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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 1. The Soldier and The Novelist.
49/83

〈四十六〉クロスホエン・コンフリクト

 聖女ハヴァンディアは落ち着いた様子で、ティーカップの紅茶を一口すすった。その大人びた様子は、以前、バーダと一緒に面会したときとまるで別人のように見える。ましてや、あの山で俺たちの陰に隠れて怯えていたエズミからは想像も出来ない。


「どうぞお二人ともお掛けください。まずは紅茶を入れましょう。話はそれからです」


 余裕のある口調でそう言った後で、聖女はくすりと大人びた笑みを浮かべてみせる。


「ふふ、こういう風に言うと、何だかフィリップ・マーロウみたいですね」


 言葉の意については取り合わず、俺とバーダは促されるままに彼女の対面に腰掛ける。着座してから一瞬、俺はヴィリティスの方を見やった。思わず尋ねる。


「あんたは、全部知っていたのか?」


 女騎士は目を伏せ、重々しく頷いた。


「……弁解はしない。すべて、我が忠誠の為だ」


 そこで、彼女の視線がバーダに向けられる。


「ただ、謝罪はしておきたい。すまなかった、バーダ」


 バーダはしばらくの間、頭を下げるヴィリティスを見つめていた。やがて、小さく諦めるような吐息をつく。


「事情は後で聞くとして」と、僅かに表情の緊張を緩める。「私と貴女の関係は、この程度で拗れるものじゃない。貸しにしておくわ」


 それを聞いた女騎士は安堵の表情を浮かべた。


「美しい友情ですね」


 冷笑するように口を挟んだのは、対面に座る聖女だった。


「羨ましいくらいです。私はこの世界に、心から信頼できる人間はおりませんから」


 この世界、という単語が、奇妙な響きを持って卓上に落ちた。バーダが苛立ちを込めた視線を向ける。


「以前いた世界にも、貴様を信頼する人間がいたかどうか怪しいものだな」

「ふふふ、すっかり嫌われてしまったようですね」


 ハヴァンディアが口元を隠しながら笑う。


「でも、誤解はしないでくださいね。私がフォレスター先生のファンであることは事実ですよ。貴女は素晴らしい小説家です」

「マルムスティーンも似たようなことを言っていたが」


 と、バーダが切り返す。その口元に、残虐な笑みを浮かべながら。


「最後は首をはねられて死んだぞ」

「では、二の轍は踏まないようにしませんとね」


 聖女は穏やかな口調で言って、ティーカップをソーサーの上に戻す。そのカチャという涼やかな音がきっかけだったのか、彼女の瞳に鋭い冴えが入った。


「―――本題に入りましょう、バーダロン・フォレスター先生。先ほどの質問にお答えする前に、貴女がどうして今回の黒幕が私であると分かったのか、教えてくださいませんか?」


 と、そこで聖女は、疑念に眉を寄せたままの俺に目を向ける。


「お話について来られない方もいらっしゃいますし」

「……いいだろう、状況確認の為に話してやろう」


 バーダは一呼吸分の沈黙を挟んでから口を開く。その口元には、自虐的な笑みが浮かんでいた。


「貴様の手のひらで踊らされた、傭兵と小説家の話をな」


             ◆


「そもそも、今回の我々の旅の発端が既に、貴様によって仕組まれたものだったんだ」


 そんな言葉から、バーダの話は始まった。


「仕組まれた? どういうことだよ?」


 俺が繰り返すと、バーダは指を一本立ててみせたる。


「思い返してみろ。私がイヴィルショウのアタヘイを目指すきっかけは、例のアルダナクの亡命軍人に取材をしたことからだ。だが、よくよく考えてみれば、彼が亡命から三日も待たず、しかも教皇庁による正規の審問の前に、単なる一小説家の取材に応じてくれるというのは少しばかり不自然だ。ましてや、相手は連邦の軍部に通じていた人間だぞ。教皇庁が囲い込んで、一週間は審問漬けになるのが普通だ」


 バーダの瞳が、じろりと対面の聖女を睨んだ。


「あれは貴様の計らいだったのだろう?」

「何のために、でしょうか?」


 ハヴァンディアは余裕の笑みで問い返す。バーダが憎らしげに舌打ちを漏らした。


「しらばっくれるな。私を―――いや、ソードをアタヘイに向かわせるためだろう」


 ……俺を?


「亡命者の来訪によって貴様が危惧したのは二つだ。魔の山の不死の怪物―――いや、正式にペリノアと呼ばせてもらおう。彼女の存在がアルダナク連邦に伝わること。そして、マルムスティーンの謀略だ」


 そう言って、バーダは指を二本立てる。


「それら二つは貴様の予想外の出来事だった。アルダナク内乱の激化はグラノズ大河だけではなく、あのイヴィルショウ山脈を越えてくる難民を増加させる可能性があった。もし連邦側がそれを防ぐ為にイヴィルショウに追跡部隊を送って、ペリノアに遭遇でもしてしまったら最悪の事態になる。下手をすれば連邦側に『最愛の霊薬』という不死の薬の存在が漏れてしまうからな。軍事大国がそんなものを手に入れてしまったら、国境沿いの小競り合い程度では済まなくなるだろう」


 続いて彼女は指を一本折り畳む。


「そしてマルムスティーン枢機卿の謀反とも言える野望、ある種の国家転覆だ。旧皇帝が復活し、ユナリアの信仰を打ち砕かれれば、聖女たる貴様の地位まで危うくなる。しかし貴様にはどうしても今の地位が必要だった、違うか?」


「ええ、その通りです」聖女は涼しい顔で告げる。「どうぞ、推理の続きをお聞きしましょう」


 バーダは変わらず、不信と苛立ちの目で聖女を睨みつける。真相を問い詰めているのはこちら側だというのに、現状の主導権は聖女が握っているように思えた。


 バーダは自分を落ち着かせるように再び呼吸を挟み、続けた。


「故に、今回の貴様の目的は三つ。ペリノアの殺害、皇帝レオネの完全消滅、そしてマルムスティーンの抹殺。それらを成すためにソードの血が必要だった」


 そこで俺はハッとする。


「そうか、じゃあ、ゴルドの本当の依頼人ってのは……!」


 俺の言葉にバーダは頷きを返した。


「その通りだ。かつてイヴィルショウを訪れたことがあり、マルムスティーンに殺意を抱き、尚且つソードと繋がりのある人物。まさにゴルド・ボードインは貴様にとって理想の人材だったのだろう」


 ハヴァンディアは、その答えを待っていたかのように、すんなりと頷きを返した。そして答える。


「はい、ボードイン氏を傭兵として雇ったのも私です。フォレスター先生の言うとおり、彼を使って先生とソードさんを引き合わせました。黙って待っていても、ソードさんはイヴィルショウに向かってはくれませんからね」


 揶揄するように言って、聖女は俺を見た。表情こそ変わらず穏やかではあったが、その瞳は背筋が凍るほどに冷え切っていた。とても十代の小娘が浮かべるような表情には見えない。

 と、そのときだった。


「―――ボードイン君は実に優秀な人材だ」


 突然、俺の背後から第三者の声が聞こえた。咄嗟に振り向くと、そこには騎士団の白い団服を纏った男が気配も無く立っていた。彼は告げる。


「彼は任務の遂行に一切躊躇いが無い。私の部隊に欲しいくらいだ。ただ、それはソード君、君にも同じことが言えるがね」


 そう言って、彼は俺に微笑みかけた。愕然としながら、俺はかつて聞いた彼の名を呟く。


「ハプワス、大佐……!」

「失礼、それは任務上の偽名でね。職務上の名称はシーモアというんだ」


 そう言って、その男は我々に向かって慇懃に頭を下げる。


「第零騎士団、団長。シーモア・ミラージュだ。改めて挨拶を」


 第零騎士団―――団長だって?


 俺の背後に立つ男は、以前見たよりもずっと巨大に見えた。あの山で会った時は老練の軍人といった立ち姿だったが、今はそれよりももっと冷たい、言うなれば精密な機械のような印象を受ける。向けられた微笑も、どことなく無機的に見えた。


「ま、待てよ……!」戸惑いながら、俺は口走っていた。「あんたが団長ってことは、あの山で俺とゴルドに殺された連中は、あんたの部下ってことじゃ……?」


 だとすれば、この男は、自分の目の前でみすみす部下を殺させたということになる。しかし、彼―――ミラージュ団長は事も無げに答えた。


「その通りだ。私は自身の責務に従い、彼らもまた自らの任務に従事し、お互いにその結末を迎えた。それだけのことだ」


 にっこりと微笑む男に対して、俺は戦慄にも似たおぞましさを覚えた。俺は思わず睨みつける。


「あんた、それでも部下を預かる人間かよ……!」

「ふむ、義憤とは見かけによらず情に厚い男だな。しかし、それが我々、第零騎士団なのだ。精密であり、鋭利であり、代替可能な歯車であること。それこそ、我らの存在証明だ。それに、弱肉強食はこの世の常であろう」


 そこで彼は穏やかな表情のまま、俺に向けて手を差し出す。


「私は君の能力については非常に高く評価している。その不死性は戦略や戦術を覆すほどの圧倒的な『強さ』だ。例の山で、別れ際に私が言った言葉を覚えているかね?」


 俺は答えない。彼は言う。


「『いつか君を私の騎士団に迎え入れよう』。どうだろう、ソード君。私と共にユナリアのために剣を振るわないか?」


 その言葉に、俺は歯噛みする。思わず、目の前に差し出された手を鉄剣で斬り落としてやりたい衝動に駆られた。感情を抑え込み、代わりに俺はその手を払いのける。


「―――てめぇの下で働くなんざ、まっぴらだ」


 口から出た言葉は、俺の本音だった。

 俺の脳裏を過ぎったのは、部下を守る為に無様に地面に額を擦り付けた、一人の男の姿。あの男の背中を追ってきた俺にとっては、目の前の男に自分の命を預けることなど出来よう筈もなかった。


「そうか、それは残念だ」


 ミラージュはさして落胆した様子でもなく、差し出した手を下げて苦笑いを浮かべるだけだった。


「道理で似てない親娘だと思ったぜ」


 俺はそこで視線を聖女の方に向ける。


「ということは、あんたは俺たちが計画通りに動くのを確認するために、わざわざこんな護衛まで雇って、イヴィルショウへの長旅に出たってわけか?」

「まぁ、確かに快適とは言い難い旅ではありましたが、さほど長旅というわけでもありませんよ。出立の翌日には我々はモントリアに到着していましたので。お二人が来るまでの数日程度は、のんびりと観光を楽しむ時間もありました」


 と、聖女は苦笑しつつも、さらりとした口調で答えた。俺は不愉快さに眉を寄せる。


「つまらない冗談はよせ。イクスラハからモントリアまで一日で行けるわけがない」

「いや」と、そこでバーダが口を挟む。「おそらく奴の言っていることは本当だ、ソード」

「……何?」


 訝しむ俺に、バーダは真剣な顔で告げる。


「奴らは我々の技術より遙かに進んだ移動手段を所持している。思い出せ、あの草原で出会った四人組の話を」


 それまで俺はすっかり忘れていた。そういえば、この旅の中でまだ一つ、判明していない謎が残されていた。俺は思わず呟く。


「唸り叫ぶ、獣……」


 そう、あの四人組の野盗、ジャンたちが目撃したという、目の光る獣の話だ。そいつは俺たちがやって来る二日前に、猛スピードで街道を北上していったという。


「アタヘイで見つけた幾つかの新聞にも、その『乗り物』の情報は載っていた」バーダが続ける。「貴様らが使っていたのは、おそらくそれだろう」


 それを聞いた聖女は、可笑しそうに笑い出した。


「そうですか、目撃されていたとは迂闊でした。想定外ではありますが、まぁ、多少の都市伝説が生まれる程度でしょう」


 と突然、聖女はそのか細い右手を軽く掲げる。


「―――特別に、先生にもご覧に入れましょうか」


 ハヴァンディアの指がパチン、と鳴ったかと思うと、目を疑うような現象が起きた。


 突然、聖女の背後の空間に異変が起き、背景の一部が砂のように崩れ始めたのだ。それが去った後には、いつの間にかそこに白銀に輝く車両のようなものが鎮座していた。駅馬車よりも少しばかり小柄で、磨き込まれた鉄板が流線型となってその全身を覆っている。そして馬車よりは遙かに太い四つの車輪が付いていた。


 見慣れぬ物の登場よりも、俺は今起きた現象に度肝を抜かされていた。何も無い空間に、突然、未知の物体が出現したのだ。

 愕然とする俺を見て、聖女がくすくすと笑う。


「ふふふ、魔法ではありませんよ。これは最初からずっと此処にありました。少しばかり光の屈折を変えて見えなくしていただけです」

「……我々にとってみれば、魔法と大差ない現象だな」


 あのバーダですら驚きに目を見開いていた。咳払いを挟んでから、バーダは問う。


「―――それが、馬車に代わる貴様の時代の乗り物か」

「四輪接地式は少しばかり時代遅れですけどね」と、聖女は肩を竦めてみせる。「ですが、この形式の乗り物が人類史に一時代を築いたのは間違いありません。これは内燃機関を搭載した自走式車両です。そうですね、おそらくこの時代ではあと十数年程度で世に出てくると思います。史実通りであれば、エンジン自体はあと五年程度で」

「内燃機関?」と、俺は思わず言葉を漏らす。「まさか、東歐で開発された蒸気自動車ってやつか?」


 以前、新聞か何かで知った情報を思い出す。たしか、列車などに組み込まれている蒸気機関を小型の車両に搭載したものが開発された、という話を聞いたことがある。


 だが、聖女はそんな俺の発言をあざ笑うかのように、首を左右に振った。


「まさか。蒸気機関(スチームエンジン)など力量(ストレングス)ばかりで実に非効率的な代物です。これの原動力は更に高度な石油化学工業製品、ガソリンですよ」


 と、そこで更に皮肉っぽく口元を歪めて見せる。


「もっとも、私の時代ではそれも時代遅れな形式ですけど。まぁ、この時代の技術力で実現できるのはこれが限界でしたから」


 俺は思わずため息をついた。次々と飛び出してくる理解を越えた単語に、俺は既に辟易し始めていた。


「……さっきから『時代』がどうのこうのと言っているが」苛立ちをぶちまけるように、俺は口を開く。「いい加減にそろそろ教えてくれ、あんたは何者なんだ?」


 先ほど目にした、この世の物とは思えない異常な現象、そして理解不能な科学技術と理論。これが魔女の所業だと言われても、今の俺なら信じてしまうかもしれない。


「そうですね。それについてはまずフォレスター先生の見解を伺ってから、真実をお答えいたしましょう」


 聖女が妖しく微笑みながらバーダを見やる。その言葉を受け、バーダは真剣な顔で俺を見た。


「―――ソード、この女は我々の時代、いや我々の世界の人間ではない」


 確信のこもった声で、小説家は告げる。


「彼女は、これより遙か未来の異世界からやってきた人間だ」


               ◆


「異世界、だと……?」


 あまりに突拍子のない単語に、俺は続く言葉を失う。だが、バーダの表情はあくまで真剣だった。彼女は続ける。


「厳密には『我々とは異なる歴史をたどった世界』の『この時点より遙かに進んだ時点』と言った方が正確かもしれん」


 バーダの言っていることは、ほとんど俺には理解できなかった。その言葉が示すイメージすら湧いてこない。


「ビンゴ」


 聖女は再び指をパチンと鳴らした。

「さすがは希代の天才小説家、フォレスター先生。推理力、想像力、そして何よりもメタクラスな思考構造をお持ちです」


 まるで遊び仲間を見つけた童子のように、聖女は嬉しそうに言う。


「もし宜しければ、貴女が如何にしてこの真実にたどり着いたのか、教えていただけませんか? 常人が到達するには、あまりにもナンセンスな真実ですし、その思考プロセスには私も非常に興味があります」

「……いいだろう」


 バーダは頷くと、持っていた自分の鞄から革張りのスクラップブックを取り出し、テーブルの上に置いた。


「思考材料となったのは、アタヘイの街で見つけたいくつかの資料だ」


 開かれたページには、見覚えのある新聞記事が綴られてあった。俺は思わず口を挟む。


「これは……例の市民の暴動が何とか、って書いてあった新聞か」

「ああ。だが、新聞はあれだけではなかった」


 と、バーダはページをめくっていく。


「一八六一年、サムター要塞砲撃事件による南北戦争の勃発。一八六二年、リンカーン大統領によるダコタ・スー族の大量処刑。そして一八六九年、大陸横断鉄道の開通―――」


 列挙される、聞き慣れぬ名称。怪訝な顔をする俺の横で、バーダが確信のこもった声で言う。


「細部こそ違えど、これらの事件の梗概と年号は実際の史実と奇妙なほどに一致する。一八六一年、ターマス要塞砲撃事件。一八六二年、教皇勅令による旧帝過激派幹部の一斉処刑。そして一八六九年、大陸横断鉄道完成。暦の呼び名が正暦(アンノユースタス)ではなく、西暦(アンノドミニ)となってはいるがな」


「それだけを聞けば、史実を元にしたフィクションと捉えることも出来ると思いますが」聖女が楽しそうに口を挟む。「存在するはずの無い仮想年代記。それは立派な小説の分野では?」


「重要なのはここから先だ」


 バーダはさらにページを捲った。


「一八七六年、アレキサンダー・グラハム・ベルが電気式電話機の特許を獲得」


 その年号に、俺は目を丸くする。その記事に記されていたのは、今から三年後の日付だ。


「記事を読んで驚いたよ。これは私の友人、電信学者のアレックス・ラムベルが現在進めている『導線で声を伝送する研究』そのままだ」


 その話を、俺はかすかに覚えていた。バーダと旅に出た最初の夜、あの草原で焚き火を囲みながら彼女が語っていた話だ。その記事に目を落とすと、そこには小難しい機械の説明らしき文章が綴られている。

 続けるバーダの瞳に、鋭い冴えが宿った。


「―――何故、十年前に滅んだ街に、未来の最新技術についてこれほどまで緻密に書かれたフィクションが存在する?」


 ハヴァンディアは答えない。静かに微笑みを浮かべたまま、バーダの話の続きを待っているかのようだった。バーダはそれに応えるように続けた。


「さらに未来について書かれた新聞もいくつかあった。西暦一八七九年の太平洋戦争、一九一四年の第一次世界大戦、一九三九年の第二次世界大戦、そして一九四〇年代から連なる中東戦争……そのほとんどが戦争の記事だが、この世界においてもそのいくつかを現段階で予見している識者がいる。まさにマルムスティーンは世界規模の大戦が今後起こりえると睨んでいた」


「人類の歴史は、如何なる歴史線でも血塗られているものです」


 聖女が苦笑しながら言った。


 歴史線、という単語が、奇妙な響きを持って我々の間に転がった。


 ―――いったい、これは何の話なんだ?


 これらの新聞記事はペリノアの実家で保管されていた。彼女の父親は、いや、あの街の大人たちは何を知っていたんだ?


 十年前のあの日、教会でエグレディンガー神父から聞いた話が思い出される。アタヘイの一族。八〇年に渡る研究。不老不死の霊薬。今更になって、それらの謎が嵐のように俺の胸中を乱し、得体の知れない不気味さが湧いてくるのを感じていた。


「ちなみに、最も新しい新聞は西暦二一四五年、ロシアという国のデュブナ粒子加速器の事故についてだ。それ以降の記事は無い」


 バーダはそう言って、スクラップブックの最後のページを閉じた。


「私とて小説家の端くれだ。史実と空想の間にある乗り越えられざる壁くらいは読み解ける。賭けてもいいが、 ここに書かれているのは『実際に起きた出来事』―――我々の生きてきた歴史とは、また別の歴史だ」


 聖女はしばしの沈黙を挟んでから、こくりと頷いた。そして、告げる。


「補足をしておきましょう。ニューヨークタイムズは二一四六年に紙媒体でのメディア事業から手を引きました。それ以降の記事が見つからないのも無理はありません」

「―――つまり、貴様はそれより先の『西暦世界』からやってきた、というわけか」


 すかさず、バーダが問いつめる。あっさりと聖女は頷いた。


「その通りです。まぁ、詳細な年代は避けましょう」

「それは何故だ?」

「特段に理由は。レディが生まれた年を隠すようなものですよ」


 冗談めかすように聖女は笑うが、バーダは笑わなかった。聖女は続けて言う。


「ですが、それらの情報はまた一つの可能性を指し示していますね」

「そう、アタヘイの先住民たちについてだ」


 バーダが言葉尻を継ぐように答えた。そして彼女は新たな紙の束を卓上に取り出す。それは以前に俺が見た、例の亡命軍人の持ち出した資料―――俺の親父、ウーゼル・トゥエルヴが記した手記だった。


「最初にこれを読んだ時、真っ先に疑問に思ったのが、それぞれに記された年号だった」


 バーダの手が頁を捲り、記された年号を指さしていく。


「手記の最後は『八〇年』という年号で終わっている。今は一八七三年だから、これは正暦の下二桁ではない。ということは、彼らにとっての『何か』を基準として『八〇年目』と推測できる。ところでソード、今一度訊くが」


 唐突に名前を呼ばれ、俺は彼女に目をやる。


「なんだ?」

「おまえがアタヘイの街を去ったのは、今から何年前だ?」

「何年前って……そうだな、ちょうど十年前だ」


 その回答が欲しかったのか、バーダはにやりと笑って指を一本立てた。


「ということは、この年号の始まりは現時点、正暦一八七三年から『九〇年前』ということになる。『正暦一七八三年』、奇しくも大きな事件があったな」


 以前、ヒュウに散々小馬鹿にされた経緯もあったせいか、俺はそれを即座に思い出すことが出来た。答えが口をついて出る。


「皇帝レオネが死んだ年だ」


 しかし、バーダは立てた指をゆらゆらと揺らし、否定を示した。


「その通り。だが、惜しいな。正解はオールドシャープ州に伝わる『星降る山の伝説』だ。ソード、おまえもあの夜に聞いただろう。皇帝レオネが討たれたとき、無数の流星がイヴィルショウの山に落ちていった、と」

「そういえば……」


 俺は思い出す。旅の二日目の夜、州を越えた宿場町で恰幅の良い女将が話してくれた、地方に伝わる昔話を。バーダは続ける。


「おそらく、それがアタヘイの街を作った先住民たちだ。別世界からの転移がどのような形式で行われるのかは分からないが、時期と場所がこれほどまで一致しているのは偶然ではないだろう」


 その話を聞いて、俺は少しばかり動揺していた。ということは、つまり……。

 バーダは俺の至った考えを汲み取ったかのように、こくりと頷いた。


「―――そうだ、ソード。アタヘイの一族は異世界からやってきた人間たち、そしておまえはその最後の末裔ということになる」


 それを聞いて、俺は大きくため息をついた。驚きよりも辟易の方が強い。やれやれ、俺もまた、随分とよく分からん素性が増えていくものだ。もっとも―――。


「まぁ、不死身と言われるよりは衝撃的じゃねぇよな」


 と、俺は自嘲的に口の端を歪めた。バーダはそんな俺を見て、少しだけ安堵したように微笑んだ。

 ……まったく、俺がその程度で気を滅入らせるとでも思ってるのか、こいつは。


 バーダは聖女の方を向き直り、居住まいを正して言う。


「そして今から十年前、一つの流星が再びイヴィルショウに墜落していったという目撃情報がある」


 それもまた、あの女主人が話してくれたことだ。


「―――それが貴様だろう、ハヴァンディア」


 バーダの指が、目の前の聖女を指す。対する聖女は落ち着いた様子で訊ね返す。


「その証拠はございますか?」

「無い。すべて私の推論だ」きっぱりと断言するバーダ。「だが、確信している。この物語の真相がそれである、とね」

「小説家としての勘、ですか」

「貴様も同じなら、似たような感覚は分かるだろう」


 そこで聖女は大人びた仕草で自分の髪を軽くかき分けた。


「そうですね。創作者としてのインスピレーションは時として現実を凌駕します。殊に、今回のような現実離れした案件に置いては、得てして真実を貫きかねないものです。ところで」


 と、聖女は話題を変える。


「最初に先生が糾弾していましたが、私が作家のハル・エリスであるとする根拠は何ですか?」

「それに対しては物的根拠が無いわけではない。聞けば貴様は、もともとモントリアの修道院にいたらしいな」

「ええ」

「それ以前は何をしていた?」


 バーダの問いに、聖女は微笑を崩さずに答える。


「先生と同じです。身よりのない孤児でした」

「そう。そして当時の名はハル・エリス。そうだな?」


 聖女の片方の眉が、意外そうにぴくりと動いた。


「……あら、そこまで調べているとは予想外でしたね。その名前を知り得る者は殆どいない筈ですが」

「知り合いに名うての探偵がいてね。私の情報網を甘く見るなよ。その気になれば教皇の隠し子の数でも調べられるぞ」

「閣下に隠し子などおりません」


 毅然として口を挟んだのは、いつの間にか聖女の傍らに立つミラージュ団長だった。腐っても教会に忠誠を誓う騎士というわけだ。


「とにかく」とバーダが気を取り直して言う。「小説家ハル・エリスの作品は、時間を逆行する題材を取り扱った空想科学寓話がメインだ。そして奇妙なことに、先ほどの『西暦アンノドミニ世界』の新聞に登場する単語が、作者の造語としてふんだんに散りばめられている。理論や思想、歴史的事件まで詳細に、な。それらの情報を得た今となっては、これでハル・エリスを異世界からの来訪者だと思わない方が難しい」


 バーダの瞳に再び鋭い冴えが宿る。射抜くように聖女を睨みつけながら、彼女は言う。


「話をまとめよう、聖女ハヴァンディア。十年前にイヴィルショウに落ちたとされる流星、それが貴様だ。おそらく時期としてはアタヘイ崩壊後だろう。貴様は廃墟となった街の資料を読み、最愛の霊薬とソードのことを知った。その後は孤児を装い、モントリアの修道院でシスターとして過ごした後、『奇跡の力』を使って聖人の地位にまで至った」

「しかし、十年前というと私はまだ四歳ということになりますが?」


「まるで今が十四歳だと言わんばかりだな」聖女の指摘を、バーダは鼻で笑い飛ばす。「とぼけるのはやめろ。貴様らが持つ『奇跡の力』とやらを使えば、若返りなど造作も無いのだろう?」

「……なるほど、その口振りだとある程度の察しが付いている、というわけですね」


 聖女は感嘆するように、椅子の背もたれに体重を預けた。大きく息を吐き出してから、聖女は言う。


「いいでしょう。もともと貴女が来たらすべてを明かしてあげるつもりでしたし、そこまで推理できているのであれば、こちらとしても話が早い。もとより、少女(バーダロン)を導くのは森の聖女(ハバンディア)の役目ですからね」


 ハヴァンディアは意味深に微笑んでから、告げる。 


「―――貴女の推理はすべて正解です、バーダロン・フォレスター。私は『ある目的』のためにこの歴史線にやってきた、歴史改変者です」


              ◆


「ところで、フォレスター先生は、『連理木』というのをご存じですか?」


 と、聖女ハヴァンディアは唐突に問うた。バーダは訝りながらも答える。


「たしか、樹木の幹から伸びた枝先が、何らかの要因で幹の方に戻るように成長してしまい、やがて幹と癒着してしまう現象だろう。自然界ではままあることだ。それがどうした?」

「我々の歴史線で、その連理木と同様の現象が置きました。それが私が今、此処にいる理由です」

「同様の現象?」


「ええ―――それが『交差時点励起クロスホエン・コンフリクト』という現象です」


 そう言って、聖女は自身のティーカップに新たな紅茶を注ぐ。俺の目の前に、ミラージュ団長が黒い陶器の灰皿を置いた。聖女が微笑む。


「すべてお話しましょう――少しばかり長いお話になりますので、どうかくつろぎながらお聞きください」


 俺は皮肉げに鼻を鳴らして、胸ポケットから煙草を取り出した。


「徹夜明けだからな。せいぜい、居眠りしないように気をつけるよ」


 ハヴァンディアはくすりと笑って、新たな紅茶を一口啜った。


「まずは私たちの歴史線について語っておきましょう」


 そして、聖女は語り始める。


「私がいたのは此処よりも数百年程度、時計の針を進めた時点になります。人類が遺伝子、素粒子を解明し、更に宇宙の一部を解明した時点。言うなれば産業革命以降のこの時代と同じ、第二の『前進する息吹』の時代です」


 ハヴァンディアはそこで、俺の目の前の煙草の箱に目を止めた。


「言葉で説明するよりも、実際にご覧いただいた方が早いでしょう。ソードさん、その煙草を一本くださいませんか?」


 俺は虚を突かれて、目を丸くしてしまう。


「おいおい、未成年が喫煙してもいいのか?」

「先ほども申しましたが、本来の私は未成年ではありませんよ。それに、その煙草は嗜むために頂くわけではございません」

「ソード、一本くれてやれ」


 バーダにも促され、俺は渋々、一本を抜き取って聖女に手渡す。渡した後でそれが最後の一本であったことに気づき、苦虫を噛んだ。

 聖女は受け取った煙草を目の高さまで掲げると、そっと目を閉じた。その口元が小声で何かを呟く。


 すると突然、煙草の先端に勢いよく火が灯り、見る見る内にすべてを灰にしていった。燃え残ったフィルターを掲げて見せ、聖女は微笑む。


「今お見せしたのは、人間の意志によって物理法則に干渉し、様々な現象を発生させる技術です。今は煙草を燃やし尽くす程度でしたが、その気になれば更に膨大な事象を引き起こすことも可能です」


 俺とバーダはお互いに驚愕に口を開いていた。バーダの言葉ではないが、これではまるで魔法だ。


「それは」とバーダがおののきながら問う。「つまり、貴様たちの歴史線では、人類という種が進化しているということなのか?」


「いいえ。これは先天的な能力ではなく、科学技術大系の一つです。万物を構成している一部の素子に、人類が生身で干渉出来る技術を見つけた。それだけのことです。言うなれば、歴史や伝説上に登場する『魔法』や『超能力』の類が解明され、『科学』という分野にシフトしたというわけですね」


 そう言って、聖女はフィルターだけになった煙草を灰皿の上に置いた。俺はまじまじとそれを眺めてみる。吸い殻の先端からは紫煙の残滓が燻っていた。手品の類ではないことは確かである。

 だが、やがて俺は呆れ返って鼻を鳴らした。


「たしかに少しばかり驚いたが、ただ火を点けただけじゃないか。ライターを使えばいいだけの話だろ」


「あら、そうですか」と聖女は意味深に微笑む。「では、これはいかがでしょう?」


 聖女の言葉に続いて、突然その吸い殻が淡く輝きだしたように見えた。と思うと、燃え尽きた筈の灰が吸い殻に吸い寄せられていき、元々あった姿を取り戻していく。瞬きを挟むうちに、そこには真新しい煙草が一本転がっていた。


「これは、ライターでは出来ないことでしょう?」


 さすがに俺は唖然としてしまう。聖女は続ける。


「もちろん、技術と呼ぶ以上、これは誰にでもできるわけではありません。コツ、というわけではありませんが、その理論を理解し、尚且つ一定の才能を持つ者が訓練をして初めて、今のような現象を引き起こすことができます。事実、これを為すことが出来る人間はさほど多くはありませんでした」


「なるほど」と、バーダが言う。「展開が読めてきた。貴様がこの時代にやってきたのは、その技術によって引き起こされた『何か』が原因、というわけだ」


 バーダの言葉で、聖女の片方の眉が意外そうにつり上がる。やがて、その口元に魔女の笑みが戻った。


「察しが早いですね」


「ふん、先ほど貴様が言った連理木の例でおおかた予想がついた。おまけに、今見せてもらった時間の非可逆性を鼻で笑うような現象と併せてな。人間がそのような万能の力を得れば、事の顛末はだいたい読み解ける。人類の欲求が究極的に行き着くのは一点だ」


 つまらなそうに言った後で、バーダの瞳が鋭く細められた。


「過去―――いや、歴史の改竄だろう」


 聖女ハヴァンディアはラウンドテーブルの上に両肘をついた。そしてその小さな手を顔の前で組み合わせ、頷く。


「その通りです」


 聖女の表情から笑みが消える。


「私が生まれた歴史線は、何者かの歴史改竄によって崩壊寸前まで追いつめられたのです」


               ◆


「―――時間旅行」


 と、聖女はまずその単語を口にした。


「それは古来より数多の科学者、物理学者が思考を重ねてきた、人類の夢の一つ。私がいた時点ではその実現のために十七の理論が組み立てられましたが、最終的に実現に至ったのは最もオーソドックスな一説―――タキオンを用いた相対性理論の破壊でした」


 真剣な表情のまま、聖女は訥々と語る。俺は正直、頭上に疑問符しか浮かばない。バーダもまた、不愉快そうに眉を寄せていた。


「その原理については割愛いたしましょう」


 聖女は我々の方を見やり、苦笑を浮かべた。俺は憮然としながら答える。


「実に話の分かる聖女様だ」

「同意だ。要点のみを話せ」


 バーダもまた、不機嫌そうに鼻を鳴らす。聖女の繰り出す難解な未来科学は、おそらくこの時代に生きる我々が一朝一夕で理解出来るようなものではない。それは知識の怪物たる小説家、バーダロン・フォレスターにとっても同じらしい。


「分かりました」と、聖女は承諾する。「それでは、お二人に話のレベルを合わせます」


 嘲りにも聞こえる発言に、バーダが憎々しげに顔を歪めるのが見えた。聖女はそれに気づいていない素振りで、話を再開する。


「とにかく、我々は時間の逆行実験に成功しました。人類は空間のみならず、時間という新たな可動領域を得たわけです。しかし、もちろんそれと引き替えに警戒すべき事項もありました」


「タイムパラドックス」と、唐突にバーダが言った。「―――貴様の著書に描かれていた、過去への干渉によって現在に生じる矛盾のことだな」


「正解です」聖女が首肯する。「各国政府はそれにより引き起こされる『現代』の崩壊を危惧し、時間逆行に対して厳格な規制を設けました。しかし、いつの世もそうであるように、無法を犯す者どもというのは存在します」


 そこで初めて、聖女の顔に感情の揺らぎが見えた気がした。それは苛立ちと、そして―――後悔の色だった。彼女は続ける。


「実はタイムパラドックスというのは実際には起こりえないものとも考えられていました。過去改変が行われた時点でその歴史線は現在には繋がらず、まったく別の未来に発展するとされていたからです。いわゆる平行世界(パラレルワールド)理論ですね。事実、それまで研究者が行ってきた過去改変では、現在に対して如何なる変化も及ぼすことは出来ませんでした」


「だが」と、そこでバーダが口を挟む。「突如としてそれが起きてしまった。そういうことか?」

「……はい。それこそが交差時間励起クロスホエン・コンフリクトと呼ばれる大災厄です」


 俺は椅子の背もたれに体重を預け、胸の前で腕を組む。一方で傍らのバーダは興味深そうに、幾分前のめりの姿勢で聖女の話に耳を傾けていた。聖女は話を続ける。


「最初に起きた異変は、人々の記憶の混乱でした。昨日まで知らなかった筈の人間の記憶がある、或いは逆に、昨日まで知り合いだった筈の人間の記憶が無い―――既視感と未視感の混濁が人々を襲い、社会は突然の混沌に陥りました。そしてそれに連なるように発生したのが、あらゆるアーカイブのパラドックスです。すべてのコンピューターは自己矛盾によるエラーを弾き出し続け、電子データの大半がクラッシュしました。そう……わずか一日にして、人間社会の機能は事実上、完全に停止してしまったのです」


 先ほどまで辟易すら覚えていたというのに、俺は思わず固唾を飲んでその話を聞いていた。


 昨日まで知り合いだった筈の人間の記憶が、無い。

 その感覚はまるで想像できないものの、それが世界規模で起きるというのは、酷く空恐ろしい出来事のような気がした。


「ですが、災厄はそれだけではありませんでした」


 聖女の瞳が苦悶するように細められる。


「人間という種の最小存続個体数を我々の爪先まで追いつめるほどの、単純で圧倒的な暴力を持つ存在が突然出現したのです」

「圧倒的な暴力?」


 バーダが疑念に眉を寄せて聞き返す。対する聖女は、重々しく頷きを返した。


「―――その存在を、私たちの時代では『クロノアルター』と呼称していました」


 どこかで聞いた覚えのある単語だと思った頃には、バーダが椅子から腰を浮かせて反応していた。


「クロノアルター……!」


 俺は訝り、思わず傍らに訊ねた。


「なんだ、知ってるのか?」

「おまえの父君の手記に書かれていた単語だ、覚えていないか?」


 そこで、俺の記憶に微かに触れるものがあった。バーダがそれを補助するように、卓上に広げられた手記の頁を捲る。そして、とある一節を指さした。


「『八十年四月五日。ガウェイン、ケイ、ベティビアの皮膚の一部に硬質化が見られた。サンプルを解析、記録にあるクロノアルターの構成組織との一致率が九十七パーセントであることが分かる』。間違いない、この部分だ」


 対面に座る聖女が、頷きを返した。そして告げる。


「すべての生命体の歴史を振り返れば必ず系譜が存在します。その種がどのように進化し、何を起源としているか。しかし、そのクロノアルターはすべての系譜を無視し、何の前触れもなく我々の生態系に現れたのです」


 言いながら、ハヴァンディアは空を見上げる。


「人類を突如として襲った記憶と記録の混濁、それに合わせるようにして出現した生態系的脅威……そこから我々は一つの仮説を組み立てました。すなわちその時点に、我々の世界とは『別の過去』が干渉を始めているのだと」


 そこでバーダの視線に気づき、聖女はこくりと頷いた。


「そう―――既にお察しの通り、我々が『クロノアルター』と呼ぶ存在は、この世界の『牙持つ獣たち』を起源とするものです」


 そう言って聖女は、おもむろに自らの首に巻かれたリボンを解く。そして手近にあった便箋用のペーパーナイフを手に取り、リボンの中程から縦に引き裂いた。Yの字の形となったリボンをテーブルの上に置いて、聖女は口開く。


「これが正常な歴史線の在るべき形状です。改変された歴史は新たなベクトルを得て、本来であればそれ以降は互いに交わることはありません。しかし―――」


 と、聖女は分かたれたリボンの先端を手に取り、結びつける。


「我々の世界では、何故かこのような変異的な時間形状になっているのです」


 テーブルの上に置かれたのは、Yの字の上端が互いに結ばれたリボン。その結び目の部分を指さして、聖女は言う。


「この交錯時点が、私のいた時点。我々の歴史線を襲い、やがてあなた方のこの歴史線が到達する、人類の……いえ、世界の終焉です」


「歴史線の連理木、か」バーダが呟く。「その災厄というのはつまり、列車の合流事故みたいなものだな」


 話を整理するように、バーダはこめかみを押さえながら言った。聖女は首肯する。


「ええ、その通り。我々の世界とこの世界、その二つの歴史が衝突してしまう。まさに地球史規模の巨大な列車事故のようなものですね。私はその事故現場からもう一方の車両を辿って、この『別の過去』に転移してきたわけです」


 俺は言葉を失う。俺の想像の範疇をあまりに大きく逸脱した展開に、再び俺の理解力は麻痺し始めていた。


 歴史が衝突する? いったい何なんだ、それは。


 傍らのバーダは大きく吐息をつくと、そこで初めて目の前の紅茶に口をつけた。一口嚥下してから、口開く。


「全体像については概ね理解した。突拍子も無い話ではあるがな」そこで顔を上げる。「では、アタヘイの民がこの世界に転移してきた理由とは何だ? この世界で不老不死を目指す真意が分からないな」


「私も詳細までは分かりませんが」とハヴァンディアは首を左右に振った。「確かなことは、アタヘイに転移してきた者たちは私がかつて所属していた組織の人間ではない、ということです」


「貴様の仲間ではない、と?」


「はい。ここからは推測になりますが、彼らは過去改竄を目論む別の勢力でしょう。おそらく、彼らはこの時代で不老不死を実現させることにより、歴史線を監視、或いは干渉を続ける『時の楔』たる人間を作ろうとしていたのだと思います。私の生きた時代では、例の大災厄のせいでこの『正暦(アンノユースタス)世界』の精密な歴史は観測できませんでしたし」


「時の楔、か」とバーダが納得するように言う。「言い得て妙な表現だ」


 そこで、ハヴァンディアの目が俺に向けられた。


「もっとも、彼らに実現できたのは『不死』のみで、その楔は不完全な形だったわけですが」


 意味が分からず、俺が憮然とした顔を浮かべていると、聖女が付け加えるように言った。


「今のソードさんは『不死』ではあっても『不老』ではありません。貴方が時の監視者として永劫の責務を負う必要はないでしょう」

「必要があったとしても、俺はそんな訳の分からないものになるつもりは無ぇよ」


 と、俺は悪態をついて見せる。聖女は「でしょうね」と薄く笑うだけだった。


「それでは」と、バーダが問う。「貴様自身の目的は何なのだ、ハヴァンディア。世界を救う英雄にでもなるためか?」


「英雄など、それこそフィクションの産物ですよ」 と、聖女は静かに首を左右に振った。「私が此処に居る理由、それは―――」


 やがて我々を臨むその瞳に宿るのは、そのあどけない容貌とはあまりにも不釣り合いな、悲壮感すら感じられる決意。

 聖女ハヴァンディアは告げる。


「―――この歴史線を崩壊させる為に、です」


              ◆


 端からすれば、あまりにも異常な状況だろう。年端もいかない少女がこの世界を滅ぼすなどと謳うのは。

 しかし、そのあまりに衝撃的な発言の前にも、バーダは落ち着いたままだった。その様子を見て、聖女の口元が酷薄な笑みを作る。


「逆上でもするかと思いきや、意外ですね。てっきり貴女はこの世界を心底愛しているかと思っていましたが」

「愛しているとも」とバーダは自信たっぷりに言ってのける。「この世界は生きとし生けるものすべてを肯定する為にある。それを愛さずに生きるなど、世界に対してあまりに不誠実というものだろう」


 その言葉の前に、聖女の表情に変化があった。眉の間に、どこか不愉快そうな皺が浮かぶ。


「では何故、そこまで余裕でいらっしゃるのですか? 私は貴女の愛するその世界を滅茶苦茶にしようとしているんですよ?」


「その理屈も理解は出来るからな。交差時点励起クロスホエン・コンフリクトとやらを回避するためには、究極的にはこの歴史線を在らぬ方向に強引にねじ曲げてしまえばいい。貴女がやろうとしていることは、つまりはそういうことだろう? そのために、今の『聖女』という地位が必要だった。国家の重鎮ともなれば、国政に関与出来る機会が増えるからな」


 紅茶に口をつけながら、バーダはさらりと言ってのける。聖女は理解できない、といった様子で小さく頭を振った。


「そこまで理解しながら反発しない理由が、私には分かりませんね」

「―――貴女も、そうだろうからな」


 そう言って、バーダは哀しげに微笑んだ。押し黙る聖女に、バーダは続けて語る。


「聖女ハヴァンディア。貴女は自分がいた世界を崩壊から救うために、世界の果てよりも遙かに遠いこの歴史線にやってきた。たった独りぼっちで、な。その勇気と孤独を蔑むなど、誰が出来よう」


 そこで、聖女の顔に明確な苛立ちの表情が浮かんだ。しかし、努めて冷静を装いながら、ハヴァンディアは言い返す。


「……知った風な口をきかないでいただけますか。貴女に何が分かるというのです?」

「分かるとも」バーダは即座に返答する。「貴女が自分のいた世界を如何に愛していたか、ぐらいはな」

「だから、何を根拠に……」

「―――もう、元の世界には戻れないのだろう?」


 聖女の呼吸が一瞬だけ、微かに止まったのが見て取れた。バーダは告げる。


「先ほど、例の自走式車両の話をした時に貴女は言った。『この時代で作れるのはこれが限界だ』とね。ましてや、未来の異世界へ跳躍する機械など、この歴史線、この現状では作ることは出来ないだろう。貴女は、自分自身を犠牲にしてまで世界を救おうとしている。そんな真摯な願いを真っ向から否定することなど、私には出来ない」


 聖女は言葉を失い、歯噛みをしながら俯いた。バーダは続ける。


「私には貴女を止める力は無い。その魔法のような技術も使えない。私はただの小説家だからな」


 そこで、彼女はにっこりと微笑みかける。

 目の前に座る、一人の少女に対して。


「―――私に出来ることは、ハッピーエンドに導くプロットを考え続けることだけだ」


 聖女ハヴァンディアは顔を上げ、無言でバーダの瞳を見つめていた。彼女がどのような感情を抱いているのか、その表情からは読みとれなかった。やがて、聖女は諦めたような吐息を漏らす。


「……あなたたちは実にイレギュラーな存在です」

「世界の謎を知った小説家と、不死身の傭兵か。確かに、なかなかに希少な存在だろうな」


 バーダがおどけた様子で言う。その横で、俺は神妙な顔で問いかける。


「俺たちをこれからどうするつもりだ?」


 対して、聖女は軽く首を左右に振った。


「どうするつもりもありません。というより、どうすることも出来ません。あなたを処刑することは当然出来ませんし、フォレスター先生を上手く懐柔できる自信も私にはありません。逮捕でもされると思っていましたか?」


 俺は肩を竦めてみせる。


「まぁ、かなり不敬な態度を取っちまったからな」


 俺の発言に、聖女の傍らに立つミラージュ団長が口元を緩ませた。が、聖女に一睨みされて居住まいを直す。聖女は小さく呆れたようなため息をついてから、再び真面目な顔になる。


「フォレスター先生、最後に一つだけ―――貴女は先ほど、私のことを独りぼっちと称しましたが、それは誤りです。この歴史線には既にアタヘイの民のように、歴史の軌道修正の為に転移して来ている人間が他にも多数おります。当然、組織立って行動をしている者たちも、ね。私はその中の一人に過ぎません」

「……だろうな」


 と、バーダの表情が一瞬だけ曇る。それはどこか、哀愁を感じさせる顔だった。構わず、聖女は続ける。


「私も含め、彼らはいつか貴女の愛する世界に刃を向けるでしょう。世界がいつまでも貴女を肯定し続けるとは思わないことです」

「―――忠告に感謝しよう」


 バーダはそう言って席を立つ。俺も合わせて立ち上がった。ひとまず、生きて帰ることが出来そうで一安心である。

 そこで余裕が出来たのか、俺は思わず口を開いていた。


「ああ、そうだ。最後に俺も一つだけ、いいか?」


 聖女とミラージュ団長、これまで黙していたヴィリティスとバーダまでもが、胡乱な顔で俺を見つめる。


「黙って聞いてれば、今回の旅は全部が全部、アンタらに仕組まれたものだった、みたいな話ぶりだったがよ」


 と、俺は横に立つバーダを指さした。


「―――俺がこいつと出逢ったのは、断じてアンタらの企てのせいじゃないぞ」

「は?」


 と、バーダは一瞬、呆けた顔を浮かべる。俺は続けた。


「そもそも俺とこいつの縁は、たまたま本屋で同じ本を取ろうとしたからだ。それはアンタらが仕組んだことじゃない。全部が全部、アンタらの陰謀通りに動いていた、なんて思うなよ」

「な、何を言ってるんだ、貴様は……!」


 何故か、バーダが頬をわずかに朱に染めながら俺を諫める。


「いや、何だか都合よく使われたような気がして癪だったからよ」

「だからって、そういう話は此処でするものじゃないでしょ!」


 バーダの口調はいつの間にか素に戻っていた。俺は首を傾げる。俺は何か間違ったことでも言ったのだろうか。

 やがて、静かに笑いを噛み殺すような声が聞こえてきた。目をやると、聖女が口元を押さえながら愉悦に目を細めていた。気づけばミラージュ団長までもが口元をにやにやと歪め、ヴィリティスは顔が見られぬようにと明後日の方向を向いている。

 やがて、聖女は笑い声を隠すこともなく口を開いた。


「ふふふ、あはは。確かにそれは私たちの想定外ですね。なるほど、お二人が出逢ったのは我々の策略ではなく、運命だった、ということですね」


 聖女の言葉に、俺は得意げに笑い返してやる。


「そういうことだ」

「違うわよ!」


 バーダだけが反論する。

 ……まったく、なんでこいつはこんなに不機嫌になっているんだ?

 聖女はそんな俺たちのやりとりを見つめながら、再び可笑しそうに笑った。バーダはその様子を、憤りのためか、頬を染めたまま睨みつけていた。ひとしきり笑い終えた後で、聖女が言う。


「実に愉快なお二人ですね。少しだけ気に入りました。いずれまたお会いしたいものです」


 バーダは恨めしそうに俺を睨んだ後で、気を取り直すように大きくため息をついた。聖女を向き直り、彼女は言う。


「……また貴様らの策略に踊らされるようなことは願い下げだな」

「まぁ、私も貴女がたに好かれるとは思っておりません」


 聖女はその瞳に冴えを取り戻し、俺たち二人を臨んだ。


「ですが、いずれ再び相見えることもあるでしょう。そのときはせいぜい、我々に書き換えられないように足掻くことです」

「ふん、原稿の書き直しが貴様らだけの特権だとは思うなよ」


 対して、バーダは魔女のごとき不敵な笑みで言い返す。


「―――貴様らがこの世界で悲劇を描こうものなら、私が何度でも大団円に書き換えてやるよ」


 小説家と聖女の間に、静かな火花が散る。

 数瞬の沈黙の後で、バーダが踵を返した。俺もそれに倣う。


「―――傭兵と小説家の行く先に、幸多からんことを」


 去りゆく我々の背中に、聖女の紡ぐ教会の祈りの言葉がかかった。

 だが、俺とバーダが振り返ることは無かった。


              ◆


 門前まではヴィリティスが見送りのためについてきた。プロムナードを無言のまま進み、迎賓館の門前までたどり着いた時、彼女は唐突に言った。


「―――それでも、私はあの人に仕えるつもりだよ、バーダ」


 バーダは彼女を振り返り、その瞳をじっと見つめた。やがて大きく吐息をつく。


「わざわざ宣言するということは、それなりの理由があるのね」

「バーダ、おまえだってもう気付いている筈だ。あの人、歴史改変者という存在を知った時点で」


 ヴィリティスの言葉に、一瞬だけバーダの目が苦悶するように細められた。それを押し込み、彼女はやがて頷く。


「ええ―――アトラのことでしょう」


 俺は驚かなかった。

 先ほど遭遇した、魔法の如き力を持つ聖女。

 その存在に、他に心当たりが無いほど俺は間抜けではない。

 バーダは言う。


「アトラもまた、ハヴァンディアと同じ歴史改変者だった」


 まるでその事実を、自分に言い聞かせるかのような、穏やかな口調だった。そして、哀しげに微笑む。


「私も、それはきっと間違い無いと思う」


 短い期間だったとはいえ、俺とこいつの付き合いの密度はかなり濃い。そのせいか、彼女の胸中に溢れている感情が、俺には手に取るように分かった。その表情に浮かぶ冷静さが、装いだけであることも。

 そこで唐突に、ヴィリティスは確固とした声で言った。


「―――大災厄を回避することが出来れば、アトラは死ななくて済む」


 俺は眉を寄せたが、バーダロンは一瞬だけ躊躇うように目を伏せた。ヴィリティスは続けて言う。


「アトラがこの時代にやってくる理由が無くなるからな」

「それは違うと思うわ、ヴィリティス。聖女が言ったでしょう。本来、大災厄が起きなければ歴史線は枝分かれして進んでいくって」


 バーダは首を左右に振って、冷徹な声で言う。


平行世界(パラレルワールド)理論―――たとえこの歴史線が大災厄を免れたとしても、アトラを失ったこの世界は続いていく。この世界に彼女が蘇るわけではないのよ」


「だが」と女騎士は反論した。「違う歴史線、大災厄の起こらない本来の歴史線のアトラは、こんな非業の運命を辿らなくて済む。そうだろう?」


「でもそれは……」と、珍しくバーダが言いよどむ。「そのアトラは、きっと私たちの知るアトラじゃないわ」

「それでもいい」


 ヴィリティスは語気を強めて断言した。その瞳には、甲冑に不釣り合いな感情の滴が見えた。女騎士は、縋るような声で言う。


「……私はそれでも、アトラが幸せな世界があって欲しいんだ」


 バーダは何も答えなかった。ヴィリティスが抱くその感情を、他ならぬ彼女が否定できよう筈が無かったのだ。だが同時に、彼女がそれと相反する感情を抱いていることも、俺には分かった。

 やがてバーダは顔を上げ、言う。


「私は、アトラが愛したこの世界を愛している」


 その瞳には、決意に色が見て取れた。


「―――この世界を見捨てることなんて、私には出来ない」


 しばらく、二人の間に無言の沈黙が降りた。お互いがお互いを見つめ合い、瞳の奥に秘めた想いを交わし合う。まるで、相手の瞳に自分自身の願いを見つけだすかのように。


 やがて視線を先に外したのは、ヴィリティスだった。困ったような、儚げな笑みを口元に浮かべながら、女騎士は言う。


「……私たちは、友達だよな、バーダ」

「いいえ」と、バーダは首を振る。「親友よ」


 同じように、淡く切実な微笑みを浮かべながら。

 ヴィリティスは安堵したように緊張を緩め、言う。


「私には、あの方がそれほど非道なことを為すような人物には思えないんだ」


 おもむろに、ヴィリティスがそんなことを語り出した。バーダはしばらく沈黙してから、諦めたように吐息をついた。


「……分かってる。歴史線の崩壊、なんて物騒な言葉を使っていたけれど、あの女はマルムスティーンのような狂奔者じゃない。あれほどの『力』を所持していながら、こんな回りくどい方法で静かに他国との均衡を保とうとしてるんだから」


 幾分、不承不承といった様子ではあったが、バーダは頷きを返す。


「あの女はあの女なりに、この歴史線に気を使っているつもりなんでしょう。あの歪みきった性格は擁護できないけどね」


 バーダは改め女騎士の方を向き直る。真剣な目をして、告げる。


「ヴィリティス、私は貴女とは対岸の立場になりたくはない」

「私もだよ」


「また、逢いましょう」

「ああ」


 言葉少なに別れを告げ、バーダと俺は歩き出す。その背中には、ずっとヴィリティスの視線を感じていた。


 迎賓館を後にして、俺とバーダはしばらく無言で宗塔区画を歩いた。横を歩くバーダは不機嫌そうというよりは、どこか考え事をしているようにも見えた。あまりに真剣に考え込んでいるので、俺は何となく言葉をかけるタイミングを失ってしまった。


 やがて我々は区画の中央にあるささやかな公園までたどり着いた。周囲には緑の葉が茂る生け垣が備えられ、広場の中央には一際目を引く大きな樹木が一本植えられている。


 海を渡った遙か遠くの島国から寄贈されたというその樹は、枝々に見事な花を咲かせていた。吹き抜ける春の薫風に、薄紅色の花びらがまるで吹雪のように舞い上がっている。


 その樹の下で、バーダはふと足を止めた。舞い散る花びらの中で、彼女は頭上見上げる。枝の隙間から覗く空は蒼く澄み渡り、暖かな春の陽射しが世界を照らしていた。


 見上げる彼女の表情には、微かな憂いが見えた。

 俺は頭をぼりぼりと掻いてから、口を開いた。


「―――無理すんな」


 バーダが驚きに目を見開いて俺を振り向く。やがて、その表情が哀しげな微笑に染まっていった。


「……アンタがここまで勘が鋭いなんて、意外ね」

「ま、人並みにはな」


 俺は視線を反らして、肩を竦めてみせた。


「おまえの親友のアトラは記憶喪失だったんだろ」と俺は言う。「さっきの聖女が言うような、歴史線の崩壊云々は関係ない」

「まぁ、ね」


 答えるバーダの声には、覇気が無い。


 ……たぶん、理屈ではないのだと思う。

 彼女自身、自分の感情の整理がまだついていないのだろう。

 今の自分を作ってくれた、最愛の友人。

 実はそれは、大きな宿命を背負ってこの世界にやってきた存在だった。

 そんな事実を突きつけられれば、混乱するのも無理は無い。


「……最後に、アトラは記憶を取り戻した」


 訥々と、バーダは語る。


「そのとき、彼女は何を思ったのかしら」


 自らのやってきたことを悔いたのか。

 自らの責務に絶望したのか。

 それとも……。


 かつて、その少女が描いた小説家という夢。

 それは、最初から叶えることの出来ない夢だった。

 記憶を失うことで初めて思い描くことが出来た夢だった。

 ―――どう足掻いても、ハッピーエンドにはたどり着けなかった少女。

 結局はそれが、アトラという少女だった。


「……それを考えると、少しだけ辛いかな」


 バーダはそう言って困ったように笑ってみせた。


 その笑顔を見て、俺はどうしようも無い無力感に襲われた。

 今、目の前にいる女に対して、俺がしてやれることを考えた。

 無い智慧を絞って考えた。

 真っ先に思い浮かんだのは、最も短絡的な方法だった。

 だが、それはきっと俺の役目ではない。

 彼女だって、本当は俺の前では小説家でいたい筈だ。


 だから―――俺は無言で彼女に背を向けた。


 背中越しに、俺は再び言う。


「無理すんな」


「……え?」


「―――背中、貸してやる」


 俺は彼女を見ない。

 そこにいるのは小説家フォレスターではなく、バーダロンという一人の女だ。

 彼女だって、傭兵の俺にそんな姿は見せたくは無いだろう。


 ―――だからたぶん、俺に出来るのはこれくらいなのだ。


 戸惑うような、わずかな沈黙。

 その後で、俺の背中に寄りかかる熱量があった。

 それはまるで、支えを求めるような切実な重み。

 やがて、掠れる声で彼女が呟く。


「……ありがと」

「……ああ」


 やがて、背中に微かな振動と温もりが伝わってくる。

 春の風が、花びらと共に彼女の静かな嗚咽を連れ去っていく。

 その行き先を追うように、俺は空を見上げた。


 四月の蒼穹は、優しく俺たちを見下ろしていた。


             ◆


 ―――それが、傭兵と小説家の旅の終わりだった。

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