヴの『王の血』がね」
「俺の血が?」
「その霊薬の一つ先の存在のためよ。不死だけではなく、不老すらをも叶える真なる完成形——『最果ての霊薬』を精製するために」
何故か、俺の背筋に不可解な怖気が走った。俺に端を発して、何か巨大な物事が動いているような気がした。そしてそれは、おそらく俺の気の所為ではないのだ。
「不死だけではなく、不老も……」バーダがそう呟いた後で、何かに気づいたように顔を上げる。「そんな、まさか……しかし、そんな馬鹿げたことって……」
魔女はバーダの辿り着いた答えを肯定するように、にっこりと微笑む。しかし、その微笑は人間が浮かべる類の表情では無かった。
「あなたの血のおかげでそれは完成した。私の手によってね」
そこにはすべてを達観し、すべてを見通すかのような、超然とした余裕が込められていた。
「私は『最果ての霊薬』を服用して、不老不死の魔女となり——」
魔女は、宛ら昨日の天気のことでも語るかのように、簡単に言った。
「それから、交差時点励起までのおよそ五〇〇年を生きたわ」
混乱が俺の頭蓋をけたたましく蹴り上げる。
何だって?
五〇〇年を生きた?
いったい何を——。
「何を、言ってるんだ、先生……」
しかし、俺の切れ切れの問いかけなど構わず、彼女は続ける。
「それでも、私は大災厄を回避できなかった。それから五〇〇年後、あらゆるアーカイブはカオスとなり、クロノアルターは世界を蹂躙した。だから、もう一度、私は挑戦することにした」
俺の隣で、バーダが口元を押さえていた。その瞳に宿るのは驚愕と——そして、畏れだった。
「不思議なことに、この歴史線と衝突した西暦世界には、ルイ・クズミが存在していなかったの。厳密なことは分からないけれど……そうね、何かしらの歴史の抑止力みたいなものが働いたのかもしれないわね。とにかく、私は交差時点励起の混乱に紛れて、再びAHCAR機関の職員となり、再び歴史線の修正者に名乗り出た。もう一度やり直すために」
ようやく俺の理解が追い付き始め、そしてその理解は俺に絶望感のようなものを与えた。五〇〇年を生きて、そしてもう一度やり直す——それは、つまり。
「——私は再び異世界線歴史逆行に臨み、五歳児としてアタヘイの街に転移した」
衝撃的な話を、驚くほど穏やかな口調で、魔女は語った。
「記憶は維持出来たけれど、残念ながら転移した私は不老不死ではなかった。歴史線逆行の影響で、私の身体は『最果ての霊薬』を摂取する以前に戻っていた。だから、私は前回と同じように、再びアタヘイの街で『最愛の霊薬』の精製に協力した」
そして、魔女は不気味なほど慈しみに満ちた目で、俺を見やった。
「アーサー、またあなたたちと出会い、あなたたちを育て、そして、失った」
「あなたは……」バーダの声が震えていた。「それを、何回、繰り返したんだ……?」
「——これが、百五十六回目よ」
そのあまりにも膨大な数字に、言葉を失う。
およそ五百年を、百五十六回繰り返した。
この女が口にした七万八千二百七十九年という歳月。
それこそが——この魔女が本当に生きてきた年数だというのか。
「五十回を超えるくらいまでは辛くて仕方が無かったけれど、百回に到達するころにはコツが掴めてきたわ」懐かしむような目で、魔女は続けた。「偏在的傾向の普遍化は行動の反復によってのみ可能である、これは一般論だけどね」
俺は耐えられなかった。我慢がならなかった。
「なんでだ!」と、俺は叫んでいた。「なんで、百回も繰り返しておいて、あの山で、あの街で! 俺たちを救えなかったんだ!」
マリーン先生は目を伏せる。構わず、俺は続けた。
「あんたなら救えただろう! ペリノアも、ランスロットも、トリスタンも——十二人の子供たちを! あの街を! あんただったら救えたはずだ!」
「いいえ、救えなかったのよ」
申し訳無さそうに頭を振るマリーン先生。
「私も何度も救おうとしたわ。でも、何度繰り返しても、『最愛の霊薬』の実験過程で悲劇は起きた。子供たちは怪物化し、そのたびに街は滅びた。街の人々だけでも救おうとしたこともあったけれど、下山の最中に牙持つ獣たちの襲撃にあって全滅した。信じたくはないけれど、運命の収束力、とでも言うべきなのか——とにかく、そういうルールになっているみたいなの」
「だったら、そんなクソったれた薬なんか作らなきゃ良かったんだ!」
「それは駄目よ」先ほどとは打って変わって、冷たい口調でマリーン先生は答えた。「あの実験が無ければ『最果ての霊薬』は生まれず、私は世界を繰り返すことが出来ないわ」
その、あまりにも勝手な理屈に、俺の血が怒りに沸騰する。
「ふざけるなっ!」
激昂に身を任せ、俺は再び彼女に斬りかかる。しかし、先ほどと同様に、小さな短剣で軽々といなされてしまった。勢いを殺せず、俺は無様に床を転がる。舌打ちと共に立ち上がろうとすると、いつの間にか目の前には、屈み込んだマリーン先生の顔があった。
そして何故か、涙の到来が予期される瞳で、俺を見つめていた。その指先が、そっと俺の頬に触れる。
「——でも、今回だけはその運命に風穴が空いた」
マリーン先生は慈しむような声で言う。
「これまでの百五十五回では、あなたは廃人だった」
——何だって?
「アーサー、あなたはいつも一人で山に戻り、ペリノアに殺され続けていたのよ。お互いが寿命を迎えて果てるまで、ずっとね。幾千の夜と朝を越えて、あなたは抵抗することもなく、ただひたすらペリノアの刃を受け続ける一生を送っていた」
俺は言葉を失った。何故かは分からない。だが、奇妙なことに、俺はその話に強烈な説得力を感じたのだ。不可思議な共感を抱いたのだ。
——そうであったかもしれない、と。
「何度か、私はそれを止めてみたわ。でも、止めたところであなたはまるで人形のようだった。感情もなく、虚ろな瞳で、老いが不死の力を上回るまでの一生を、あなたはあの滅びた街で過ごしていた。でも、今回は違う」
魔女は——マリーン先生は僅かに涙すら浮かべながら、目を細めて俺を見る。
「こんなことは初めてよ。あなたが、こうして此処にいることが。怒りを見せてくれていることが」
怒りと困惑が俺の口を塞ぎ、言葉が出てこない。そこにあったのは、憎むべき魔女の顔ではなかった。あのアタヘイの街で俺たちに剣の稽古をつけてくれた、マリーン先生の優しげな顔だった。
やめろ、と俺は内心で思う。そんな顔で、俺を見ないでくれ、と。
そんな俺の願いを汲んだわけではないだろうが、そこでマリーン先生は立ち上がり、振り返ってバーダの方を見やった。そして、語る。
「この無限に続くかと思えた運命を砕いたのは——バーダロン・フォレスター、きっとあなたよ」
「私の……?」
突然の指名に、バーダロンは戸惑う。
「ええ。だって、これまで私が過ごした百五十五回の歴史の中に、バーダロン・フォレスターという名の小説家は登場しなかったのですもの」
「——え?」
唖然とするバーダを余所に、マリーン先生は続ける。
「当然、アーサーとあなたが出逢う筈も無かった。あなたと出逢えたから、アーサーは此処にいる。そして、今回の事件についても同じことが言える。これまでの百五十五回のすべてにおいて、ノーラ・レメルソンは人間の身体でこの世に蘇っていたわ」
俺とバーダは思わず顔を見合わせた。それはつまり、これまでこの女が過ごしてきた百五十五回の世界では、イヴはノーラに身体を乗っ取られ消滅していた、ということだ。
「バタフライ・エフェクト、というのを知っているかしら」
唐突に、マリーン先生はそんな単語を口にする。バーダは頷いた。
「……ああ、ハル・エリスの空想小説に登場した考え方だ。蝶の羽ばたきが星の裏側で嵐を引き起こすこと。つまりは、ささやかな出来事が世界のどこかで大きな出来事を引き起こすかもしれない、ということの喩えだろう」
「そう。私は今回もそのようなものだと考えているの。そもそも、これまではトーマス・レメルソンが私を裏切ることも無かった。今回の世界では、複雑な出来事が多角的に絡まってレメルソンが私を裏切ったんだ、ってね」
バーダロンは訝しげに魔女を睨む。
「まさか、それも私が原因だと?」
「私はそう思っている。あなたという存在がこの世界に生まれたから、すべてが変わり始めたのよ」
マリーン先生はゆっくりとバーダに歩み寄る。
「或いは私はこう考えているの——バーダロン・フォレスター、あなたはこの世界が生み出した、抑止力のような存在なのではないか、って」
「買いかぶりすぎだ」バーダロンは顔を顰めた。「私はただの小説家だ」
「だからこそ、じゃないかしら」魔女は妖しく微笑む。「この世界はきっと、あなたにこの先の物語を書いてもらいたがっているのよ」
魔女は期待の籠もった瞳で、小説家を見つめる。
小説家もまた、真剣な目で魔女を睨み付けていた。
その均衡を先に破ったのは、バーダだった。彼女は呆れたように大きく溜息を漏らした。
「……貴様の誇大な妄想の話はもういい」
対して、マリーン先生は気分を害したわけでもなく、くすくすと笑った。
「あら、残念ね。こういったフィクショナルな話はあなたの専門分野かと思ったけれど」
「浅い考察だな。私の専門分野はその先だ」そう言って、バーダはさらに一歩、マリーン先生に歩み寄る。「物語が人の心に何を残すか、だよ」
そう告げた矢先、唐突にバーダの放った平手打ちが、その女の左頬を打った。ぱん、という主張の強い音が室内に響く。
「——これは、貴様の物語がソードに残したものへの、私からの報いだ」
口調こそ穏やかであったが、バーダの顔には怒りがあった。
「貴様にも大層な事情があったのだろう。だが、人の尊厳を、人生そのものを踏みにじる道理を、この私は許せん。絶対にだ」
目の前に明確な境界線を引くかのように、バーダは確固たる口調で言った。
俺は驚きに目を見開いていたが、一方でマリーン先生はその頬を押さえながら、穏やかに微笑んでいた。
「……ええ、これは私の当然の報いよ。それでも、まだ足りないくらいだけれど」
「ああ、いっそ殺してやりたいところだが、それは出来ないようだからな」
揶揄するような口調ではない。それはバーダの本気の言葉だった。マリーン先生は再びくすりと笑みを漏らして、今度は俺の方を振り向いた。
「アーサー、あなたも殴っていいのよ。何なら、その剣で私の心臓を貫いても構わない。それで、あなたの気が済むのなら」
その真っ直ぐな瞳を、俺は見つめ返すことが出来なかった。自分の感情が分からなかった。故に、俺は顔を逸らすしかなかった。
「——もう、消えてくれ、先生」その言葉が、舌上に苦々しさを残す。「もう二度と、俺の前に現れないでくれ」
俺の言葉を受けて尚、彼女が微笑を崩していないだろうことは、目を背ける俺にも分かっていた。彼女がゆっくりと我々に背を向けたのを、俺は気配で察した。
「——今日、私があなたの前に姿を現したのは、ただ一言伝えたかったからよ」
俺は目を向けない。先生は肩越しに振り返り、俺を優しい瞳で見つめている。
「信じてくれないかもしれないけれど……アーサー、私は師として、あなたを心から愛しているわ。何度この世界を繰り返しても、ね」
俺の心に、棘だらけの薔薇のような言葉を残して、魔女は静かに去って行った。
後には、夏の夕陽と、穏やかな波の音だけが残った。




