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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 2. The Doll Across The Horizon.
77/83

〈二十六〉バーダロン・フォレスターの抱擁

 レメルソンを突き動かしたのは怒りだった。


 本来ならこの女一人、自動人形たちに命ずるだけで簡単に始末できる。あの候補者セミ・オリジナルの小娘のように、心臓を突き刺してしまえば終わりだろう。


 だが、それでは彼の中の憤怒は収まらなかった。たとえ言葉の上であっても、愛娘を殺す者は許されない。恐怖と絶望を与えた後に、自らの手で捻り殺してやらねばならない。


 バーダロンと倒れ伏す傭兵を見下ろしながら、男は調子外れの不気味な声をひり出す。


「バァ堕ろン・フォ玲すター、貴様にハ安楽ナ死は送らレヌと思エ」


 悍ましき機械仕掛けの巨人と化した男は、床を揺らせながらゆっくりとバーダロンの元へと歩み寄って来る。周囲にはむせ返るほど濃い油の匂いが満ちていた。先ほどレメルソンに吸収された人形たち、そしてソードによって屠られた人形たちの残骸から溢れたオイルの匂いである。それはさながら、人形たちの血の臭気であった。


「……まるでマリー・へレスの小説の怪物だな」


 バーダロンが連想したのは、数多の生物を組み合わせて作られた怪物に関するゴシック小説だ。目の前の男はまさに、機械仕掛けの合成生物だった。


 バーダロンは意識の無いソードに肩を貸して、何とか立ち上がる。彼女はソードの胸ポケットからこっそりと『それ』を取り出し、額に汗を浮かべながらも不敵に笑って見せた。


「だが、貴様に流れているのは赤い血ではない。錆びの浮いた薄汚いオイルだ」


 カチンと言う小気味の良い音と共に、彼女はそのオイルライターに火を灯す。


「——貴様の憎悪も結構だが、こちらの炎もよく燃えるぞ」


 そう言って、彼女がその灯火を足下へ放った瞬間、床中に零れていたオイルに引火し、猛烈な勢いで燃え上がる。猛火は床を走り、部屋中へと広がっていき、やがてレメルソンの機械の身体をも駆け上がっていった。


 突然のことに男は怯んだが、この程度の炎が鋼鉄を燃やし尽くせる筈も無かった。レメルソンに届いた炎は、その機械の身体の表面を焦がすだけに留まる。しかし、そこで彼はバーダロンの真の狙いに気づく。


「小賢シイ真似ヲ……」


 炎は部屋のあちこちに燃え広がり、機械油独特の黒煙が視界を不明瞭にしていた。レメルソンの右目が、バーダロンとソードの姿を見失う。


 その隙に、バーダロンはソードを肩で抱えたまま、姿勢を低くして出口へと必死に走る。歯を食いしばり、吹き付ける熱風に大粒の汗を掻きながら。それは、普段の彼女の立ち居振る舞いからは想像も出来ないほどに、まさに死に物狂いの逃走であった。


 ——ソードの意識が戻らない以上、今はまだ逃げるしかない。

 頼みの綱はもはやニコラスだ。未知数だが、この怪物を止めるとしたら、もはやそれくらいしか……。


 出口まであと一歩というところまで来たとき、バーダロンの頭上を高速で通過するものがあった。それは彼女の目の前で天井を破壊し、轟音と共に瓦礫の雨を降らせる。すんでの所でバーダロンは飛びすさり、辛うじて難を逃れたものの、ソードごと床に倒れ込む。


 しかし——。


「くっ……!」


 顔を上げたバーダロンは思わず歯噛みする。目と鼻の先だった脱出路は、瓦礫で完全に塞がれていた。それを為し得たのは、異様なまでに伸びたレメルソンの巨大な右腕である。


「逃ガすもノカ、狡猾ナ魔女めガ」


 詰め寄ってきた人形の頭部で、レメルソンの上半身がバーダロンを見下ろしていた。倒れ伏すソードの傍らで、バーダロンは毅然にもそれを睨み付ける。


 火の手は更に勢いを増し、吸い込む空気ですら火傷しそうなほどに熱い。目眩ましの為の不退転の策だったが、こうなってしまえば裏目以外の何物でもない。だが、それ以外にバーダロンに選択肢など無かった。つまり、この状況はその策すらをも失った最悪の展開である。


 だが、彼女は諦めない。ソードを守るように立ちはだかりながら、必死で思考を走らせる。


「炎デハ殺サナイ、私ノ手デ始末シテヤル」


 そんなバーダロンを嘲笑するかのように、レメルソンの豪腕が無慈悲に振りかざされる。業火に燃える世界で、機械仕掛けの巨人が告げた。


「舌上でノーラを殺シタ罪ヲ、悔イルガイイ」


 熱風と共に巨大な腕が振り下ろされる、その時だった。


 ——轟音だった。


 業火を纏う出口の瓦礫を打ち砕き、紅蓮の戦場へと特攻する影があった。

 豊かな栗色の髪を靡かせ、紅の先に姿を顕した少女は、あらん限りの声で叫ぶ。



「お姉ぇ様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」



 バーダロンはその目を疑う。

 レメルソンまでもが、突然のことに愕然としていた。


 しかし、誰にも声を出す暇を与えず。

 その少女は炎を纏いながら一直線に宙空を駆け抜け。

 その華奢な拳で、レメルソンの顔面に。


 ——ダイヤモンドの如き強靱な一撃を喰らわせたのだった。


 ◇


 機械仕掛けの巨人の身体がぐらりと揺れ、地響きを立ててその場に尻餅をつく。その頭部に鎮座していたレメルソンは、左顔面を覆っていた機械の仮面が粉々に砕け、配線や歯車を外気に露わにしながら、白目を剥いていた。


 それを為し遂げた少女は空中で身を翻し、その姿を小説家の前で明らかにする。


 華奢な十四歳の身体、栗色の髪、そしてその顔立ち。

 しかし、その瞳はかつての澄んだ碧い瞳から、橙がかった金色に変わっていた。


 いや、そんなことよりも……と、バーダロンは改めて目を疑う。


 その少女は、ゆっくりと、まるで羽根が天から舞い降りてくるかのように、バーダロンの眼前に降り立った。血のシミ一つ付いていない純白のワンピースが、バーダロンにまるで天使の降臨を想起させる。


 そう、その少女は、空中を自在に舞って現れたのだ。


「イヴ、なの……?」


 恐る恐る問いかけるバーダロンに、その少女——イヴ・フォレスターは頷いた。


「ええ。もう大丈夫です、お姉様」


 決意の表情で、イヴは告げる。


「——今度は、私が守りますから」


 すぐさまイヴは身を屈め、再び跳躍する。重力の頸木を引きちぎるかのように、天井すれすれまで飛翔したかと、倒れ伏すレメルソンの頭部めがけて直角に突撃した。


 人間として有り得ない動きに、バーダロンは驚愕よりも先に胸が締め付けられた。


「イヴ、あなたは……」


 バーダロンの呟きも余所に、イヴの再びの鉄拳が炸裂せんとした、そのときだった。巨人の右腕が、その巨体からは想像も出来ない速度でイヴの身体を捉えた。


「きゃっ」


 短い悲鳴を上げるイヴを、起き上がったレメルソンの顔が覗き込んだ。彼女の顔を自らの眼前に近づけて、残された右目で舐めるように観察する。


「オ、おオ……」


 すると突然、レメルソンの右目に涙が溢れ出す。号泣と言っても良いほどの勢いで落涙しながら、レメルソンの上半身が両腕を伸ばした。


「ノーラ、ノーラ……! オオ、ソノ顔ハ、ソノ表情ハ! 嗚呼……!」


 怒りの表情を露わにするイヴを前に、まるですべてが救われたかのように、レメルソンは感涙しながら両手を伸ばす。しかし、イヴは黄金色の瞳で毅然と睨み返した。


「いいえ、レメルソン博士。私はノーラではありません」


 そして次の瞬間。

 彼女を押さえ込む巨人の右手が、無数の断片に切り刻まれる。


「私はイヴ。ノーラからこの身体を預かった——人間です」


 拘束を解かれたイヴの両の前腕からは、あのシャトーモアのような刃が飛び出していた。しかも、それは甲高い唸りのような音を発しながら、小さな振幅で震動している。


 その現象を目の当たりにしたレメルソンの表情が、凍り付く。

 その兵装はレメルソン博士の設計に無いものであった。彼の中に不穏なノイズが走り出す。何故、こんな物騒なものが、ノーラの身体に備え付けられている? いったい誰がこんなものを?


「——あの短時間でその素体に追加出来た機能は二つだけだ」


 レメルソンの疑問に答えるように、青年の声が響いた。

 彼は先ほどイヴの空けた穴から、悠然とした足取りで部屋へと入ってくる。


「超震動によって掘削率を大幅に向上させた、シャトーモアの上位互換兵装である震動刃」


 その黒縁眼鏡の奥からは、自信に満ちた切れ長の瞳が巨人を睨めつけていた。


「もう一つは脚部に備え付けた高濃度過酸化水素を用いたヴァルダー機関。ああ、そういえばもう一つあったか」


 と、その青年は頭上のレメルソン博士の顔に向けて、見下すような冷笑を浮かべた。


「表情だ。貴様の失敗作と違って、僕の作品は笑うことも怒ることも出来る」


 まるで別人のようだった。その男の振る舞いに、あの気弱な青年の面影は何処にも無い。彼の瞳に宿るのは、自分の叡智に対する強固な確信と、目の前の怪物に対する蔑みだった。


 バーダロンは確認するかのように、恐る恐る彼の名を呼ぶ。


「ニコラス、なのか……?」

「フォレスター、約束は果たした。しかし、謝罪しよう。あれしか方法が無かった」


 苦渋に眉を寄せる青年を見て、バーダロンは確信する。

 ニコラスだ。この青年は確実に、彼の人格の延長線上にある存在なのだ。


「誰、ダ……」レメルソン博士の右目が、忌々しげにニコラスを見下ろす。「貴様ハ、何者ダ……」


「貴様如きに叡智を授けてしまった大罪人だよ」


 自嘲気味に言った後で、青年はその黒縁眼鏡を外し、鋭い眼光で男を射貫く。


「平伏せ、レメルソン——僕が『未来王エジソン』だ」


 堂々たる立ち居振る舞いで、青年は名乗りを上げる。


 レメルソンは困惑した様子で、宙に静止したままのイヴを振り返る。そして巨人の右腕の断面を、それでも尚、彼女の方に伸ばした。彼は譫言のように娘の名を繰り返す。


「ノーラ……私ノ、ノーラハ……私ノ、娘ハ……」


 バーダロンはそこで理解する。トーマス・レメルソンが、その傲慢さ故にすべてを失ったことに。


 自身こそが叡智のすべてを握っていると盲進したこと。そして、自身と次元の違う存在、未来王の存在に気づけなかったこと——それが、この男の最大の敗因だった。


 故に、彼は自分のよすが(﹅﹅﹅)であったノーラを、永遠に失ったのだ。


 哀れに手を伸ばしてくる男の眼前で、イヴは目を伏せ、静かに首を左右に振った。


「——ノーラはもういません。私にこの身体を残して、完全に消え去りました」


 その宣告が決定的だったのだろう。


 ——トーマス・レメルソンの精神に、致命的な亀裂が入る。


 彼は天を見上げ、あらん限りの声で絶叫した。


「ノォォォォォォラァァァァァァァァッ!」


 すると、巨人の足下から、まるで意志を持った蛇のように、無数のワイヤーのようなものが床を走り出す。それは燃えさかる人形たちの残骸に食らいつき、炎ごと巨人の身体へと引き寄せていった。


 やがて巨人が燃える人形たちを吸収し、巨人は今や地下室の天井を突き破らんばかりに肥大化していた。そこに、もはや人の形を保とうとする意志は無いようだった。


 やがてバーダロンたちの前に顕現したのは、紅蓮に燃えさかる機械仕掛けの怪物だった。

 ニコラスが舌打ちを漏らす。


「……自我が崩壊したか」


 怪物は尚も巨大化を続け、天井から瓦礫が降り始める。このままでは建物ごと破壊しかねない。あんなものが外界に現れでもしたら、街は大混乱に陥るだろう。


 バーダロンは唇を噛む。脳裏を過ったのは十二年前の炎の光景だ。あの惨劇を今に再現させるわけにはいかない。しかし、故に彼女は懊悩する。


「お姉様」


 と、イヴの声が頭上から舞い降りる。見上げるバーダロンに、彼女は微笑んだ。それは彼女の気持ちが、バーダロンと同じであることを示す表情だった。


「大丈夫です。さっきも言った筈です——今度は私の番だって」

「イヴ!」


 バーダロンの制止を余所に、イヴはその両腕を広げた。その前腕の刃が再び超高速で震動を開始する。


「——お父様、今、止めて差し上げます」


 二人分の意志を言葉に乗せて、イヴは炎の巨人へと特攻していった。


「フォレスター、このままでは我々も生き埋めになるぞ」降りしきる瓦礫の中でニコラスが告げる。「ジョナサンとヴィリティスは先に外に逃げている。僕らも早く」


「駄目よ」バーダロンは即答する。「イヴがまだ……」


「イヴは大丈夫だ。レメルソンの素体に僕の手を加えてある。この程度の炎なら……」

「違う!」


 バーダロンは強く、首を横に振った。


「……あの子一人だけに、あんな苦しい想いをさせるわけにはいかないわ」


 バーダロンは沈痛な面持ちで頭上を見上げる。そこでは、のたうちまわる炎の腕をかいくぐりながら、怪物に幾度もの太刀筋を刻もうとする少女の姿がある。


 やがて、天井の一部が砕け、一階の本棚が雪崩のように落ちてくる。それは次々と炎に焼かれ灰になっていく。更に巨人は、本と一緒に落ちてきた白い人形たちの残骸までをも吸収し、どんどん巨大化していく。


 このままでは、あの怪物は人形図書館の外に出て、ロア市に惨劇を生むだろう。

 イヴには、それが分かっているのだ、とバーダロンは思う。

 だからあの子は、その悲劇を止めようとしている。

 人間であることを諦めて、人形の姿になってまで。


 バーダロンは思わずその場に屈み込み、今尚倒れ伏す傭兵の両肩を掴んだ。


「ソード、起きて、お願い……!」


 バーダロンは、目蓋を閉じたままのソードに必死に呼びかける。


「あの子が戦ってる……あの子を、助けて……!」


 その瞳に、切実な涙を浮かべながら。


「……あなたは、私の雇った傭兵でしょう?」


 ◆



 暗闇だった。


 自分が立っているのかどうかも分からない。


 俺は、死んだのだろうか。


 左腕の感覚が無かった。確かにそこに実存は感じるのに、自分の腕のような気がしない。そしてその無感覚は、段々と俺の全身に広がっていく。


 ペリノアのことを思い出した。彼女が俺の目の前で黒い怪物に変貌していく、俺の中に呪いのように刻まれた光景。彼女もこんな感覚だったのだろうか。こうやって、消えていったのだろうか。


 ——このままでいれば、俺も砂となって消えることが出来るのだろうか。


 しかし、そんな無感覚の汚泥の中で、俺の右腕だけがはっきりとその感覚を握り絞めていた。その右手が握るものが、懐かしい声で俺に語りかける。



 ——アーサー、顔を上げなさい。


 マリーン先生の声が、ゆっくりと俺の右腕に温度を宿す。


 ——強くなりなさい。


 熱は心臓に伝わり、少しずつ左腕へと広がっていく。


 ——どれほど残酷なことが起きても、侵されないくらいに強く。


 無感覚の暗闇が、少しずつ、確実に拭い去られていく。過去の記憶が、まるで車窓を流れる景色のように、高速で俺の目の前を通り過ぎていく。


 アタヘイの街並、懐かしい友人たち、ペリノアの笑顔。


 ——アーサーは強いよ。たぶん、自分で思っているより、ずっとね。


 十年の放浪、傭兵組合の同僚たち、そして再び、あの山の光景。


 世界の果てのような場所で、迫り来る死を前にして、それでも彼女は俺を信じていた。


 ——おまえは、私の雇った傭兵だろう。


 ああ、分かっている。


 ……その傭兵が、砂になって消えることなど。

 おまえの物語には、絶対に無い筋書きだってことも。


 心臓が一際大きく脈打ち、左腕に灼熱が迸った瞬間。

 俺は自らの意志で、その暗闇から浮上した。


 ◆


「フォレスター、危ない!」


 青年の声で、彼女は咄嗟に頭上を見上げた。突然天井から、その身体を容易に押し潰せるほどに巨大な瓦礫が迫ってくるのが見えた。バーダは声を上げる余裕すら無く、思わず固く目を閉ざした。


 しかし、瓦礫はバーダの頭上で粉々に砕け散る。目蓋を空けて唖然とする彼女の瞳が捉えたのは、突き上げられた俺の黒刃の左腕だった。俺の顔を振り返り、彼女は顔をくしゃくしゃに歪めそうになる。しかしその前に、俺は自虐的に笑って見せる。


「——また待たせちまったな、バーダ」


 バーダは堪えて、涙に濡れた瞳のまま、強がりのような笑みを口元に取り戻した。


「——いつものことよ」


 俺は傍らに転がっていた相棒、ピースメイカーを右手で拾い上げる。そして、左腕を目の前に掲げ、その掌を開閉してみせた。黒い刃に包まれたその左腕は、しかしその鋭利な指先の一本一本にまで、確実に俺の感覚が行き渡っている。


「ソード……」


 心配そうに呼びかけるバーダを背に、俺はそいつに向き直る。紅蓮の炎を纏う、機械の怪物。同じく隣でそれを見上げ、ニコラスが言う。


「あれがレメルソン博士だ」

「……だろうな」


 俺は鼻を鳴らして、両腕の武器を構えた。


「ニコラス、バーダを連れて逃げろ」


 ニコラスが頷き、その横でバーダが俺の服の裾を掴んだ。

「ソード、お願い」今にも泣きそうな目で、彼女は言う。「イヴを、助けてあげて……」


 再び怪物を見やり、俺はそこに、奴と対峙する一人の少女の姿を見た。両腕に刃を纏い、人間離れした動きを見せる少女の姿を前に、俺はその現実を即座に理解する。 


 湧き出てくる後悔と絶望に、俺の左腕が一瞬だけ強く脈打った。しかし、俺はその衝動を全力で押さえ込む。その決意を自身に言い聞かせるように、俺は呟いた。


「——ああ、今度こそ」


 床を蹴り、燃えさかる炎を切り裂き、俺はその怪物へと激走を開始した。


 ◇


 イヴは苦戦を強いられていた。


 機械の怪物は館中に転がる人形を闇雲に吸収し、どんどん巨大化していく。その腕は既に六本まで増え、まるで巨大な蛇のように縦横無尽にのたうち回っていた。地下室の天井が破壊され、ついにその空間は一階と吹き抜けになる。書棚の本が雨のように降り注ぎ、次々と燃えていく。


 それでも尚、怪物の暴走は止まらなかった。六本の腕は紅蓮をまき散らしながら、壁や天井を破壊し、やがて図書館の二階まで打ち破ったかと思うと、屋根すらをも破壊し始めた。穴の空いた屋根から、深夜の月光が地獄のような世界に儚げに射し込んだ。


 ——人形図書館が、崩壊しようとしていた。


 イヴは焦燥する。


 早く決着をつけねばこの怪物は図書館の外に出て街を襲うだろう。コアとなっているレメルソン博士さえ倒すことが出来れば、止められるかもしれない。


 しかし、既にレメルソンの身体は、体表にかき集められた人形の殻に隠されてしまっている。イヴは六本の腕をかいくぐり、何度もその殻を斬り付け続けているものの、すぐに周囲の人形が寄り集まって傷を塞いでしまう。イヴの力では、まるで火力が足りなかった。


 この怪物を倒すには、一撃でコアを打ち抜けるほどの火力が要る。


 やがてイヴは、その方法に気づく。おそらく、この身体でその火力を引き出すことは不可能ではない。


 ——ただ、この身体はそれに耐えられないだろう。


 恐れ故に、一瞬でも躊躇を挟んでしまったことを、しかし、イヴは恥じた。


 ……何を恐れることがある。私は決着をつけるために、もう一度、この世界に繋ぎ止められたんじゃないか。


 首を振って自分を奮い立たせ、イヴが脚部の推進機関を最大戦速で出力させようとした、そのときだった。


「うおぉぉぉっ!」


 男の鬨の声が響いた。イヴが咄嗟に目をやった先に、驚くべき光景が広がった。その男は炎に包まれた巨人の身体を生身で駆け上がり、天高く飛翔する。そしてその勢いのまま、怪物の巨大な腕の一本めがけて豪快に斬りかかった。


「ソードさん!」


 イヴが男の名を叫んだのと、その剣が炸裂したのは、ほぼ同時だった。


 銃声のような音が連続で三発。そしてぎゃりぎゃりという、鈍く太い金属の裂ける音が響く。そして次の瞬間、|銃の剣〈ガンブレード〉『ピースメイカー』の三連射の一撃が、あの大樹のような巨人の腕を斬り落としたのだった。


 あまりに規格外な芸当に、イヴは口を開けて愕然とする。しかし、次の瞬間には慌ててその方向に向けて空を蹴った。落下していくソードの右腕を、空中で辛うじてイヴの華奢な両手が捕まえる。そしてソードを抱えたまま高く飛翔し、怪物から少し距離を取った。そこで彼はイヴを見上げて、どこか自虐的な笑みを浮かべた。


「助かったぜ、脚の骨を折るところだった」

「ソードさん、なんて無茶なことを……」

「——そりゃこっちの台詞だ」


 自分を見上げるソードの瞳には、確かな憤りがあった。しかし、その感情はイヴに向けられているようにも、或いはソード自身に向けられているようにも見えた。


「それで、奴の本体はどこだ」ソードは眼下の怪物を見やって目を細める。「頭を潰せばさすがに止まるんだろ」

「あの大きな瘤になっているところです。ただ、何度斬り付けてもすぐに殻が塞がってしまって……」


 破壊するためには瞬間的な火力が必要であることを、イヴはソードに伝える。そして、それを為し得る方法も、自分がそれを為そうとしていることも、イヴは正直に話した。


「……お姉様に、ありがとうと伝えてください」


 イヴは柔らかく微笑んで、そう付け加える。反対されるであろうことは理解していた。しかし、そのときはこのままソードを図書館の外まで運び出してしまえばいい。


 だが、返ってきた言葉は、イヴの予想外のものだった。


「——面白ぇな。それ、俺にやらせろよ」

「え?」


 唖然とするイヴに対して、ソードは口元に笑みを浮かべていた。まるであの小説家のように、自信に満ちあふれた不敵な笑みである。


「で、ですが、ソードさん」

「忘れたのか」呆れたように、ソードは言う。「俺は不死身だ」


 しかし、見上げた男の目に宿っていたのは、イヴへの信頼だった。これを為し得る為には、自分の力も必要なのだ、と。


 故に、イヴは瞳に決意を宿し、こくりと頷きを返した。



 ◇



 バーダロンはニコラスの後に続き、一階の窓を突き破って人形図書館を飛び出した。それとほぼ同時に、先ほどまでいた場所に火の手が回る。壁に亀裂が入り、建物中の窓硝子が割れ始めた。


 建物から距離を取ったところで、先に脱出していたジョナサンとヴィリティスが二人を出迎えた。


「バーダロン、ニコラス、大丈夫か!」

「イヴとソードは?」


 女騎士の問いに、バーダロンは人形図書館を振り返る。


「……まだ、戦っている」


 仰ぎ見る夜空は満点の星空だった。満月の金色の光が世界に降り注ぎ、燃えさかる人形図書館を照らしていた。

 あの紅蓮の中で、ソードとイヴが戦っている。


 バーダロンは拳を握りしめて、唇を噛んだ。今の彼女には、もはや祈ることしか出来ない。しかし、その先は神に対してではなかった。


「……アトラ、お願い」バーダロンは両手を胸の前で組む。「あの二人を守って……」


「——何だ、あれは?」


 それに最初に気づいたのは、ヴィリティスだった。バーダも咄嗟にその方向を見やる。


 人形図書館の屋根を突き抜けて、影が一つ、満月へと向かって一直線に飛翔していた。


 ◆


 猛烈な風が、俺の全身を包んだ。


 重力の抵抗を振り切りながら、我々は空気の壁をいくつもぶち破る。イヴは俺を背後から抱きかかえながら、その両脚の機関で天高く飛翔していく。


 そして、怪物の開けた屋根の穴から、俺たちは人形図書館の外に飛び出した。我々を取り囲んでいた炎の熱気は拭い去られ、夏の夜の涼しげな空気が出迎える。しかし、その清々しさを堪能している暇は無い。イヴは俺を連れて、遙か上空の満月めがけて更に天高く飛翔していく。


「ソードさん、しっかり掴まっていてください!」

「ああ!」


 言葉は発した直後に足下へと落下していき、俺の顔に吹き付ける風がまるで吹雪のように冷たくなっていく。かつて味わったことの無い感覚に肝が冷えそうになるが、俺は歯を食いしばって耐える。気づけば、我々の右手にロアの街の絢爛な夜の灯りが見え始め、左手には月光に照らされる真西洋の水平線が見えた。


 やがて俺たちは最高高度に達し、満点の星空を背に身を翻す。


 眼下、先ほど我々が飛び出してきた人形図書館は、まるで地図の上に刺した虫ピンのように小さく見えた。俺は覚悟と共に、右手で腰のピースメイカーを引き抜く。


「——ソードさん、宜しいですか?」


 イヴの問いに、俺は強く頷きを返す。覚悟は既に決まっていた。


「——ぶちかましてやろうぜ」


 そして俺たちは、先ほど飛び出してきた屋根の穴めがけて急降下を開始する。それはただの落下ではない。我々は頭を地面に向け、イヴの脚の推進機関を使ってどんどん加速していく。凍えるほどの風は、やがて痛みとなって俺の全身を切りつけ始めた。


 俺たちの目標は一点、あの怪物のコアとなっているレメルソン本体である。


 奴は人形たちの残骸を寄せ集めて作った分厚い殻で守られている。それをぶち破るために必要なのは、大砲のような瞬発的な火力だ。


 イヴの最初のアイディアは、その両脚の推進機関と重力を使って、高高度から自らをその大砲の弾としてあの怪物に打ち込む、というものだった。まさに捨て身の特攻である。彼女の身体の耐久性がどれほどなのかは分からないが、おそらく無事で済むということは無いだろう。


 だが、俺なら話は別だ。不死身の身体ならば死ぬことも無い。その上、今の俺の左腕は、鋼鉄をぶち破るのにも打って付けである。


 夏の夜を斬り裂き、俺たちは弾丸のように大地へ向けて特攻する。俺の視界では、目標となる一点を除き、世界が凄まじい速度で削れ消えていく。やがて俺たちは人形図書館の穴を抜け、再び業火の燃える地獄へと舞い戻る。


 暴れ狂う機械仕掛けの怪物が見えた瞬間、俺は叫んだ。


「今だ!」

「はい!」


 イヴは俺の身体を解き放ち、俺はさながら砲弾の如く怪物の懐へと突っ込む。奴は咄嗟にその腕の一本をもたげて防ごうとしたが、間に合う筈も無かった。


「うぉぉぉぉらぁぁぁぁッ!」


 俺の猛りの声と共に。

 獣の豪腕がその殻に炸裂し、轟音が人形図書館を揺らした。


 幾層にも折り重なった殻はその衝撃で爆ぜるように吹き飛び、周囲に残骸を散らす。俺は全身の骨が砕ける程の激痛に耐えながら、その左腕を奴の身体の奥深くへと穿っていく。その腕の勢いが止まり、層の最後の一枚に到達したとき、俺は左手の爪をその殻に突き立てた。そしてそのまま、力任せに殻をこじ開けていく。


 その左腕を覆う鎧が、その力に耐えかねるようにバリバリと剥がれ始める。激痛に顔を顰めながらも、しかし、俺は強引に最後の殻一枚を引き剥がした。


 やがて現れた空洞の奥底に、俺を見上げる愕然とした男の顔を見た。レメルソンは憔悴し、焦点の合ってない目で、俺を見上げる。


「ア、嗚呼、アァ……」


 もはや理性すら無いのだろう。男の口からは涎と共に、譫言のような言葉しか零れてこなかった。そこにあったのは、あまりにも哀れで、あまりにも無様な、一人の男の成れの果ての姿であった。


 俺は右手に握るピースメイカーの撃鉄を起こし、大きく振りかざす。


「終わりにしよう、レメルソン博士」


 俺はささやかな憐憫を胸の奥に押し込め、無慈悲にそう告げた。


「——これが、俺の受けた依頼だ」


 そして次の瞬間には。


 この夏の夜の悪夢を、俺の渾身の一閃が断ち斬った。




 ◇




 一際大きな音が、人形図書館の方から聞こえた。何かが倒れるような、重々しい音だった。


 その音に連なるようにして、ついに建物の外壁の一部が崩れ始める。内部の支柱を失ったのか、建物を構築する煉瓦が解けるようにして地に落ちていく。


 人形図書館の終焉だった。


 バーダロンたち四人は少し離れた場所で、その様子を見つめていた。


「イヴ、ソード……」


 バーダロンが心配そうに呟いたのと、ヴィリティスの目がそれを捉えたのは、ほぼ同時だった。


「バーダ、あれを見ろ!」


 女騎士が指さした方向は、人形図書館の上空だった。一つの影が建物から飛び出し、こちらの方に飛んでくるのが見える。やがてそれは、四人の前にゆっくりと降下してくる。


 降り立ったイヴは、ぐったりしたソードの身体を抱えていた。彼の左腕はいつの間にか人間のものに戻っている。イヴはソードの身体を優しく大地に横たわらせ、駆け寄ってくるバーダロンを見上げて頷いた。


「気を失っているだけみたいです。凄く消耗していたので……」

「——レメルソンは?」


 その問いはニコラスからだった。イヴはどこか悲しげな笑みと共に、横たわるソードを見やった。


「……結局、ソードさんがすべてを終わらせてくれました」


 そして、困ったような笑顔で、バーダロンに向き直る。


「私、ずっと守られてばかりで、最後まで役に立たなくて……」


 イヴの身体はボロボロだった。その腕や脚の破れた皮膚の下には、鈍く月光を反射する金属の輝きが見える。その姿が、彼女が以前のイヴではないことを物語っていた。


 誰も、言葉を発することが出来なかった。人間であることを諦め、機械仕掛けの身体になるしかなかった少女。そんな存在に、憐憫以外のどんな言葉が向けられるというのだろう。


 イヴは一同の沈黙を前に、困ったように微笑むだけだった。


「……ごめんなさい」と、唐突にイヴは頭を下げる。「変、ですよね、私。死んだ筈なのに、こうして皆さんとお話してるなんて……」


 それでも、イヴは気丈に笑顔だけは崩さなかった。


「でも私、後悔してないんです。このおかげで、一度だけでしたけど、お姉様を助けることも出来たから……でも、もう満足しました。私が生きていたってこと、その意味がちゃんとあったんだってこと、分かったような気がするんです」


 イヴはそう言って、未来王に視線を向けた。


「だから、ニコラスさん、もう私を……」


 そのときだった。


 バーダロンはイヴのもとへ駆け寄り、その腕で強く強く、少女の身体を抱きしめた。




「——イヴ、一緒にイクスラハへ帰りましょう」




 優しく、彼女は耳元で告げる。


 呆気に取られていたイヴの瞳が、その異変を察知する。彼女の口が、震える言葉を漏らす。


「……私、人形ですよ」


「ええ」


「……もう、人間じゃないんですよ」


「ええ」


「それなのに、一緒にいて、いいんですか」


「イヴ」


 バーダロンは抱擁を解き、イヴの瞳を見つめた。


 そして、優しく微笑みながら、告げる。





「あなたは、私の妹よ」





 ——それは本来、レメルソンがノーラの為に作り上げた機能であったが、うまく機能しないものの筈だった。しかし今、それは未来王の手が加えられたことにより、正常に動作していた。


 それは、涙だった。


 イヴの瞳から、途端に大粒の涙が溢れ出した。それは自律的に止めることが出来なかった。それは嗚咽となり、彼女の全身を震わせる。


「お姉様、私……」


 顔をくしゃくしゃに歪める少女を、バーダロンは再び優しく抱きしめる。


「あなたがどんな姿になろうとも、大丈夫。前に言ったでしょう」


 バーダロンの中で、それは何一つとして変わっていない。

 あの日、一緒に回転木馬に乗った時から。



「——あなたは、私が捕まえていてあげる」



 その言葉で、イヴの心を囲む城壁が地を打つ。


 少女は姉の胸元に顔を埋め、大声を上げて泣き出した。


 イヴの泣き声は潮風に吹かれ、岬を越えて、静かに夏の夜の彼方へと溶けていった。

















 ◆







 ——風が俺の頬を撫でた。夏の香りがする風だった。


 ゆっくり目を開けると、見慣れぬ天井が俺を迎えた。視界の隅で、レースカーテンの端が心地よさそうに揺れている。


 やがて、見慣れた顔が俺を覗き込む。彼女は俺の目蓋が開けられているのを確認して、僅かに口元を緩めた。安堵と呆れが入り混じったような、穏やかな微笑だった。


「大丈夫そうね、ソード」


 彼女が言う。俺はゆっくりと身を起こして、頭を振った。ささやかな頭痛と倦怠感、そして口の中には古い綿を詰め込まれたような不快感があった。寝台から足を下ろし、顔を顰めながら周囲を見渡す。


「……ここは、何処だ?」

「オーリアのアトリエよ。あなたは、ほとんど丸一日寝ていたのよ」


 耳を澄ますと、穏やかな小波の音が聞こえた。西向きの窓から侵入する夏の陽射しが、俺の足元に日だまりを作っている。俺ははっとしてバーダの顔を見上げた。


「イヴは?」

「大丈夫」


 そう言った後で、深い憐憫が彼女の顔を覆った。


「……今はニコラスが整備してくれてる」


 俺の脳裏に、最後に見たイヴの姿が蘇る。怪物と化したレメルソン博士と真っ向から対峙し、互角に渡り合う少女の姿。俺でさえ、あの姿が何を意味しているのかは理解できた。人間としてのイヴの身体は、きっとあの致命傷によって機能を終えてしまったのだろう。


「気に病むな」バーダがいつもの小説家口調で言う。「あの子はすべてを受け入れて、あの姿となった。あの子の選択の結果だ」


「選択の余地が無かっただろうが」俺は自身への怒りと共に吐き捨てる。「その状況に追いやったのは、俺だ」


 バーダはそんな俺を見下ろし、しばしの沈黙の後に口開いた。


「——イヴは後悔していなかった」


 顔を上げると、バーダは真剣な顔で俺を見ていた。


「おまえの悔恨も分かる。だが、それはあの子の選択を尊重することとは矛盾しない。違うか?」


 しばらく考え込んだ後で、俺は頷いた。その通りだった。


 苦々しい思いに、俺の左腕が疼く。思わず右手を当てる。そこには、いつも通りの俺の左腕があった。昨夜、そこを覆っていた黒い刃の鎧は、その残滓すら無かった。


「それより、おまえの身体は大丈夫なのか?」


 バーダが俺の左腕に視線を向けながら訊ねた。


「ああ、今のところは問題無さそうだ」


 俺は左手を開閉しながら、眉を寄せて答えた。疑念は残りつつも、その回答がすべてである。その左腕は、いつも通りの俺の左腕だった。


 バーダは右手を顎先に当てて、何かを考え込むような表情で、そんな俺の様子を観察していた。その口が、とある単語を呟く。


「——やはり、最愛の霊薬によるものか」

「だろうな」


 俺の不死身の身体の原因となった、禁忌の霊薬。原因はそれ以外に考えられない。そして、今回それが暴走したきっかけも、俺には見当が付いている。イヴが刺された時だ。


 バーダにもそれが分かっているのだろう。彼女は気難しげな表情で、独り言のように漏らした。


「まさか、投与された人間の精神状態が何らかの作用を起こす、というのか……」


「なぁ、バーダ」と、俺は真剣な顔を向ける。「実は話があるんだ」


 と、俺が語ろうとした、その時だった。


 部屋の入り口にオーリアの姿が現れ、俺はその話を呑み込んだ。彼女は俺の姿を見るなり、その表情を明るくさせた。


「ああ、良かった! 目が覚めたんですね、ソードさん」


 俺は吐息を漏らし、気弱に笑って見せる。


「ああ。何とかな。俺の分の朝食は残ってるか?」

「ええ。もう夕食になりそうですけど」彼女はくすくすと笑う。「あ、でもその前に——」


 と、オーリアはバーダロンの方に目をやる。


「お客様がいらっしゃったわ、バーダ」


「ああ、予想していたよ」バーダロンは疲れたような吐息を漏らした。「通してくれ、オーリア」


 オーリアは頷き、その客人とやらを呼びに退室していった。


「客だと? そりゃいったい誰だ」


 俺の問いに、バーダは苦い顔を浮かべる。


「今回、取引した奴だよ。正直、あまり会いたくはないがな」

「——あら、それは悲しいわね」


 と、入り口の方から涼やかな女の声が響いた。バーダロンはそちらを見やり、ますます苦い顔を浮かべて、その人物の名前を呟いた。


「フェイト・スタンリー……」


「そう邪険にしないでください。私はただ、今回のお礼を言いに来ただけですよ」


「ふん、多忙極めるスタンリー社の社長が、ご苦労なことだな」


 そこでバーダは俺に気づき、思い出したように口を開く。


「ああ。ソード、お前にも紹介しておこう。彼女は……」


「——そちらが、例の不死身の傭兵さんね」


 その人物の瞳が俺に向けられた、その瞬間。







 ——血が、逆流するかと思った。


 何故、バーダはこの人と会話をしているのだろう。


 これは、絶対にあり得ない光景だ。


 しかし、その人物が俺に向けて浮かべた妖しい微笑が、これが揺るぎようもない現実であることを告げる。それを理解した瞬間、全身の血が沸騰した。




「——十年ぶりかしら」




 その言の葉が切れる前に、俺はベッドから飛び起きた。刹那の間に傍らの剣を掴み、抜剣してその女に斬りかかる。バーダの驚愕の声よりも先に、室内に甲高い金属音が響いた。


 目にも留まらぬ速さであった。俺の渾身の一撃は、その女がいつの間にか手にしていた短刀で、いとも容易く受け止められていた。全身全霊の膂力に顔を歪める俺の目の前で、彼女は当時と全く同じ、涼しげな微笑を浮かべる。


 その唇が、懐かしい声を紡ぐ。



「本当に強くなったわね、アーサー」



「何故だ!」



 湧き出てくる怒りを必死に抑えながら。



「何故、あんたが生きてるんだ……!」



 俺は問いの刃を突き刺す。



















「マリーン先生……ッ!」

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