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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 1. The Soldier and The Novelist.
6/83

〈五〉本棚の狭間で

 俺は本を読まない。


 これまでの人生でまともに読みきった本など、もしかしたら一冊も無いかもしれない。別に俺は本というものを仇のように嫌っているわけではない。単純に、今まで読む必要をあまり感じなかっただけだ。


 しかし、それでも本屋というものは俺にとっては馴染み深いものだった。傭兵稼業は基本的には出稼ぎだ。護衛にせよ、運送にせよ、地図というものが必須になってくる。組合時代は任務の前に必ずと言っていいほど本屋に立ち寄り、これから向かう場所の地図を揃えてから街門を出たものだ。


 ポール書店は新商業区から少し外れた路地裏に店開いている。両脇を背の高い雑多ビルに挟まれ、まるで年中万力で締めつけられているかのような印象を受ける小さな店だ。かつての『夕陽の組合』御用達の店だが、言うまでもなく流行っている店ではない。


 入り口には『フォレスター新刊、入荷していません』という貼り紙が貼られてある。逆の意味ならよく見かけるが、入荷していないことを堂々と謳う店はここぐらいだ。


 店の中に入ると、古い紙とインクの香りが鼻腔をくすぐった。両脇をビルに挟まれているせいで日光は入らず、ランプの灯った店内は相変わらず薄暗い。目に付く限りで客の姿も三人程度しかいなかった。相変わらずだな、と俺は内心で苦笑する。


 入り口脇の会計場所では、白髪頭のじいさんが椅子に腰掛けてうとうとと舟を漕いでいた。


「店主が居眠りとは不用心だな」


 俺が言うと、その老人は顔を上げて眩しそうに目を細めた。眼鏡を押し上げ、俺の顔に焦点を合わせると、ようやく口の端を吊り上げた。老人は答える。


「……あいにく、安物しか揃えてないんでな。盗まれても大して困らんのじゃよ」

「ただでさえ治安の悪い一画なんだから、もうちっと警戒しろよ。強盗にあっても知らないぜ」

「ふん、流行りの盗人も儂を恐れてこの店には押し入らんと見える。無駄な心配じゃよ」


 と、老獪は不敵に口の端を上げる。


「とにもかくにも、久しぶりじゃの、ソード」

「まだくたばってなくて安心したよ、ポールじいさん」


 俺の皮肉にその老人、店主のジョン・ポールは呵々と笑った。


「読み切っとらん小説があるからな。まだまだ死ねんよ」

「年寄りの冷や水だぜ」

「相変わらず口の減らん男じゃな。で、何の用じゃ? 表の貼り紙の通り、フォレスターの新刊なら入っとらんぞ」

「フォレスターが誰なのかも知らねえよ。というか何だ、あの貼り紙は。じいさん、商売する気あるのか?」


 ポールじいさんはつまらなそうに鼻を鳴らす。


「フォレスターの新刊はどこも品薄じゃからな。こんな日陰の店でも問い合わせが多いんじゃよ。ああでも書かんと、おちおち読書もできん」


 仕事中に本を読むなよ、と俺は内心で辟易した。ふと机の上に置かれた読みかけの本が目に止まる。まだ真新しい表紙に書かれた著者名はB・フォレスター。このじじい、ちゃっかりしてやがる。


「それで」


 とポールじいさんは椅子から立ち上がる。曲がった腰に手を当てながら、店の奥に向かおうとする。


「次はどこに行くんじゃ? 今、地図を出してやろう。請求書はいつも通り組合に……」

「あー、いや、違うんだ、じいさん。今日は地図を探しにきたわけじゃあない」


 ポールじいさんは眉を寄せて振り返る。


「何じゃと? 地図以外に、いったいおまえさんが本屋で何を買うつもりじゃ?」

「教会騎士団選抜試験絡みの問題集とかって、置いてるか?」


 俺の返答に、老店主は口をぽかんと開けたまま固まった。


 混乱する店主を再び椅子に座らせ、俺は一部始終を説明する。じいさんはカップに残っていた飲みかけのコーヒーを啜りながら、黙って俺の話に耳を傾けていた。


「―――なるほどの。そいつは災難だったな、ソード」

「災難なんてものじゃねえよ。昨日は仕事を無くして、今日はゴルドの野郎のせいで未来の仕事まで無くしそうになったんだ。最悪さ」


 午前中の選抜試験説明会は、あれ以降は特に何事もなく終わった。ゴルドの隣に座っていたせいで受験資格を剥奪されるのでは、と心配していたが、帰り際にちゃんと受験票を手渡されたので一安心である。


 ちなみにゴルドは説明会の最中にとっとと教会から出て行った。本当に端から冷やかしに来ただけだったらしい。まったく、疫病神以外の何者でもない。


「しかし……そうか、傭兵組合がのう」


 ポールじいさんはどこか遠い目をして天井を仰ぐ。胸中を察して、俺はかける言葉を失ってしまった。


 イクスラハの傭兵組合は、ポール書店の大きな収入源でもあった。古くから組合のほとんどに地図を卸していたのは、老舗であるこの店だ。それらがすべて無くなったとなれば、店の経営はさらに傾くことになる。


「いやはや、本ばかりではなく、ちゃんと新聞も読むべきじゃったな。厭世的な暮らしが続くと、世の中が分からなくなっていかん」


 そう言って、ポールじいさんは自嘲気味に笑う。

 俺は思わず、小さく頭を下げた。


「すまない。俺らが不甲斐ないせいで、じいさんにも迷惑かけちまった」

「おまえ達のせいじゃないぞい。時代の流れじゃ、仕方ないさ」


 入り口の横、この店唯一の窓際から、じいさんは路地に目をやる。


「大陸横断鉄道に、新しい町並み……いつの間にか此処も路地裏なんて呼ばれるようになりおった」


 ポール書店が店開くこの通りは、かつては中央商店街と呼ばれていた時期がある。多くの店が看板を掲げ、週末になれば人混みが出来るほどに賑わっていたらしい。しかし、いつからかそれは中央ターミナル前の新商業区に流れ込んでしまった。


 ポールじいさんは傍らに置いてあった一冊の本を手に取り、口開く。


「活版印刷がここまで普及する前は、いったいどうやって本が出来ておったのか知っているか?」

「いや?」

「人の手じゃよ。一冊一冊、人間が筆を走らせて複写していたそうじゃ。今から三百年以上も昔のことじゃな。それは主に、教会の修道士たちの仕事じゃった。ところが活版印刷が実用化され、書物の量産が可能になると同時に、修道士たちからその仕事は無くなった。祈りの時間が増え、手書きの本は消えていった」


 じいさんはどこか諦観めいた微笑を浮かべて、本の表紙を撫でた。


「ま、それと同じじゃな。仕方の無いことと割り切るしかなかろう。何、その分ワシも本を読む時間が増えるだけじゃ」

「でも大丈夫なのか、この店だって……」

「見くびるでないわい。これでも蓄えはしっかりある。まあ、そりゃ新しい本はなかなか仕入れられんようになるじゃろうが、もともと大して流行っている店でもない。客足には影響ないわ」


 と、気丈にからからと笑うポールじいさん。またしても俺の口から言葉は出てこない。


「さて、待っておれ、ソード。たしか店の奥に入団試験の過去問があった筈じゃ。今出してきてやろう」

「……ああ、悪いな」

「しかし、まさかおまえさんに本を売る日が来るとはのう。これを機に読書でも始めてみたらどうじゃ?」


 笑いながら店の奥に去っていく店主の後ろ姿に、俺は鼻を鳴らして首を竦めるだけに止めた。


 ポールじいさんと知り合ったのは七年前、『夕陽の組合』に入団したのとほぼ同時期だ。その当時はまだあれほど腰は曲がっていなかったような気がする。小さくなった背中を見て、俺は少し居たたまれない気分になった。


 じいさんが戻るまで手持ち無沙汰だった俺は、何となく店内を見て回ることにした。こうして改めて書店の中を巡るのは初めてのような気がした。しかし、本棚に並ぶ文字の列を眺めても、一向に俺の琴線に触れるものはない。普段から本など読まないのだから、当然と言えば当然だ。


 仕方なく、俺はもっとも慣れ親しんだ一画、地図の棚へと足を向けた。店の奥まった箇所にある書棚には折り畳まれた地図がぎっしりと並び、その背表紙にはユナリア合衆教皇国の様々な地名が書かれている。


 その羅列を目で追っているだけで、傭兵時代の様々な記憶が脳裏を過ぎった。その中には虫酸の走る記憶もあれば、微笑ましい記憶も僅かだが確かにあった。改めて振り返ってみると、実に様々な場所に行ったものだ。


 ―――傭兵の時代じゃない。


 ハン首領の言葉を、また不意に思い出す。

 急にもの悲しい気分になった。


 もう俺は、これらの地図を開くことは無いのだ。

 これらの場所に赴くことも、無いのだ。

 おそらくは。


 未練がましいと思いながらも、しかし俺の手はほとんど無意識に書棚に手を延ばしていた。その中に、あまりにも懐かしい地名を見かけたからだ。


 オールドシャープ州、イヴィルショウ地方。


 それはイクスラハが属するグランヨーク州のすぐ真北に位置する地方だ。この街から州境までは馬車でおよそ三日ほどの距離。オールドシャープ州の更に最北にあるイヴィルショウ山岳地帯は、そのままユナリア合衆教皇国とアルダナク連邦の国境になっている。


 俺が初めて傭兵の仕事で赴いた地方だ。田園と炭坑以外は何もない場所。そのときは確かヒュウとゴルドが一緒で、山岳地帯の麓に燃石炭を運ぶ仕事だった。道中があまりにも退屈で、馬車の上で馬鹿な話ばかりをしていた記憶がある。


 あれからもう、五年も経つのか。


 懐かしさを覚えながら、その地図を手に取ろうとした、その時。

 俺とほぼ同時に、その地図を取ろうとした手があった。


 郷愁に意識を取られていたせいか、俺はすぐそばに別の客がいたことに気づいていなかった。そしてどうやらそれは、その相手も同じだったらしい。



 二つの手が、本棚の前で微かに触れあう。



 その時初めて、相手も俺の存在に気づいたようだった。


 すぐ目の前に、女の顔があった。

 硝子のように澄んだ鳶色の瞳が、俺の視線にぶつかる。


 陶磁のごとく白い肌に、背中の中程まで伸ばした黒髪、そして俺よりも頭一つ分は華奢な体躯。しかし、身につけた黒いタートルネックと細身のブルージーンズが、彼女の身体の女性的な曲線を浮き立たせている。


 俺ですら思わず息を呑むほどの美人だ。その整った顔立ちは彫像的ですらあった。


「……」

「……」


 手を伸ばしたまま硬直する二人。沈黙がしばし我々の間に降りる。


 ……ふむ。


 こういった状況は初体験だ。どのように対処するのが正解なのだろうか、と俺は一考する。「俺が先に見つけたものだ」とその地図を取ってしまうべきだろうか。幸い、相手も硬直しているのだからその行為自体は容易だろう。しかし、別段、今の俺はその地図が心から読みたいわけではない。懐かしさから何となく手を伸ばしただけだ。


 ではここは紳士的に「どうぞ、お嬢さん」と微笑でも浮かべながら譲るべきか。その地図を譲ったところで俺は困るわけではない。だが、その行為をする自分を想像して吐き気がした。どう考えても俺という人間のする行為ではない。


 などとあれこれ考えていると、先に動いたのは女のほうだった。


 油断していたのもある。しかし、その女のとった行動は俺の予測の範囲内から遙かにぶっ飛んでいた。



 その女は伸ばした俺の手を、思い切りのよい力で叩き落とした。



 まるで目障りな蠅をひっぱたいて追い払うかのように。


 唖然とする俺を後目に、彼女は目当ての地図を手に取り、何食わぬ顔でそれを読み始めたのだった。


 俺は声すら出ない。というより、今、いったい目の前で何が起きたのかも理解できない。


 ……何だ?

 俺は今、何をされた?


 起きた現象を脳内で反芻し、『横取りされた』という結論に至ってから、ようやく腹立たしさが湧いてきた。


「おい、おまえ……」

「ん、ありがとう」


 俺の反論を制すように、その女はしれっとそんなことを言い放った。その視線は開いた地図に固定されたままだ。一瞬虚を突かれたが、言葉の意に反してまったく感情のこもっていない口ぶりに、一拍遅れて怒りが蘇る。


「いや、そうじゃなくて」


 俺は語気を強めて一歩詰め寄る。


「その地図は俺が先に取ろうとしていたんだが」

「あなたが先に取ろうとしていた、それを証明できるような証人は?」


 ……何だって?

 俺は憮然としてその質問に答える。


「いるわけないだろ。周りを見てみろよ、店内に客なんてほとんどいねえんだから」


 他にも二人ほどいた気がしたが、生憎、それらも我々の立っている場所からは死角にいるようだった。


 彼女は一瞬、失望するような吐息をついてから、口開く。


「ならば、その発言の正当性は確立されない。証明できなければすべては机上の空論だ」

「いや、証明も何も、その地図に先に目を付けていたのはこっちなんだよ。俺の方が先にこの本棚の前に立ってただろ」

「それもまた空論。裏付けを提示してから発言すべきだな。それに」


 と彼女は付け加える。


「仮にあなたが言うように『目を付ける』という行為の先行如何がこの地図を手に取る権利に反映されるのだとしても、残念ながらその権利は私にある。私は最初からこの地図目当てで店に来たのだから」


 視線を向けることなく、淀みない口調で言ってのける黒髪。


 何だ、この女は。


 切って返してくる言葉の刃に、自然とヒュウを連想する。しかし、こいつの方が刃の切れ味が段違いだ。


 何かを言い返してやろうと思ったが、俺の口から言葉は出てこなかった。何を言っても倍にして言い返される、そんな確信があった。もともと、俺はこういった詭弁は得意な方ではないのだ。


 押し黙る俺を無視して、女は目の前で地図を読みふける。自分に一切の非が無いと主張するかのような、堂々とした立ち居振る舞いだ。


 このままで俺の腹の虫が収まるわけがなかった。意地でもその地図を読まねば気が済まない。何か逆転の一手はないかと頭を働かせるが、この俺の頭にそんなにすぐ妙案が浮かぶわけもなかった。自分の機知の無さが嫌になりつつ、途方に暮れた俺が取った行動は、


 その場に居座って、隣で別の地図を手に取ることだった。


 ……何をしてるんだ、俺は。


 冷静になって、自分の取った行動の空しさにうんざりしてくる。どう考えても生産的ではない。馬鹿馬鹿しいとは思うものの、何だか引くに引けなくなってしまった。ほとんど意地になっていたのだ。


 仕方なく、先日行ったばかりのネオジェイス州の地図を手にとって開く。紙面を睨みつけながらため息をついた。わざわざ見返さなくても、二週間前に嫌というほど読み込んだ地図だ。というか、二週間前に買った地図だった。


 と、そこで女の声がかかった。


「もういい」

「……え?」


 横から差し出されたのは、先ほどまで彼女が読んでいたオールドシャープ州の地図。肩すかしを食らったような気分だった。


 唖然とする俺に、女が怪訝な表情で言う。


「どうした、これが読みたいんだろう?」

「……買わないのか?」

「私の知りたい情報は載っていなかった」


 俺の手に地図を押しつけると、彼女は再び本棚に向き直って物色を始めた。


「いや、しかしあんた、さっきこの地図目当てで店に来たって言わなかったか」

「正確には『その地図になら載っているだろうと踏んだ情報』が目当て、だな」


 そう言いつつ地図を手に取り開いては、閉じてまた棚に戻す。それを三回ほど繰り返して彼女は落胆の溜息をついた。どれも期待はずれだったらしい。


 今更だが、彼女の足下には牛革の小さな旅行鞄が置いてあった。留め具の金細工から、それがかなり高価なものであることが分かる。おおかた、独立祭を観に来た観光客なのだろう。


「……いったい何の地図を探してるんだ?」


 興味本位で訊ねてみる。ここに並ぶのは教皇庁の国土管理局が発刊している精度主眼、実用一点張りの地図である。観光客が求めるような情報が載っているとは思えない。


「イヴィルショウ山岳地帯の地形図。本当は登山地図があれば良いんだが、無いだろうからな」


 何の気なし、といった口調で答える女。


 俺は愕然としてしまった。


 地形図……登山地図だって?


「登るつもりか、あの山に?」

「それが何か?」


 振り向いた彼女に、心底不思議そうな目をされた。


 ―――何を考えてるんだ、この観光客は。


「やめ……」

「聞き飽きたな」


 俺が口にしようとした諫言を、うんざりした様子で一蹴する。彼女の視線と指先は再び本棚に戻り、そしてその唇は独り言のように続ける。


「誰に言っても第一声は『やめておけ』ばかり。そのくせ、続く言葉にロクな情報もないのだから不毛極まりない。有用な言葉を吐く者がどこかに転がっていな……」



「イヴィルショウの地図は存在しない」



 今度は俺が奴の言葉尻を制する番だった。これまで抑揚の無かった女の顔に、初めて表情が見えた。少し感心したように目を見開く。


「……ほう」


 次いで浮かんだのは、どこか楽しげな表情。確認するように彼女が言う。


「それは確かな情報なのか?」


 確かも糞もない。地理は傭兵稼業の生命線。何の地図が存在して、何の地図が存在しないのか、それは我々傭兵にとっては基本的な情報だ。


 ……いや、そういえばもう、俺は傭兵ではなかったな。


「知り合いの傭兵に聞いてな」


 と、俺は口の端を歪めて見せる。

 対する女はまだ納得までは至らぬ様子で、更に問いを投げかけてくる。


「国土管理局も発刊してないと?」

「発刊したくないんだろうぜ」


 俺は即座に答える。見ず知らずの女の質問に答えてやる義理も無かったが、さすがに自殺行為を見過ごせるほど俺は薄情な人間ではない。いけ好かない女とはいえ、あんな場所に送り込んだとしたら俺の寝覚めが悪くなる。


「関所も何も無いあの地域で、イヴィルショウはそのまま国境線の役目を果たしている。しかも国境の向こう側はアルダナク連邦だ。教皇庁だってそんな場所の地図を作って、悪戯に民間人を立ち入らせたくないだろ」

「民間の出版社は?」

「あの山は国土開発で住処を奪われた『牙持つ獣たち』の吹き溜まりだ。そんな場所の地図に需要があるわけもない。それに民間企業が測量士を何人送っても地図なんか作れやしないさ。死人の数だけ増やすのが関の山だ」


 俺の親切極まりない解説に、女は右手を顎に当てて「ふむ」と考え込んだ。他の人間がやれば芝居がかった仕草に見えるだろうが、なぜかこの女のそれは様になっている。


「情報元は傭兵と言っていたな?」

「ああ。元来から胡散臭い連中だが、地理に関しては信頼していい」

「現場の人間の声だ、信憑性は疑わないよ」


 女は俯き思索に耽る。その様子を見て少しだけ俺は安堵した。これだけ言えば、あの山に立ち入ることが現実的ではないと分かるだろう。


「仕方ない、地図は諦めるとしよう」と女は吐息をつく。「……そうか、やはり睨んでいた通り、存在しない、か」


 独り言のように言ってから女は顔を上げる。しかし、彼女が見せたのは落胆の表情などではなかった。


「―――つまり、まさに未開の地というわけだ」


 嬉々として瞳を輝かせるその表情は、まるで子供のようだった。


「地図に載らない山、未開の地、魔物の巣窟、か。まるでフルコースだな」


 その顔には見る見る笑みが広がっていく。俺は虚を突かれ、思わず一歩後ずさってしまった。


 いったい何なんだ、この女は。

 まさか、ここまで言って、それでも登る気じゃないだろうな?


「おい、おまえ……」

「迷惑ついでにもう一つ、知っていたら教えて欲しい」


 俺が制止する暇もなく、女は問うた。言葉に宿るのは再び、芝居がかった大仰な男口調。


「地図無しで、その山に登る方法はあるか?」


 言葉を失った。

 相手の正気を疑ったが、向けられた鳶色の瞳は本気だった。


 ようやく俺の口から漏れたのは、呆れを含んだ怒声。


「馬鹿かおまえは!」


 女は目をきょとんと丸くする。怒鳴られた理由が分からない、といった顔に、ますます腹が立つ。


「何を考えてるんだ? 俺の説明のどこかに、少しでもその山に登れそうな節があったか? 俺は辞めておけという老婆心を暗に込めて、懇切丁寧に説明したつもりだぞ。それとも、それすら汲み取れない阿呆か、おまえは」


 勢いに任せて感情を吐露する。それでも苛立ちは収まらなかった。


「あ、阿呆……?」


 呆然と呟いた後で、その女の顔にも見る見る怒りの色が宿っていった。


「失礼な!」


 彼女は足下の旅行鞄を持ち上げると、それを俺の左足の上に勢いよく落とした。

 足の甲に固い衝撃と激痛が走る。

 鈍器で殴られたかのような痛みだった。尋常な重さではない。いったい何が入ってるんだ、この鞄は。


 痛みに悶絶しながら、俺は女を睨みつける。


「ってぇな! 何しやがる!」


 女はそんな俺を毅然として睨み返してきた。


「貴様こそ、初対面の淑女に向かって阿呆とは何事だ!」


 淑女、だって?

 俺の口から反論が突いて出る。


「どこの世界に、初対面の男の手を叩き落とす淑女がいるんだ!」

「あれは譲るべき場所を知らない愚図に紳士の対応をしたたかに教授してやっただけだ、むしろ感謝するべきだろう!」


 返された高飛車な物言いに、頭の血管が沸騰する。

 俺は黙っていられなかった。


「感謝だと? 親切に長々と説明してやった恩人を鈍器で殴りながら、よくもまぁそんな言葉が口に出来るな」

「先に失礼極まりない侮蔑の言葉を吐いたのは貴様の方だ。故に私のは正当なる報復だ」

「それなら俺の言葉だって正当な報復だろうが、親切をコケにされて黙っていられる人間がいるかよ」

「親切を笠に着せる下劣な人間などコケにされて当然だ」


 もはや売り言葉に買い言葉だった。気がつけば、他の客も何事かと本棚の影からこちらをのぞき込んでいた。


 しかし、もはや他人の目など知ったことではない。この女を黙らせないことには、俺の怒りが収まりそうにない。


「報復だの下劣だの、女のくせにあまり物騒な言葉を使うなよ。修道院にでも入って少しは女らしさを磨いたらどうだ?」


「男尊女卑の思想を掲げたいならあと半世紀は早く生まれるべきだったな、時代に取り残されていることに気づかないとは哀れな男だ」


「図星を突かれた女の屁理屈はいつもこうだ、小難しい言葉を使ってりゃ相手を言い負かせると思ってやがる」


「貴様は『如何なる毒舌も馬鹿者には効果無し』という戯曲家ランスクエイクの言葉を知っているか?」


 俺と女の視線が盛大に火花を散らす。

 その一触即発な空気に水をかけたのは、年老いた男の声だった。


「どうしたんじゃ、ソード。儂の店で剣呑な……」


 女の背後、入り口の方から、ポールじいさんが歩いてくるのが見えた。


 ―――そちらに意識が向いてしまったのが、原因だったのだと思う。


 俺に出来た一瞬の隙を、奴は見逃さなかった。


 目の前にいる女ではない。


 それは俺の傍らを駆け抜けていった、黒い影だった。


「きゃ……!」


 予想だにしない第三者の強襲に、女が尻餅をつく。それが店内にいた客の一人だと気づいた頃には、そいつは女の鞄を掴んで店の出口へ疾駆していた。その進行方向に思わず俺は叫ぶ。


「ポールじいさん!」

「なんじゃ……ぬわっ!」


 駆け抜けていく置き引き犯は、ポールじいさんを突き飛ばして店の外へ飛び出した。


「私の鞄!」


 女が悲壮的な声を上げる。突き飛ばされたじいさんに駆け寄ろうとすると、じいさんは叫んだ。


「いいから追わんか、ソード!」

「あ?」

「儂の店で盗みを許すつもりか!」


 怒鳴り声に弾かれ、俺は思考を挟む前に床を蹴る。書棚に挟まれた通路を駆け抜け、裏路地へと躍り出た。


「私の鞄ー!」


 ―――うるせぇな、ついでに取り返してやるよ。


 背後から聞こえる女の声に舌打ちを漏らして、俺は盗人を追って走り出した。



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