表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 2. The Doll Across The Horizon.
62/83

〈十一〉師の屍

 フォーラニア州ロア市行き大陸横断鉄道、フライング・ゼファー号は、翌朝、予定通りにハイカーゴ市を出発した。昨日の一件のせいか、乗車前には州の警士団による徹底的な車内調査、乗客の身体検査が行われた。その際、イヴの例の鞄の中身についても調査されそうになったが、そこはジョナサン・ジャズフェラーが話を付けた。


「中身は直射日光厳禁、外気に触れただけでも変質してしまう化学薬品で、現金三億ドル相当の代物だ。東歐州でようやく手に入れた極めて貴重な薬品でね、ああ、これがその際の納品書だ(と、彼は昨夜でっち上げた書類を見せつけた)。開けても構わんが、中身が変質してしまった際の弁償金はハイカーゴ州警団に全額請求させてもらおう」


 傍らに若き天才科学者、ニコラス・テラーを立たせ、ご丁寧に二人の身分証をちらつかせながらの交渉であった。最後にこんなことも付け加えていた。


「言っておくが、私はこれまでの人生に賭けて、請求書は一セントたりとも負けてあげたりはしないよ。たとえ教皇猊下が相手であってもね」


 現場の士団員では決定が下せず、最終的には警士長補佐が出張ってきて、冷や汗混じりに承諾した。三億ドルの請求書を回される恐怖には、さすがに一介の公務員も屈服せざるを得ないだろう。ましてや、この男ならやりかねない額である。


 そうして、どうにかこうにか列車に乗り込み、我々は昨日と同様に食堂車にて一息ついた。昨日は堂々とハイカーゴの街を練り歩いてしまったので、乗車までの間に例の襲撃者に襲われやしないかと気を張っていたが、まずは一安心である。ちなみに、ホテルでの一夜は俺がバーダとイヴの部屋で寝ずの番をした。そのせいで俺はかなり寝不足である。


 列車が動き出し、車窓に映る景色が流れ始めると、イヴがどこか名残惜しそうにハイカーゴの街並を見つめていた。ニックがそんな彼女の肩を叩き、無言でにっこりと微笑む。それを見て、イヴもどこか気恥ずかしげにはにかんだ表情を見せた。


 俺はそんな長閑な光景を見ながら大欠伸を挟む。緊張が解れると、睡魔が襲ってきた。


「ふぁ……とにかく、春先のモントリアの街みたいなことにならなくて良かったぜ」


 自嘲気味に俺が言うと、バーダもつまらなそうに鼻を鳴らした。あのときは街を脱出するために策を講じる必要があったが、それに比べれば今回のは楽な部類である。


「ふむ、昨日の『鉄道事故』については今朝のグランヨーク・タイムスに載っているぞ」


 と、バーダが読んでいた新聞を卓上に置き、とある記事を指差しながら読み上げる。


「『原因は貨物車両で輸送中だった蒸気機関を積んだ車両装置が何かの弾みで稼働してしまい、暴走して車両を破壊したと思われる』か……自動人形に関する記述は無いな」


「グランヨーク・ポストの方は相変わらずゴシップめいてるね」と、ジョンは自分が読んでいた別の新聞を指し示した。「『牙持つ獣たちの新種か? 横断鉄道を襲った未知の怪物の恐怖』だそうだ。当たらずとも遠からず、といったところかな」


「そういえば」と俺は口を挟む。「キャビッジパッチの残骸についてはどうなったんだ?」


 あのときは車内の混乱から逃げ出すのに必死だったので忘れていたが、現場には自動人形の残骸を残してきたままだ。あんなものが州警士団の手に渡れば、それこそニュースになりそうなものだが。


 すると、ジョンが神妙な顔で答えた。


「うん、実はそれが奇妙でね。あの後、私はホテルに着いてすぐにジャズフェラー財団にキャビッジパッチの残骸の回収を命じたんだ。もし警士団の手に渡っていたら、いくら積んでもいいから買い取れ、とね」


「僕からの要望だ」とニックが補足する。「あの人形を調べれば、何か分かる気がしたからね」


「しかし、失敗した。既に先手を取られた後だった」

「先手?」


 胡乱に首を傾げる俺に、ジョンも同様に困惑した様子だった。


「財団のエージェントが介入を試みた頃には、キャビッジパッチの残骸は無かったらしい。歯車の一片に至るまでね。現場の人間は誰しもが『そんなものは無かった』と言い張るばかりだった、とのことだ」

「つまり、その前に別の勢力が介入して残骸を回収した、と?」


 バーダの言葉に、ジョンは確信が持てないように小さく頷いた。


「おそらくは。確かに言えるのは、その勢力は財力が通用しないレベルの存在、ということだけだ。となると政府機関、それも一介の警士団なんかじゃなくて、もっと深い所が絡んでると見て間違いないんだけど……」


 だが、教皇庁が自動人形の存在を認めたとなれば、もっと大々的なニュースになっていてもおかしくない筈だ。そんな俺の疑問をばっさりと断ち切るように、バーダが口開いた。


「極秘裏にそんな隠蔽が出来る政府組織など、第零騎士団しかおるまい」


 第零騎士団。公式的には存在しない筈である零番目の騎士団であり、教皇庁が持つ秘中の秘。法の外側から内側を撃つ特務機関だ。


 なるほど、あの連中であれば、秘密裏にキャビッジパッチの残骸を回収していてもおかしくない。その情報が外に出ていないことも頷ける話だ。


 ふと連鎖的に、春先に出会ったあの鉄面皮の微笑の男が、一瞬俺の脳裏を過ぎった。歴史改変者ハヴァンディアの右腕にして第零騎士団長——そして、俺とは決して永劫に相容れないであろう男——シーモア・ミラージュである。


 俺はあの冷たい精密機器のような微笑がすぐ傍らに現れたような気がして、思わず身震いした。


「……まさか、あの男が列車に乗ってたってことか?」


 と、俺がバーダに耳打ちすると、彼女も小さな声で答えた。


「……ミラージュとは限らんが、連中は諜報と隠蔽のスペシャリストだ。団員の誰かが我々を監視していてもおかしくない」


 疑心暗鬼な話にも聞こえるが、満更、的外れでも無い気がした。


 少なくとも我々は聖女ハヴァンディアの重大な秘密を知っている。あのときは簡単に解放こそされたが、考えてみればあの少女が我々を簡単に野放しにする筈が無い。そう思うと、急に背筋が寒くなる気がした。思わずきょろきょろと食堂車の中を見回してしまう。


「ふむ、第零騎士団か」と、ジョンが考え込むように呟く。「仮にバーダロンの言った通りで、情報規制が敷かれているのだとすれば——当の昔に教皇庁はその『異なる歴史線からの介入』を掴んでいるというわけだ」


「この世で最も隠し事の多い機関こそが、教皇庁だからな」


 そう皮肉るバーダに、ジョンは「違いない」と頷いた。


 俺はふと思い出す。この世界に介入しているのは自分だけではない、と、あの聖女は言っていた。ならば——果たしてどれくらいの歴史改変者が、この国の中枢に潜んでいるのだろう?


「ソードとボードイン氏のことは、幸いなことにどの新聞にも書いてないね」と、ニックが他の新聞も見比べながら言った。そして苦笑。「まぁ、それが第零騎士団による情報統制なのかどうかは分からないけど」

「……ぞっとする話だぜ」


 俺のその一言は、紛れもない本音であった。今回の件など関係無しに、どう転んだところで我々はあの連中にマークされているのだ。


「あの」と、横から小さな声が届く。「ごめんなさい、私のせいで……」


 イヴが申し訳無さそうに俺とゴルドに頭を下げる。俺は軽く肩を竦め、ゴルドは特に気にした様子もなく煙草を吹かしていた。


「気にしなくていいわ」とバーダがイヴに小声で耳打ちする「……これに関しては、本当にあなたは関係無いから」


 イヴは困惑した様子だったが、そこでジョンの素っ頓狂な声が場の空気を打ち砕いた。


「……何、だと」


 目をやると、ジョナサン・ジャズフェラーは不愉快極まりないといった顔で新聞のとある記事を睨んでいた。


「どうした、ジョナサン。株価でも読み間違えたか?」


 バーダが冗談めかして言うと、ジョンは「これを見たまえ」と、しかめっ面で新聞の記事を指差した。


「——これはアルノルン版だが、昨日の西海岸の夕刊紙だ。君たちの目的地、人形図書館を買い取った人物が現れた」

「「買い取った?」」


 俺とバーダが異口同音に繰り返す。記事に視線を落とすと、ジョンの不愉快そうな顔に合点がいった。彼は苦々しげに続ける。


「ああ。人形図書館はもともとは州の管理施設だったが、まさに昨日、資産家のフェイト・モルガーナ・スタンリーが州から買い取ったらしい。よって今は彼女の所有物だ」


 フェイト・スタンリー。昨夜のジョンの話に出てきた人物だ。彼と相容れぬ、しかし彼と肩を並べるほどの女性資産家。

 バーダが眉を寄せる。


「妙だな。ジョナサンならいざ知らず、あの人物が郊外のあんな偏狭な建造物を所有しようとするなんて」


 その言葉に、ジョンは苦笑を挟んでから記事の続きを読む。


「スタンリー女史はあの建物に手を加えて、いずれ観光資源として一般公開するつもりらしい。この記事では街づくり(タウンマネジメント)の一環と謳っているね」


 しかし、バーダの疑念の色は消えなかった。彼女は鋭利な視線をジョンに投げる。


「ジョナサン、おまえの視点から見てその投資は正解だと思うか?」

「投資家としての意見を言うならば、半々(フィフティフィフティ)だ。タウンマネジメントの成否は資金ではなくプレイヤーによる。優れた人材が担保されていれば、私なら(、、、)投資するだろう。しかし――」


 ジョンもまた、不可解そうに眉を寄せた。


「彼女は数字の怪物だ。私の知る限り、スタンリー女史が『人材』などというバッファの大きい要素で成否が左右される案件に手を出すとは思えない。ましてや、あの魔女が地域貢献(タウンマネジメント)だなんて、猫が鼠を愛で始めるようなものさ」


「だとしたら——裏があるな、間違いなく」


 冴えの入った瞳で、バーダはその記事に書かれたフェイト・スタンリーの名前を睨んだ。その名前からは、何か異様な空気が漂っているような気がした。


 俺たちが人形図書館へ向かおうとしていた矢先に自動人形が襲撃し、その襲撃の直後に謎の資産家が人形図書館を買い取った。いくら俺でも、この符号に何かしらの意味があることは推測できる。


「まさか、そのスタンリーとかいう奴がイヴを狙ってるんじゃないだろうな?」


 俺の推測を、しかしバーダはばっさりと否定する。


「考えにくい。スタンリー女史の拠点は西海岸のロアだ。彼女は『未来王の手記(エジソンズレコード)』を盗んだ犯人ではないと思う」


「でも、そのスタンリー・ホールディングスとやらは大企業なんだろ。盗み出すにしたって、実行犯ならいくらでも用意できるんじゃねぇのか?」

「そんな人材を用意できるんだったら、わざわざ『未来王の手記(エジソンズレコード)』を使って人形などを操らずに、直接暗殺者を雇えばいいだけの話だろう」


 む、と俺は唸る。そのとおりだった。ジョンがそこで口を挟んだ。


「逆説的に考えると、人形を使役してイヴを襲っている犯人は、戦力と資金が潤沢ではない単独犯、そういうことになるのかな」


「ああ——もし、そんなものがいれば(、、、、、、、、、)、の話だがな」


 それは思わず零れたといったような言葉だったが、一同の感心を大いに惹きつけた。俺は思わず問う。


「そりゃいったい、どういう意味だ?」


「いや——」と、バーダは頭を振る。「これは推論というよりも、ほとんど妄想だ。忘れてくれ」


 意外にも、彼女の言葉は歯切れが悪かった。自信が無いというよりも、どこかその考えを自嘲するような口調である。


 バーダは流れる車窓に視線を移し、どこか物憂げな表情で、再び独り言のように呟いた。


「——まさか、な」


 ◆


 列車がハイカーゴ市を出発して一時間ほど経った頃、俺は依頼主に仮眠の申請をし、護衛を一旦ゴルドに引き継いだ。さすがに昨日からの徹夜明けは堪えるものがある。不死身の身体といえど、疲労はするのだ。


 バーダは思いのほか簡単に「ご苦労。ひとまず、ゆっくり休め」と承諾してくれた。職務上、それが必要であることを理解してくれる辺り、彼女はまだまともな依頼人である。


 俺は寝台車の客室に戻り、ほぼ反射的にベッドに倒れ伏した。すると途端に泥のような睡魔が俺を包んだ。ああ、そういえばあいつは俺にソファで寝ろとか言っていなかっただろうか。そんなことを思い出すも、微睡みは俺の身体を押さえつけ、ゆっくりと意識を奪っていく。俺はその生暖かい感覚に身を委ねた。


 休息は取れるときにしっかりと取っておかないと、傭兵稼業は務まらない。それは傭兵としての鉄則であり、そして俺としての鉄則でもある。


 しかし正直、俺は眠ることは実はあまり好きではない。


 身体が許すならば、本当は俺は夜すら眠らずにいたい。夢の中では、どれだけ残酷で心が張り裂けそうな出来事も、容易に起こりえるからだ。


 特にあの夜からというもの、俺の夢にはよくペリノアが現れるようになった。


 そしてそれは決まって、あの日の十四歳の姿ではなく、何故か今の俺と同じくらいに年をとった姿だった。


 二十歳を超えたペリノアは、以前よりもずっと美しかった。

 もちろん、それは俺の空想でしかない。


 こうであったかもしれない、あり得なかった未来の姿。


 彼女は少し淋しげな微笑を浮かべながら、優しく俺を見つめている。


 いくら走っても、俺は彼女には近づけない。

 いくら叫んでも、彼女の声は返ってこない。



 そして——いくら愛しても、もう彼女はいない。



 いつも、そんな夢だった。


 ——だが、その日の夢は少し違った。


 ◆


 俺は揺れる大地に倒れていた。地面が揺れているのかと思いきや、俺の身体が息切れしているだけだということに気づく。夕暮れの世界が、そんな無様な俺を見下ろしている。


「全然駄目ね、アーサー」


 十三歳の俺に向けて、その人は涼しい顔で告げる。


 そうだ。俺は日中にまたペリノアに負けて、悔しくて。

 マリーン先生に、剣の稽古をお願いしたんだった。


 俺は起き上がるも、その人の顔をまっすぐに見られなかった。その代わり、先生の足元から伸びる影法師に向かって問いかける。


「何が駄目なんだよ」

「感覚だけで戦っていることよ。ちゃんと頭を使いなさい」

「使ってるよ」

「だとしたら、もっと賢くなりなさい」


 身も蓋もない助言に、俺は不貞腐れて明後日の方向を向いた。そうだ、この頃から俺は勉強が嫌いだった。


「アーサー、顔を上げなさい」


 言われて、渋々と先生の方に顔を向ける。夕陽の逆光で、マリーン先生の顔は見えなかった。でも、なんとなくその顔は微笑んでいるように思えた。


「私の言うことを聞いて、ちゃんと強くなりなさい。どれほど残酷なことが起きても、侵されないくらいに強く——」


 マリーン先生は、そう言って俺の頭を撫でた。


 或いは先生は、俺たちがあの悲劇的な結末を迎えることを予期していたのかもしれない。だからこそ、せめてもの罪滅ぼしで俺を鍛えてくれたのかもしれない。


 俺は山を降りてからも、孤児になってからも、先生の教えに従って剣の稽古をした。数え切れないほどの基礎訓練、剣の素振り、剣術の型。俺の今の剣の腕前はマリーン先生のおかげでもある。


 ——しかし、あの人も結局はアタヘイの大人たちの一人で、子どもたちを実験体にしていた張本人の一人だった。

 皆を、ペリノアを、そして俺を裏切った、大人たちの一人。


 あの人も結局は、怪物化した子供たちの前で命を落とした。


 あの最後の夜、あの広場で、俺はマリーン先生が血まみれで地に伏しているのを見た。

 それを見たとき、俺は一切の感慨も無かった。


 いや、或いは憎悪に似たものはあったかもしれない。

 どうして、あれほどまで強かったのに、俺たちを守ってくれなかったんだ、と。

 俺たちの味方であってくれなかったんだ、と。


 胸の内で、俺は何度も糾弾する。


 いつの間にか、倒れ伏す我が剣の師を、現在の俺が見下ろしていた。

 不思議と冷ややかな気分だった。


 ふと気配を感じて振り返ると、そこにはバーダとイヴが立っていた。

 今の俺が守るべきものがあった。


「本当に守れるの?」


 背後で、マリーン先生の声が聞こえた。


「ペリノアも守れなかったのに?」


 ——黙れ。

 俺は。


「——あんたとは違う」



 ——————本当に?


 呪いのような問いかけに続いて、俺の左腕に灼熱感が走った。


 左腕は暴れるようにのたうち回り、やがて皮膚を突き破って、黒い刃の鎧が現れる。

 俺は必死でそれを押さえ込もうとするが、刃の浸食は止まらない。


 左腕から胸へ、背中へ、足へ、顔へ、そして心へ。


 肺の奥底が空になるほどの大絶叫を上げたとき。



 俺は眠りの海から浮上した。


 ◆


 ベッドから跳ね起きたとき、バーダが傍らで心配そうに俺を見つめていた。


「大丈夫、ソード? うなされてたけど……」


 その硝子のような瞳を目にした瞬間、俺は思わず彼女を抱きしめていた。


「え、ちょっ!」


 彼女の首から回して見えた左腕が、未だ俺の左腕であることを確認する。そこでようやく安堵を覚えた。


「バ、バカ、駄目よ……隣でイヴが寝てるのに……!」

「——良かった」


 心の奥底から湧いてきた言葉を、思わず吐露する。それを聞いたバーダは一瞬硬直した後で、優しく俺の頭に手を添えた。


「——大丈夫、それは夢よ」


 そのままの体勢でしばしの沈黙が舞い降りる。俺の奥底には、先ほどの夢の奇妙なしこりが残っていた。自分で、自分が動揺していることが分かる。しかし、バーダの身体から伝わってくる体温が、少しずつ胸の奥の強ばりを解かしていく。


 五秒ほど経ってから、俺は腕を解き、大きく深呼吸をした。一応、謝罪の言葉を口にする。


「すまなかった」


 しかし、バーダは俺の顔を覗き込むようにして、静かに問うた。


「……ペリノアの夢を見たの?」


「いや、違う」と、俺は即座に否定する。「おまえと、イヴの夢だ」


「そう——大丈夫よ、私もイヴも、ちゃんと此処にいるわ」


 バーダにつられて視線を横に向けると、もう一方のベッドではイヴが静かに寝息を立てていた。慌てて車窓の外を見やると、いつの間にか外には夜の帳が降り始めている。俺は思わず自分自身に対して舌打ちを漏らした。


「くそ、随分寝ちまった」

「構わんさ。おまえの休息も私の依頼の内だ」と、バーダがいつもの小説家然とした口調で言う。「いざというときに、護衛が疲労困憊ではたまらんからな」


「おかげで、これで二日は寝ずに戦えるぜ」

「心強い限りだが、ならば三日目の支払は無しだな」


 お互いにくだらない軽口の応酬をしている内に、俺もいつもの調子を取り戻してきた。と、そこで俺の腹の虫が鳴る。丸一日何も食っていないせいで、胃袋が猛烈な抗議を俺に訴えていた。

 バーダはくすりと小さく笑みを漏らした。


「ボードインがこの客室の外で待機してくれている。おまえは食堂車で食事を取って来い」

「そいつは」と、肩を竦める。「この上なく有り難い命令だ」


 俺はベッドから足を下ろして、大きく伸びをした。全身に残っていた倦怠感は、長時間の休息のおかげで完全に消え去っていた。


「それがどういう夢だったのかは訊かないが、もう一度言っておくぞ」と、そこにバーダの声がかかる。「——所詮は夢だ」

「ああ」


 その通りだ。


 俺は自分の左腕に視線を落とし、掌を握ってみる。いつもと同じ感覚が、間違い無くそこにはあった。

 客室を出て行こうとしたとき、はっと思い出してバーダを振り返った。ばつが悪いが、このことも一応は謝罪しておくべきだろう。


「あー、バーダ、すまん」と、俺は頭を掻く。「ベッド使っちまった」


 彼女は一瞬、驚いたような顔を浮かべる。シーツの乱れたベッドを横目にして、呆れたように吐息を漏らした。


「いいわよ、別に」

 俺はそんな彼女を背に、軽く右手を挙げて客室を出た。

 客室のすぐ外では、ゴルドが壁に持たれながら、退屈そうに廊下に腰を下ろしていた。


「よォ、お目覚めかい」

「飯を食ってくる」

「ああ、とっとと食って来て交代してくれ」


 と、ゴルドも大きな欠伸を挟む。俺は少し気になって、訊ねてみた。


「ゴルド。おまえ、夢は見るか?」

「いいや、生まれてこのかた、見たことはねぇな」


 それが冗談なのか本当なのか、俺には判断が付かなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ