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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 1. The Soldier and The Novelist.
45/83

〈四十二〉アーサー・トゥエルヴ、其の三

 暗闇に雨が降っていた。咽び泣くような、重く暗い雨だった。

 その隙間を縫うように、誰かが後ろから追ってくる気がした。

 そんな強迫観念に駆られて、俺は走りながら何度も後ろを振り返る。俺の手を引く彼女が、険のある声を出した。


 ――急いで!

 ――でも、まだあいつらが……。


 言葉尻の消えた俺の声で、彼女の目が苦悶に細められる。きっと彼女だって俺と同じ気持ちなのだ。それでも踵を返さないのは、きっとさっきあいつから聞いた話のせいだろう。


 ――この先でランスロットが待ってる。早くしないと一緒に捕まるわ。


 彼女が言うその理屈は、俺にだって充分に分かっている。しかし理解は出来ても、納得の出来ないことだって世の中にはある。


 友人たちが、囚われているのだ。

 

              ◇


 俺たちにとって、世界とはその街のことでしかなかった。四方を険しい山岳と深い森に囲まれた、小さな集落。俺はそこで十三年間を過ごしてきた。住民は五十人もいなかったと思う。そしてそのうち十三人は、俺と同年代の子供だった。


 最年長で十五歳のランスロット、その一つ下で俺の兄貴分であるトリスタン。寡黙なガラハッドとお調子者のボールス。皮肉屋のルーカンと直情型のガウェイン。お節介焼きのケイに物静かなベディビア。いつも悪戯ばかりしてはしゃぎ回るガレスとモルドレッドの二人組、それに振り回されるのんびり屋のパーシバル。そして俺の姉のような存在、ペリノア。


 娯楽と言えば棒きれを振り回す剣術の真似事くらいしかなかったが、俺たちはそれを退屈だとは思わなかった。俺たちは毎日のように、誰が一番強いのかを競い合っていた。日々変動する勝敗は俺たちを飽きさせなかったし、教会でエグレディンガー神父の聖書の朗読を黙って聞くよりは遙かに面白かった。


 しかし、いつだって一番になるのは、ランスロットかトリスタンのどちらかだった。いつの日からか、子供たちの間でも彼らが最強であることが暗黙の了解になっていた。特に彼らの肉体が成長期を迎え、完成され始めたことも理由の一つだったと思う。ボールスやルーカンはもう自分たちが勝てないことを悟って、毎度のようにどちらが勝つか賭けをしていた。それでも諦めきれずに彼らに挑み続けるのは二人だけだった。つまり猪の如き性格のガウェインと、そして俺だ。


 そんな俺たちを、ガレスやモルドレッドはいつも笑っていた。ある日、俺とガウェインは二人で連中を見返してやろうと決めた。二人で森の奥深くまで入り、ほぼ丸一日かけて『牙持つ獣』を一頭仕留めてみせた。結局最後は大人たちにこってりと怒られたが、それ以降、あいつらが俺たちを馬鹿にすることはなくなった。鼻高々に肩で風を切って街を歩く俺たちを、いつだってペリノアは呆れたように見つめていた。


 とにかく、それが俺たちの世界のすべてだった。


 少なくとも俺はそれでいいと思っていたし、それ以外の世界について関心は抱けなかった。この街を出て、いつ果てるとも分からない険しい山を下りて、他の場所へ行く―――そんなことは思ったことも無かった。


 そう、あの日までは。


             ◇


 最初に『流行り病』で入院したのはガウェインだった。それを聞いたとき、俺たちは「馬鹿でも風邪を引くんだな」と軽く笑っていた。その二日後にはケイとベディビアが入院したが、そのときも俺たちはさほど危機感は覚えていなかった。具合は大丈夫だろうか、と少し心配した程度だ。


 だが、さらに三日後。ガラハッドとボールス、ルーカンが入院したところで、俺たちはようやく疑念を持ち始めた。六人も一斉に同じ病気となると、かなり深刻な状況のような気がした。加えて不気味だったのが、入院以降、誰も彼らの姿を見た者がいないことだった。俺とペリノアは何度も彼らの見舞いに行こうとしたが、ずっと大人たちに拒否された。


 昨日まで元気だった友人が、突然『流行り病』に罹って姿を消す。そこにはどことなく、薄気味の悪さのようなものがあった。


 俺はトリスタンと、大人たちは何かを隠しているんじゃないか、と話し合った。二人で最年長のランスロットに相談しにも行ったが、彼はずっと『今は待て』と繰り返すばかりだった。


 だが、俺は我慢ならなかった。俺はどうにかして病院に侵入できないかと、毎日建物の周りをぐるぐる歩き回った。

 そんなある日、開いた窓から奇妙な話が聞こえてきた。俺は壁に張り付いたままそれを盗み聴きした。


 ―――ガウェインが、突然母親を殺して逃げた。


 俺は耳を疑った。

 ガウェインが、母親を殺した? 


 いったい何が起きているのか、俺にはさっぱり分からなかった。何かの冗談かと思ったが、窓から覗いた限りでは院内は騒然としていた。俺はすぐさまその場を離れ、石段を駆け下り、いつもの広場に駆け込んだ。そしてその場にいたパーシバルとガレス、モルドレッドにその話を伝えた。


 ――おいおい、本当かよ。

 ――おまえの聞き間違いじゃないのか?


 ガレスとモルドレッドが疑い深そうに言ったので、俺は憤慨した。


 ――聞き間違いなんかじゃない、確かに医者たちが言ってたんだ。

 ――でも、人が一人殺されたんなら、もっと騒ぎになってる筈だろ。街を見ろよ、牛一頭死んだ気配が無いぜ。


 モルドレッドの言葉に、俺は言い返せず押し黙る。確かに、もしそれが本当なら、この静かな街の様子は逆に異常だ。

 すると、パーシバルがいつもの呑気な声で言った。


 ――それじゃあさ、ウーゼル先生に聞いてみたらどうかな? 何か教えてくれるかも……。

 ――親父がそう簡単に教えてくれたら、俺は病院に半日も張り付いたりしねぇよ。


 俺が呆れて吐息をついた時、ランスロットとペリノアがやってきた。


 ――おまえたち、そろそろ家に帰った方がいい。


 姿を現すなり、ランスロットがどことなく剣呑な口調で言った。ガレスが眉を寄せる。


 ――帰れって、まだ陽も沈んでないぞ?

 ――大人たちが言ってるのよ。すぐに子供たちを家に帰すようにって。


 ペリノアの口調には戸惑いがあった。彼女自身、その理由が分からないらしい。


 ――何だよ、それ。

 ――意味が分からねぇよ。


 ガレスとモルドレッドが口々に言う。すると今度は、そこにトリスタンがやってきた。彼はまるで話をすべて聞いていたかのように問うた。


 ――ランス、事情を話せ。何か知ってるんだろう。


 するとランスロットは逡巡するような沈黙を挟んだ。


 ――俺も詳しくは分からないんだ。すまない。


 やっとそれだけ答えると、そこでランスロットは口を噤んでしまった。彼の表情には、どこかしら煮え切らない感情が読みとれた。その懊悩する様を見て俺たちは追求をやめ、それぞれ家路に着いた。別れ際、ランスロットとトリスタンが何か言葉を交わしているのが横目で見えた。


 家に変えると、母が「危険だから家から出ないように」と言いつけた。その理由は教えてくれなかった。

 ……何が、危険なんだ?


 その二日後にはパーシバルとガレス、それにモルドレッドまで、何の予告も無しに病院に入れられた。

 残された街の子供たちは俺とペリノア、ランスロット、トリスタンの四人だけだった。その段階になって、ようやくランスロットも異常だと思ったらしい。ある真夜中、彼は俺たちを呼び出した。俺たちはこっそり家を抜け出して、集落から少し離れた納屋に集まった。


 ――大人たちは何かを隠してる。


 そう切り出したのは、トリスタンだった。


 ――俺とランスロットはこれから、あの病院に忍び込んで真実を探してくる。

 ――それじゃ、俺たちも一緒に……!


 俺が口を挟むと、ランスロットが手を出して止めた。


 ――駄目だ。アーサーはペリノアと一緒に待て。

 ――なんでだよ、足を引っ張ると思ってるのか?


 俺が語気を強めると、トリスタンがそれを諫めた。


 ――そうじゃない。もし子供たちが何らかの理由で監禁されているとして、更に俺とランスまで捕まってしまったら、今度は誰がみんなを助けるんだ?


 俺は押し黙る。トリスタンの言葉をそのまま受け止めたからではない。それが単なる方便であることに、俺は子供ながらに気づいていた。

 俺はただ単純に、無力感を噛みしめていたのだ。そんな俺の肩に、ランスロットがそっと手を置いた。


 ――周囲の様子に何か異変を感じたら、おまえたちは急いでこの場を離れろ。

 ――離れろって、どうすればいいの?


 ペリノアが尋ねると、彼は納屋の窓から森の方を指さした。


 ――南の森を抜けた崖の側で落ち合おう。ほら、アーサー、前におまえとガウェインが獣を退治した場所だ、覚えてるだろ?

 ――でも……!

 ――大丈夫だ、必ず行く。


 ランスロットの言葉に、ペリノアは続く言葉を噤んだ。そして、無言で小さく頷きを返す。それを確認して、ランスロットとトリスタンは納屋を飛び出していった。


 俺とペリノアは無言のまま、闇夜に消えていくその後ろ姿を見送った。頭上には分厚い雲が広がっているようで、月や星の明かりは僅かも見えなかった。


 雨が降りそうだった。


             ◇


 ――俺は、まだ弱いんだな。


 納屋の片隅で膝を抱えながら、俺はそう漏らす。まるで自分自身にその事実を再確認させるかのような呟きだった。それを聞いて、横で同じように座っていたペリノアが顔を上げる。


 ――俺はいつだってランスロットやトリスタンの足手まといだ。

 ――そんなことないわよ。


 ペリノアの慰めが、余計に惨めな気分にさせた。だから、返答はただの僻みでしかなかった。


 ――俺はお前にだって勝てない。


 ペリノアは俺たちの中で三番目に剣術が強かった。その腕前は剣の稽古をしてくれているマリーン先生も認めるほどだ。先生が技量を認めたのは、彼女の他にはランスロットとトリスタンの二人だけである。


 ――昔から、俺はずっとお前に守られてばっかりだよ。


 幼少の頃、俺がモルドレッドやガレスたちに苛められるたびに、ペリノアが仕返しをしてくれていた。そのたびに、俺は子供心に何度も誓いを立てたものだった。いつかもっと強くなって、今度は俺がこいつを守ってやる立場になるのだ、と。


 だが、俺の剣の腕前が上がっていくのと同じくらい、ペリノアもまた上達していった。だから結果として、これまで俺たちの差はほとんど縮まらなかった。ましてや、それよりも早い速度で上達していくランスロットとトリスタンに、俺の手は届きよう筈もなかった。


 ――きっとあの二人だって、俺には何も期待もしちゃいないんだよ。これまでも、これからも。


 弱音がまた口から飛び出した。意気消沈する俺を見て、彼女が隣で小さくため息を漏らす。


 ――アーサーはモルドレッドより弱かった。


 と、ペリノアは突然、真剣な声色で言った。


 ――ガレスより、ガウェインより、ベディビアよりも弱かった。


 そこで彼女はにっこりと笑ってみせる。


 ――でも、今は彼らより強い。そうでしょ? 今のアーサーが勝てないのは、ランスロットとトリスタン、そして私の三人だけよ。


 俺は顔を上げた。確かにそれは事実ではある。昔の俺は女のベディビアにも勝てなかった。


 ――前ばっかりじゃなくて、たまには自分の足下も見なさいよ。アーサーは強いよ。たぶん、自分で思っているより、ずっとね。


 ペリノアの言葉に、俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。誰かにそんなことを言われたのは初めてだったし、ましてや、こうして彼女に真っ向から褒められることなどあまり無かった。


 気恥ずかしさを紛らわすように、俺は顔を背けた。そして不貞腐れたように吐き捨てる。


 ――でも、おまえはそんな俺より強いんだろ。


 ペリノアは呆れたように吐息をついた。


 ――なんでそう素直じゃないかなぁ。だいたいあなた、どうしてそんなに強くなりたいの?

 ――なんでって、そりゃ……。


 と、俺は言い淀む。「今度は俺がお前を守る為に」と言うのは、さすがに口に出来ない。だが、それ以外の理由を今から捏造出来るほど、俺の頭の回転は早くない。


 黙りこくっていると、再びペリノアがため息をついた。また呆れさせてしまったかな、と思ったとき、ペリノアが言った。


 ――どうせ理由や目的なんて考えてないんでしょ。


 違う、と俺は反論しようとしたが、彼女の続く言葉がそれを遮った。


 ――まったく、いつまで経っても子供なんだから。私に勝っても何かもらえるわけじゃないんだよ。

 ――。

 ――負けず嫌い。

 ――うるさいな。

 ――可哀想だから、もし私に勝つことが出来たら、何かしてあげよっか?

 ――何かって何だよ。

 ――うーん、そうね……。


 どこか演技めいた、彼女の懊悩。


 ――じゃあ、私がアーサーのお嫁さんになってあげる、とか。


 俺は一瞬だけ、深呼吸をする沈黙を挟んだ。


 ――なんだよ、じゃあ、って。

 ――だって強くなる目的、無いんでしょ。だから作ってあげようと思って。

 ――無茶苦茶な理屈だ。

 ――理屈が無いよりはマシよ。

 ――そうか?

 ――そうよ。

 ――そうか。

 ――そう。

 ――……わかったよ。

 ――何が?

 ――俺の目的。それでいいよ。

 ――それでいいって何よ。

 ――それでいいんだよ。


 お互いにそっぽを向いたまま、目を合わせずに言葉を交わした。たぶん、顔を合わせることが出来なかったと思う。俺は十三歳で、彼女は十四歳だった。それは正面から向き合って互いの感情を開かし合うには、少しばかり幼すぎる年齢だった。


 いつの間にか外には、線の細い雨が降っていた。開いた窓から納屋に入り込む、その静かな音を聞きながら黙り込んだ。右手に柔らかな左手が触れ、どちらとも無くそれは繋がれた。相変わらず、顔は合わせないままだった。


 暗闇と雨の匂いの中で、柄にも無く俺は思った。

 願わくば、この左手がずっと俺の手の中にあることを。


             ◇


 最初に異変に気づいたのはペリノアだった。しばらくして、俺の耳にも大人たちの声が聞こえてきた。その中に「子供たちを探せ」という言葉が含まれているのを聞いて、俺たちは顔を見合わせた。


 ――何が起きたんだ?

 ――分からないわ。


 近づいてくる大人たちの声に、背筋に冷たい物が走った。その声色には鬼気迫るような、物々しい空気があった。ペリノアの手を掴んで立ち上がろうとしたとき、突然納屋の扉が開いた。

 身を大きく震わせた後で、咄嗟に身構える。しかし、そこに現れたのは息を切らす青年の姿だった。


 ――トリスタン! いったい何があったんだ?


 俺の問いかけに、彼は窓の向こうを伺いながら答える。


 ――見つかっちまった。奴らに捕まる前に、早くおまえらも逃げろ。

 ――捕まるって、何を言ってるんだよ。

 ――大人たちは俺たちを全員監禁するつもりだ。

 ――監禁……?


 困惑するペリノア。トリスタンは口早に答える。


 ――病院の地下に牢獄があった。俺たち以外の子供はみんなそこにぶち込まれてた。

 ――そんな、どうして!


 問い返すペリノアに対して、トリスタンは首を左右に振る。


 ――詳しくは後だ。ぐっ……。


 彼は苦しそうに胸を押さえる。それは走ってきたせいで息が切れた、といった程度の苦しみ方には見えなかった。額には脂汗が浮かび、その顔色は蒼白になっている。


 ――おい、大丈夫かよ。

 ――俺のことはいい、とにかくおまえらはランスロットと合流しろ。俺が囮になる。

 ――ちょっと待てよ、勝手に決め……。


 と、俺が言い返そうとした時、トリスタンが俺の両肩を強く掴んだ。そして訴えかけるように言う。


 ――いいから逃げろ、アーサー。おまえは、おまえだけは逃げ切らなくちゃいけないんだ。


 あまりに切迫した言い方に、俺は反論を呑み込む。すると、傍らのペリノアが無言で俺の手を握った。それを見たトリスタンは安心するように頷いてみせる。


 ――頼むぞ。


 俺に言ったのか、それともペリノアに言ったのか。その判断がつく前に、彼は再び納屋を飛び出していった。俺はペリノアに引かれるままに、彼とは反対方向に駆け出していた。俺の頭の中には、トリスタンの言った言葉が不吉な予言のようにこびりついていた。


 おまえだけは。

 ……何だよ、それ。


 全身を叩く雨粒が、湧き出した言いしれぬ不安を助長させていった。


              ◇


 林を駆け抜ける。雨で塗れた地面は俺たちの足を狡猾な触手のように絡め取る。それを振り切るように、速度を上げる。後方から追ってくる声と、後方から助けを求める声、その二つの幻聴を聞きながら。


 助けねば、という感情を無視出来るほど、自分は冷徹にはなれなかった。たとえ、自分が同じ目に遭うかもしれないと、頭で理解していても。


 俺の足が止まり、彼女の手から俺の手がすり抜ける。


 ――やっぱりおまえだけ先に行け。俺は町に戻る。

 ――駄目よ!

 ――どうしてだ? 俺が皆を助けてくる、だから……。

 ――……ないで。


 ペリノアのか細い声が、雨の隙間を縫って届いた。


 一人にしないで、と。


 暗闇のせいでその表情は分からない。ただ、泣きそうな顔をしているのだろうと、何となく声色で分かった。俺は無言で再び彼女の手を取り、走り出した。


 やがて林を抜け、大きく開けた場所に出る。木々の切れ間から崖が覗いた。間違いなく、以前、俺がガウェインと共に獣を討伐した場所だ。


 ――ランスロットはどこだ?


 周囲は相変わらず真っ暗で、ほとんど何も見えなかった。彼の名を叫んでみようとしたが、一瞬考えてやめた。背後から街の大人たちが迫ってきているかもしれない。


 ――アーサー、何か聞こえる。


 不意にペリノアが言った。促されるように耳を澄ますと、雨音に混じって確かに聞こえてきた。獣のような唸り声と、誰かが取っ組み合いをしているような、無骨な肉のぶつかり合う音……いや、肉が裂けるような、音。


 と、そのときだった。林の中から二つの人影が飛び出してきた。それは組み合いながら俺たちの前に踊り出る。雷鳴が響きわたり、稲光が彼らを照らし出した。


 ――ランスロット!


 思わず俺はその片方の名を叫ぶ。彼の全身は泥塗れで、それ以上に血塗れだった。そして彼の上に覆い被さる、その黒い影。それは獣とも人間とも付かない異形の姿をしていた。いや、獣と人の両方と言った方が正確だろう。その右半身は黒く鋭利な棘のような物でびっしりと覆われ、そして左半身だけが人の姿を辛うじて残していた。


 一瞬だけ覗いたその横顔に、俺は見慣れた面影を見る。


 ――まさか……ガウェイン、なのか?


 その瞳に、もはや理性の色は無い。顔の右側は肌が見えないほど夥しい量の棘が生え、その口元からはまるで刃のような牙が覗いている。だが、その左の目元は間違いなくガウェインだった。俺の頭の中に、数日前に病院で盗み聞きした話が蘇る。


 ガウェインが、母親を殺して逃げた。


 ――何、だよ、それ。


 なんで、そんなことに、なってるんだよ。

 おまえに、何が起きてるんだよ。


 愕然とする俺とペリノアに、ランスロットの怒号が届いた。


 ――アーサー、その剣を取れ!


 組み伏せられながら、ランスロットは地面を指さす。いつの間にか俺の足下には一振りの鉄剣が転がっていた。柄に血がべったり着いているのを見るに、先ほどまでランスロットが振るっていたものらしい。


 俺は即座にその剣に飛びつこうとした。しかし、それを上回る速度でガウェインが動いていた。弾かれるようにランスロットの元を離れ、俺に飛びかかってくる。


 咄嗟に避けようとしたが、奴の棘だらけの右腕が俺の右腕を切りつけた。二の腕から肘にかけて深々とした傷が刻まれ、降りしきる雨に逆らうように鮮血の花が咲く。


 ――アーサー!


 ペリノアの半狂乱の叫びが聞こえた。俺はかつてない激痛に歯を食いしばりつつ、それでも鉄剣を諦めなかった。血濡れの手で柄を握り、ガウェインから距離を取る。


 ガウェインに何が起きているのかは分からない。だが、明らかに今のあいつが脅威と化していることだけは分かった。放っておけば俺もランスロットも、そしてペリノアも殺そうとするだろう。


 もう、まともじゃない。

 ならば、考えている余裕は無い。


 ……アーサーは強いよ。


 そんなペリノアの言葉を支えにして、俺は両足で立ち上がる。

 息が切れる。心臓が早鐘のように鳴っている。右腕が痛い。血が勢いよく流れて、鉄剣の刀身にまで伝っている。雷鳴が何処か遠くで聞こえる。でも、それは此処じゃない。対峙の合間を埋める雨が、さらに強くなっていく。


 動き出したのは、ガウェインだった。俺は神経を研ぎ澄ませ、迎え撃つ。


 最初に殺したのは、自分の感情。

 そしてその次が、ガウェインだった。


 俺の血で染まった刃は、かつて無い程に鋭利な軌跡で彼の首を斬り落とした。その頭部が大地に落下し、泥と水を跳ね上げる。次いで、彼の身体がゆっくりと倒れていった。


 右腕の激痛が蘇り、俺の手から鉄剣がこぼれ落ちる。ペリノアが涙を浮かべて駆け寄ってくる。


 ――大丈夫っ、アーサー!


 心配する彼女を余所に俺はシャツの裾を引きちぎり、その切れ端で二の腕を縛り付けて止血する。


 ――俺は右腕だけだ、それよりランスロットを。

 ――大丈夫だ。


 と、いつの間にかランスロットが背後に立っていた。その全身は夥しいほどの血で染まっていたが、しかし立ち居姿は毅然としていた。彼は俺たちを見下ろして言う。


 ――傷はもう無い。そうか、あの資料の話は本当だったのか。


 ランスロットの言葉に続いて、再び雷鳴が周囲を照らし出した。その一瞬の閃きに照らし出された彼の姿に、俺とペリノアは言葉を失った。


 ランスロットの右腕は、先ほどのガウェインと同じように、無数の黒い刃のような棘で覆われていた。


 ――何、だよ、ランスロット……それ、おまえに、何が起きてんだよ……?


 呆然としながら呟く。ランスロットはその疑問に、淡々と答えた。


 ――ガウェインと同じだ。俺ももうすぐ、あいつと同じ怪物になる。

 ――怪物って……。

 ――あいつはもう、自分自身が誰なのかも分かってなかった。森で出会うなり、いきなり襲ってきたんだ。


 俺は思わず彼に詰め寄る。


 ――何が起きてるんだよ! ランスロット、あの病院で何を見たんだ!

 ――これが、大人たちの八〇年の悲願らしい。


 どこか呆れたような、嘲笑すら含んだ口調だった。


 ――八〇年? 悲願? 何の話だよ?

 ――俺はもう疲れた。アーサー、おまえが来てくれて良かった。


 そう言って、ランスロットは俺の手をそっとふり解いた。そしてぼんやりとした足取りで、先ほど俺が振るった鉄剣の元まで歩み寄る。


 ――なぁ、アーサー。最後に俺の願いを聞いてくれないか?


 俺の血がまだ付着した鉄剣を拾い上げながら、ランスロットが優しく微笑みかける。


 ――もう、俺たちはどうしようも無い。ガウェインを見て思ったんだ。本当にそう想ったんだよ。だから、他のあいつらを解放してやってくれ。


 ランスロットが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。すべての言葉が端的で、要領を得ていなかった。いつもの冷静沈着な彼じゃないように見えた。何というか……そう、まるですべてに絶望して、投げやりになってしまっているように見えた。


 ――それが出来るのはアーサー、おまえだけだ。


 頼んだぞ、と彼は微笑みを見せた。


 そして次の瞬間、ランスロットは手に取った鉄剣の刀身を自信の喉元に当て、一気に引き抜いた。


 ――ランスロット!

 ――きゃぁぁぁぁッ!


 俺とペリノアの絶叫がこだまする。喉元から血を激しく噴き出しながら、ランスロットの身体が倒れ伏す。俺は駆け寄って、泥水の大地から彼を抱え起こそうとした。しかし、その瞬間、彼の身体はまるで砂のように崩れだした。


 ――そんな、なんで……?


 ランスロットの身体は俺の手からこぼれ落ち、暗闇の泥水の中に溶けていった。振り返ると、先ほど斬り伏せたガウェインの身体もまた、同じく砂のような塵のような固まりとなって雨に溶けだしていた。


 最後まで残っていたランスロットの顔が、その口が、何かを呟いたように見えた。


 ごめんな。


 そう、聞こえた気がした。


             ◇

 

 夜が明けても、雨が止むことはなかった。二人分の墓穴を掘り、そこにかつて彼らの身体であったものを埋め、申し訳程度の小さな岩を墓石に見立てて置いた。場所は、せめて青空が見えるようにと、木々の切れ間の崖っぷちを選んだ。


 その作業が終わった頃には、空が白み始めていた。それから俺とペリノアは少しでも雨を凌げるようにと木陰に入り、俺が来ていた上衣を頭から被って、少しばかり眠った。お互いに疲弊していたし、何よりトリスタンが来るまでこの場を離れるわけにはいかなかった。


 断続的な微睡みが収まった頃には、少しだけ雨足が弱くなっていた。雲の切れ間から辛うじて日光が差し込む。だが、西の空は未だ分厚い雲が立ちこめている。


 一時的だ。また、強い雨が降る。


 ペリノアもまた、俺と同じようにあまり眠れはしなかったらしい。目の下に隈の片鱗が見えた。

 太陽が最高度まで上がり、そして傾き始めるまで待っても、トリスタンはやって来なかった。


 ――街に戻ろう。


 と、俺は出し抜けに言った。ペリノアは少しだけ考え込むような沈黙を挟んだ後で、静かに瞳を閉じて頷いた。


 ――止めても行くんでしょ。

 ――何も分からないんだ。


 俺はランスロットの残した鉄剣を見つめながら言う。


 ――分かりたいし、あいつらを助けたいんだ。


 彼が俺に願ったこと。彼に起きたこと、ガウェインに起きたこと。そして俺たちの街で起きていること。そのすべてを知る必要があると、俺はそのとき思った。


 ――私は着いていくよ。


 ペリノアが、静かな声で言った。


 ――アーサーに、着いていく。


 俺は彼女と同じように少しだけ黙り込んだ後で、頷いた。


 ――行こう。


 言い聞かせるように言って、俺は立ち上がる。行くしかない。俺たちの居場所なんて、もう何処にも無かった。


            ◇

 

 幸いなことに、森の中では誰とも出くわすことは無かった。俺たちは思っていたよりすんなりと街に戻ることが出来た。どうやら大人たちのほとんどが俺たちを探しに出ているようで、街並みには全くと言って良いほど人の姿が無い。裏道を通って、俺とペリノアは病院に向かった。


 ――待って、アーサー……。


 急勾配の坂道を登る途中、ペリノアが俺を呼び止めた。振り返ると、彼女は少し具合が悪そうに見えた。顔色が悪く、息も上がり、苦しそうに胸を押さえている。


 ――大丈夫か。

 ――ごめん、少し息が切れちゃって。ちょっとだけ待って。


 と、彼女はその場で深呼吸をして見せる。


 ――うん、もう大丈夫。


 微笑みかける彼女の顔色は、先ほどと殆ど変わらず、苦しみが緩和されたようには見えなかった。此処で待っているように、と言おうとしたが、昨夜の彼女の言葉が脳裏をよぎる。


 一人にしないで。


 俺は彼女の手を握ったまま、少しだけペースを落として坂道を登った。


 病院も街と同様に、ほとんど人の気配を感じなかった。建物の裏手にある通用口に回り込み、窓から中を伺う。人影は無い。


 ――トリスタンの話だと、地下の牢獄って言ってたな。


 以前、親父に連れて来られたとき、たしか地下に続く階段を見た記憶があった。


 ――行こう。


 俺は音を立てないように、病院の扉を開けた。

 院内に忍び込み、周囲に気を配りながら階段を目指す。建物の中には、どことなく退廃的な空気が満ちていた。


 ――どうして誰もいないのかしら……。


 ペリノアが不安そうに言う。


 ――みんな俺たちやランスロットを探しに出てるんだろ。


 そう答えた後で、内心に疑問が浮かぶ。街中の人間総出で捜索というのは、かなり異常な状況のように思えた。大人たちはどうしてそれほどまでに俺たちを捕らえたいんだ?


 階段は労せず見つかった。慎重な足取りでそこを下りると、異臭が鼻をついた。


 ――これ、血の臭い……?


 ペリノアが鼻を押さえながら呟く。生臭い鉄の臭いに、俺も顔をしかめる。階下は薄暗く、壁に備え付けられたランタンが仄かな橙色の明かりを灯すのみだ。階段を下りてすぐの壁に、鍵の束がぶら下げられていた。それを手に取り、ペリノアの手を引いて先に進む。


 細長い通路の両側には鉄格子が並んでいた。その中を一つ一つのぞき込むようにして歩みを進める。時折、奥から誰かの呻き声のようなものが聞こえた。


 と、不意に俺の名前を呼ぶ声がした。まるで洞窟の穴を風が吹き抜けるような、弱々しく掠れた声だった。


 ――アァ、サァー……!


 声のした牢屋を覗き込み、俺は叫ぶ。


 ――トリスタン!


 牢獄の暗闇のせいで判然とはしなかったが、どうやら鎖で壁につなぎ止められているらしい。


 ――大丈夫か! 他の奴らは?

 ――この、先の、牢屋、だ……だが……。


 弱々しい声でトリスタンが告げる。俺はすぐさま目の前の鍵を開け、彼を拘束する鎖を解き放つ。トリスタンはぐったりと俺の腕に倒れてきた。


 ――ペリノア、他の牢屋を!


 と、俺は彼女に鍵束を手渡す。彼女は頷き、連なる牢屋の鍵を開けていく。


 ――駄目だ、アーサー……俺たちは、もう……!


 トリスタンが震える手で俺の肩を掴む。途端、痛みが走る。目をやって俺は愕然とする。


 ――おい、トリスタン、その左手……!


 彼の左手は、ガウェインやランスロットと同様に鋭い牙に覆われ、異形と化していた。それは俺の右肩に僅かに突き刺さり、血を流させている。


 ――アー、サー、頼む……俺を、殺し……。

 ――きゃあああぁぁッ!


 トリスタンの言葉を遮ったのは、ペリノアの絶叫だった。続いて、獣の雄叫びのような音が響き渡る。俺はトリスタンをその場に横たわらせ、床を蹴った。通路に出ると、既にすべての牢屋の扉は開かれていた。それらを開錠したペリノアは、通路の中央で腰を抜かして座り込んでいた。


 ――ペリノア!


 俺が駆け寄ると、彼女は震える指で牢屋の一室を指す。そこには、二匹の獣がいた。いや……違う。こんな人間に似た形の獣は見たことがない。全身が黒い棘で覆われた怪物。ガウェインと同じだ。


 ――鍵を開けたら、突然飛び出して、向かい側の牢屋に……。


 ペリノアが怯えた声で説明する。


 その一室で繰り広げられていたのは、殺し合いだった。全身で組み合い、互いの凶刃を何度も相手の身体に突き刺している。牢獄の壁に血しぶきが飛び、不気味な幾何学模様を描く。


 その怪物たちの纏うボロ布に、俺は見覚えがあった。


 ――ガレスと、モルドレッドなのか……?


 その服の片鱗が無ければ、もはや面影すら無い。二人の全身は刃のような棘で覆われ、完全な怪物と化していた。

 やがてガレスの方が断末魔のような叫びを上げた。かと思うと、まるで糸が切れたかのように脱力し、そして見る見る内にその身体が砂となって崩れ落ちていった。それもまた、昨夜のランスロットやガウェインと同じだった。


 俺はペリノアを立たせて、彼女を守るようにその前に立つ。モルドレッドがゆっくりと俺を振り返る。その黒棘に覆われた顔から、真っ赤に染まった双眸が覗く。


 ――阿亜亞ァァ……!


 その正気を失った瞳を見て、こいつにはきっと、もう俺が誰なのか分かっていないのだろう、と悟った。背負った鉄剣を抜き、俺は下段に構える。先ほどトリスタンに捕まれた肩から血が流れ、鉄剣の刀身を伝っていく。だが、そんなことを気にしている暇は無い。


 今はただ何としても、ペリノアを守る。

 俺たちに何が起きているのかなんて、その後だ。


 ――我阿亞亜ァッ!


 咆哮しながら、モルドレッドが襲いかかってくる。迫り来るその刃の右腕を、俺は鉄剣で受け止めようとした。


 しかし次の瞬間、甲高い音と共に鉄剣の刀身が砕け散る。愕然とする俺の腹部に、衝撃が走った。奴の左手の拳が打ち込まれたと悟った頃には、俺の身体は猛烈な勢いで後方に吹き飛ばされていた。通路の床を転げながら、俺は血反吐をぶち撒ける。腹に穴が開いた気がした。触ってみると、温かな俺の体温が手のひらに伝わる。


 ――アーサー!


 ペリノアの声に弾かれるようにして、俺は顔を上げる。折れた鉄剣を握りしめ、再び体勢を整えて床を蹴った。もう俺の身体がどうなろうと知ったことじゃない。

 激走し、俺は奴の懐に潜り込む。


 ――うぉぉぉぉッ!


 そして、折れた鉄剣の切っ先を、奴の喉元めがけて突き刺した。獣の咆哮がこだまし、奴の膝が床に着く。そしてガレスと同じように、奴の身体は断末魔と共に砂となり、砕け散っていった。


 腹部に走る激痛に、思わず俺もその場に崩れ落ちそうになる。それをペリノアが支えてくれた。


 ――ああ、アーサー……そんな……。


 俺の傷がよほど酷いのか、彼女の瞳に涙が溢れ出す。歯を食いしばりながら、俺は気合いで立ち上がる。そこで、俺は目を疑った。

 開かれた牢屋から次々と怪物たちが姿を現す。彼らがかつて人間であったことは、身に纏う衣服の片鱗から容易に察せられた。


 ――何が、起きてるんだ、よ……。


 俺の口から、呆然とした呟きが漏れる。

 パーシバル、ケイ、ベディビア、ボールス、ルーカン、ガラハッド。彼らは既に人の姿を保っておらず、黒い刃の鎧を纏った怪物と化していた。


 そこでようやく、この牢獄の意味が分かった。大人たちは子供たちを監禁していたんじゃない、隔離していたんだ。獰猛な野獣たちに対してそうするように。


 だが今、その牢獄の鍵はすべて解き放ってしまった。それを理解して、俺の中に罪の意識が芽生える。もし、彼らが街に出てしまったら―――。


 戦慄する俺の後方から、別の咆哮が聞こえた。


 ――トリス、タン……?


 俺とペリノアの視線の先で、トリスタンはゆっくりと牢獄から出てきた。黒い棘の侵攻は急速に進み、彼の身体のほとんどを覆いつつあった。左の顔面だけが辛うじて人の姿を保っているものの、その瞳から理性の色は失われつつある。


 前方にはトリスタン、そして後方には子供たち。挟み撃ちの格好に、俺とペリノアは身を寄せる。絶対絶命、だ。


 緊張の糸が極限に達したとき、トリスタンが再び雄叫びを上げた。そして次の瞬間には獰猛な勢いで俺たちめがけて突進してくる。俺はペリノアの肩を抱き寄せ、死を覚悟した。


 しかし、彼は俺たちを素通りし、怪物化した子供たちの方へと襲いかかった。残された俺とペリノアは呆然とする。


 ――守って、くれる、のか……?


 本当のところは分からない。真っ赤に染まった彼の瞳からは、その意図を察することが出来なかった。


 ――アーサー、今のうちに……!


 ペリノアが自分の胸を押さえながら言う。ランタンに照らされた顔色は更に悪くなっており、目の下の隈は更に濃くなっている。俺は彼女の手を引いて、阿鼻叫喚の殺し合いを背に、地下室から駆けだした。

 地上への階段を登り切ったところで、ペリノアが膝を着く。息が弱々しくなり、頬まで痩け始めていた。体調に異常を来しているのは明らかだった。


 ――おい、ペリノア! 大丈夫か!


 問いかけるも、彼女は返答する余裕も無かった。

 何が起きているのかは分からない。だが、この状況がかなり深刻なものであることは、彼女の苦しみ方で分かる。焦燥と絶望で途方に暮れていたときだった。


 ――あ、あなたたち……!


 突然第三者の声がかけられ、俺は身体を震わせる。

 振り返ると、修道服に身を包んだ若い女性が、口元を押さえ怯えた目で俺たちを見下ろしていた。病院の下にある教会に勤める、シスター・マジョリーだった。俺も何度も話したことがある、顔馴染みだ。


 見つかった、という危機感よりも、先に湧いてくる感情があった。


 ――助けてくれ!


 反射的に、俺はそう叫んでいた。


 ――ペリノアがおかしいんだ!


 切迫した俺の訴えを受け、シスターの顔から怯えの色が消えていく。そこに、地下室から響く獣の雄叫びが聞こえた。


 ――あなたたち、まさか地下室の鍵を……!


 一瞬だけ戦慄を表情に宿した後で、シスターはそれを押さえ込むように首を左右に振った。


 ――とにかく此処は危険です、ひとまずは教会へ!


 俺はペリノアを背負い、シスターに導かれるままに、裏口から病院を脱出した。


             ◇


 教会に足を踏み入れたことは、数えるくらいしかなかった。シスター・マジョリーに導かれるままに、俺たちは教会の修道士たちの寝所に連れて行かれた。ペリノアを寝台に横たわらせると、シスターは俺を椅子に座らせ、右腕と腹部の傷に包帯を巻いてくれた。その間、シスターはずっと無言のままだった。


 ――何が起きてるんだ?


 俺が訊ねると、シスターは小さく身を震わせる。まるでその追求に対する説明を恐れているかのように。俺の治療を終えると、彼女は静かに立ち上がった。


 ――エグレディンガー神父を呼んできます。


 説明は彼がする、と暗に回答から逃げたようにも聞こえた。シスターが部屋から出ていった後で、俺はペリノアの手を握った。彼女の顔は蒼白なままだったが、体温は恐ろしく高かった。


 ――何が、起きてるんだよ……。


 先ほどシスターにぶつけた問いを、今度は独り言として口に出す。


 ――アー、サー……。


 ペリノアがか細い声で俺を呼ぶ。俺は手を強く握って応える。


 ――大丈夫だ、此処にいるよ。

 ――お腹、の、傷、大丈夫……?

 ――大したことねぇよ。今はまず自分の心配をしろ。


 不安がらせないように、俺は慣れない微笑を浮かべてみせた。


 ――私、ね、アーサーに、話さなきゃいけないことが、あるの……。

 ――そんなもの、後からいくらでも聞いてやる。だから今は静かに休んで……。

 ――私、どうして生きてるの?


 突然彼女の口から放たれた言葉に、俺は口を噤む。


 ――あの、秋の日ね……私、本当は崖から、落ちたんだよ……凄く高くて、痛くて……腕も、足も、折れて、頭からいっぱい血が出て、胸に、木が刺さって……。


 ペリノアが話しているのは、昨年の出来事だろう。俺たちと遊んでいる最中、彼女が行方不明になったことがあった。二週間後に大人たちに発見されたときはかなり衰弱した様子だった、とだけ聞いている。


 ――でも、ね、私、次に目が、覚めたら、病院の、ベッドの上、だった……傷も一つも残ってなかった……ねぇ、どうしてかな……。


 彼女の話を聞きながら、俺の中の不安がどんどん大きくなっていくのが分かった。今の俺たちを取り囲んでいる物事は、もっと複雑で「どうしようもない」ものなのではないか、そんな予感がした。


 そのとき、部屋の外から物音が聞こえ、俺は思わず耳を澄ませた。扉の向こうはすぐ礼拝堂になっている。どうやら誰かが教会を訪ねてきたようだった。声の調子から、その人物がかなり焦った様子であるのが伝わってくる。


 ――神父様、おられますか!


 その声には聞き覚えがあった。俺の家の隣に住むロバートおじさんの声だ。


 ――おや、どうかされましたかな。


 続いて聞こえてきたのは、落ち着いた壮年の男性の声。この教会の神父であるエグレディンガー牧師の声だった。


 ――大変です、地下の被験者たちが牢屋から逃げ出しました!


 ……ヒケンシャ?

 何だよ、ヒケンシャって……。


 ――おそらく、逃げたランスロットの仕業ではないかと……。

 ――なんですって? 街は、街は大丈夫なのですか?

 ――いいえ、既に六人の犠牲者が……。

 ――何ということだ。だから私はあれほど反対したというのに……。

 ――神父様も早くお逃げください。既に奴らは街に解き放たれました。アーサーが捕まらない以上、連中を止める術はありません。


 ロバートおじさんが帰った後で、扉と頑丈な鍵の閉まる音が聞こえた。どうやら礼拝堂の錠前を下ろしたらしい。


 その一連を聞きながら、俺は扉の前で呆然としていた。

 いったい今のは何の話だったんだ? アーサーが捕まらない以上? 俺がいったいどうしたんだよ?


 と、そのとき、目の前の扉が開いた。現れたのは、先ほどまで話をしていたエグレディンガー神父だった。俺が咄嗟に身構えるのを、彼は両の手のひらを見せて制止した。


 ――安心しなさい。私は君を差し出すつもりはない。


 そう言って、神父は部屋の中にすんなり入ってくる。そして懐から酒瓶を取り出して口をつけた。中の液体を嚥下し、口元を拭ってから、彼は言う。


 ――マジョリー君から話は聞いたよ。牢の子供たちを解放したのは君たちだね?


 俺はしばらく考えた後、隠す必要も無いと判断して頷きを返した。神父が更に訊ねてくる。


 ――ランスロットはどうしたんだい?

 ――死んだよ。

 ――死んだ?


 俺は昨夜からこれまでに起きたことを神父に話した。ガウェインとランスロットの異常な死、病院の地下室での出来事、そしてペリノアに起きた異変について。話している内に不可解な出来事の全てに腹が立ってきて、口調が乱暴になってしまった。しかしエグレディンガー神父は辛抱強くそんな俺の話を聞いていた。


 一通りを話終えたとき、唐突にエグレディンガー神父が言った。


 ――この街では八〇年前から一つの研究が進められていた。


 出し抜けに始まった話に、俺は一瞬面食らう。だが一拍置いてから、その年数に意識が向いた。八〇年前。たしか、昨夜のランスロットも同じようなことを言っていた。

 神父は更に続ける。


 ――それは不老不死の研究。

 ――不老、不死……?

 ――そうだ。そしてそれは昨年の末、ついに成果が完成した。それこそ我々アタヘイの一族の悲願、最愛の霊薬……そこのペリノアを始めとする十三人の子供たちに投与された、人間を不死にする薬だ。


 俺は思わず後ずさりをする。足下に椅子の足がぶつかり、思わずそこに脱力するように腰を落とした。

 投与された? 何を? 不死の霊薬?


 ――何だよ、それ……不死って。

 ――そのままの意味だよ。投与された人間は死なない。たとえ致命傷を受けたとしても、死に至る前に全快する。


 そこで俺はハッとする。


 ――それじゃ、昨年の秋のペリノアの失踪事件って……。

 ――その通りだ。本当は彼女は、崖下に転落して亡くなっているところを発見された。霊薬を投与され、蘇生したんだ。

 ――そんな……。


 俺は愕然としながら、自らの腹部に目を落とす。あれほど深い傷だったというのに、確かに既に血は止まり、痛みすらも殆ど無い。その効能は、もはや疑いようが無かった。神父は告げる。


 ――結論を言おう。今回、彼らが怪物と化したのは、その霊薬の副作用によるものだ。


 目の前が真っ暗になっていくような気がした。茫然自失とする俺に向けて、エグレディンガー神父は続ける。


 ――保身の為の隠し事はしない。私も霊薬の精製には関与している。というより、関与していない人間はこの街にはいない。これはアタヘイに転移した我らの祖先の代から続く、街ぐるみの研究だったんだ。


 神父の言葉は、俺の頭蓋から次々とこぼれ落ちていく。何一つとして、俺の頭の中に意味をもたらさなかった。俺の思考を支配していたのはただ一つ、ペリノアのことだけだった。


 ――ペリノアも……。


 と、俺は口を開いた。


 ――ペリノアも、あいつらみたいになるのか?


 神父はしばらく沈痛そうな顔で押し黙ったが、やがて頷いた。


 ――既に初期症状が見え始めている。このままでは、おそらく。


 それを聞いて、俺は反射的に神父に詰め寄った。


 ――何か方法は無いのかよ! ペリノアを、あいつらを救う方法は!

 ――救う、の定義によっては、或いは。


 エグレディンガー神父の目が、冷たく細められる。そのまま、彼は続けた。


 ――君たちの血液検査の結果、霊薬を投与された人間には血の序列があることが分かった。つい先日のことだ。

 ――血の序列?

 ――そうだ。あらゆる物理現象による死を拒絶する『最愛の霊薬』だが、君たちの血液のみが唯一の劇薬となる。ペリノアの血を除いてね。

 ――それってどういう意味だよ?

 ――ペリノアが序列の最下層に位置するということだ。他の子供たちの血が体内に入った時点で、ペリノアの肉体はネクローシス作用を引き起こし、崩壊する。つまりは死だ。

 ――え……?


 ――そしてアーサー、君の血液のみが他の被験者たち全てに同様の現象を引き起こすことが出来る。君は他の血液から一切の影響を受けない、最強の王たる血の持ち主なんだ。


 ようやくそこで、これまでの様々な疑問と出来事が合致した。

 不死身の筈のガウェインとランスロット。彼らの息の根を止めたのは、俺の血液が付着した鉄剣だった。そして先ほどモルドレッドを殺した時も、剣には俺の血がついていた。


 そうか、だから大人たちは、俺の行方を探していたんだ。

 俺の血で、他の子供たちを殺害する為に。

 エグレディンガー神父が、沈痛そうな顔で告げる。


 ――レベル五、つまりあの黒い怪物の状態まで進行してしまった被験者は、もう元には戻れない。唯一の救済は、君の血を使った死だけだ。

 ――そん、な……。


 横たわるペリノアに視線を向ける。彼女は未だ苦しそうに、今にも止まりそうなか細い呼吸を続けていた。昨夜、あの納屋で彼女の手を握ったことが、まるで太古のことのように感じられる。

 いずれ彼女も、ガウェインたちと同じような怪物になる。そうなってしまったら、死ぬしかない。俺の血で。


 絶望が俺の足を掴み、奈落の底に転落していくような錯覚を覚えた。いったい何が原因なのか、誰が悪いのか、どうすれば良かったのか、どれだけ考えても、何も答えが出なかった。


 ――アー、サー……。


 ペリノアが俺の名を呼ぶ。傍らに立ち、俺はその手を握った。


 ――殺、して……私、を……。

 ――何言ってんだ……何を言ってるんだよ……!


 そんなこと、俺に出来る筈がない。

 見つめる彼女の頬に、水滴が一粒落ちた。それが俺の涙であることに、一瞬遅れて気が付く。彼女の手が震えながら、俺の頬に触れる。まるで涙を拭おうとするかのように。


 ――もう、頭の中が、ぐちゃぐちゃ、で、何も、考え、られなく、なってきた、んだ……だか、ら、まだ、私が、人間の、うちに……。

 ――嫌だ、そんなのは絶対に嫌だ!


 俺は叫ぶ。目の前に迫る現実を拒絶するように。

 だが、彼女は弱々しい苦笑を浮かべる。


 ――アー、サー、は、しょうが、ない、なぁ……いつまで、経っても、子供、なんだ、から……。


 やがて、ペリノアの瞳にも涙が浮かんでいることに気づく。気力を振り絞るように、彼女は言う。


 ――お願い、だから、言うことを、聞いて……私、人間の、まま、で、死にたい、よ……。


 その願いを、俺は叶えたくなかった。叶えられる筈が無かった。どんな理由があっても、俺が彼女を殺せる筈が無かった。たとえ世界中が彼女の敵に回ったとしても、俺には彼女を守るべき理由があった。


 ――まだ、方法はあります。


 突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、シスター・マジョリーが部屋に入ってきていた。彼女は言う。


 ――仮説の段階に過ぎませんが、彼女と彼だけならば、助けられる可能性があります。

 ――マジョリー君。


 エグレディンガー神父がため息をつき、頭を掻いた。彼は問う。


 ――それは君の組んだ例の理論のことかね? 実証が無い上に、展開によっては最悪の事態になるぞ。

 ――これ以上、彼らにとって最悪の事態なんてありません。救える可能性が少しでもあるならば、神の信徒としてそれに賭けるべきです。


 シスター・マジョリーは毅然として言う。エグレディンガー神父は再び頭を掻いた。やがて、諦めたように言う。


 ――条件を付けてからではないと、渡れない橋だね。

 ――おい、どういうことだよ。分かるように説明してくれよ。


 と、俺は目元を拭って口を挟んだ。シスターが居住まいを正し、口開く。


 ――アーサー、私と神父様はもともと今回の投与実験には反対でした。本心だけを伝えるならば、私たちはあなたたちを救いたいと思っています。


 俺を見つめるシスターの瞳に、嘘や偽りは無いように思えた。だからこそ、俺は小さく頷きを返した。彼女は続ける。


 ――あなたたちに投与した『最愛の霊薬』はこのアタヘイの街と同等の標高条件でのみ培養が可能です。そして不死性を引き起こす因子の骨子は、牙持つ獣たちの遺伝子を参考に組まれています。今回このような事態になったのは、おそらくそれが原因でしょう。そして私の分析によれば、その獣たちの因子が変化する条件に関しては、どうやら霊薬の培養条件に依存する筈なのです。


 シスターがいったい何を話しているのか、俺には殆ど理解できなかった。というより、彼女がこのような知識を持っていることに、俺は少し圧倒されていた。

 見かねたエグレディンガー神父が補足してくれる。


 ――つまり、この山を下りればペリノアが発症しない可能性がある、ということだ。もちろん、すべて仮説ではあるがね。


 そこで、神父の目がシスターに向けられる。そこにはある種の非難の色が含まれていた。


 ――だが、その理論が間違っているとしたら、我々はとんでもない怪物を下界に解き放つことになる。如何なる武器を以てしても対抗できない、不死身の怪物をね。


 そこまで聞いて、俺はその先を理解した。


 ――もしこの山を下りてもペリノアが怪物化してしまったら、俺の血を使えばいい。


 はっきりとした口調で、俺は言った。


 ――神父様の言う条件ってのは、そういうことだろ。


 エグレディンガー神父はしばらく俺の顔を見つめてから、曖昧に首を振った。


 ――半分だけ正解だ、アーサー。

 ――半分だけ?

 ――君もだよ。


 と、神父が俺を指さす。


 ――君もまた、怪物化する可能性が充分にある。さっきも言ったが、君を殺す方法はこの地球上には存在しない……だから、条件とはこうだ。


 エグレディンガー神父の表情に、悔恨と罪悪感を押し込めるような必死さが宿る。彼は言う。


 ――ペリノアが発症してしまったら、君が殺せ。そして殺したら君はこの山に戻り、永遠に人里に下りずに生きろ。


 あまりにも残酷な条件だったが、俺はそれを口にする神父様の気持ちを察することが出来た。だから、俺の答えは悩むまでも無かった。


 ――ああ、わかった。それでいい。


 頷きを返し、視線をペリノアに向ける。


 ――あいつを助けられる可能性が少しでもあるなら、俺は何だってするよ。


              ◇

 

 雨は、さらに強くなっていた。


 闇に乗じて街を脱出する為、俺たちは太陽が沈んだ頃に教会を出た。その頃には既に街は大騒ぎになっていた。捜索から戻ってきた大人たちが次々と怪物に襲われ、断続的な絶叫や怒号が教会まで聞こえた。


 ――この街はもう終わりだ。


 教会を出てすぐに、エグレディンガー神父がぼそりと呟いた。眼下の街並みには、いくつかの人間の死体が転がっているのが見えた。そして逃げまどう住人を追って駆け回る、黒い怪物の姿。まさに地獄絵図だ。


 もしかしたら、親父や母さんもそこにいるのかもしれない。ふと、そんなことを思った。だが、そのときの俺はどうしても「助けにいかなくては」とは思えなかった。むしろ、先ほどの神父様の話を聞いてから、一方的に裏切られたような気分になっていた。


 この計画を主導していたのは病院長のウーゼル・トゥエルヴ、つまりは俺の親父だという。親父がどんな気持ちで息子の俺を実験台にしたのかは分からない。その八〇年の一族の悲願とやらの重要性も分からない。母さんがそれを許した理由も分からない。いや、もうそんなことはどうでもいい。分かりたくもない。

 だから、この街と一緒に両親が死んでしまっても、自業自得だとすら思った。


 ――行きましょう。西の森を抜けると、隠し道の洞穴があります。そこから下山できる筈です。


 シスター・マジョリーが、暗闇の森を指さして言った。俺がペリノアを背負い、エグレディンガー神父が仄かなランタンを手に先導する。教会の裏手の坂道は雨のせいでかなり滑りやすくなっていた。俺たちは物音を立てないように、慎重に足を進める。


 ――なぁ、ペリノア。


 背中でぐったりとする彼女に、俺は歩きながら語りかける。


 ――これから山を降りるぞ。街を出て、新しい街に行くんだ。


 この先に少しでも希望が持てるようにと、俺は喋り続ける。


 ――そしたら一緒に生きていこう。何が出来るのかは分からないけど、二人ならたぶん大丈夫だ。


 俺は願った。この夜さえ越えれば、この街さえ抜け出せば、この山から降りさえすれば、きっと事態は好転するんだ、と。もしかしたら幸せな暮らしは出来ないかもしれない。でも、これ以上に絶望的なことにはならない筈だ。


 ――新しい街に着いたら、泊まれる場所を探そう。そしたらすぐにでも俺は仕事を探すよ。おまえは料理でも作って待っててくれ。ほら、いつかお前が作ってくれたオムレツがあっただろ。母さんが留守の時にさ。あれを作っててくれよ。


 それは、ただの夢想だ。でも、そんな夢想にでも縋らなくては、俺は前に進めそうに無かった。彼女を背負う俺の手に、その感覚が伝わってきてしまっていたのだ。彼女の両足が、既に彼女のものでは無くなりつつあることに。


 溢れ出そうになる涙を、俺は堪える。もし泣き出してしまったら、前を行く神父様とシスターに、ペリノアの変調が悟られてしまうかもしれない。そうしたら、もうこの場で全てを終わりにするしかない。

 嫌だ。どうしてなんだ。どうして山を降りれないんだ。どうしてそれまで持たないんだ。俺は、彼女と二人で山を降り切ること以外、考えていなかったのに。こんな結末は、考えたくなかったのに。


 坂を下り終え、街並みの裏路地に入った、その時だった。


 ――神父様、危ない!


 シスターの叫び声が響く。エグレディンガー神父はその声に弾かれ、転がるように飛び退いた。先ほどまで彼が立っていた地点に、黒い影が猛烈な速度で着弾する。それはのっそりと起き上がり、赤い双眸で俺たちを睥睨する。


 ――ガラハッド……。


 俺は呆然と呟く。既に人間だった頃の面影は無いに等しく、それもまた身体に引っかかっている衣服の切れ端で判別するしかなかった。かつてあれほど寡黙な青年だったガラハッドは、曇天を仰いで獣の咆哮を上げる。哀しみと、怒りと、絶望を、この世界に訴えかけるかのように。


 俺はペリノアを静かにその場に下ろし、腰に差した鉄剣を引き抜く。教会に飾ってあった祭事用の剣だが、無いよりはマシだ。


 ――待ってろよ、ペリノア。すぐに終わらせるからな。

 ――アァー、サ阿ー、お願い……おね、が……。


 譫言のように何かを繰り返す彼女の頭を軽く撫でて、俺はガラハッドに向き直る。


 ――二人は下がっててくれ。


 神父様とシスターに向けて言う。そして俺は、手に持つ鉄剣で自らの左腕を軽く切りつけた。溢れ出す血を、刀身に纏わせる。


 ――あいつは、俺が殺す。


 脳裏に蘇る友人たちの姿を、無感情の刃で断ち切る。たとえ友を殺してでも、俺には守りたい人がいる。そんなどす黒い決意を胸に、俺は雨の隙間を疾駆した。


 ガラハッドの刃の両腕が雨風を切り裂いて襲ってくる。だが、俺はそれを避けなかった。激痛など、もう恐れることではない。

 俺の身体は奴に捕らえられ、その刃の生え揃った腕で強く抱きしめられる。俺の全身に棘が突き刺さり、あらゆる場所から血が噴き出した。駆けめぐる激痛に耐えながら、俺は静かに語りかける。


 ――あばよ、ガラハッド。


 そして、俺は手にした鉄剣を、刃の鎧の隙間から彼の心臓めがけて静かに突き刺した。すぐに俺を抱きしめる力が緩み、糸が切れたように脱力したかと思うと、ガラハッドの身体は物言わぬ塵となり、砕け散っていった。


 俺は血塗れのまま、無言でそれを見下ろしていた。

 雨の音が、妙に耳に響いた。

 街の様々な場所から絶叫が聞こえた。

 それは、この街がどんどん崩れ、壊れていく音のように思えた。


 突然、それに混じって、背後で何かが何かを貫く音が聞こえた。


 堅い何かが、柔らかい何かを突き破る音だった。


 そして、神父様の呻き声が続いた。


 それだけで、俺の奥底に暗闇が一滴落ちた。


 ……嫌だ。

 嘘だ。

 そんな。

 そんな……!


 振り返りたくはなかった。振り返れば、そこですべて終わってしまう気がした。でも、俺の身体は振り返っていた。


 ……今まで無かった、哀しく猛烈な殺気を感じたから。


 そこにあったのは惨劇だった。黒い刃を纏ったペリノアの右腕が、神父の腹部を貫いていた。シスターが絶叫する。


 ――エグレティンガー神父!


 駆け寄ろうとするシスターを、俺は思わず突き飛ばす。そこにペリノアの左腕が唸り、大地を抉った。その勢いで、神父の遺体はまるでボロ雑巾のように路上に放り去られる。

 俺は咄嗟に距離を取り、そこで初めて彼女の顔を見た。


 ――ア阿ァー……サァ亜……!


 掠れた声で名前を呼ばれ、俺は言葉を失う。

 その瞳には涙が浮かんでいた。


 さっきは両足までだった刃の鎧は急速に全身に広がり、彼女の両腕を黒く鋭利な爪に変貌させていた。刃は彼女の顔までも侵し始め、まだ辛うじて面影の残るペリノアの瞳は、何かを訴えるように俺を見つめていた。


 願い、懇願、いや、これは―――憎しみ。

 どうして、殺してくれなかったのか、という糾弾の瞳。


 ――ァ亜阿、左亜ァ……ッ!


 その訴えを最後に、ペリノアの自意識が目の前で消えていく。

 瞳から理性が消え、黒刃の鎧が彼女のすべてを覆っていく。


 嗚呼。

 嗚呼、その光景を、俺は永遠に忘れることは無いだろう。



 ……その確信はまるで、呪いに似ていた。



 ――アーサー、逃げなさい!


 シスターの叫びも、俺の耳をすり抜けていった。

 次の瞬間には、ペリノアの刃の拳が、俺を吹き飛ばした。

 降りしきる雨を裂き、俺の身体が手近の民家の壁に激突する。崩れる瓦礫を浴びながら、俺はシスターが教会の方に逃げ帰っていくのを見た。


 雨の中で、獣と化したペリノアが絶叫する。

 泣いているのか、嗤っているのか、もう、感情すらも無いのか。

 そしてその咆哮に集うように、他の黒い影が集まってくるのが見えた。俺の身体中には激痛が走っていた。でも、もはやそんなものは気にならなかった。俺は血塗れの鉄剣を握りしめて立ち上がる。


 ――ペリノアに……。

 手を出すな。


 心の呟きと共に、俺は大地を蹴った。


 彼女を襲おうとする怪物たちめがけて、俺は剣を振るった。

 いくつもの黒い刃が、俺を突き刺した。

 自分の身体がどんどん削られていく気がした。

 それでも構わず、俺はかつての友達を斬り伏せた。


 友を、殺し続けた。

 友に、殺され続けた。

 それでも、俺は死ななかった。

 殺すのは俺だけだった。


 ケイの首をはね飛ばした。

 ボールスの心臓を貫いた。

 パーシバルの胴体を両断した。

 ベディビアの顔面に刃を突き刺した。

 ペリノアを守る為に。

 彼女を、奴らの血で殺されないように。


 殺戮を続けながら俺は、まるで自分自身も黒い獣になってしまったかのような気分だった。だが、一頻りの血の雨を浴びた後でも、俺の身体は人間のままだった。どこまで行っても、俺は人間のままだった。


 最後に俺の前に現れたのは、トリスタンだった。ペリノアに襲いかかる彼を、俺は一太刀のうちに斬り伏せた。もう感情は麻痺していた。ただ、ペリノアを守る。それしか考えられなかった。


 戦いながら、俺はいつの間にか街の中央の広場まで移動していた。

 周囲には累々たる住人たちの死体と、かつて子供たちだった物の亡骸が転がっていた。


 その中心に、一人の黒い怪物が立ち尽くしていた。彼女は俺を見つめていた。真っ赤に染まり、感情の消えた瞳で。


 ……それで、どうするんだ?


 心の声が、俺に問いかける。


 最後まで彼女を守った。

 もう、彼女の命を脅かす者はいない。

 そう、俺以外は。


 ―――じゃあ、それで、どうするんだよ?


 俺は静かに、再び鉄剣を構えた。

 理屈から言って、そうしてやるのが彼女の為だと理解していた。


 しかし。



「ほら、早く行きましょ、アーサー」

「まったく、いつまで経っても子供なんだから」

「心配したのよ、人の気も知らないで!」

「また泣かされたの? 仕方ないなぁ」

「―――じゃあ、私がアーサーのお嫁さんになってあげる」



 彼女の言葉が記憶の箱から溢れ出し、俺は鉄剣を下ろした。


 殺せる筈が無い。


 ―――殺せる筈が無いだろうッ!


 俺の瞳から、涙が溢れ出す。それは頬についた返り血に染まり、赤くなって雨の中に落ちていく。


 ――阿亜亞ァァァッ!


 彼女の絶叫が、滅びた街に響く。

 俺はそれを背にして。

 ただただ、逃げ出すしか無かった。

 

             ◇


 どれだけ長い間、放浪をしたのか分からない。

 山を降りて、たった独りで荒野を歩いた。


 自分が何者なのか、何がしたいのか、何をするべきなのかも、分からなかった。ただただ、言いようの無い罪悪感だけが俺の心を支配していた。


 思い返せば、街を滅ぼしたのは俺だ。

 怪物を街に解き放ったのは、俺だ。

 そして、その怪物となった友を殺したのも俺だ。

 全部、俺のせいだ。


 死にたかった。実際、何度か手に持つ鉄剣で喉元を掻き切ってみた。しかし、数分後には血が止まり、死ぬことが出来なかった。だから俺は、自分の身体があの怪物に変わるのを待つことにした。怪物になって、自分の意識さえも消えてしまったら、この罪悪感に苛まされることも無いだろう。だが、どれだけ経っても俺の身体に変化は訪れなかった。


 何日間かぶっ続けで歩いたところで、海沿いに出た。小さな集落があり、その民家に住む老夫婦が、ボロボロの俺を見てパンとスープを食べさせてくれた。


 ――あんた、アルダナクの難民かい?


 そうだ、と答えた。


 ――可哀想に。両親はどうしたんだい?


 死んだ、とだけ答えた。老夫婦は再び、可哀想に、と言った。

 集落から続く街道を進めば街がある、と老夫婦は教えてくれた。そこで教会に保護を求められる筈だ、と。俺は礼を言ってその家を後にした。


 再び何日か歩いて、俺は街にたどり着いた。これまで見たことも無いほど大きな街で、これまで見たことも無いほどたくさんの人が歩いていた。俺は鉄剣を携えたまま、その街を放浪した。路地から路地へ、暗闇から暗闇へ。生きる目的も理由も無かったので、俺は何日もそれを繰り返した。


 その道中で、俺と同年代の子供たちと出会った。彼らもその時の俺と同様、身よりのない浮浪児たちだった。彼らは自らのコミュニティを持ち、その外の人間に対しては排他的だったが、同じような境遇の子供たちに対してはほぼ無条件で友好的だった。彼らのうちの一人が、最初に出会った時に言った。


 ――それ、かっこいい鉄剣(ソード)だな。


 彼は俺の持つ鉄剣を見ながらそう言った。話を聞くと、どうやら彼は海を越えた国からやってきたらしい。彼の言語の節々に、母国のものらしい単語が混ざっていた。彼の両親は海難事故で亡くなったという。

 自分も両親がもういないことを告げると、仲間を見つけたと言わんばかりに、彼は嬉しそうに笑った。


 ――なぁ、おまえ、何て名前なんだ? 良かったら俺たちの仲間にならないか?


 仲間。

 その響きに、俺は少しだけ心が動いた。数ヶ月にも及ぶ孤独な放浪に、心が疲れ切っていたのかもしれない。だから、俺は答えた。


 ――ソード、だ。


 かつての名前を捨て、俺は名乗る。



 ――俺の名前は、ソードだ。



              ◇


 こうして俺は決断と罪悪感を先延ばしにして、再び無様に歩き始めた。いずれ終わらせねばと、呪いにも似た責任を背負いながら。


 それが、今からちょうど十年前のこと。

 俺がアーサー・トゥエルヴであることから逃げ出し、ソードとなった頃の話だ。


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