〈四十一〉不死王の帰還
大粒の涙をこぼしながら、バーダロンは彼の名を叫ぶ。倒れ伏すその姿に駆け寄ろうとするも、彼女は男たちにがっしりと両腕を捉えられ、身動きが出来なかった。
ソードはぴくりとも動かない。ただ、彼の身体を中心に広がる血だまりが、どんどん大きくなっていく。その光景が意味するのは、もはや疑う余地の無い事実だった。
「そんな……嘘、嘘よ……」
それを見て、バーダロンは思い知らされる。それが取り返しの付かない事態であることに。まるで糸が切れてしまったかのように、彼女の全身から力が抜けていった。
その彼女の前に、血塗れの刀剣を携えた男が立つ。その男、ゴルドは剣の血を拭いもせず、そのまま鞘に納めた。彼は抑揚を欠いた表情で口開く。
「イクスラハで言っただろ、作家先生。俺とあいつじゃ、俺の方が強い、ってよ」
「どうして……?」バーダロンは呆然自失としながら問う。「あなたの、傭兵仲間じゃなかったの……?」
「仲間である以前に、傭兵だ」
ゴルドは冷たく言い放った。
「俺は傭兵として奴に敬意を払った。奴もまた俺を傭兵として認めた。俺たち傭兵は敵と味方を選べない。だからこそアンタの提示した理屈に沿って、その剣で解答を出そうとした。これはその結果だ」
ゴルドの言い分はすべて論理的だった。何より、その条件を最初に提示したのは、他ならぬバーダロン自身なのだ。
だが今の彼女に、理屈を受け入れる余裕は無い。吐き気を催すほどの絶望と自責の念が沸き上がり、彼女の思考を完全に絡め取っていた。
脳裏を過ぎるのは、かつての大切な師と友人の姿。
血だまりの中で、自分の両手からこぼれていく命。
また、だ。
また、私は何もできなかった。
ソードが死んだ。
殺された。
誰に?
目の前の男に?
本当に?
……いや、違う。
今度は違う。
それを促したのは、自分だ。
私がそれを命じたんだ。
……結局、私が殺したようなものじゃないか。
どうして、私はそれを命じた?
どうして、私はそれほどまでに彼を過信した?
どうして、私は……。
「やめろ」
打ちひしがれる彼女を見下ろしながら、ゴルドが苛立たしげに言い放つ。
「その罪悪感はアンタのものじゃない。ソードを殺したのはアンタじゃなく、この俺だ」バーダロンの顎を手で引き上げ、睨みつける。「この罪は俺だけのものだ」
その言葉が優しさからのものではなく、彼自身の本音であることを、バーダロンはその瞳から読みとった。
「でも、私は……」
「じゃあ、何故、アンタはソードを俺と戦わせた」ゴルドが真剣な顔で問う。「まさか、俺が情に流されることに賭けたわけでもないだろう?」
バーダロンはそこで、自分を落ち着かせるように深く息を吸い込んだ。小さく首を左右に振り、彼女は答える。
「違う……私は賭けたんじゃない―――信じただけだ」
「ソードの強さを、か?」
「ソードとの、約束をよ」
必ず守ると言った、傭兵としての約束。
バーダロンの脳裏にかつてのソードの言葉が蘇る。
『俺を信じろ』
それを思い出したところで、彼女は煩悶を辞めた。
―――そうだ。彼はそう言った。
そして自分は、信じたいと思ったのだ。
少なくともその筋道は正しく、誠実なものであった筈だ。
「だったらその顔を辞めろ。虫酸が走る」
不愉快そうなゴルドの言葉を受け、バーダロンは涙を拭った。
今は、悔やみ続けるべき時ではない。罪悪感に押しつぶされている場合ではない。ソードが果たそうとした責務に、自分は報いなくてはならない。
歯を食いしばり、彼女は崩れ落ちそうになる心を何とか立て直す。
「―――御傷心のところですが」
そこで、それまで静観していた枢機卿が不意に口を開いた。
「よろしいでしょうか、フォレスター先生」
バーダロンは返答はせず、ただ無言で睨み返した。
「まずはお悔やみを申し上げます。しかし、この現状を踏まえた上で、敢えて再び提案いたします。フォレスター先生、今一度その考えを改めて、私の陣営に付く気はありませんか?」
バーダロンの瞳をまっすぐに見つめながら、彼は至って真剣な口調で言う。
「私は貴女を殺したくはない。これは私の本心です。貴女もまた、こんな所で志半ばに果てたくはない筈だ。この状況を理解できない貴女ではないでしょう?」
しかし、バーダロンは答えなかった。
目の前にいるのは、ソードを殺した元凶だ。そんな男の申し出など、受け入れられる筈もない。
それに、先ほど枢機卿が語った野望を、バーダロンは断じて認めるわけにはいかなかった。一度でもそれを受け入れてしまうことは、これまで彼女という人間を培ってきたすべてを否定してしまう気がしたのだ。かつて自分を救ってくれた、師と親友までをも。
「……」
だが、バーダロンの口から拒絶の言葉は出なかった。
彼女は少しずつ冷静さも取り戻しつつあった。そしてその論理的な思考により、既に彼女の中で結論も導き出されていた。つまり、枢機卿の提案に乗る他に、現状から生還できる術はない、と。
死を怖れるがゆえ、そんな考えが浮かんだのではない。ソードが自分を守る為に命を賭してくれたからこそ、その選択肢を客観的に考えられるようになったのだ。
―――どちらが正しいのだろうか。
自らの信条に従うべきか、それとも、ソードが最後まで守ろうとしてくれた自身の命を選ぶべきか。いや……そもそも、自分はそのどちらの後悔を許容出来るのだろうか。
沈黙のまま、バーダロンは懊悩する。
その姿を見つめながら、枢機卿は一つ吐息を挟んだ。
「……分かりました。それでは今しばらく時間を差し上げましょう。先生には、今回の件を最後までご覧に入れます。決断はそれからに」
最後まで。
その言葉に疑問を投げるようにバーダロンが顔を上げると、マルムスティーンは落ち着いた口調で答えた。
「ユナリア旧皇帝、レオネの復活を直にご覧いただければ、ある種の諦観を抱いていただけるかと」
◆
バーダロンは枢機卿たちと共に、アタヘイの頂上にある教会へ続く石段を上る。銃は取り上げられ、背後から護衛の一人にライフルを突きつけられながらではあったが、手足は拘束はされなかった。
バーダロンは歩を進めながら、思考する。
ある程度の身体の自由を与えたままということは、マルムスティーンは本気で自分と交渉をするつもりらしい。あくまでも自分の意志でその決断を選ばせたいというわけか。
しかし、この現状を打破する手段が、自分にはもうほとんど無い。辛うじて希望と言えそうなものは、どこかに隠れているハプワス大佐とエズミだったが、戦力としてはあまりにも心細い。むしろ、彼らを巻き込みたくはないというのが彼女の本音だ。
しかし、これほどの大騒ぎだ、或いは彼らは何処かから自分を観測しているだろう。意思伝達が出来ない以上、バーダロンは彼らが無闇に手を出さないことを祈るしかない。
だとすれば―――自分だけの力で何とかするしかない、か。
そう思い至った時、バーダロンは自分の背嚢の中身を思い出した。そうだ。確かこの中にはあれが入っている筈だ。山に登る前、あの炭坑の中で見つけた……。
「この街を、先生はどのように考えていますか」
不意に、前を歩くマルムスティーンが訊いた。バーダロンは思考を止め、顔を上げて眉を寄せる。
「……どのように、とは?」
「この街の存在、起源についてですよ。改めて考えても不思議だとは思いませんか。十年以上も前に滅んだと思われるのに、その科学技術は現在のユナリアよりも遙か先を行っている。信じられません」
枢機卿の言葉に、バーダロンは平坦な口調で返答した。
「推測を導きだそうにも判断材料が足りない。それを集めようとした矢先が、現状だ」
「それは失礼。しかしこの先、お望みであれば先生をこの遺跡の調査団長に任命いたしますよ。好きなだけお調べいただけます」
バーダロンは取り合わなかった。如何に状況が不利であろうと、彼女はこの男に対しては心の一片たりとも許すつもりはなかった。
バーダロンは無言のまま、視線を眼下の街並みに向ける。
だが改めて考えてみると、確かに奇妙な街である。建ち並ぶ家々の建築素材は、近年のユナリアでようやく実用化された最新のものだ。それに、あのペリノアの生家である医院にも、近年のユナリアで開発された薬品ばかりが並んでいた。
だが同時に、バーダロンはそれらの中に妙な齟齬のようなものを感じていた。おかしな話だが、これほどの技術力を持っていながら、集落の規模がこの程度というのは、どこか妙だ。まるで―――。
「無理矢理、自分たちの技術をこの時代に合わせた」
枢機卿は突然そう言った。
「私はそう思うんです」
バーダロンは変わらず押し黙る。だが、彼女の思考の道筋も全く同じだった。そこで枢機卿は軽く笑った。
「馬鹿げた話にも聞こえるかもしれませんが、私はね、未来からやってきた人間がこの街を作ったんじゃないか、とまで考えているんです。まるでハル・エリスの空想科学寓話のようにね。先生はどう思います?」
「……小説のプロットとしては悪くない」
バーダロンはぼそりとした声で、それだけ答えた。その可能性を考察すること自体に少しばかり興味はそそられたが、今はそんなことをしている場合ではない。
「ところで、もし一つだけ過去を変えられるとしたら、先生はどうなさいますか?」
枢機卿の唐突な質問に、バーダロンの表情が強ばる。それは、この状況下では悪意すら感じられるような問いかけだった。
「先ほどの彼、ソードさんを救いますか? それとも―――十二年前に戻って、コヴァイン枢機卿と聖女アトラビアンカを救いますか?」
冷え切った枢機卿の視線が、バーダロンに向けられる。まるで剃刀で神経を逆撫でされたような気がした。彼女にとってそれは、激痛すら覚える問いかけだった。
その様子を見て、マルムスティーンは冷笑を浮かべる。
「先のアルノルン事変の際、貴女があの業火の皇立病院でコヴァイン卿とアトラビアンカの最後を看取ったことは、既に私にも調べがついています。そしてあなた方がどのような関係であったのかも、ね」
過去の傷を刺激され、バーダロンは自分の血管が沸騰するような錯覚を覚える。しかし、話題の主導権を握られぬようにと、何とか平静を装って切り返した。
「……確かに私自身はその情報を公にしていない。だが、別に意図して隠していたことでもない。それがどうしたと言うのだ?」
そこで彼女は静かな憤怒を瞳に宿らせ、枢機卿を睨みつけた。
「いいえ、それ自体に特段深い意図はありません。ただ少し気にしておられるようでしたので、一つだけ、しっかりと明言しておこうと思いましてね」
枢機卿は冷たい声色で、そこに線を引くようにはっきりと答える。
「―――私はそれを踏まえた上でも尚、再び十二年前と同じ業火をこの国に放つつもりです」
「貴様……ッ!」
僅かの容赦も無い、まさに外道の如き発言に、バーダロンの怒りが燃え上がる。だが、枢機卿はそれを阻むように、力強い口調で言った。
「そして同時に、その業火を必ず鎮めるつもりです」
静かな迫力に、バーダロンは思わず言葉を飲み込んだ。
「もし、私が十二年前に今の権力を手にしていれば、時代は確実に変わっていたでしょう。私は自らの素性を躊躇いなく明かし、古の銃を手にとって旧帝派を全て駆逐していたでしょう。ビシャス卿も、グレン卿も、コヴァイン卿も、そして聖女アトラビアンカも救うことが出来た筈です」
枢機卿の口調に含まれているのは自惚れではない。確固とした自信だった。しかし、次の瞬間にはその表情に慚愧の念が宿る。
「―――だが、私はそのときは間に合わなかった」
心の底から悔やむように、彼は眉間に深い皺を寄せる。
「十二年前、私は世界を変え損ねたのです。だから次こそは、必ず変えてみせる。この世界を、時代を、国家を―――そう、あらゆるものを犠牲にしてでも」
その目に宿る戦火のような光に、バーダロンは戦慄した。同時に、彼女は自分の認識を改める。この男は自分を説得するつもりなのではない。脅迫するつもりなのだ。
―――目的の為ならば、自分はいくらでも無慈悲になれるのだ、と。
バーダロンは無言で唇を噛み、自分自身の無力さを痛感する。武器もなく、半ば囚われの身である今の自分では、この男を止めることができない。
しかし、そんな諦観を覚えながらも、彼女は思考を止めなかっった。まるで一足す一に二以外の答えを探すかのように、現状から枢機卿マルムスティーンの野望を阻止する方法を考える。それは彼女らしからぬ、非論理的な行為だ。
それでもただ、彼女は諦めたくなかったのだ。あの地獄のような硝煙と炎の世界を、仕方がないと受け入れるわけにはいかなかったのだ。
……だが、時間は決して無限に待ってはくれない。
一行はやがて街の石段を登り切り、目指していた教会の前に到達した。
その教会は、聖堂と呼んでも言い過ぎではないほど立派な建物だった。煉瓦造りの建物は鐘楼の天辺まで入れると二十フィート近くはあり、入口の上部には十字架に磔にされた男性の見事な彫刻像が備え付けられている。見るからに古い建物ではあったが、下の街並みとは異なり、歴史的価値を主張できる程度には無事のようだった。
入口の扉は内側から鍵がかかっていたが、騎士団たちは躊躇いなく拳銃で蝶番を破壊した。打ち破られた扉を踏みつけながら、冒涜者たちはその領域に足を踏み入れる。室内を見渡し、まず枢機卿が感嘆の声を上げた。
「これは見事な……」
アーチ型を描く天井には瀟洒な彫刻が施され、中世の名残のある白亜の支柱によって支えられている。しかし何より目を引くのは、正面に臨む祭壇だった。美しい紋様の施されたアンテペンディウムに覆われた石壇と、そこに鮮やかな光を落とす極彩色のステンドグラス。その調和は絢爛さではなく、より洗練された神秘性を感じさせた。
「まさか、殺戮の限りを尽くした暴君が、このような場所で復活することになるとは……いささか皮肉ですね」
枢機卿はそう言って苦笑めいた顔を浮かべる。その一方で、ゴルドは退屈そうに欠伸をしていた。
バーダロンは口を閉ざしたままである。もはや目の前の建築美に対して感動を抱く余裕はない。迫り来るチェックメイトを前に、彼女の心には絶望の翳りが見え始めていた。
「……おや、どうやら先客がいるようだ」
マルムスティーンが呟く。その視線の先、祭壇へ続く赤絨毯の途中に、修道服を纏った人影が倒れていた。護衛の二人が近づき、それを確認する。
「服装から此処のシスターのようですが、既に白骨化しています。風化による崩壊も確認できますので、死後十年近くは経っているかと」
その報告を聞いて、枢機卿はゆっくりと歩み寄る。そして遺体に屈み込み、小さな声で祈りの言葉を紡いだ。そこで、その遺体が抱えていたある物に気づき、それを取り上げる。
「これは……日誌ですか」
頁をパラパラとめくり、マルムスティーンは無作為にその中の一節を読み上げた。
「『生き残ったのは私だけだろうか。しかし、食料はもう既に無い。私も時間の問題だ。せめて最後まで神に祈ることにしよう。人ならざる姿で命を失った子供たちの為に。そして、いつの日か彼女に永久の安らぎが訪れんことを』―――ふむ、どうやらこのシスターが最後の生存者だったようですね」
マルムスティーンは遺体の頭巾を慇懃な動作で取り払い、懐から聖油の小瓶を取り出した。教皇庁式の十字を切り、それを遺体に振りかける。
「籠城の末に飢え死にされたようです。さぞ苦しかったでしょうに……諸君、黙祷を」
枢機卿に倣い、護衛たちも胸に手を当てて黙祷を捧げる。ゴルドは興味の無さそうな顔でそれを眺めているだけだった。
―――その傍らで、バーダロンは一人、奇妙な違和感のようなものを感じていた。だが、その正体が掴めず、彼女は眉を寄せる。
……何だ?
何かが、おかしいような気がする。
今の日誌の文章か……?
判然とはしないが、何かが―――。
根本的な何かが、間違っているような―――。
「さて」
祈りを終えた枢機卿が立ち上がる。そして護衛たちが運んできた棺に視線を向け、口開く。
「では、我々の儀式を始めましょう」
◆
手記に記されていたという隠し棚はすぐに見つかった。祭壇の下に幾何学模様が刻まれた小さな石が並んでおり、枢機卿はそのいくつかを迷い無く順番に押してみせた。すると、唐突に祭壇の側面が開き、そこに小さな空間が現れた。
「なかなかに童心をそそる仕掛けですね」
作った者を揶揄するように言って、枢機卿はその中に手を入れる。そしてしばらく手探りをした後で、小振りな革張りの箱を一つ取り出した。
それを祭壇の上に置き、慎重に蓋を開ける。そこには、小さなガラスの小瓶が納められていた。その場の一同の視線が、そこに集まる。
「これが、『最愛の霊薬』ですか……」
マルムスティーンがどこか緊張した面もちで呟く。それも当然だろう。このちっぽけな小瓶の為に、一小隊を率いて国の最果てまで遠征してきたのだ。
小瓶の中には、仄かに発光する翡翠色の液体が入っていた。小さな注射器一本分にも満たない量である。
枢機卿の瞳が、狂喜の色に染まっていく。それはやがて哄笑となり、聖堂に響きわたった。
「ふ、ふふふ、ふはははははっ!」
彼は小瓶を両手で持ち、天に掲げる。その表情に宿るのは恍惚と感謝だった。
「嗚呼、神よ。我が手元にこれを遣わしてくださったことに感謝いたします!」
その時だった。
枢機卿の隙を突いて、バーダロンが動いた。彼女はその手から小瓶を叩き落とそうと、枢機卿めがけて体当たりをした。
だが―――第零騎士団が、易々とそれを許そう筈もない。
「きゃっ……!」
騎士の一人に腕を捕まれ、バーダロンはそのまま床に組み伏せられた。衝撃と痛みに思わず声を上げる。口の中を切ったらしく、苦々しい鉄の味がした。
口の端から僅かに血を流しながら、バーダロンは憎悪の顔で枢機卿を見上げる。
「その薬を手離せ、マルムスティーン!」
枢機卿はその言葉を受けながら、余裕ある笑みを浮かべた。
「必死ですね、フォレスター先生。しかし、これで貴女の答えがはっきりしました」
次の瞬間、男の瞳が、まるで路上の石でも見下ろすかのように冷酷に細められる。
「あくまで我々とは相容れない、と。いいでしょう」
そしてマルムスティーンは地に伏すバーダロンに歩み寄り、その頭を自身の右足で踏みつけた。
「ぐっ……!」
苦痛と屈辱に喘ぐバーダロンを見下ろしながら、枢機卿は言う。
「先生にはまず、これより来る戦火と繁栄の化身をご覧に入れます」
両手を広げ、演技めいた仕草を見せるマルムスティーン。
「その後で、安楽ならざる方法でその命を絶って差し上げましょう。私に逆らったことを、冥府の果てでも悔いることが出来るように」
男の顔が、悪魔の笑みを浮かべる。
「そうですね……聖女アトラビアンカと同じように、銃弾で全身を打ち抜かれるのはいかがですか?」
バーダロンの瞳には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
それは痛みのせいではない。
感情が止めどなく溢れ出し、押さえようがなかった。
―――ただただ、悔しかった。
コヴァイン卿とアトラが願った世界を。
彼らの犠牲を。
すべて踏みにじられていくような気がして。
マルムスティーンは彼女の頭から足を下ろすと、祭壇へと踵を返した。
「棺を開け!」
枢機卿が騎士たちに指示を飛ばす。すぐさま棺の蓋が開かれ、そこに眠る死者が姿を表す。
かつてユナリアの大地を血で染めた、希代の暴君、レオネ。
埋葬の前に適切な処理が施されていたのだろう。その遺体は五体満足のまま、ミイラ化した状態で棺の中に眠っていた。
「王を祭壇へ!」
続く指示のままに、男たちは四人で慎重にその遺体を抱き上げ、深紅のアンテペンディウムが敷かれた祭壇に横たわらせる。その傍らで、マルムスティーンは黒衣の懐から一本の注射器を取り出した。そして手に持つ小瓶の蓋を開け、その中身を注射器の中に満たす。
「今こそ、我が大願の始まりの時―――愛すべきユナリアに災厄を、そしてその果てに、久遠の繁栄を!」
枢機卿の手にする注射器の針が、レオネの遺体の首もとに突き刺さる。そして……その中の霊薬が静かに遺体に吸い込まれていった。
その様子を見ていた誰もが、自分の目を疑った。
霊薬が投与されるのとほぼ同時に、遺体に大きな異変が起きた。ミイラ化して縮んでいた筈の身体が、まるで水を吸ったスポンジのように肥大化し始めたのだ。乾ききっていた皮膚がボロボロとこぼれ落ちると、その下から張りのある新しい皮膚が現れ始める。土気色だった肌に赤みが差し、その頭部には黄金色の髪が急速に生え始めた。暗い眼孔は瞼で覆われ、鼻と口、耳が肉厚さを取り戻していく。
注射器が空になった頃には、遺体は既に生前の姿を取り戻しつつあった。
「おお……」
枢機卿の口からも、そして護衛たちの口からも驚嘆の呟きが漏れる。ゴルドもまた、興味深そうにその様子を眺めていた。
それはまさに、この世のものとは思えない有様。
九〇年前に死んだ筈の人間が、現代に蘇る光景だった。
バーダロンを取り押さえていた護衛も立ち上がり、その事象を食い入るように見つめている。だが拘束が解かれても、バーダロンは立ち上がれなかった。立ち上がる気力が、無かった。
感情の氾濫の奥底からやってくる、暗闇。
かつてコヴァイン卿は死に際に言った。
―――我々の願った未来へ生きてくれ、と。
かつてアトラは死に際に言った。
―――幸せにならなくちゃ駄目だよ、と。
しかし、今。
自分の目の前で、絶望が立ち上がろうとしている。
未来を踏みにじる災厄が。
幸せを焼き尽くす悪夢が。
「―――諸君、平伏せよ」
枢機卿が壇上から降り、蘇る暴君を見上げながら謳う。
騎士たちはその場で膝を付き、祭壇を仰いだ。
衆目を浴びる中、ついにレオネの身体が動き出す。血と肉を取り戻した上半身を起こし、やがて両足を祭壇から床に下ろした。
それを見ながら、バーダロンはもはや、ただ願うことしか出来なかった。
誰か助けて、と。
あの怪物を止めてくれ、と。
この世界を、救ってくれ、と。
蘇る暴君を前にして、マルムスティーンが恍惚の笑みで口開く。
「―――不死王の帰還だ」
◆
その時だった。
男たちの間隙を射抜くように疾駆する、一つの黒い影があった。
それはまるで颶風のようにバーダロンの傍らを駆け抜けていき、刹那の後に枢機卿の黒衣を掠め、壇上の怪物に肉薄する。
誰もが驚愕の声を上げようとする前に、それは起きた。
起き上がり、静かに瞳を開けようとする暴君。
次の瞬間、疾走する影は。
その首を、雷光の如き一閃で斬り飛ばした。
驚愕。
混乱。
戸惑い。
疑問。
それらすべてが時の流れをせき止め、その場の者達はみな一様に息を飲む。
斬り落とされた皇帝レオネの首が地を打ったとき、ようやく時間が本来の速度を取り戻す。と同時に、残されたレオネの身体に異変が起きた。
―――それはまるで、砂が風に飛ばされていくかのようだった。
首を失ったレオネの身体が、その王衣だけを残して細かな粒子となり砕け散っていく。腕から肩、胸、腰、そして脚へ。瞬きを一度挟むうちに、暴君は物言わぬ塵となって崩れ落ちた。最後に、地に落ちた皇の首がまるで劣化した硝子細工のように呆気なく砕け散る。
「な、何、だと……」
マルムスティーンが驚愕と苦悶に表情を歪め、呟きを漏らす。バーダロンですら、思考が追いついていなかった。
―――何が、起きた?
いや、この事象は知っている。読んだことがある。
そう、ネクローシス作用だ。不死の怪物を殺す、唯一の方法。
理解できないのは、目の前の事象を成し得た物が何なのか。
この現象を起こし得る者は何なのか。
壇上で事を成し終え、血まみれの鉄剣を携えて立ち尽くす人物。
視覚が捉えるその情報と、現状がうまく結びつかない。
……何故、生きている?
手に持つ鉄剣の刀身すら、自らの血で真っ赤になるほどの出血量だ。貫かれたのは間違いなく心臓、致命傷だった筈だ。
それなのに、何故?
「……よぉ、気分はどうだい?」
沈黙する一同の中から、場違いな程に享楽的な声が響いた。声の主、ゴルドはくつくつと笑いながら、喜色に染まった瞳で壇上を見上げる。
「思ったより早いお目覚めじゃねぇか」
その言葉を受けて、壇上の人物は憎々しげな舌打ちを漏らした。
「最悪だ。よりにもよって、お前に寝かしつけられるなんてな」
倦怠と苛立ちの混じった、その口調。
人違いではないことを理解した瞬間、バーダロンの思考を貫く一筋の閃きがあった。それはこれまでのすべての伏線を光の速度でつなぎ合わせ、一つの可能性を導き出す。
砕け散ったレオネ、それを成すことの出来る存在、血に染まった鉄剣、ネクローシス作用、怪物化した子供たち、町から逃げた三人、ランスロットの墓、となれば残りは二人―――生き残っていたのは、二人!
論理が迸り、バーダロンの脳内で即座に仮説が組み立てられる。
人間を不死にする薬、『最愛の霊薬』を投与されたという、アタヘイの十三人の子供たち。それらは霊薬組成の失敗により、すべて怪物と化した。
だが、もし仮に。
もし仮に、そのうちの一人が真の成功作だったとしたら?
副作用を発症せずに、これまで生き延びていたのだとしたら?
怪物にはならず、人間の姿のまま、不死性だけを保って、これまでの十年間を人間社会の中で生きてきたとしたら―――!
その仮説を補強する要素を、バーダロンはこれまでの全ての旅路からかき集める。
そうだ、そもそもの認識を疑うべきだったのだ。
魔の山の不死の怪物。
―――あれは本当にアーサー・トゥエルヴなのか?
その論拠はアーサーの父親が書いたとされる手記だ。しかしその父親は、どうしてあの怪物をアーサー・トゥエルヴと判別した? 全身を攻殻に覆われ、異貌と化した外見から息子の面影を読みとったとでもいうのか? いや、違う―――その論拠は不死性、ネクローシス作用の序列だ。
『最後まで生き残っているのは、序列の最高位に位置する存在である』
そう、それこそが間違った認識だったのだ。仮にアーサーが怪物化しなかったとしたら、この論理はいくらでも覆せる。
では、あの不死の怪物の正体は何だ?
先ほどの修道女の日誌にはこう書かれてあった。いつの日か『彼女』に永久の安らぎが訪れんことを―――。
そう、『彼女』だ。
最後までアーサーと行動を共にしていた人物。
怪物化した子供たちから、アーサーが最後まで守った人物。
……そして、アーサーが唯一殺せなかった人物。
そう―――ペリノア・ゼロ。
嗚呼、そうだ。
あの宿場町の雨の夜、彼はこう言っていた。
己が愛したという人のことを。
『最後まで生きられなかった』
その言葉の論理としての真意を測り損ねた。
最後まで生きていない……それはつまり『死んでいない』。
いや、『死ぬことができていない』という意味なのだ。
そして今、皇帝レオネを殺すことが出来るのは、アーサー・トゥエルヴの血のみ。それを成し遂げた男の鉄剣は、自身の血で染まっている。
だとすれば。
だとすれば……。
「悪い」
目の前の男―――たった今、かつての皇帝に二度目の死を与えた傭兵は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「待たせたな、バーダ」
「そう、か……」
バーダロンはようやく辿り着く。
これまでの旅の真実に。
彼が背負ってきた罪に。
この物語の、本当の意味に。
溢れ出す感情の波濤に一筋の涙をこぼしながら。
小説家は、傭兵のかつての名を口にする。
「―――おまえが、アーサー・トゥエルヴか」
一瞬だけ哀しげな笑みを見せて、ソードはこくりと頷いた。




