〈四十五〉あなたの人生の物語
硝子の割れる音で、目が覚めた。
西向きの窓から既に陽射しが射し込んでいるのを見ると、どうやら今日もまた、午後まで惰眠を貪ってしまったらしい。緩慢にベッドから下り、寝間着を脱ぎ捨ててジャケットを羽織る。
階下からハドソン夫人の怒鳴る声が聞こえた。生欠伸を噛みしめながら階段を下りると、案の定、勝手口の先で三人の少年たちが夫人に叱られていた。
「穏やかじゃないな」
俺の言葉に、夫人は振り返る。シュミューズドレスにショールを引っかけただけという装いを見る限り、どうやら彼女も午睡から叩き起こされたばかりのようだ。そのせいか、夫人はかなり機嫌が悪そうだった。
「優雅なもんだね、大の男が昼間までお休みとは」
夫人の嫌味に、俺は苦虫を噛む。俺から言わせれば、昼寝をしているだけで家賃が入ってくる彼女の生活の方がよっぽど優雅である。
「また窓硝子を割られたのか?」
俺が少年たちを見やると、彼らは一様にうなだれた。夫人は憎々しげに鼻を鳴らす。
「ふん、今月に入って二回目だよ! 裏の空き地でいつも悪ガキどもがボール遊びをするのさ。わざわざ張り紙までしたってのに、まるで効果無しさね。嫌になっちまうよ!」
「僕たち、文字が読めなかったんです……」
少年の一人がおずおずとそう答えると、ハドソン夫人は叱責の言葉を呑み込んだ。
よく見ると少年たちの服装は、工場夫たちの作業着を継ぎ接ぎして作られたものだった。学校機関での教育を受けられる子供はさほど多くはない。そのほとんどは、両親の収入的な問題からだ。
俺は頭をぼりぼりと掻き、溜め息をついた。そして口開く。
「窓硝子の代金は俺が弁償するよ。おまえら、もうあの空き地でボール遊びなんかするなよ。俺の財布も底無しじゃねぇんだ」
少年たちの顔が明るくなった。ハドソン夫人も幾分不服そうではあるが、了承するように押し黙った。少年たちが頭を下げて帰った後で、夫人が胡乱な顔で訊いた。
「あんた、最近ずいぶんと羽振りが良いみたいだね。傭兵をクビになった筈だろう?」
「……退職金が結構入ってね」
と、俺は曖昧に言葉を濁す。ハドソン夫人は「ふぅん」と興味なさげに言って、欠伸を噛み殺した。
「まぁ、ウチは家賃さえ払ってくれればそれでいいさね」
俺は苦笑いを返すだけに止めた。俺としても、その距離感は非常に有り難い。
「ああ、そうだ」と夫人は思い出したように手をポンと叩く。「ビスコッティを焼いたんだ。戸棚に入っているから食べておくれ」
「そうか。有り難くいただくよ」
「蜂蜜はテーブルの上さね、使いすぎないように」
「ああ、分かってるよ」
「ミルクは飲むかい? 地下の蔵にあるから勝手に飲みな。そうそう、隣のウィジャーさんからピクルスをもらったんだ。それも食べなさい」
「ん、あ、ああ」
「ピクルスだけじゃ何だね、そうそう、牛肉の塩漬けがあった筈だ。ちょっと待ってな。ああ、それをパンで挟むってのもいいねぇ」
「いや、女将。俺も起きたばかりだし、そんなには食えな……」
「何言ってんだい! 男ってのはね、もりもりご飯を食べて、ばりばり働かなきゃいけないんだよ! 何も分かってないんだから、この子はまったく……!」
いや、いつから俺はあんたの子供になったんだよ。
そんな反論を、俺は口には出さずに止めた。出したところで別の苦言が返ってくるだけだ。
有無を言わさぬ夫人の勢いに圧され、俺はテーブルに並べられた食料を胃の中に無理矢理入れ込むと、飛び出すように下宿先を後にした。
◆
宛もなく沿岸の商業区をずっと北に向かい、グラノズ大河の河口の側まで歩いた。河川敷に作られた巨大な運動場は、ベースボールの観戦客で大いに賑わっていた。昨年から設立されたベースボールの公式大会試合は、今やユナリア東部全域を巻き込む熱狂の種となっている。毎晩酒場に行けば、やれ何処のチームが勝ったとか、あそこの投手は駄目だとか、この競技の話題を聞かない日は無い。
俺自身、特に熱心なファンというわけではない。しかし、俺は入場口で観戦料を支払い、大して冷たくも無いエールを一杯買っていた。そして外野席に腰掛けて、ちびちびとそれを飲みながら試合を観戦する。最終回でブルー・ストックスの四番が劇的な満塁ホームランをかっ飛ばし、相手のエッグフォート・クラブを十四対十二で下した。周囲で歓喜と嘆きの絶叫が湧き起こったとき、俺はしかめっ面で不味いエールの最後の一口を飲み干していた。
運動場を出た頃には太陽が傾き始めていた。俺は帰りの観戦客の流れに沿って、そのまま商業区の中心部に向かった。飲み屋の店先を覗くたびに満席の店内が見えて、俺は踵を返して違う店を探した。だが結局、どの店も俺の琴線には触れず、俺は諦めて来た道を引き返すことになった。
独立祭の名残もあらかた消え去り、街は普段の雑多さを取り戻していた。通りのあちこちからは、聞き慣れた馬鹿笑いと罵声が聞こえてくる。いつも通りのイクスラハ商業区の通奏低音だ。祭りが終わり、諸外国からの貴族やら商人やらも去って、街の人間もようやく羽が伸ばせるようになった、といった所だろうか。
参道ですれ違う連中は、どいつもこいつも幸せそうに見えた。しかし、羨ましい、という感情は不思議と俺の中には湧いてこない。俺の中にあったのは、奇妙なまでに冷え切った虚無感だった。
街区を一つ抜けるたび、自分の身体がどんどん希薄になっていくような気がした。そのまま自分が幽霊になって消えていってしまうのではないか。そんな非現実的なことまで思える。
……感傷ですらない。これは自殺願望にも似た何かだ。
誰かと肩がぶつかり、思わず振り返る。だが、今ぶつかった人物が誰なのか、もう分からなかった。イクスラハの夜の喧噪はあまりにも膨大で、そして―――あまりにも孤独だった。
◆
無事に小説家をイクスラハに送り届けてから二週間が経った。有り体な言葉で言って、俺はずっと怠惰な生活を送っていた。午前中は下宿先の自室で惰眠を貪り、昼過ぎに外に出て、夜更け過ぎまで街を徘徊する。その繰り返しだ。そんな生活の要因の一つに、それなりに金の蓄えが出来たということがある。
旅を終えてイクスラハに帰った翌日には、俺の銀行口座に今回の仕事の報酬が振り込まれていた。預金通帳を見たとき、俺はその金額に少しばかり目を丸くすることになった。それは向こう半年程度は、ささやかな贅沢をしながら暮らせる程の金額だったのだ。
街に帰って以来、俺はバーダに会っていない。彼女は今頃、あの旅の物語をタイプライターに向かって綴っていることだろう。もしかしたら、彼女とはもう二度と会うことは無いかもしれない。俺とバーダは依頼人と護衛という関係であり、それ以上ではないのだ。その関係が終わってしまえば、当然、会う理由など無い。
もちろん、この旅が俺にとって仕事以上の意味があったことは確かである。十年に渡って背負い続けた宿命を、清算することが出来たのだ。もうあの日の夢を見ることはなかったし、夜中にベッドの中で強迫観念に苛まされることも無かった。
その代わり―――俺に訪れたのは、まるで世界と自分の間に透明な壁が出来たかのような奇妙な疎外感と、そして言いようの無い虚無感の夜だった。
◆
夜の九時を回ったにも関わらず、喫茶『緑の騎士』の店内には明かりが灯っていた。クローズドの札は下がっているものの、鍵はかかっていない。静かに扉を開けて店内に入ると、ヒュウがカウンターに腰掛けて本を読んでいた。
「やぁ、ソード。夜の珈琲でも飲みに来たのかい?」
突然の来訪にも関わらず、ヒュウは穏やかに言った。対して、俺は皮肉げに口元を歪める。
「本当は酒を飲みに来たんだが、どの店も沈没寸前の客船って有様だったからな」
「イクスラハの金曜日の夜なんて、嵐の海みたいなものさ」
そう言ってヒュウは本を閉じ、カウンターの奥からミルを取り出して豆を挽き始める。香ばしい珈琲豆の香りが俺の鼻をくすぐった。
「悪いな、店仕舞いの後だって言うのに」
「建前の台詞だね」
と、ヒュウは肩を竦める。やれやれ、と俺は吐息をつく。見透かされているというわけか。
俺は煙草に火を点け、紫煙と共に言う。
「建前でも言ってやるだけ、有り難いと思えよ」
「それなら、続く発言はしない方がいい」
いつもの軽口の応酬に、少しだけ心に温度が戻った気がした。
ふと、カウンターの上に置かれた本に目を落とす。先ほどまでヒュウが読んでいたものだ。そこに書かれた題名は『開拓者たち』、著者には覚えのある名前が記されている。
灰皿に煙草を押しつけ、手に取ってみる。
「そんなに面白いのか?」
「ははは、その表紙の汚れ具合が真実であるほどには」
言いながら、ヒュウはカウンター越しに俺の前に湯気立つ珈琲を置く。
「確かにボロボロだな」
「フォレスター先生のデビュー作だよ。何度読んでも奇妙な魅力がある作品だ」
語り出すヒュウの口調に熱がこもり始める。辟易を感じないでも無いが、とりあえずは聞いてやることにした。
「物語とテーマ、文体は終始一貫して高い水準に達しているというのに、作品の冒頭と結末ではまるで作者が別の人物のように思える。なんというか……その文章に込められた魂のようなものがね。それがこの作品に素晴らしい奥行きを与えているんだ。もしかしたら、それは十七歳という成長期の年齢だからこそ、偶発的に起こし得た奇跡なのかもしれない」
いつもの熱弁を聞きながら、俺は無言で珈琲を啜った。奇跡、と思考が言葉を繰り返す。
……だとしたら、それがあまりにも悲劇的な奇跡であることを、俺は知っている。
「君が羨ましいよ、ソード。先生は先の旅を参考に新作を書いているんだろう? もしかしたら、君をモデルにした人物も登場するかもしれないね」
ヒュウの言葉に、俺は首を竦めて見せた。
「だとしても大方、一ページで殺される脇役だろ」
俺が毒づくと、ヒュウは途端に真剣な顔になる。
「リアリティを尊重する先生のことだ―――賭けてもいい、それは有り得ないよ」
何かしらの確信がある言葉だった。そして俺はその『何かしら』を読みとり、思わずため息をつく。
「……探偵が向いてるぜ、まったく」
「図書館喫茶探偵か、悪くないね」
ヒュウは可笑しそうに笑ってから、対面の椅子に腰掛けた。
「先生は見届けたんだろう。君の宿命を」
俺は言葉には出さず、軽く頷きを返した。ヒュウは変わらず、穏やかな表情で続ける。
「無理強いはしない。だが、語ることで君の気持ちが少しでも楽になるなら、僕は君の話を聴こう。これは助言だけど、話した方がいいよ。いつかは誰かに話さなきゃいけない時が来るし、相手が僕なら馬鹿馬鹿しい曲解もしない。誰かに安易に漏らすこともないだろう。どうだい?」
俺は小さく苦笑を漏らした。
「それはおまえの優しさか、それとも単純におまえの興味か?」
「それを明言しないのが賢愚の分かれ目というものだよ、ソード」
「友人を皮肉るのが賢い奴のすることかよ」
「時には例外もある」とヒュウは悪戯っぽく片目を閉じる。「僕と君の仲では、特にね」
俺は鼻で軽く笑い飛ばし、背もたれに体重を預けた。新しい煙草を取り出し、火を点ける。そしてその話を、紫煙と共に語り出す。
あの旅のこと、枢機卿の陰謀のこと、ゴルドの復讐のこと、アタヘイのこと、俺がその街の生まれであること。そして―――最愛の霊薬とペリノアのこと。
ヒュウは言葉を挟まず、ずっと俺の話を聴いていた。三本目の煙草が吸い殻になり、珈琲が空になった頃に、ちょうど俺の話は終わった。その余韻を含む沈黙をしばし挟んでから、ヒュウが口を開いた。
「―――色々と腑に落ちたよ。ありがとう」
「実際のところ」と俺は胡乱な目を向ける。「おまえはどこまで察していた?」
「全容を把握したのは今さ。ただ、正直な話をすれば、フォレスター先生からそのアタヘイという街の話を聞いたとき、何となくそれが君の故郷なんだと直感はしていたよ。君が昔語ってくれた、友人たちを殺してしまったという話も合わせてね」
ヒュウとゴルドは、俺が不死身の体質であることは以前から知っていた。しかし、断片的に語ったことはあれど、俺自信の詳しい生い立ちまでは語ったことがない。故に彼らの認識は、あのイヴィルショウの怪物が元々は人間で、俺の故郷が無くなった件について因縁がある、という程度だった。
だからこそ、最初にバーダが依頼を持ってきたとき、ヒュウは頑なに俺を雇うことを薦めたのだろう。
……俺が背負う因縁に、決着をつけさせるために。
まったく、余計な気を使いやがって。
「しかし、妙だね」
不意に、ヒュウが顎に手を当てて俯いた。
「何がだ?」
「ゴルドのことさ」とヒュウは真剣な顔になる。「君の話を聞く限りだと、彼は様々な情報を事前に知っていたとしか思えない」
言われて、俺も今さらながらに怪訝に思った。考えてみれば確かにおかしい。
ゴルドの今回の仕事は、『皇帝レオネが二度と復活できないようにすること』だったという。つまり、一旦、最愛の霊薬を皇帝に投与してから、俺の血を使って完全に肉体を消滅させるということだ。しかしその為には『最愛の霊薬』による血の序列、つまり俺の血がその最上位に当たることを知っていなければならない。
つまり……誰かが、それをゴルドに教えたのだ。
―――しかし、いったい誰が?
「ゴルドの本当の依頼人についても、分からないことばかりだね。ソードは何か聞いてないのかい?」
「訊いたところで、あいつが俺に何かを教えるなんてことはあり得ねぇよ」
と、俺は両手を上げる仕草を見せる。思考は放棄だ。今さら考えたって仕方が無いし、すべては終わったことなのだ。それに、そういう頭脳労働のは俺の役割ではない。
ヒュウはこれ以上の議論は不毛と悟ったのか、小さくため息を漏らした。そして話題を変える。
「それで、フォレスター先生とは会ったかい?」
俺は首を傾げる。
「何の話だ?」
「今日の昼過ぎにこの店に来たんだよ。君の下宿の場所を聞いていったから、てっきり君を訪ねに行ったと思ったんだけど」
バーダが、俺を?
「いや、午後はベースボールの試合を見に行ってたからな」
「ベースボール?」ヒュウが呆れた顔を浮かべる。「平日の昼間から? 随分と優雅な生活をしているもんだね」
俺は苦虫を噛む。やれやれ、日中もハドソン夫人に同じことを言われたな。
「別に何をしようが俺の勝手だろうが」
俺が悪態をつくと、ヒュウはまるで出来の悪い我が子を見るかのように、大きく溜め息をついた。まったく、溜め息をつきたいのはこっちの方だというのに。
「次の仕事は決まっていないのかい?」
ヒュウの問いかけに、俺は押し黙った。
すると、彼は目を細めて、さらに問う。
「―――それとも、自分がこれからどうするべきか分からないのかい?」
俺は視線を逸らした。
つくづく、この男には読心術の心得でもあるのではないかと疑ってしまう。
沈黙が舞い降りた。壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに耳に響く。まるで、世界が止まらずに回り続けていることを、俺に訴えかけるかのように。
「―――俺は正しかったのか?」
思わず、俺の口からそんな自問が漏れる。
ヒュウは首を左右に振った。だが、それは否定の意味合いではなかった。
「世の中には、正しい、正しくない以外の結果もある」
ヒュウはそう言って、空になった俺のカップに新しい珈琲を注ぐ。
「それは結局、どちらにも取れる曖昧なものだよ。逆説的に、君が望めばそれはきっと正しくもなるだろう。大事なのはきっと、その選択を自分が認めてあげることだと、僕は思うよ」
俺は何も答えなかった。
ヒュウは優しさからそう言ってくれているのだろう。
しかし、その言葉も結局、俺の心の底に落ちて、カツンという乾いた音を立てただけだった。
無言のまま、珈琲に口をつける。
苦み走った味は、どことなく空虚に感じられた。
◆
結局、下宿先に戻ったのは、日付が変わるよりもずっと早い時間だった。ハドソン夫人はまだ起きていて、ダイニングで誰のものとも知らないサマーセーターを編んでいた。
「おや、今夜は早かったね」夫人は俺の帰宅に目を丸くした。「夕飯は食べたのかい?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
「しかし、あんたも隅に置けないね」
と突然、夫人は含みのある笑みを浮かべた。俺が怪訝な顔をしていると、彼女は厚みのある大判の封筒を俺に差し出す。
「いつの間にあんな美人な恋人ができたんだい?」
俺はヒュウの話を思い出して察しがついた。きっとバーダが訪ねてきたのだろう。俺は頭をボリボリと掻く。
「恋人じゃねぇよ。これは何だ?」
封筒を受け取ると、ずっしりとした重みがあった。
「その子が置いていったんだよ。渡せば分かるって」
さっぱり分からなかった。あいつが俺に渡すものなんて、仕事の報酬以外に無いと思うのだが。
「ところであんた」と夫人は不意に真剣な顔になる。「この下宿を出てくなら、早めに言っておくれよ。入居の募集をかけなきゃいけないんだから」
「あ? 何で俺が此処を出て行くんだよ」
「だって二人で住むには手狭じゃないか」
うんざりした気分で、俺は盛大な溜め息をついた。
「それは有り得ねぇよ」
これ以上の追求が飛んでくる前にと、俺は二階の自室へ向かった。
薄暗い部屋に入り、ランプに火を灯す。ジャケットを脱ぎ捨てて、ベッドに腰掛けた。煙草を一本くわえてから、俺は封筒を開けてみる。案の定、そこには分厚い紙の束が収まっていた。
「……小説?」
と、俺の口から呟きが漏れる。それはタイプライターのスクロールを裁断した原稿だった。一番最初のページにはバーダのサインが記されてある。そのタイトルは―――。
「『傭兵と小説家』……そのままじゃないか」
と、俺は小さく苦笑を浮かべた。彼女が書いた新作の原稿だろう。先日の旅をモデルにするとしても、随分と直球な題名だ。
紫煙をくゆらせながら、俺は思案する。封筒の中に、他に同封されたものは無い。どうやら、とにかく読めということらしい。説明もなしとは、相変わらず傍若無人な女だ。
いいだろう。どうせ今夜は、酒を飲み損ねてすぐ寝付けそうにはない。小説なんてまともに読んだことは無いが、その最初の一冊としては何となく相応しいような気もした。
―――それに、気を紛らわせるものが無ければ、この真夜中の孤独は深すぎる。
煙草をサイドテーブルの上の灰皿に押しつけ、俺はページをめくった。
◆
それは、俺たちの旅をそのまま小説にしたものだった。諸々の設定や詳細は実際とは異なっていたが、そこは彼女が手を加えたものだろう。
物語は一人の小説家と傭兵が出会うところから始まった。お互いの第一印象が最悪の出逢い。しかし、ひょんなことから彼らは共に仕事をすることになる。荒野の果てにあるとされる、不死身の怪物に守られた謎の遺跡への、取材の旅だ。
しかし、その旅は波乱に満ちたものだった。実はとある異教徒の一団も、同じくその滅びた都に隠されているという財宝を目指していたのだ。それは、人間を不老不死にする神秘の霊薬。奴らはそれを駆使し、世界を牛耳ろうと企む。
傭兵と小説家は道中、幾度と無く彼らと衝突を繰り返し、そのたびに返り討ちにしていく。異教徒の一団はやがて、その傭兵を倒す為に凄腕の剣士を雇う。やがて遺跡にたどり着く傭兵と小説家、そして異教徒たち。荒野の剣劇の果てに、ついに傭兵は連中の凶刃の前に倒れてしまう。
異教徒の一団が霊薬を手に入れ、世界は彼らの手に落ちたかに見えた。だがそのとき、死んだはずの傭兵が蘇り、死闘の末に異教徒たちの剣士を倒す。そして、彼は小説家に自らの素性を明かした。
十年前、彼は自分の恋人と共にこの遺跡を訪れ、二人で不老不死の霊薬を飲んだのだという。しかし、自分は不老不死になれたものの、恋人は霊薬の呪いで異形の怪物になってしまった。彼はそのとき逃げ出し、それからの十年間を後悔と責任に苛まされながら過ごした。不死身の怪物になった恋人を殺すことが出来るのは、同じく呪われた霊薬を飲んだ自分しかいなかったからだ。
傭兵が身の上話を語り終えたとき、とうとう彼らの前に遺跡の番人が現れる。既に自我を失い、怪物と化した恋人を前に、しかし傭兵は剣を振るうことが出来なかった。そんな彼に、小説家は言う。
『今のあなたは、私を守るべき傭兵なのだ』と。
今の自分がすべきことを理解した傭兵は、やがてその剣を怪物の心臓に突き刺す。断末魔と共に倒れる怪物。しかし死の間際、その怪物はかつての姿を取り戻し、言うのだった。
『これでいいのよ、すべては過ぎ去ってしまったこと。あなたは前に進まなくてはいけないんだから』
涙を流しながら、傭兵は死にゆく彼女を抱きしめる。何度も何度も、謝りながら。だが、彼女は優しく微笑むのだった。
『あなたは、生きて』と。
霊薬の呪いにより、彼女は砂となって風に吹かれ消えていく。それを見届けた後で、傭兵は立ち上がりまた歩き出す。過去を悔やみながら、喪失感に苛まされながら、彼女の残した最後の言葉を杖にして。
―――これは、そんな物語だった。
◆
読み終えた時、俺の頬を一本の熱い流線が下っていった。
―――嗚呼、そうだ。
これが……この物語が、俺の欲しかったものなんだ。
十年に渡る放浪と、後悔の連鎖。
いずれ終わらせねば、と、幾度と無く強迫の夜を過ごした。
その終着点に俺が求めていたのは、ただ一片の救いだった。
そう―――俺は結局、ペリノアの口から、もう一度だけ、彼女の言葉を聞きたかったんだ。
願わくば、許しの言葉を。
俺の永遠に続く人生に、もう一度一歩を踏み出させてくれるような。
そんな松明のような言葉を。
幻想を抱いていた。
もしかしたら、彼女が自我を取り戻すのではないか、と。
俺を思い出してくれるのではないか、と。
人の心を、わずかでも取り戻してくれるのではないか、と。
だが結局、劇的なことなど何一つ起こらなかった。
彼女は彼女に戻ることなく。
一切の言葉も無く。
何も訴えず。
獣のまま。
俺に殺された。
俺が、殺した。
ただ一言で良かったのに。
ただ一言、何かを言ってくれれば良かったのに。
怨嵯の言葉だろうが、愛の言葉だろうが。
俺はそれを杖として、もう一度生きることが出来ただろうに。
それすら無かった。
結局残ったのは、絶望感ですらない、虚無感。
そう……救いの無い、物語。
―――それが結局は、この俺の現実の終着点だったのだ。
それなのに。
それでも……!
『あなたは、生きて』
「……なんで」
俺が、一番欲しかった言葉を。
「なんで、分かるんだよ……っ!」
涙は止められなかった。
あいつの書いた小説に。
俺が望んだ、願いに。
届かなかった、幻想に。
俺は嗚咽を漏らして泣いた。
朝陽が窓から差し込み、俺を暖かな陽だまりで包み込む。
―――いつの間にか、夜は明けていた。
◆
昼下がりのイクスラハ中央ターミナル前は、土曜日のせいもあって多くの人々でごった返していた。雑踏の中で、駅前の時計台を見やる。前と違い、今日は時間ぴったりだった。
バーダは以前とまったく同じ場所で、以前と同じように文庫本のページをめくりながら待っていた。彼女と会うのは、実に二週間ぶりだった。俺の姿を見ると、彼女は例のごとく魔女のような不敵な笑みを浮かべた。
「遅刻をしないとは、最低限の学習能力はあると見える」
相変わらずの高飛車な台詞に、俺は鼻を鳴らす。
「紳士として当然だ」
「紳士ならば、本来は淑女より先に待ち合わせ場所に来ているものだがな」
返される皮肉に、俺は苦虫を噛んだ。やれやれ、この倦怠感も久しぶりだな。
「……貴様が此処に来ているということは、最後まで読んだのだな」
バーダの言葉に、俺は視線を逸らして「ああ」と頷いた。
バーダが俺に届けた原稿の最後のページには、彼女の筆跡でこんなことが書かれてあった。
『明日の十三時、最初の待ち合わせ場所で待つ』
俺は半ば呆れながら言う。
「俺があれを最後まで読まなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「考えていない。おまえは読むと信じていた」
俺の顔をのぞき込む彼女の瞳は、心からそう思っているように見えた。俺は頭をボリボリと掻いて、小さな声で言う。
「……小説、良かったよ」
「そうか」
「ああ」
「ふふ」
詳細な感想ではなかったが、俺の端的な言葉に、バーダは心なしか嬉しそうに笑った。まったく、そんな顔を見せられると調子が狂う。
俺は真面目な表情を取り戻し、質問を投げかける。
「それで、今日は何の用だ?」
「ああ、今回の仕事の雇用完了のサインを貰う為だよ。後から報酬を貰っていない、などとゴネられたら敵わんからな」
そう言って、彼女はびっしりと細かい文字が並んだ一枚の紙とペンを差し出した。俺は苦い顔を浮かべながら、それを受け取る。
「そんなことしねぇよ」
言いながら、ろくすっぽ内容も見ずに俺の名前を走り書きし、突き返す。彼女はそれを受け取ると、満足そうに頷いた。
俺は溜め息をつく。
「これだけの為に呼び出したのか?」
「いや、もう一つ」と、彼女の目に鋭い冴えが入った。「我々の旅を本当の意味で終わらせるためだ」
俺は眉を寄せる。
「……どういう意味だよ?」
「あの作品を書きながら、私は先の旅のことを何度も思い出してみた。そして考えれば考えるほど、不可解な点が出てきたんだ。おまえを呼んだのは、その全てにエンドマークを打つためだよ。おまえには、それに立ち会う権利がある」
そう言って彼女は踵を返す。
「行くぞ、ソード」
「行くって、何処にだよ?」
俺の問いかけに、バーダは真剣な顔で答える。
「この一件を裏で操っていた人物―――すべての黒幕の所にだよ」
◆
迎賓館の前では、警備兵の代わりに女騎士が我々を待っていた。
「―――そろそろ来る頃だと思っていたよ」
ヴィリティスは口元を穏やかに緩めて言った。しかし、対照的にバーダは険しい表情のまま口開く。
「ならば案内して、ヴィリティス」
有無を言わさぬその口調に、ヴィリティスは一度だけこくりと頷いた。彼女はそのまま無言で迎賓館の門をくぐり、玄関ではなく庭園の方へと歩み始める。俺たちはその後に続いた。
ヴィリティスが背中越しに言う。
「あの方は外交で明日の朝には東大陸への定期便に乗る。おまえたちが来るのは今日しかないだろうと思っていた」
俺は思わず問う。
「まさかあんた、朝からずっと俺たちを待っていたのか?」
「私の、せめてもの懺悔だ」
それは沈痛そうな声だった。しかしバーダは何も答えない。険しい表情のまま、プロムナードの先を睨みつけている。
やがて我々は庭園の中でも特に開けた一画に出る。午後の陽光が一面に広がる芝生の上に、白いラウンドテーブルとチェアが置かれてあった。
そこに腰かけ、優雅にティーカップを口にする人物が一人。
俺はその姿を見て、愕然としてしまった。
その人物は我々の来訪に気づくと、カップを置いて柔らかく微笑んだ。
「お待ちしておりました、フォレスター先生、そしてソードさん」
その声を聞くのは二度目。
そして、その姿を見るのも、二度目だ。
俺の口から、思わずその名がこぼれ落ちる。
「エズミ……?」
そんな俺のつぶやきにも構わず、バーダが問うた。
「いきなりだが、一つ聞かせてもらおう。聖女ハヴァンディア、いや……小説家、ハル・エリス」
彼女の瞳が、鋭く輝く。
「―――貴様は、『西暦何年』から来た?」




