〈十〉ゴールデンリングを君の手に [後篇]
大道芸人たちのショーが終わった頃、俺は周囲に漂うほのかな石炭の香りに気がついた。駅から少し離れているのに妙だな、と周囲を見渡すと、一ブロック先に巨大な傘の頭のようなものが見えた。その傘は赤や青、緑や金といった帆布の継ぎ合わせで作られており、金メッキできらびやかな装飾が施されてあるのが伺える。
案の定、バーダの足はそちらに向いていた。
「ほら、次はあっちよ、イヴ」
「え、あ、はい」
イヴは言われるがままに彼女の後について行く。しかし、その足取りは最初よりも軽やかに見えた。
まぁ、良い傾向である。俺もポップコーンをぶちまけた甲斐もあったというものだ。
我々もその後を追うと、やがて大きな交差点にぶち当たった。
その一帯を埋め尽くすように設置されていたのは、巨大な円形の建造物である。目算でも直径にして七〇フィート近くはあるだろう。よく見ると、接地している部分には車輪が見える。先ほど見えた傘の下にはいくつもの木馬が円を描くように並び、それは子供たちを乗せて、ゆっくりと上下運動を繰り返しながら回転していた。
「へぇ、移動式の回転木馬か。随分とでかいな」
俺のぽつりとした呟きに、バーダロンが頷く。
「ああ、祭りの定番だな。しかし、これほど大きいのは私も初めて見たよ」
「むぅ」と、その横でジョンがどこか悔しげに眉を寄せている。「この規模のものはさすがに私も所有していないな。ハイカーゴ市の持ち物だろうか」
例の所有欲が疼くのか、ジョンの瞳に関心の炎が燃え上がっている。このまま市役所に商談を仕掛けに行くのでは無いだろうか、と少し心配した。
回転木馬の傍らには、本体と隣接するような格好で蒸気機関らしきものがゴム製のベルトで繋がっており、係員がそこに投炭していた。先ほど鼻孔をくすぐった石炭の匂いの源はこの動力だったらしい。絶え間なく舞い上がる蒸気のせいか、その周囲だけが霞んで見えた。さらにその横では、町人らしき小さな楽団がむせ返る蒸気に顔を顰めながら演奏をしている。その表情とは対照的に、軽快な背景曲である。
「うわぁ」と、我々の傍らでイヴが声を上げる。「本物の回転木馬って、初めて見ました」
子供のように目をきらきらとさせながら、イヴはその巨大な遊具を見つめている。その憧憬を掬い上げるかのように、バーダが彼女に手を差し出した。
「ほら、乗ってみましょ」
「え、でも、こういうのって小さい子たちが乗るものなんじゃ……」
と、イヴは戸惑うように木馬の乗客たちを見やる。確かにそこには、彼女よりも一回りは幼い少年少女たちの姿が目立って見えた。
「自分がやりたいことに、他人の目なんか気にしちゃ駄目よ。私も一緒に乗ってあげる」
「はぁ、でも……」
バーダの言葉に、しかしイヴはまだ踏み切れない様子で逡巡する。しかし、バーダは強引にイヴの手を取った。
「周りの目がそんなに気になるなら、ソードも乗せるわ」
「ああ?」
突然の承諾無き提案に、俺は眉を寄せる。そんな俺を無視して、バーダは続けた。
「このむさ苦しい男が回転木馬に乗ってたら、そっちの方が目立つでしょ」
その情景を思い浮かべたのか、ジョンとニックが吹き出した。こいつら、他人事だと思いやがって。俺は仏頂面で宣言する。
「おい、バーダ。俺は乗らんぞ」
「仕事だ、依頼人からの命令だ、乗れ」
俺の拒否権をゴミ箱に放り投げるかのようなバーダの言葉に、俺は顔を顰める。その理屈を振りかざされると、雇われの身である俺は何も言い返せない。溜息と共に俺は独り言を漏らした。
「……おまえは傭兵を何だと思っているんだよ」
「あの、それじゃあ……」
と、イヴは手を引かれながら、おずおずと足を進める。しかし、その瞳には期待の色が見て取れた。実際には乗ってみたい、というのが本音らしい。
やれやれ、断れるような空気ではない。渋々、俺も彼女たちの後に続いた。
バーダが三人分のチケットを買い、我々三人は行列に並ぶ。ジョンとニック、ゴルドは遠巻きにベンチに腰掛けてそんな我々を見守っていた。ゴルドに至っては売店で再びエールを買っていた。勤務中だと言うのになんて奴だ、俺を見習え糞野郎。
「ねえ、イヴ。あれが見える?」
並びながらバーダが指さしたのは、回転木馬に隣接されるように立てられた木の柱である。柱からは一本のポールが回転木馬の円周に向けて突き出されており、その先端には黄金色に輝く金属製の輪っかが付いていた。回転木馬に乗る子供たちがこぞって手を伸ばし、それを取ろうとしている。
「あれはゴールデンリングって言うの。木馬に乗りながらあれを取ることが出来れば、もう一度、タダで回転木馬に乗れるのよ」
「へぇ、そうなんですか」
ゴールデンリング自体は回転木馬に付き物のポピュラーな代物だが、しかし、この運営者は少し意地が悪い。子供たちは躍起になって手を伸ばしているが、あのゴールデンリングの位置はとても子供たちの短い腕では届きそうになかった。
「商業主義の塊みたいな位置だな」
と、俺は皮肉げに口元を歪めて見せる。そこで、バーダが俺に向けて悪戯っぽく笑った。
「——そういうの見ると、意地でも取ってみたくならない?」
俺は鼻を鳴らすだけに留めたが、正直、内心では同感であった。
いよいよ俺たちの番となり、イヴとバーダが二人で同じ木馬に乗った。チケットを渡すときに係員が「え、あんたも乗るの?」という視線を俺に寄越したが、溜息と舌打ちは何とか堪えた。俺は彼女たちのすぐ一つ後ろの木馬に腰掛ける。
やがて係員のホイッスルが鳴り、遊具が動き始める。木馬はゆっくりと上下に浮き沈みを繰り返しながら、回転を始めた。回転木馬特有の慣性が身を包み、視界に移る街並がめくるめくように移り変わっていく。
「わぁ!」
と、前の木馬で歓声が上がる。初めて見る光景、そして感覚に興奮しているのだろう。バーダの方を振り返るイヴの顔は、今までのどんな表情よりも幸せそうに見えた。
やがて彼女たちの木馬は、ゴールデンリングのポールの位置まで回ってくる。
「来たわよ、イヴ、ほら!」
バーダの言葉で、イヴは慌てて円の外側へと右手を伸ばした。しかし、落馬を恐れているのか、左腕でしっかりと木馬のポールを抱きかかえるように掴んでいたため、その小さな指先はリングに掠りもせずに空を切る。
「あ」と、イヴの残念そうな横顔が見える。「……取れませんでした」
そんな彼女に、バーダが優しく語りかけるのが聞こえてくる。
「もっと手を伸ばしなさい、イヴ」と、バーダはイヴの頭を撫でる。「——大丈夫、あなたは私が捕まえていてあげる」
そこに、言葉以上の意味が込められているように思えたのは、俺の考えすぎだろうか。
イヴはバーダを振り返り、しばしの沈黙の後で、一度だけ確かに頷いた。
再び木馬は円を一周し、ゴールデンリングの位置へと戻ってくる。これが最後のチャンスだ。
「さぁ、イヴ、手を伸ばして!」
「はい!」
バーダの言葉に勢いよく返事をして、イヴは身を乗り出す。バーダが彼女の左腕をしっかりと捕まえ、イヴは落馬すら厭わぬ体勢で、思いっきり右腕を伸ばした。
その指先が回転木馬の軌道をなぞり、やがて黄金色の輪っかに触れる。イヴの横顔に一瞬、驚きと喜びが浮かんだ。
しかし——その指はリングを掴み取ることは出来なかった。
ゴールデンリングは彼女の指先に触れてポールから外れはしたものの、回転の勢いで弾き飛ばされ、空中へと跳ね飛んでしまった。
「あ……」
黄金の輪が後方へ落下していく様を見つめるイヴの瞳に、失意の色が浮かぶ。
「——まだだ」
と、俺は柄にも無く呟いていた。
俺は即座に木馬から身を乗り出し、接地すれすれに身を沈めた。そして俺の方へと弾け飛んできたリングが地に落ちる前に、大きく伸ばしたその右腕が辛うじてキャッチする。
さながら曲芸師のような芸当に、周囲から微かな歓声が上がる。リングを手にした後で、俺はやれやれと頭を振った。意図せずに目立ってしまった、畜生。
ゆっくりと回転木馬の勢いが衰え、やがて停止する。俺は木馬を降りてイヴの元に歩み寄り、その華奢な手にゴールデンリングを渡した。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます、ソードさん」
リングを受け取って、イヴはそれを見つめる。ただの鉄くずで作った輪に、金メッキが塗られた安っぽい輪っかである。しかし、イヴはそれを大切そうにぎゅっと胸に当てた。
バーダが俺の肩を軽く小突く。その顔は、珍しく優しげだった。
「ナイスキャッチ」
「……まぁな」
「それじゃ」とバーダがイヴに屈み込んで言う。「それを使ってもう一回乗る?」
しかし、イヴはゴールデンリングを見つめながら、首を横に振った。
「いいえ、ですが」と、彼女はバーダを見上げる。「あの——お願いがあるんですが……」
「ん、何?」
「今じゃなくて、また今度……その、これを使って、一緒に乗ってくれますか?」
小首を傾げるバーダに、イヴはおずおずと申し出る。
「ええ、もちろんよ」
返されたバーダの微笑に、イヴも安堵したように笑みを零す。
「この旅の帰り道で、もう一度乗りましょう」
「いや、この回転木馬がそれまであるとは限らないぞ」
俺の冷静な発言に、しかしバーダは冗談っぽく口の端を歪めた。
「そのときはジョナサンに用意させるさ」
そいつはいい、と、俺も鼻で笑った。
◆
午後を丸々使って、その後も我々はハイカーゴの大火祭を練り歩いた。厳密には、ほとんどバーダロンの導くままに——言うなれば、彼女のシナリオ通りに——振り回されるだけだったのだが。
イヴのゴールデンリングは、バーダが係員に話を付けて、半ば強引に貰うことが出来た。ニックが露店で売られていた民芸品の革紐を買い、リングを結びつけてイヴの首にかけてやると彼女は大いに喜んだ。観光の最中では、何度もそのリングを見つめて一人微笑むイヴの姿があった。
バーダの目論見通りである。まぁ、かけられた労力は俺の想定外だったが。
日が暮れてホテルに戻ってきたとき、さすがに我々は疲労困憊だった。俺は体力的にというよりも、どちらかと言えば膨大な人混みに気疲れしてしまっていた。
ディナーを取る為に、我々は昼と同じ最上階のレストランで円卓を囲んだが、町中で目に付いたものを手当たり次第に買い食いしていたせいで、誰もが食欲は無いようだった。ただ一人、ゴルドだけがたっぷりとしたステーキ・ディナーを美味そうに口に運んでいた。タダ飯に関しては節操の無い奴である。
俺は前菜のスープに軽く口を付けただけで、あとはコーヒーを啜るに留めた。
「やれやれ、『牙持つ獣たち』と戦うより疲れたぜ」椅子の背もたれにどっかりと体重を預け、俺は大きく溜息をついた。「なんてデカい祭りだよ」
ハイカーゴの街はどこもかしこも大勢の人々で溢れかえっていた。初夏の熱気と相まって、道行けば息をすることすら苦しく感じられたほどである。
「祭りは都市生活者にとって重要なイベントだよ」と、バーダが言う。「こういうイベントの無い画一的な暮らしは孤独を生み、協調性を失わせ、生産性を下げた先に、最終的には都市の道徳性に歪みを生じさせる。人間はこうやって他人と付き合うことで、なんとか歪まないように生きているんだ」
「えっと、たしかアノミー現象、でしたっけ」
イヴが呟くと、隣のニックが驚いたように目を見開いた。
「へぇ、よく知ってるね、イヴ。今のは東歐州の社会学者が昨年発表した論文の内容だよ」
「あ、いえ、その」と、イヴは照れた様子で頭を振る。「屋敷で本はたくさん読んでいましたから」
「私の本は読んでなかったの?」
と、バーダが意地悪そうな笑みで訊ねると、イヴは萎縮してしまった。
「ご、ごめんなさい。屋敷には小説の類いは一切無かったので……」
「ふふ、冗談よ」
イヴは自分がからかわれただけであることに気づき、小さく安心したような笑みを漏らした。この子に笑顔を増えたのは、今日の大きな収穫だろう。
「しかし、これだけ大規模なお祭りだと、スポンサーを集めるのは市も大変だっただろうね」
ジョンが感心した様子で、今日の祭りのパンフレットをぺらぺらと眺める。
「……む」
しかし、とあるページで途端に彼の表情が曇った。同じものを読んでいたニックが苦笑を漏らす。
「ああ、どうやら殆どがスタンリー・ホールディングス傘下の企業みたいだね。さすがはこの国一番の大企業だ」
「なるほど、スタンリーか」とバーダも横からパンフレットを覗き込み、納得したように頷く。「道理で規模の大きな祭りだと思ったよ。あの巨大な回転木馬にも納得だ」
ぐぅ、と再びジョンがどこか悔しげに唸った。
「スタンリー・ホールディングス?」聞き慣れない名称に俺は小首を傾げる。「有名なのか?」
俺の問いかけには、依頼人のため息が返ってきた。
「これは忠言だが、新聞は斜め読みではなく毎日ちゃんと読め」と、バーダが呆れたように言う。「文字を読めるというのはお前が授かった数少ない長所のひとつだろうに」
いつも通りの『忠言という名の罵詈雑言』に顔を顰める俺を、ニックが「まぁまぁ」と宥める。
「さすがに純粋持株会社の話は、ユナリアの一般市民に馴染みがないと思うよ」
「その通りだ、俺は善良な一般市民なんだよ」
大いに頷く俺に対し、冷たい視線を寄越した後で、バーダは「仕方あるいまい」といった調子で説明をする。
「スタンリー・ホールディングスは独自事業を持たない純粋持株会社、つまり他の会社の株を買い占めて、各社の経営方針に指示を出して金を稼ぐ会社だ。ジョナサンが運営するジャズフェラー・トレーディングカンパニーと似たようなものだよ。表立って消費者の前に現れる企業ではないが、影響力で言えばジャズフェラーやカリフドに並んで、この国の経済界を支配する影の怪物の一つさ」
しかし、その説明に対してジョンが憤慨する。
「一緒にしないでくれたまえ、バーダロン。我が社はボードメジャーオイル社も含めて本業ありきの事業持株会社、しかも清廉潔白、明朗会計、社会貢献がモットーだ。あんな『泥棒男爵』と同列に語られるのは遺憾だね」
ニックが苦笑を浮かべながらそれを諌めた。
「男爵だなんて、スタンリー社長は女性起業家だよ、ジョナサン。知ってるだろうに」
「言葉の文というものだよ。何だったら『泥棒魔女』でもいい」
ふん、とつまらなそうにジョンは鼻を鳴らす。この男がこれだけ不愉快そうな表情を見せるのは珍しい気がした。
その様子を尻目に、ニックが俺に耳打ちをした。
「……ジョナサンはあそこのフェイト・モルガーナ・スタンリー女史と犬猿の仲なんだ。過去に商談で何度か会ったことはあるらしいんだけど、まったくと言って良いほどそりが合わなくてね」
「ふぅん、ライバル企業ってわけか」
おそらくその競争では、俺の想像も付かないほどに膨大な金が動いたのだろう。俺には永劫に縁の無い争いの話である。
「あの経営者には人の心が無い」ジョンは苦い顔で言う。「資産家の真価は如何にして金を稼ぐかではない、いかにしてその金を使うか、だ。そういった意味ではフェイト・スタンリーは私とは正反対に位置する人間だよ」
よほどその過去の商談で辛酸を舐めさせられたのか、ジョンは吐き捨てるように言った。
「——あの魔女は、金を集めるだけの機械だ」
◆
そのときの俺は、何の気なしにその話を聞いていた。ただの世間話で、さしたる意味も持たないと思っていた。その突如として名前の出てきた人物について、何も考えていなかったし、何も疑問に思っていなかった。
本当は考えるべきだったのかもしれない。
本当は思うべきだったのかもしれない。
しかし、無理も無い話だろう。
そのフェイト・モルガーナ・スタンリーなる人物が、最終的に我々にとって、かつて類を見ないほどに『大きな意味』を持ち始めるだなんて。
——あのバーダロン・フォレスターですら、最後の最後まで読み切れなかったのだから。




