〈三十九〉毒麦の一房
マルムスティーンは至って平静としていた。少なくとも、この予期せぬ遭遇に対して焦燥や苛立ちを抱いているようには見えない。その落ち着き払った様子が、よりいっそう不気味だった。
「ご健勝のようで何よりです、フォレスター先生。いやはや、しかしこの山道は私のような老体にはなかなか堪えるものでしたねぇ」
と、マルムスティーンは社交的な笑みを浮かべながら、大きく疲労の吐息をついた。よく見ると黒衣の裾は泥で汚れ、所々が解れてしまっている。
それを見て、バーダは皮肉げに口元を歪めた。
「こんな場所にまで正装でお越しとは、猊下の敬虔さたるや、その精神性を疑うほどに常軌を逸していますね」
しかし、バーダのそんな挑発的な言葉にも、マルムスティーンは微笑を崩さなかった。彼は静かな声色で答える。
「これも国務ですからね。立場上、衣装を乱すわけにはいきませんよ」
バーダの片方の眉が訝しむように上がる。
……国務、だって?
かつてバーダが言っていたマルムスティーンの系譜が脳裏を過ぎり、俺も少しばかり混乱した。つまり彼があの暴君レオネの末裔であるとして、国家転覆などという野望を画策しているのだとしたら、そんな単語が出てくる筈がない。
「失礼、少しばかり着座させていただきますよ。足腰がもう辛くてね」
苦笑しながら言って、枢機卿は躊躇いもなく傍らの棺の上に腰を下ろす。あまりに冒涜的な行為に、俺は思わず面食らってしまった。
しかし、隣のバーダは特に驚いた様子はなかった。表情をやや強ばらせたまま、彼女は単刀直入に問う。
「ーーーその棺に入っているのは、誰だ?」
「ユナリア旧皇帝、レオネの遺体です」
あっさりと答えるマルムスティーン。祖先への思慕のような情など微塵も持ち合わせていないかのような口振りだった。俺とバーダはお互いに視線を交わし、推測が当たっていたことを密かに確認し合う。
それを見たマルムスティーンが、納得するかのように何度か頷いてみせた。
「……なるほど、なるほど。さすがはフォレスター先生。その様子を見ると、これも想定の範囲内というわけですね。相変わらずあなたの推察力は実に卓越している。先生の中では、既に今回の件の脈絡がすべて繋がっているのでしょう」
その賞賛に、大して嬉しくもなさそうにバーダは再び鼻を鳴らした。
「ふん。そう言う貴方も、この状況は既に理解しているようだが」
「いえいえ、理解できたのはたった今ですよ。今思い返してみれば、モントリアではまんまと裏を書かれたわけですね。いやはや、不覚でした」
そこでマルムスティーンの視線が俺を向いた。
「ところで、そこの君。煙草は持っていますか?」
突然の問いに俺は戸惑った。逡巡した後で小さく首肯を返すと、枢機卿は満足げに頷いた。
「それは僥倖。私のは道中で切れてしまいましてね。では、枢機卿命令です。その煙草を一本、私に献上しなさい」
突拍子もない命令に、俺はまた一瞬鼻白む。しかしすぐ冷静になって無言を貫いた。取り巻きの連中から軽く殺気が向けられたが、俺は微動だにしなかった。
枢機卿はしばらく、そんな俺を微笑のまま見つめていたが、やがて小さく吐息をついた。
「ーーーふむ、残念です。もう少し利口な方かと思いましたが」
分かりやすく神経を逆撫でされ、思わず俺の口から乾いた笑いが漏れる。
「ハッ、単純に、あんたにヤニを分けたくないだけだ」
と、俺はそこで初めて言葉を返す。その不遜な返答に六人の銃口が俺に向けて上げられるが、俺は怯まなかった。尻目で見やると、彼らの横ではゴルドが可笑しそうにくつくつと笑っていた。
「やめなさい」とマルムスティーンは部下に指示を飛ばし、銃口を下げさせる。「先を急く必要はありません」
……先を急く、ね。
つまり、俺らを始末するのは時間の問題ってことか。
辟易した気分で、俺は首を小さく左右に振った。
事実、冷静に考えれば状況は絶体絶命である。兵力差は一対七、おまけに向こうの一人はあの人格破綻者のゴルド・ボードインだ。ここまで絶望的な要因が重なると、泣きたいのを通り越して笑い出したくなる。
枢機卿は棺に腰掛けたまま両足を組み、自らの優位性を誇示するかのように、ゆっくりとした口調で言う。
「いくつか質問をしましょう、フォレスター先生。慎重にお答えいただくことを推奨いたします。さすれば、少しばかりはあなたの人生が長くなるかもしれません」
一方で、しかしバーダは毅然として言葉を返す。
「聖職者らしからぬ陳腐な脅し文句だが、謹んでお答えしよう枢機卿閣下。その代わり、貴方の真の目的についても私にご提示いただきたいのだが、宜しいだろうか?」
「ふむ、それはつまり冥途への手向けとして、ですかな」
「単なる私の答え合わせだ」
バーダがつまらなそうに答えると、マルムスティーンは吹き出した。
「ははは、さすがはフォレスター先生。窮地であるにも関わらず、実に落ち着いていらっしゃる。いいでしょう、私もお答えします。ただし、条件があります」
そう言って、枢機卿は得意げに指を一本立てた。そこで再び俺を見やる。
「重ねて命じます。煙草を一本、献上しなさい」
バーダの表情が憎々しげに歪む。俺も何か言い返してやろうかと思ったが、バーダが「耐えろ」という視線を送ってきたので、仕方なく押し黙った。屈辱的な気分で煙草を一本取り出し、指先で放る。枢機卿はそれを受け取ると、再び満足そうに頷いた。
奴はあくまでもこちらを自分の意に従わせたいらしい。ゴルド並みに性根の曲がった野郎だ、畜生が。
マルムスティーンは自分の金細工のライターで煙草に火を点けると、実に美味そうに紫煙を吸い込んだ。大きく煙を吐きながら言う。
「さて、それでは答え合わせといきましょう。お互いの、ね」
◆
枢機卿を取り囲む六人の男たちは身じろぎ一つせず、各々の銃口を俺たちに向け続けていた。そのうちの二人は顔面に痛々しい絆創膏が貼られており、心なしか俺を見る目にも怨蹉の色が見える。顔は覚えていないが、おそらくモントリアの街で俺と一戦交えた連中だろう。しかし、最初にスミスと名乗った男はその中に見あたらなかった。ゴルドが言っていたように、未だにあの街で俺の幻影を追っているのかもしれない。
「まずはフォレスター先生の目的について、聞いておきましょうか」
変わらず棺を玉座代わりにしながら、枢機卿が問いかけた。バーダは落ち着き払った様子で、事務的に答える。
「数日前にアルダナク連邦の亡命者と面会する機会があり、この滅びた街の話を聞いた。此処に来たのは作品の取材の為だ」
「実に好奇心旺盛な先生らしい理由ですね」
「ああ、我ながら恨めしいほどの好奇心だよ」
自嘲するバーダを前に、枢機卿の瞳に冷たい冴えが入った。
「それで、それを知っている人間は他にいますか?」
俺は固唾を飲む。わざわざそんな質問をする意図は、どう考えても不吉なものでしかない。下手に答えれば、俺たちの身の回りの人間にも害が及ぶ可能性がある。しかし、バーダは狼狽など微塵も見せずに答えた。
「いない。当然だろう。小説家にとって次回作のネタは秘中の秘、公言するなどあり得ない」
「ふむ、なるほど」
その嘘を信じたのか否かは、枢機卿の表情からは読みとれなかった。
「では質問を変えます。私の件についてはどこから気づいていたのですか?」
「枢機卿ジェームス・マルムスティーンが我々と同じ目的地を目指している、そう確信したのはモントリアの街だ」
その返答に、枢機卿は照れ笑いのようなものを浮かべて頭を掻く。
「いやはや、あの街ではしてやられましたよ。おかげさまで部下の何人かは未だに足止めを食っています。帰りに拾っていかねばなりませんね」と、マルムスティーンは自嘲的に漏らす。「しかし、あの街で斯様な罠を張っていたということは、その段階で先生は私に何らかの疑いを持っていたことを意味しますね」
バーダの表情が少しだけ強ばったように見えた。
「ーーー重ねて問います。私、枢機卿マルムスティーンを警戒し始めたのはいつからでしょうか?」
その質問にバーダは初めて言い淀む。一拍遅れて俺も気づく。そもそもバーダが枢機卿を警戒したのは、ヴィリティスの忠告があってこそだ。それが無ければあの迎賓館前での奴との会話も少し変わっていたかもしれない。それを正直に答えるということは、ヴィリティスにまでこの男の魔手が伸びかねないということだ。
バーダは答える。
「イクスラハからの道中で出会った旅人から、枢機卿らしき人物を見たという話を聞いた。疑念を持ち始めたのはそれからだ」
「嘘ですね」
即座にマルムスティーンは言い放った。
バーダが無言でいたのはわずか三秒程度。しかし、枢機卿が虚偽を見抜くには充分だったというわけだ。冷徹を装っていたバーダの顔に、苛立ちの色が射す。
「フォレスター先生、虚偽はお勧めしません。私の前ではあまり意味をなしません。仕事柄、そういったことには慣れておりますので」
穏やかにそんな諫言を口にする枢機卿を前に、バーダは歯噛みする。
「……嘘か否かの判断は猊下にお任せする」
彼女の口か出たのは、そんな苦し紛れの返答だった。マルムスティーンはしばらくその顔を見つめた後で、にっこりと微笑んだ。
「なるほど。それでは、これだけは聞いてください」
一つ咳払いを挟んでから、奴は言う。
「レイフ・リズナー、トレント・クロード、アンディ・ミルカトラス、ヴィリティス・ナイツ、ナイジェル・リー、ヘレナ・ヘレナルビンスタイン」
突然列挙された名前に、俺は面食らう。バーダもその顔に戸惑いを見せていたが、一瞬後に何かに気づいたような表情を浮かべ、悔しげに眉を寄せた。それを確認して、マルムスティーンは勝ち誇ったように言う。
「考えられ得る、現状で私にあまり良い印象を持っていない者たちーーー言うなれば私、ジェームス・マルムスティーンの潜在的な叛逆者予備軍の名前です」
それを聞いて、バーダは唇を噛む。
「ふふふ、先生のその表情でだいたい見当がつきました」枢機卿の顔が愉悦に染まった。「第十四騎士団士長のヴィリティス・ナイツですね、あなたを手引きしたのは」
俺は愕然とする。ヴィリティスの名前が出た瞬間のバーダの刹那の感情の揺らぎ。おそらく枢機卿は、それを表情から読みとったのだろう。
ジェームス・マルムスティーンが枢機卿の地位まで上り詰めた最大の要因は三つ。演説力、先導力、そしてその人並み外れた人心把握術だと噂では聞いていた。しかし、実際に目の当たりにしてみて、俺は驚愕を通り越して戦慄してしまった。これはもはや読心術の領域だ。
枢機卿は尚も続ける。
「ナイツ士長は表層的には私に従順ですが、それは単に役職上の儀礼的なものです。目を見れば私にはだいたい分かりますからね。なかなか辛いものですよ。目を見て、その人物が私をどう思っているのか分かってしまうというものは」
そこで、枢機卿は軽く苦笑を挟んだ。
「フォレスター先生、貴女は滅びた廃墟の目撃情報だけで、こんな場所まで足を運ぶような方ではありません。貴女が常に欲しているのはロマンとミステリーだ。それは逆説的に、此処に貴女を強烈に引きつける要素があったのです。最愛の霊薬、十三人の子供たち、人体実験、そして不死の怪物アーサー・トウェルヴ。貴女は此処に来る前からそれらを知っていた。違いますか?」
バーダは答えず、沈黙を貫く。枢機卿の弁は止まらない。
「それらは亡命者がユナリアに持ち込んだ極秘資料に書かれていたもの。その情報を横流しできる人物は貴女の修道院時代の親友、ヴィリティス・ナイツしかいません」
「……すべてあなたの推測の範疇に過ぎないな」
バーダが呆れたような口調で言う。しかし、その演技は目の前の男には通用しなかった。
「推測の範疇で充分ですよ。疑わしきは罰す、が私の方針なのでね」
次の瞬間、バーダの瞳に怒りの炎が燃え上がった。敵愾心を全身から迸らせ、彼女は言い放つ。
「ーーー私の友人に手を出してみろ。そのときは貴様の正体を世界中に公言してやるぞ、暴君レオネの末裔……!」
枢機卿は静かにその口元を歪めた。それは、これまでとは異なる不敵な笑み。その漆黒の瞳の深淵には、まるで業火の如き野心が垣間見える。
「ーーー結構です。ただし、今後その機会があればの話ですが」
それは、知らぬ者が聞けばあまりに衝撃的な発言。マルムスティーンの言葉は、暗にバーダの推理の正しさを証明している。つまりこの男は今、自身が旧皇帝の血を引いた人間であることを認めたのだ。
二人の間で無音の火花が散る。
その一触即発の空気を先に納めたのは、枢機卿の方だった。
「まぁまぁ、一度落ち着いてください、フォレスター先生。本音を申し上げれば、実は私は貴女と敵対したくはないのです」
その言葉は『状況によっては容赦はしないが』という念押しにも聞こえた。枢機卿は続ける。
「こちらの事情をはっきり申し上げましょう。私が今こうしてイヴィルショウにいること、それを知ってしまった時点で貴女方は最優先で排除せねばならない対象です。しかし、その一方でフォレスター先生は現代を代表する文豪、そのような人材を失うことはユナリアの大きな損失だ」
このような状況でさえなければ、この小説家は満更でもない顔を浮かべていただろう。しかしこのときのバーダは腕組みをしたまま、仏頂面で切り返した。
「見え透いた媚び売りは不要だ」
枢機卿はその仮面のような微笑を崩さず、答える。
「では正直な話を。実は人間一人の隠蔽というのは途方もない労力が必要なんです。ましてや、貴女ほどの人物を秘密裏に始末するというのは非常に困難です。事故死に見せかけたとしても、新聞社などの野次馬が真相を探ろうとするでしょう。遺体の見つからない行方不明、といった形にしても同じこと。むしろそこからこのアタヘイの街まで辿り着かれ、あまつさえ私の計画に気付く者が現れるのは避けたい。あらゆる危険因子は除外したいのです」
「……それで、結論として貴様は何が言いたい?」
バーダがしかめっ面で問い返すと、マルムスティーンはやんわりとした笑顔で答えた。
「取引ですよ、フォレスター先生。こちらの要望は貴女を私の陣営に取り込むこと。その代わり命を保証する。いかがでしょうか?」
そこで俺は思わず口を挟んだ。
「ハッ、つまり殺されたくなきゃ言うこと聞けってことか。まさに暴君の末裔らしい脅迫だな」
俺が呆れ半分に言うと、マルムスティーンは失笑のようなものを漏らした。
「勘違いされないでいただきたい、護衛の剣士さん。この交渉はあくまでフォレスター先生に向けたものです」
……ああ、そうかい。
思わず乾いた笑みが俺の口元に浮かんだ。
つまり俺には交渉の余地無し、ということらしい。俺一人ぐらいの隠蔽だったら労せず出来るってわけだ。くそったれが。
俺が内心でそう腐っている横で、バーダが口開く。
「私を懐柔したいらしいが、それもまた難儀だと思うがな、枢機卿。少なからず私も貴様を良くは思っていない。軍門に下ったふりをして、いつ反乱を起こすか分からんぞ」
彼女の瞳に宿るのは、あくまでも叛逆の炎だ。しかし、マルムスティーンはそれを否定するように首を左右に振った。
「貴女はそんなことはしませんよ。ヴィリティス・ナイツが生きているうちはね」
バーダが舌打ちを漏らす。既に我々の内情は見透かされ、状況は圧倒的に奴の方が有利だ。マルムスティーンはそこで張りつめた空気を弛めようとするかのように、右手をひらひらと振った。
「脅迫めいたことを言ってすみませんね。しかし、まぁ、聞いてください。確かに上辺だけの取引では、貴女の反抗心を消すことは出来ないでしょう」
そこで、奴の瞳に鋭い冴えが入る。
「ですから、これから私は貴女を全力で説得いたします。私の真の目的を包み隠さずお話します。聡明な貴女であれば、それが『これ以降の歴史』において如何に重要であるか、容易に理解出来るはずだ」
枢機卿の言葉には並々ならぬ自信が含まれている。バーダはその意味を汲み取る一呼吸分の沈黙を挟んでから、口開いた。
「……なるほど、包み隠さず、か。つまり今度は私の方の答え合わせ、というわけだ」
「ええ。貴女が抱いている疑問に、すべてお答えします。こちらの手の内をすべて公開するつもりです」
バーダはそこで腕組みを解き、大きく吐息をつく。目の前の男に対する反抗心を一旦鞘に戻し、冷静さを取り戻したのだろう。
「了解した」とそこでバーダは居住まいを正した。「質問はこちらからしても?」
「もちろんです」
「そうか……では順番に、まずは確認事項から聞かせてもらう」
枢機卿も組んだ足を解き、傾聴の姿勢を見せる。咳払いを挟み、バーダが問いかける。
「ーーージェームス・マルムスティーン、貴方はかつてのユナリア皇国皇帝、レオネの子孫で相違無いな?」
「ええ、間違いありません」
枢機卿は一部の躊躇いすら見せず首肯する。バーダが続けて問う。
「困窮した傭兵の仕業に見せかけ、イクスラハで旧皇帝の墓を暴いたのも貴方だ」
「はい」
「自らその遺体を担いでこのような場所まで来たのは、この山でしか培養保存が出来ない不死の薬『最愛の霊薬』を求めて。その狙いは旧皇帝の遺体への投与、そして蘇生。違うか?」
「仰る通りです」
「それでは」バーダの瞳が研ぎ澄ますように細くなる。「その『最愛の霊薬』の実存、そして所在を貴方たちは把握しているのか?」
「はい、把握しております」
その言葉に、俺は思わず身を乗り出してしまった。第零騎士団の連中が俺に合わせて銃口を上げるのを見て、冷静さを取り戻す。そして、俺は自身の思慮の浅はかさに唇を噛んだ。
よくよく考えれば当然だ。何の確信も無く枢機卿がわざわざこんな場所まで赴く筈が無い。それに早く気付くべきだった。
怪物の存在に気を取られすぎたことが悔やまれるーーー俺は何よりもまず、『あの霊薬』を先んじて排除しておかねばならなかったのだ。誰かが第二、第三のアーサー・トゥエルヴを生み出す前に。
一方でバーダは特に驚いた様子もなく、淡々と質問を投げかけていた。
「では、その霊薬は何処にある?」
その問いに、枢機卿は街の上層にある教会を指さす。
「あの教会の祭壇下の隠し棚に」
「その情報の源は?」
「先生はご存じないようですが、先のアルダナク連邦の亡命軍人から徴収した資料は全部で七冊あったのです。その中に最後の霊薬の保管場所が記されておりました。亡命者からの聴取で建物が実存していたことも確認されておりましたので、こうして旅団を動かして山道を登ってきた、というわけです」
「しかし、旧皇帝の遺体は九〇年も昔のものだ。霊薬がその対象にも効力があるという確信は?」
「徴収資料のうちの一冊は研究者の記録で、その中にはミイラ化した野鼠に投与した際の結果が載っておりました。同様の人体への効能について明確な記載が無いので、幾分は賭けの部分もありましたが、研究経過全般とそれらの文脈から判断し、決断した次第です」
そこで、枢機卿はおどけるように両肩を竦めてみせる。
「そういえば、それらを踏まえるとこの山には霊薬を投与された不死身の鼠が何匹がいる、ということになりますね。生態系に影響が無ければいいのですが」
バーダはその戯れには応えず、呆れたように吐息をついた。
「裏付けと言っても、賭けの割合が強すぎるだろうに。しかも猊下御自ら同行されるということは、今件はよほど極秘の国務であるらしいな」
揶揄するようなバーダの視線を受けながらも、枢機卿は無言で微笑を浮かべるばかりだった。その沈黙を回答と捉えたのか、バーダは話題の方向性を変える。
「では、仮に旧皇帝の蘇生が成功し、先のアーサー・トゥエルヴと同様に怪物化した場合の対処については、何か想定をしているのか? それとも、それ自体が狙いか?」
「ふむ」と、そこで枢機卿は考え込むような仕草を見せる。「そうですね、その部分について答えるには、まず私の真意からお話するのが分かりやすいのですが……いいでしょう。まずは端的に、その質問に対する答えを提示します」
マルムスティーンは右手の指を一本立てた。
「まず第一に、私の狙いは旧皇帝の怪物化ではありません。あくまでもこの時代に皇帝レオネが蘇生することです。逆を言えば、怪物化しようがしまいが、あまり関係はありません。まぁ、当分は人間として活動いただきたいという希望はありますが」
そこで二本目の指が立てられる。
「第二に、怪物化した際の対処方法については想定しております。単純な話、駆除です」
「しかし、不死身の怪物をどうやって……」
「その為に、私は彼を雇ったのです」
バーダの言葉尻を押さえ、マルムスティーンは傍らのゴルドを指さした。奴は得意げな顔で、抜き身のままの自分の得物を目の前にかざしてみせる。その刀身は、先ほどの怪物の血で赤く染まっていた。それを見たバーダがハッとする。
「そうか……アーサーの血、ネクローシス作用か」
「ご明察です、フォレスター先生」と、枢機卿は一人乾いた拍手を送る。「有事の際は、この血を用いて旧皇帝を再び抹殺します」
バーダの右手が自身の顎先に当てられ、その頭の中で思考が目まぐるしく回転しているのが見て取れた。彼女は言う。
「不死の序列としてアーサー・トゥエルヴの下に位置するように霊薬を投与するつもり、ということか。つまり、アーサーに霊薬が投与された場所も把握している、と?」
「ええ、それもすべて件の資料の中に。あの教会の更に上に病院施設があるそうです。此処から見えないところを考えると、どうやら病院というよりも先の実験の為に作られた秘密の研究施設、といったところでしょうか。お察しの通り、その場所よりも高度の低い場所で旧皇帝の遺体に霊薬を投与する予定です」
バーダはそこで俯き、しばし沈黙を挟んだ。その表情には「いくつかの疑問がようやく腑に落ちた」という納得の色が浮かんでいた。顔を上げ、再び彼女が問いかける。
「目に見える疑問については理解した。では根幹の部分ーーー私を説得できるという部分ついて聞かせてもらおう」
「ええ、かしこまりました」
マルムスティーンはゆっくりと棺から腰を上げた。両者は改めて向き合い、敵対する。バーダが言う。
「今一度問う。貴様の真の目的は何だ、マルムスティーン」
「一言で言えば私が目指す理想の為……」
枢機卿の瞳に、煌々とした炎の揺らめきが見えた気がした。
「国家、国土、そして国民の未来の為です」
◆
「私が目指すものは、一房の毒麦を許容できる世界です」
と、マルムスティーンは語り出した。
「フォレスター先生に一つ問題です。未来永劫の生産性を備えた麦の品種があるとします。保存性が高く、汎用性が高く、栽培も容易な、まさに理想の品種です。しかしその代わり、その品種は年に一度、一房だけ毒の麦穂を実らせます。さて、生産者はこの麦の栽培をするべきでしょうか?」
バーダはその問いの真意を探るようにしばらく沈黙していたが、やがて諦めたように答えた。
「……『人』として答えるのならば否だ。しかし、このメタファーの論点はそこではないのだろうな」
「ご明察」枢機卿は満足げに頷き、指を一本立てる。「社会を担う人間としての正解は、是です」
バーダの表情に嫌悪が宿る。しかし、枢機卿は構わず続けた。
「完全なる社会とは、麦畑の中に紛れた一房の毒麦の存在を許容できる社会です。すなわち、圧倒的大多数の繁栄の為に自身を含む個のリスクを享受できる精神性をすべての人間が獲得した世界。それこそが、私の求める理想世界です」
「暴論だな」とバーダが言葉を返す。「それはゼネラルな観点に基づく独裁的な思考だ。貴様が見ているのは他者ではない、国民ではない。国という『システム』だけだ。そんなものが民主主義国家の方針として掲げられる筈がない。第一、国民がそれを許す筈がないだろう」
「ええ、今は、ね」
マルムスティーンの口元に自信ありげな笑みが浮かぶ。眉をひそめるバーダに、奴は再び問いかける。
「ところで先生。話は変わりますが、教会が行政機関として一国を執り仕切っていく為に最も必要なものとは、いったい何だと思いますか?」
唐突な質問に俺が訝しんでいると、バーダが端的に答えた。
「権威、か」
その回答に枢機卿は満足げに一度頷く。
「その通り。そして教会の権威とは即ち民の信仰ーーーその衰退は国家基板をそこに依存する国の存亡に関わる。先見あるフォレスター先生ならば既に気付いている筈です。此処数十年の我が国の工業技術の大いなる発展と、それが成す唯物主義の跋扈を」
そこでバーダは皮肉げに口元を歪めた。
「確かに相性は良くないな。私も、蜂蜜菓子をエールで飲み込まねばならぬような時代だと感じていたよ」
「貴女はやはり小説家にしておくには勿体のない方だ。政に向いておられる」
「鳥肌の立つ冗談だ。政治にこそ私は勿体ないよ」
枢機卿はバーダのそんな業腹な嘲りを無視し、言う。
「今のこの国はあまりにも脆弱です。国家基盤となる教会の信仰はもはや形骸化しているにも関わらず、民衆は惰性でその教えに従っている。工業技術の発展を『前進する息吹』と称されながらも、根幹は旧時代のままです。全くもってロジカルではない。このままでは世界の大きな流れに耐えることが出来ません。北方をご覧なさい」
と、マルムスティーンは山脈の尾根の向こう側に目を向けた。
「此処から数十マイル離れた場所では、今この瞬間にも多くの血が流されています。無数の銃弾が幾人もの命を奪い続けているというのに、です」
俺も連られて同じ方角を見上げた。そして、その彼方、アルダナクの地で戦い続ける名も知らぬ兵士のことを思った。間違いなくそこでは、今も誰かが死に続けているはずだった。しかしそれはこのユナリアの地では、非現実的な物事のようにも思えた。
マルムスティーンは更に力説する。
「アルダナク連邦の内乱、更に東大陸では資源問題に端を発する武装蜂起が始まっているーーー自我の芽生えた国家が武器の意味を知り始めたのです。このままいけば、いずれ大戦が起こります。国家間の諍いなどではない、地上のすべてを飲み込むような、『世界大戦』がね」
「……集団的自衛権同士の衝突、か」
バーダがぼそりと呟き、枢機卿が頷いた。
「その通りです。さて、ではその時、我が国は生き残れるでしょうか」
言いながら枢機卿は我々に背を向け、両手を大きく広げてみせた。まるでそこにユナリアの全国民がいて、彼らに強く訴えかけるかのように。
「他の国家が列強を組み、我が国への侵略に踏み込んだらどうなるでしょう? 銃の扱いすら知らない錆びついた甲冑の騎士が、この国を守れるとでも? 信仰という名の盾が砲弾を弾いてくれるとでも?」
そして振り返り、右手で作った拳を自身の体の前で強く左手に打ち付けた。感情を露わにして、彼は言う。
「否、断じて否。砲弾を防ぐ術などありません。あるとすれば唯一つ、砲手を先んじてこちらの砲弾で撃ち抜くしかないーーーそう、国家を根底から変えねばならない時が来たのです。この国に必要なものは今や教皇の指し示す指先ではない、外敵に向ける銃口だ」
「……旧皇帝がその銃口になると盲信しているのか、貴様は?」
バーダの問いを、マルムスティーンは鼻で笑い飛ばす。
「まさか。今のこの国は、時代の亡者一人に変えられるほど単純ではありませんよ。これは単なるきっかけに過ぎません。そう、『毒麦の一房』を民衆に認めさせる為の、ね」
バーダの表情が陰鬱そうに曇った。かつて彼女が口を噤んだ、枢機卿の真の目的……暴君レオネを復活させる理由。それを思い出したのか、彼女の唇がひとりごとを紡ぐ。
「……いくつか想定はしていたが、最悪のパターンだ」
「皇帝レオネの復活は旧帝派の起爆剤です。戦争に必要なものは大義名分、そしてそれが形作る『正当なる暴力』です。何のことか、もう既にお分かりでしょう」
枢機卿の言葉に、バーダが憎々しげに応える。
「銃砲王権法……!」
男の口元に、酷薄な笑みが広がった。
「そう―――『ユナリア合衆教皇国の銃火器の使用は永遠に皇帝一族のみが保有する』。その古からの法に則り、彼らは皇帝指導のもとに武器を取るでしょう。九十年前に数多の命を食い破った、鉄の武器をね」
一迅の冷たい風が吹き抜ける。そんな中、男は黒衣の裾をはためかせ、力強く言い放った。
「しかし、それを更なる『正当なる暴力』をもって阻止する! 皇帝一族の末裔たる、この私の指導をもって!」
ようやく俺にも全容が見えてきた。
奴は暴君レオネを、いや、これまでユナリアを律してきた『銃砲王権法』を使って、強引に銃火器の有用性を国に指し示すつもりなのだ。
「絶望的な状況下で、私の銃弾―――そう、アーサー・トゥエルヴの血が塗られた銃弾が、旧皇帝を撃ち抜く。そのとき、群衆はようやく理解するのです」
理解する、いや、理解せざるを得ないだろう。
これからの時代には銃が必要であることを。
たとえ、日々の営みの中に命の危険が増えようとも。
それこそが、ジェームス・マルムスティーンが言う『毒麦の一房』。
国の更なる繁栄に必要な、個のリスク。
「先生もご存知の筈です。群衆を動かすのはドラマだと。これは私の作る一つの演劇なのです。この国に更なる麦の豊穣をもたらすための、ね」
「その為に、自分の祖先の遺体まで利用しようってのか?」
俺が口を挟むと、枢機卿は真摯な表情で言った。
「そうです。祖先への思慕など、私の愛国心の爪先にも満たない感情です。私の責務はただひとつ―――ユナリアの真なる繁栄のみだ」
その瞳に狡猾さや邪悪さは一切無い。それはこの国の未来を心の底から憂う、聖人の瞳だった。
故に、俺は戦慄する。
こいつを駆り立てているのは、論理によって研ぎ澄まされた異常な愛国心だ。
自らの祖先の墓を暴き、あまつさえその遺体を利用し、自らの手で再び殺す。それは人としての禁忌を、いや、人が人であるための最低限の境界線を大きく逸脱している。
この男はきっと一〇〇人の民衆を救うために九十九人を殺すだろう。
一人のユナリア人を助ける為に数百の他国の人間を殺すだろう。
自国を守るためならば世界中すらをも業火で焼き尽くすだろう。
そのあり方は独裁などといった生易しいものではない、もはや狂奔だ。
畏怖と共に、俺は改めて目の前の黒衣の男を見る。
―――枢機卿、ジェームス・マルムスティーン。
こいつはアーサー・トゥエルヴなんかよりもよほど化物じみた存在だ。不死の怪物ならぬ、まさに思想の怪物。
やがて、バーダが少し俯いたまま口を開いた。その声色は驚くほどに冷え切っていた。
「……自ら戦乱を引き起こし、自らそれを終結させる。要約すれば、それが貴様の目的か?」
対して枢機卿はやんわりと首を左右に振って否定する。
「その言い方では語弊があります。私はただ、国家という鋼を打ち直すだけです。更に強靱な鋼鉄を作り上げる為に」
「だが、それでいったいどれほどの人間が死ぬと思っている?」
バーダのその質問を前にして、枢機卿は失望したように吐息をついた。
「フォレスター先生、それは論点が違います。確かに戦乱となれば多くの国民が犠牲になるでしょう。それは私も心が痛い。ですが、それ以上の未来の国民を救うことが出来るのです。理想郷政策などという生ぬるいものではありません。ユナリアの強国化は必ずや国民の暮らしを豊かにします。貿易の優位性、工業技術の発達、そして如何なる国にも侵攻され得ぬ恒久的な平穏。私のこの計画で、今後いったいどれほどの繁栄がもたらされるとお思いですか?」
「―――そうか」と、バーダは再び静かに答えた。「貴様の言い分は充分に分かった」
顔を挙げたバーダの瞳には、決意が宿っていた。
その瞳の奥に記憶された、紅蓮の情景。
彼女の最愛の師と友人の死。
その世界を再現させようとする、目の前の男に対する感情。
俺は何も言わずともそれを汲み取ることが出来た。故に、俺は無言のまま鉄剣を構える。
途端、空気が冷たく張り詰め、周囲の男たちが銃口を引き上げる。
そんな中でバーダは真っ直ぐに枢機卿を睨み付け、言う。
「私からの回答を提示しよう、マルムスティーン枢機卿。私は貴様の考え方には賛同できない。理解すらできない。したくもない」
枢機卿の顔から笑みが消え、残忍さすら伺える無表情が宿る。
だが彼女は―――我が主、バーダロン・フォレスターは怯むことなく一歩を踏み出した。怪物を目の前にして、彼女は言い放つ。
「故に宣言しよう」
右手で空を振り払い、谷を駆ける風に黒髪をたなびかせ。
その瞳に、強い意志を宿しながら。
「―――貴様のシナリオは、このバーダロン・フォレスターが書き換える」




