〈二十一〉トーマス・レメルソンの同期
夜の闇は、月の明かりすらも隠していた。
岬の突端にたどり着き、イヴは馬から下りる。馬に乗るのは初めてだったが、思いの外、うまく操ることが出来た。
「馬を勝手に使ったこと、後でオーリアさんに謝らないと……」
馬の手綱を近くの柵に結びつけてから、イヴはその建物を見上げる。二階建ての煉瓦作りの建物である。間近で見る人形図書館は、深夜の暗闇のせいか、イヴの目には不気味な巨人のようにも見えた。
不意に生ぬるい風が強く吹き付けたかと思うと、雲の隙間から月光が差し込み、建物の輪郭を顕に映し出した。潮風で褐色となった煉瓦の壁には、まるで不穏な影のように濃い緑色の夏蔦が絡みつき、窓硝子のいくつかには蜘蛛の巣のようなひびが入っている。敷地への鉄柵は赤錆に塗れ、風が吹き付けるたびにぎぃぎぃとねじを巻くような音を響かせていた。どの窓にも灯りは無く、人の気配も無い。
その不吉を絵に書いたような外観に、イヴは一人で来たことを少し後悔しそうになったが、自分を奮い立たせるように深く息を吸い込んだ。
此処まで来て引き返すなら、私は何のために大陸を横断したのだろう。何のために、多くの人たちが傷ついたのだろう。これは私から始まったことだ。私が終わらせねばならないことなのだ。
意を決して彼女が足を踏み出すと、入り口の木製の扉がひとりでにゆっくりと開き始める。
しかし、イヴはもう慄かない。自動で開く扉など、自動で動く人形に比べたら可愛いものだ。そう言い聞かせながら、イヴはさらに一歩を踏み出した。
屋内に足を踏み入れると、古い紙とインクの香りがかすかに鼻をくすぐった。ベルロランの屋敷でよく嗅いだ香りに似ている。すると次の瞬間には背後の扉が再び自動で締まり、やがて周囲はまるでインクの海に沈んだかのように、濃密な暗闇に満たされた。
恐怖が無いと言えば、嘘になる。しかし、イヴは毅然としてそこに立ち尽くした。
やがて、部屋の奥の方から、壁にかけられたランプに火が灯りだした。一つの灯りは弱々しかったが、それがいくつも連なると視界が大きく開けていった。
照らし出された室内の様子に、思わずイヴの背筋に怖気が走る。それは、それほどまでに奇怪な光景だった。
図書館らしく、四方の壁は天井まで届く本棚となっており、そこには隙間なく本の背表紙が並べられている。部屋の中央にも背の低い本棚が幾十にも並び、そこにもまたぎっしりと本が詰まっていた。
そして、本棚と本棚の間を埋めるように立っていたのは、累々たる人形だった。衣服は来ておらず、まるで陶磁のように生々しい白肌が顕になっている。頭髪も無く、顔には眉毛すら無く、そして表情と呼べるべきものも無い。数十体にも及ぶであろう人形たちは、ある者は棚から本を取ろうとするような体勢で、あるものは本を手にページに目を落とした姿勢で、その場に時間が止まったかのように静止していた。
……まるで、人形たちが人間の知識を求めて本を漁っているかのような、ある種の不気味さを放つ光景だった。
「お待ちしておりました、セミ・オリジナル」
そんな声と共に、人形の群れの中から姿を現したのは金髪を肩口で切り揃えた、自分と何処となく似た顔立ちの少女だった。彼女とはアルノルンのあの大鐘楼で一度会ったことがある。ソードとヴィリティスを負傷させた自動人形、シャトーモアであった。
「ご無事で何よりです」
イヴは無言でその人形を睨み付けるも、相手は何を思う様子でもなく、貼り付けた仮面のような微笑を浮かべたままだった。その視線だけが、ぎょろりとイヴの傍らの旅行鞄に向けられる。
「そちらのお荷物は私が運びましょう」
「結構です」イヴは旅行鞄の柄を握りしめて即答する。「私がここまで運んだのです。最後まで私がお届けします」
「左様ですか。それでは、こちらへ」
イヴの冷たい対応も意に介さず、シャトーモアは微笑のまま図書館の奥へと彼女を誘った。イヴは再び深呼吸を挟んで、その後に続く。
とある大きな本棚の前で、シャトーモアはその中の一冊の本を引き抜き、その空いた空間に手を入れた。がちん、という歯車のかみ合うような音が聞こえたかとおもうと、ゆっくりとその本棚が奥に向かって開き始める。隠し扉だ。開いた先には、地下へと続く石造りの階段があった。
「さぁ、この先で館長がお待ちです」
地下から吹き抜ける冷たい風が、シャトーモアの言葉をより無機的に響かせた。
◆
シャトーモアに導かれるままにイヴは階段を降りる。指先が揺れる壁は冷たく湿っていた。らせん状に婉曲する階段は暗く、シャトーモアの掲げるランプだけが頼りである。大きな旅行鞄のキャスターをガンガンと階段にぶつけながら、イヴは額に汗を浮かべてその後に続く。やはり鞄はこの人形に持って貰うべきだったかな、と彼女は少し後悔した。
どれだけ下ったろうか、と思い始めた頃に、先導するシャトーモアが歩みを止めた。
「こちらです」
階段は更に地下深くまで続いているようだったが、人形が立ち止まったのはその途中、踊り場のようなスペースにある大きな両開きの扉の前だった。シャトーモアはその扉を手の甲で二回叩く。
「お二人が到着されました」
——その言葉に違和感を覚える。それは奇妙な怖気となって、イヴの背筋を撫でた。
この人形は今、何と言っただろう?
……二人?
イヴの中で渦巻き始めた疑問を余所に、扉は重々しい音を立ててひとりでに開いていく。
そこは広い空間だった。高い天井には無数の照明管らしきものが明かりを灯し、広大な空間に光りと闇の境界をいくつも作っている。その部屋全体は、『研究室』とでも称すのが適切だろうか。室内のあちこちには大きな実験用の机が乱立し、その上にはいくつかの機材が片付けられもせずに転がっている。
しかし、何よりイヴの目を引いたのが、床に転がった無数の人形の残骸だった。撥条や歯車はもちろん、腕や脚、果ては表情のない頭部までもが、まるで打ち捨てられたかのように放置されている。
もしかしたら、あの本棚のフロアにあった人形は此処で作られているのかもしれない。しかし、この有様は人形の生まれ故郷というよりも——そう、まるで墓場だ。
「——来たか」
男の声が、部屋の奥の方から聞こえた。
その声に、イヴは身を震わせる。
しかし、それは未知のものに対する恐怖からではない。
むしろ、その逆——。
その声が、自分にとって既知のものだったからである。
「そん、な……」
愕然と、イヴは声を漏らした。
やがて、暗闇の奥からキィキィという車輪の回る音が聞こえてくる。そして、車椅子に乗った人物が闇と明かりの境界線を越え、イヴの前に姿を現した。
有り得ない光景に、イヴは思わず自分の足下の旅行鞄を倒してしまった。呼吸が乱れ、心臓が早鐘を鳴らしている。
その車椅子の男はまず最初に鞄に目をやり、それからイヴに目を向けた。その片方の目は仮面のようなものが覆い、その上に誂えられた硝子玉のような義眼がぎょろぎょろと動いている。よく見ると、その両腕も機械仕掛けの義手のようだった。
——しかし、それでも。
イヴが、その男を忘れる筈がない。
彼女は震える声で、彼に話しかけた。
「……お、お父様……どうして……?」
「——その娘が、二号機の見つけた候補者か」
対して、冷たく事務的に、トーマス・レメルソン博士は言った。
◆
「二号機はそれか?」
レメルソン博士がイヴの足下の旅行鞄を顎で示す。シャトーモアがそれを持ち上げ、彼の元に運んだ。シャトーモアは男の前で跪き、鞄を差し出しながら恭しく頭を垂れた。
「どうやらパスワードで施錠されているようです」
「ふん、カルビン合金製の鞄か」
レメルソンはつまらなそうに言うと、右手の機械の指先をその鞄にかざしてみせる。そして、その五指がまるで別個の生命体のようにガタガタと奇怪な動きを見せた、次の瞬間。
——ガチン、という音がして、その旅行鞄の留め金が開いた。
イヴの旅の間、何をしても開かなかった、禁断の箱が開かれる。
蒸気のような煙が漏れ、やがて照明が照らし出した中身に、思わずイヴは息を吞み、掠れるような声で呟いた。
「お父、様……!」
そこにあったのは——レメルソン博士とまったく同じ顔をした、男の生首だった。
そして次の瞬間、その生首の目が開かれる。思わずイヴは驚きの声を漏らしてしまった。
車椅子に座る方のレメルソン博士は、その頭部を両手の義手で持ち上げる。すると、その生首の口が開いた。
「……搬送の段階で想定外の事態が起きた。その為、このような形式で同期を図ることとした」
まるで蓄音機から聞こえてくるような、機械的な声だった。それを聞いて、イヴは足下が崩れ去っていくような感覚を覚える。
——人間では、無い。
あの生首は、間違い無く私をロンド・ヴェルファスで拾った男性のものだ。五年間、私の父親だった人物だ。私を養育していた人物の筈だ。
……しかし、それは人間ではなかった。
人形。人形。人形……。
イヴの全身ががたがたと震え始める。悍ましさが恐怖となり、彼女を呑み込む。
つまり——父親も、女給仕も、あの屋敷に居た者は、すべてが人形だった。
何が起きているの?
私は何なの——?
人形に拾われて、人形に育てられた——私はいったい、何者なの?
呆然と立ち尽くすイヴには目もくれず、車椅子の男は、自身の両手の間にある頭部に語りかける。
「ああ、シャトーモアの報告で事態の推測は出来ている。まずは情報の同期だ」
「承知した。回線を繋いでく——」
返答も待たず、車椅子の男は左手の人差し指を立て、おもむろに生首のこめかみに突き刺した。すると首だけのレメルソン博士の口元が痙攣し、その瞳が白目を剥く。やがて、まるで獣の断末魔のような音を口から絞り出しながら、生首がぶるぶると震えだした。それは見るからに悍ましい光景であった。
「——ふむ、情報はすべて同期した」
車椅子の男はそう言って、手にした頭部をいきなり宙空に放り投げた。そして、言い放つ。
「機密を保持しろ」
その言葉に続くように、イヴの傍らに立っていたシャトーモアが動く。目にもとまらぬ速度で飛翔したかと思うと、彼女は両の掌から短剣を突き出した。そして、空中に浮かんだままのレメルソン博士の頭部を、瞬き一つ挟む間に、ばらばらに切り裂いた。硝子玉のような眼球や、歯車や撥条、そして機械油のような液体が、雨となってイヴの眼前に降り注ぐ。
思わず、彼女は悲鳴を上げて尻餅をついてしまった。
いつの間にか耳朶にがちがちという音が響いている。それが、自分の奥歯がぶつかり合う音だということに気づく。奥歯だけではない。イヴの全身が恐怖に震えていた。
そんな彼女を見下ろし、車椅子の男は口開いた。
「おまえの識別名はエヴァンジェリン・アーシュラ。定義上の年齢は十四歳二ヶ月。身長は五フィート四インチ、体重は一〇二ポンド。間違い無いな?」
それは冷たく、まるで物を見るような視線だった。イヴはその問いには答えず、震える声で自身の疑問を投じた。
「あなたは……誰、ですか……?」
「私はトーマス・アルバ・レメルソンだ」
「お父、様……?」
「いや、君の父親役だったものは私を模した人形だ。私はそのオリジナルだ。私と君はこれが初対面になる」
そう言って、男は自分の機械の右手を目前で開閉して見せた。
「オリジナルと言っても、私の身体の約六割は今や人間というよりも人形に近いがな」
そう言って、男の口元に独りよがりな微笑が浮かぶ。それを見てイヴは戦慄する。
……あの人は笑わない。
これは、自分の知っている父親ではない。
「少し交流を図りたい。同期情報の裏付けのためにもな」
きぃ、と車椅子の車輪を軋ませて、男は近づいていくる。イヴは尻餅をついたまま、反射的に後ずさった。
「……ふむ」と男は車椅子を止める。「混乱か。これでは会話も成り立たぬな」
そして、器用にも車輪を後転させ、距離を再び測り直すかのように、先ほどの位置に戻る。そしてシャトーモアに一瞥を送ると、人形はその意を汲むようにして手近にあった椅子をイヴの傍らに運んでくる。
「まずは座るがいい」
その申し出に、イヴは無言で男を睨み付けまま、恐る恐る椅子に腰掛ける。それを確認してから、レメルソン博士は一度こくりと頷いた。
「何でも訊きたまえ。今さら隠し立てをすることは何一つとしてない」
イヴは戸惑う。今さら、と彼は言った。それはつまり、今、この状況の時点で、この男の目論見はすべて達成されている——そういう意味なのだろうか。
イヴは自分を落ち着かせるために、深呼吸を挟んだ。意を決して口を開く。
「さ、先ほどあなたが破壊した人形——」図らずも声が震えていた。「あれは、ロンド・ヴェルファスで、私を養女にした人物、ですか?」
「その通りだ」レメルソンは車椅子の肘置きで頬杖を突きながら答える。「私がロンド・ヴェルファスに送り込んだ、私の複製品だ。世間で一般的に認知されている『科学者レメルソン』はあの個体である。しかし、もはや役目は終えた」
「役目?」
「特許ビジネスによる私の研究の為の資金調達、そして——私の研究の為の人材の発見、及びこの図書館への搬送だ。尤も——」と、男は自嘲するように鼻を鳴らした。「搬送については計画通りではなかったが……まぁ、結果的には良しとしよう」
計画。それはつまり、自分がユナリア大陸の最果てまでの旅に、一人で送り出された理由だろうか。しかし、イヴがそれを問う前に、男は自ら語り出した。
「『二号機の記憶情報』と『エヴァンジェリン・アーシュラ』は、私の目的にとって必須だった。しかし私は……いや、二号機は、その搬送方法に苦慮することになった」
イヴは眉を寄せる。
「どういう、意味ですか?」
「うむ、順序立てて説明しよう——ああ、待て」
と、男は人形の方に指で何か指図した。すると、シャトーモアがローズウッドのパイプを慇懃に差し出す。男はそれをくわえてマッチで火を点けると、旨そうに煙を吐き出した。イヴの義父だった人物は、当然パイプをくゆらすことなど無かった。その有様を見るのは奇妙な感覚であった。
紫煙を吐きながら、男は語り始める。
「そもそも、私……というより、二号機だな。つまりは世間が『トーマス・レメルソン』と認める人物は、『娘』を連れて大陸横断などという目立つ旅をすることは出来ないのだ」
「それは……」と、イヴは探り探りで質問を投げる。「その、多くの起業家から、恨みを買っているから、ですか?」
「それもある。しかし何よりも……」と、そこで男の目に初めて寂寥のようなものが浮かんだ。「トーマス・レメルソンの娘は、公式的には亡くなっているからだ」
イヴは深呼吸を挟む。
公式的には。
……では、非公式的には?
その先に意味されていることが、何となく、今回の事件の深淵である気がした。
——落ち着け。お姉様のように考えるんだ。まずは全体像を把握するんだ。冷静に、確実に。
「故に、我々は第三者の力を要した。おまえと二号機の頭部、その二つを極秘裏に、そして安全かつ確実に搬送してくれる人材をな」
しかし、とイヴは思う。少なくとも自分は一人でロンド・ヴェルファスから送り出されている。となれば、何かトラブルがあって、その搬送役の人材とやらが得られなかった、ということだろうか。
「幸いにも資金は潤沢にあった。しかし、都合の良い人材を確保するにはアイディアがひとつ必要だった」
と、レメルソンは続ける。イヴの思考は、そうして手元に与えられたピースを一つ一つ組み合わせていく。
旅行鞄だけならまだしも、十四歳の少女まで一緒に送り届けてくれる輸送業者などそうそういないだろう。ましてや、あの義父——あの人形に、信頼できる人脈があった筈もない。
都合の良い人材、とレメルソン博士は言った。
その人材とやらを厳密に定義するとすれば、とイヴは考える。長距離の移動に日常的に慣れている者、そして確実に安全な方法で十四歳の少女を運ぶことが出来る者、ということだろうか。そうなれば、ある程度の財力を持つ人物でなければならない。そしてそれは端金に飛びつくような人間ではなく、提示する金額に比例して信頼度を得られる者が望ましい——。
そこで、イヴの脳裏に二度目の閃きが迸る。
……そうだ、すべては繋がっていた。
「——『未来王の手記』と、クリスティアーノ・オークション……」
呆然とイヴは呟いた。ジョナサンとニコラスがそれ目当てで赴いていたという、ベルロランで開かれたオークションである。
「正解だ。二号機は当初、手記を餌として搬送役を調達しようと試みた。都市伝説と化していたレメルソン博士の知識の源泉、『未来王の手記』。そんなものを求めるのは裕福な道楽者——特に、金を使うことに快感を覚え、その為に金を稼ぐことに真摯になっている連中だ。あれを落札する者ならば、まさに今回の搬送役に打って付けだった。当然、そんな連中は口も固い」
レメルソンはそこで一笑する。
「もっとも、あの手記に記録されていたのは発熱電球やキネトグラフなど、私にとっては黴の生えた雑学程度のものでしかなかったがな」
しかし、それを自身の欲求で求める者もいた。イヴの脳裏に、ジョナサン・ジャズフェラーの顔が過る。確かに彼のような人物であれば、自分を秘密裏にロアに届けることなど造作も無いことだっただろう。
「報酬を求める者には金を、難色を示す者には『この子の実親の元へ』とでも言えば、引き受けるだろうと考えた。その程度の交渉ならば二号機も得手としていたからな。しかし——」
そんな男の言葉を遮って、イヴはぽつりとその先を口にする。
「……そうはならなかった」
「その通りだ。その前に手記そのものが盗難にあってしまった。加えて、二号機自身にも正体不明の危機が迫っていた。まったく想定外の危機がな」
それはきっと、キャビッジパッチとガンドシュタイフの暴走のことだろう。
「その原因はシャトーモアが調べているが、未だ不明だ。とにかく、代替となる策を講じる暇は無かった。故に、候補者自身に、『二号機の記憶情報』と『自分自身』の搬送を担わせることになったのだ」
それが、この旅の背景。自分が独りぼっちで旅立たねばならなかった理由。
ようやく見えてきた全体像に、しかし、イヴはまだ納得は出来なかった。
候補者。
皇都で初めてシャトーモアと遭遇したときも、彼女はイヴをそのように呼称していた。イヴはその単語に、かねてから不穏な空気を感じていた。
「その、候補者、とは……何ですか?」
躊躇いつつも、彼女はその根幹に問いを切り込む。男は即答した。
「一定の条件を持つ人材だ。外見的特徴が限りなく基準に近いもの、そしてその肉体の年齢が限りなく十四歳と二ヶ月に近いもの。そもそも、二号機はそれを探すことを至上目的としてロンド・ヴェルファスに送り込まれた」
そう言って、男は懐から一枚の古ぼけた写真を取り出し、イヴの方に見せた。
「私の妻はロンド人だった。そして娘のノーラは私ではなく、妻に似ていた。その外見的特徴に酷似した人材を探すには、ユナリアよりもロンド・ヴェルファスが適切だった」
その写真に写っていたのは、一組の家族だった。今よりもずっと若いトーマス・レメルソン博士、その傍らで微笑する妻らしき美しい女性、そして——。
「……私?」
まるで自分自身の生き写しのような少女の姿だった。写真の中の彼女は若き日のレメルソン博士の傍らで、幸せそうな笑みを浮かべていた。
すると突然、レメルソン博士の顔が歪む。厳密には、顔面の半分が機械仕掛けの仮面で覆われていたので、生身の方だけに唐突に苦悶するような皺が刻まれた。
「嗚呼、我が娘、ノーラ……ノーラは今から十二年前、地獄の業火で全身を焼かれた。あの忌々しきアルノルン事変のせいで、何もかもを奪われた……!」
急に男の口調に、かつて無い感情がこもり始める。その生身の右目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「それから四年間、ノーラは苦しんだ……全身の火傷で、四年間も……太陽の温かさを感じることもなく、風の心地よさを味わうことも出来ず、地獄のような苦痛の中で……嗚呼、嗚呼!」
と、レメルソン博士は写真を握りしめ、屈み込むように泣き崩れた。それはまるで赤子のような、号泣と称しても良いほどの涙だった。
「必死の看護も空しく、ノーラの身体は八年前に機能を終えた……しかし、運命はそこで私にチャンスをくれたのだ!」
さらに男は急変し、両手を広げて天井を仰いだ。降り注ぐ照明の明かりが、まるで天からの福音であるかのように。
「『|未来王の手記〈エジソンズレコード〉』……! あれを手にした時、私の頭上に数多の叡智が降り注いだ。未来の技術、未来の科学! ノーラの魂を救う方法が、あの子の人格を肉体の頸木から解き放ち、永遠に生き永らえる方法が!」
「人格……?」
「そうだ。人格とは結局のところ、その人物のそれまでの獲得形質によって醸成されるもの。つまりは記憶だ。『|未来王の手記〈エジソンズレコード〉』は私に、人間の記憶を外部機器に精密に保存する方法を教えてくれたのだ」
そこでレメルソン博士は、先ほどシャトーモアがバラバラにした残骸を顎で指した。
「もともと、おまえの父親役であった二号機にも、私の記憶の一部が複製されていた。幾百にも及ぶ試行が必要だったがな。しかし、その試行のおかげで私はその技術を体系化することに成功した。そしてノーラの身体がその機能を終える前に、その記憶を自動人形の演算装置に保存することに成功したのだ!」
そう言って、レメルソン博士は右手を高く掲げた。すると突然、部屋の三方向から光線が射し、それぞれの壁に映像を映し出した。レメルソンは自慢げに語る。
「キネトグラフだ。静止した姿のみならず『動き』すらをも記録する、まぁ、それ自体はつまらない発明品だよ」
そして部屋の暗闇を裂いて、そこに映し出されたのは——。
「私と、そっくり……」
イヴの生き写しのような少女が、その映像の中で動いていた。彼女はそこで手を振り、歩き、本を読み、ダンスのステップを踏んでいる。それはイヴにとって、まるで自分自身の姿を見ているような、奇妙な映像だった。どうやらこれが、その娘の記憶を持った自動人形の記録映像らしい。
「ノーラドール。私の自慢の娘だよ」と、レメルソンは慈しみに満ちた声色で言った。「本人には明朝にでも会わせてあげよう。今はもう寝ているからね」
イヴはしかし、その映像に違和感を覚えた。確かに、そこに映っているノーラドールという人形の動きは、人間と比べても何ら遜色が無い。ただ一点を除いて。
「笑って、ない……」
ぽつりと、イヴはそう呟いた。
映像の中のノーラドールは常に無表情で、その顔は彫像のように微動だにしていなかった。笑うことも、悲しむことも、怒ることも。不満に唇を尖らせることも、困惑に眉を寄せることも、口元を穏やかに緩めることも——一切無かった。その顔は、イヴが先ほど一階の図書室で見た累々たる人形と同じ、あくまでも『人形』でしかなかった。
すると突然、レメルソン博士は再び大きな声で嘆いた。
「嗚呼、嗚呼、そうなのだ。そうなのだ! 私の設計は完璧だった筈なのに、あの個体はちゃんと笑うことも、怒ることも出来るはずなのに……しかし、どれだけ改修しても、どれだけ調整しても——ノーラはあの身体では笑うことが出来ないのだ。これを悲劇と呼ばずして何と言おう!」
まるで世界中にそのことを訴えかけるような、大仰な嘆き声だった。レメルソン博士はそこでゆっくりと車椅子を動かし、椅子に腰掛けるイヴに近づいてくる。
「幾千の試行も徒労に終わった。故に私は結論を下さねばならなかった。ノーラの魂は、あの身体では笑うことが出来ないのだ、と」
急激に、イヴの背筋に悪寒が走った。彼女が咄嗟に立ち上がろうとした時、しかし椅子の肘掛けの部分から、手錠のようなものが彼女の両腕を捕らえた。
「……だからこそ、おまえの力が必要なのだよ、候補者」
レメルソン博士は、人間の顔である左顔面を泣き笑いのように歪めながら、イヴに近づいてくる。イヴの身体が、再び恐怖に震え出す。
「おまえは、そのために拾われ、育てられたのだ」
そう言って、レメルソンは愛おしむようにイヴの頬を撫でる。
しかし、男の瞳はイヴを見ていなかった。正確には、イヴの人格を見ていなかった。
彼が見つめていたのは、自分の娘に酷似している、イヴの身体だけだった。
それが、イヴを戦慄させた。
「わ……私は、人形じゃ、ない」
せめてもの抵抗で、イヴは震える声で反論する。しかし、男は穏やかに首を横に振って否定した。
「いいや、いいや、いいや。おまえは私の大事な、大事な、大事な——『人形』なのだよ」
レメルソンは、慈愛に満ち満ちた微笑で、悍ましいほどの愛情を込めて、言った。
「おまえは——我が娘ノーラの新しい身体となるために、此処に来たのだ」
◆
イヴとレメルソン博士の邂逅——それと時を同じくして、人形図書館には一人の招かれざる客が、密かに侵入していた。
堅牢な入り口の鍵も関係無く、誰にも気づかれることもなく、その青年は既に図書館の深奥に深く入り込んでいた。それは彼の技術——否、未来の技能を用いれば、あまりに容易いことであった。
——そう、あのロンド・ヴェルファスのオークション会場で、誰にも悟られることなく宝物庫に侵入したのと同じように。




