〈三十八〉アーサー・トゥエルヴ、其の二
戸棚の奥からは、似たようなスクラップブックが大量に出てきた。どれもこれもかなりの年代物で、いくつかは手に持っただけで装丁が解け、バラバラになってしまった。バーダはその中の何冊かを自分の背嚢に詰め込んでいた。
「その出鱈目な新聞も持ち帰るのか?」
俺が半ば呆れながら言うと、バーダは当然のように頷いた。
「これがこの街の創作物であるなら、保護に値する立派な文化的遺産だ」そして瞳に冴えを走らせ、付け加えるように言う。「仮に―――創作物でなかったとしても、な」
彼女の言葉の真意を計りかねていると、やがて階段から二人分の足音が聞こえてきた。二階を探索していたハプワス大佐とエズミだ。
「二階も荒らされて滅茶苦茶でスね。特に価値のありそうなものは見あたりまセんでした」現れた大佐が残念そうに言う。「宝石の一つでもあれば良かったのでスが……」
彼は荷物の大半をこの山の強行軍の過程で失ってしまったらしい。亡命先での生活を考えるなら、此処で何かしら先立つ物が欲しいところなのだろう。
ハプワス大佐は頭を掻きながら苦笑した。
「こんなコトを言うと、まるで火事場泥棒のようデ、あまり気は進みませんガね」
それを聞いて横目で見やると、隣の火事場泥棒は素知らぬ顔で目を逸らした。まったく、逞しい女だ。
「他の民家ももう少し探索したい所だが、時間もあまり無いな」
後続の枢機卿の一団を思い出しているのか、バーダの口調は憎々しげだった。
「仕方ない、とりあえずは既に場所が分かっている教会に行ってみよう。道々で病院施設の場所が分かればそちらも……」
と、そのときだった。俺は思わず全員の動きを制止するように右手を掲げた。
「しっ、静かに―――」
緊張が走り、全員が押し黙る。目配せをすると、ハプワス大佐が沈黙のまま頷きを返した。どうやら俺の聞き間違いではないらしい。
外から、砂利を踏みしめるような音が聞こえたのだ。
「……隠れていろ、確認してくる」
バーダとエズミに小声で言って、大佐には目線で彼女らの護衛を訴えた。すべてを了承するように彼が頷くのを再度確認して、俺は腰元の鉄剣の柄を掴んだ。慎重な足取りで出口に向かう。
……正直、頭痛はまだ続いている。
体調としては決して万全とは言えないだろう。
だが、既に此処まで来てしまったからには、今更出直すことなど出来ない。
覚悟を決めて、俺は出口から外に出た。
「え……?」
そこで、思わずそんな言葉が俺の口からこぼれた。
灰褐色の街並み。
そして―――そこを行き交う無数の人々。
狩りの獲物を自慢げに見せびらかす男。
洗濯物の籠を頭に乗せて歩く女。
軒先で編み物をする老婆。
どこかから漂ってくる料理の匂い、人々の笑い声、そして歌。
目の前に広がっていたのは、在りし日のアタヘイの街の姿だった。
呆然とする俺の傍らを、数人の子供たちが駆け抜けていった。その後ろ姿を追って思わず振り返ると、一人が立ち止まってこちらを見つめていた。
亜麻色の髪を肩口で切り揃えた、十三歳くらいの少女。
先ほどの写真で見たのと、まったく同じ姿。
彼女は俺の方に手を差しだし、言う。
『早く行きましょう―――アーサー』
瞬間、俺の背筋に怖気が走る。
その言葉の向かう先は、俺の背後だ。
そこに居る存在を感じ取って、俺は戦慄した。
咄嗟に振り返ると、俺を取り囲んでいた白昼夢が砕け散る。視覚が取り戻すのは、滅びたアタヘイの街並みだ。
その世界の中心、俺から二〇フィートほどの距離を置いて、奴はそこに立っていた。
黒褐色の刃の鎧を纏った、人の姿。
頭部の至る所からも攻殻が突き出し、その顔立ちは既に判然としない怪物と化している。辛うじて刃の隙間から覗く瞳は、どす黒い深淵を宿していた。そして首も、胸も、腕も、手も、胴も、腰も、脚も、爪先まで、黒光りする刃が覆う。
その、異貌。
ああ―――忘れるものか。
その姿を、忘れてなるものか。
俺の存在をその瞳に捉え、奴は仰け反るようにして天空に咆哮した。
「嗚呼亜嗚呼阿嗚呼亜嗚呼阿嗚呼ッ!!!!!」
―――魔の山の不死の怪物。
実に、五年ぶりの再会だった。
◆
最初に俺の思考に走ったのはただひとつ、この場から逃げることだった。一刻も早く護衛対象からこいつを遠ざけねばならない。自分のことはその次だ。鉄剣も抜かぬまま、俺は奴の目の前を横切るようにして大地を蹴る。
しかし次の瞬間には、眼前に怪物の顔があった。
その後方、先ほどまで奴が立っていた石畳が砕け散り、空中にまだ瓦礫が浮かんでいるのが垣間見える。
まるで悪夢のような身体能力に、俺は絶句する。その一瞬の隙を獣は見逃さなかった。横薙ぎに振るわれた刃の豪腕が、俺を直撃する。
「くっ……!」
咄嗟に俺は鉄剣を鞘ごと引き上げて、その一撃を防御した。しかしその圧倒的な膂力は、俺を大地につなぎ止める重力を易々と引きちぎる。
俺の身体は猛烈な勢いで弾き飛ばされ、脆くなっていた廃墟の壁を三枚ほどぶち破ったところでようやく静止した。
瓦礫に埋もれながら、俺は血反吐を吐く。身を起こそうとすると全身の骨が軋み、胸部に激痛が走った。肋骨にヒビが入ったようだが、腕の骨が折られるよりマシだと思うしかない。
瞬間、肌がひりつくような殺気を覚え、俺は身体に鞭打って飛び起きた。一瞬後、先ほどまで俺の頭があった場所に、獣の両腕が轟音と共に着弾する。飛び散る床石と砂埃に目を細めながら、俺は無様に地べたを転がり距離を取る。
先ほどの強襲に耐えられなかったようで、俺の腰の鞘は砕けて粉々になってしまっていた。鉄剣の刀身が無事なのが唯一の救いだが、このまま防御に徹していれば折れるのは時間の問題だ。
体勢を整え、得物を構える。怪物は先ほどの俊敏さとは打って変わり、のっそりとした動作で俺を振り向く。
アタヘイは切り立った絶壁の街だ。俺たちは街外れの崖っぷちで、改めて対峙した。傍らの足下には、覗き込むだけで背筋が冷たくなるほどの断崖が広がっている。足を滑らせでもしたら、一〇〇フィート以上はある崖下まで真っ逆様だろう。
故に、その考えが俺の頭を過ぎったのは至極当然だった。
―――この崖から、奴を突き落とす。
今の俺が最優先すべきはあの小説家の護衛だ。こいつを殺すという俺の目的は、あくまでもその責務に付随する副次的なものに過ぎない。ならば今は何より、奴をこの状況から除外することを目標にすべきだ。
汗ばむ手で剣を握りながら、俺はその戦略を画策する。しかし、奴の身体能力が尋常ではないことは、先ほどの攻防で分かり切っている。突き落とすと言葉で言うのは簡単だが、実際は容易なことではない。
「嗚呼阿嗚呼亜嗚呼ッ!」
動き出さない俺に痺れを切らしたのか、奴が再び咆哮した。次の瞬間には、叫び声の残響を置き去りにして、あの馬鹿げた跳躍力で俺に肉薄してくる。
「ちぃっ!」
悪態をつきながらも紙一重で右腕を交わし、更に左腕を交わしたところで、次なる右腕の刃が俺を捕らえる。余儀なくして俺は鉄剣を引き上げた。
繰り出される刃の連撃を、刀身で軌道を逸らすように受け流していく。その一撃一撃がまさに必殺の威力。本能で予測せざるを得ない猛攻に、俺の神経が千切れそうになる。少しでも力の入れ加減や方向性を誤れば、鉄剣の方が叩き折られてしまうのだ。
掠れた金属音の連続。それと同時に、俺は少しずつ後退を余儀なくされる。反撃に転じる余裕など刹那ほども生み出せない。先ほどから視界にちらついている金属的なきらめきは、おそらく俺の鉄剣が削られて舞い散る切片だろう。
畜生、このままじゃ剣が持たねぇ……!
ならばどうする?
直撃をギリギリで避けながら、俺は脳味噌が焦げ付くほどの勢いで思考する。そんな中、脳内にもう一人の俺の声が響いた。
―――何故、剣を振るわない?
背筋がざわめくような、そんな自問。
―――何故、殺意を抱かない?
―――俺はこいつを『殺したい』んじゃなかったのか?
ああ、そうだ。
殺せるものなら、とっくに殺している。
だが、この状況でどうしろっていうんだ!
―――それはただの言い訳だ。
―――本当は俺自身が、殺さなくていい理由を探しているだけだ。
違う! そんなんじゃない!
そんなんじゃ……!
―――俺はずっと、答えを先延ばしにしてきたんだ。
―――だから、あの小説家の前で話せなかったんだ。
―――本当に心に決めていたら、話すことができた筈なんだ。
それは……。
―――だから俺は。
―――アーサーを『殺したい』のではなく。
―――本当は。
奴に『殺されたい』んじゃないのか?
「くっ……そぉぉぉぉッ!」
その問いかけを振り払うようにして、俺は鉄剣を振りかざした。
しかし、それは決断ゆえの反撃ではない。
むしろ、蛮勇にすらも劣る愚行。
代案の無い、ただの拒絶だった。
……それが、目の前の悪夢に届くはずがない。
刹那、右手が握っていた鉄剣の感覚が、消える。
俺に生まれた一瞬の隙を突き、奴の右腕が鉄剣を弾き飛ばしたのだ。鉄剣は折れこそしなかったものの、俺の手を離れて放物線を描き、一〇フィート先の大地に突き刺さった。
冷静さを欠いたことで生まれた、絶望的な状況。しかし、不思議と焦燥は無く、逆に妙な虚脱感が俺を飲み込んだ。それは心の深奥から滲み出す、諦観という名の汚泥―――世界がその速度を落とし、俺の耳に届く音が消えていく。
眼前に振りかざされた刃の腕が、ゆっくりと振り落とされる。視界の片隅には、駆けつけてきたバーダの姿が見えた。俺の名を叫んでいるようにも見えたが、もはやその声はここまで届かない。
俺は心の中で、彼女に謝罪する。
すまない、バーダ。
あれほど言われたのに俺は結局、決断することが出来なかった。その先の後悔を覚悟することが出来なかった。
だが、せめておまえだけは。
どうか、おまえだけは……!
俺は両腕を広げ、怪物の攻撃を受け止めようとする。
そのまま奴の腕を、全身で取り押さえる為に。
そして奴を―――崖下に道連れにする為に。
せめて最後に、護衛としての責務を果たそうとした、その時だった。
「はははははははははァッ!」
静まりかえった俺の世界を打ち砕く、歓喜に満ちた哄笑。
刹那―――金色の暴風が、眼前の獣を一撃で吹き飛ばした。
金属が砕けるような甲高い音、そしてその一瞬後に、怪物の身体が一〇フィート先にある廃墟の壁に激突する。それはもはや斬撃というよりも、砲撃と言っても過言ではない一撃。
驚くべきことに、吹き飛ばされた獣の胸部には一本の太刀傷が刻まれていた。しかし、眼前に現れた男の刀剣には、ひび一つ入っていない。つまり鋼鉄の剣で、その三倍の強度を誇る攻殻の獣に打ち勝ったということになる。にわかには信じられない、まさに人外の芸当である。
こんな馬鹿げたことが出来る人間を、俺は一人しか知らない。
舞う砂埃の中に降り立ち、その男は猛禽のような瞳をぎらりと輝かせる。
「五年間だ。待ちわびた、待ちわびたぜぇ……!」
その口元に浮かぶは、捕食者の残忍な笑み。
「さぁ、楽しい殺し合いの時間だ」
その男の名は、ゴルド・ボードイン。
―――人の姿を得た、殺意の化身だった。
◆
ゴルドは俺を一瞥すると、蔑むように鼻を鳴らした。先ほどの狂人めいた歓喜の表情とは打って変わり、それはあまりに冷ややかな視線だった。
「無様だな、ソード」
辛辣な言葉に、俺は無言で苦虫を噛む。だが疲弊し、鉄剣すらもその手に握っていない俺の姿は、まさに無様と言うしかない。そんな俺を半ば睨みつけるように見下ろしながら、ゴルドは続けて吐き捨てる。
「―――結局、てめぇはその程度かよ」
その言葉には、強い失望が表れていた。俺を見るその顔には、いつもの嫌みったらしい笑みすら無い。
屈辱に似た感情を覚えながらも、しかし俺は何も言い返せなかった。やがてゴルドは興味を失ったように背中を見せ、怪物に向き直る。
「もういい、黙って見てろ。あいつは俺が喰らう」
その宣言の言葉尻には、既に喜色が宿り始めていた。ゴルドはその愛剣―――長さにして一フィート半もある細身の剣を下段に構え、更に体勢を低く傾ける。そして次の瞬間には、さながら銃弾の如き勢いで大地を蹴った。
一方、身を起こした獣もまた、全身のバネを使って特攻してくる。
片や鋼鉄よりも硬い攻殻を全身に纏った怪物、そして片や、鎧すら身に纏わぬ刀剣一本の人間。それだけ見れば、激突の結果は火を見るよりも明らかに思われる。
しかし―――。
再び周囲に響きわたる、金属が砕けるような甲高い音。
ゴルドの放った一閃は、迎え撃つ獣の右腕に炸裂し、その刃の豪腕を虚空に斬り飛ばした。
それを見た俺とバーダは再び驚愕に息を呑む。人間の振るう鋼鉄の武器が『牙持つ獣たち』が持つ攻殻を叩き斬った。それが二度目ともなれば、もはや偶然などではない。
「駕嗚呼亜嗚呼阿嗚呼阿嗚呼亜嗚呼ッ!」
大絶叫が渓谷にこだまする。怪物は残った片腕でのたうち回るように地面を這い、斬り飛ばされた右腕の元に駆けていった。ゴルドは敢えてといった様子で追撃はせず、満足げな笑みを浮かべて言う。
「こいつは東大陸よりさらに果てにある、小さな島国で打たれた剣だ。幾千の業火と金鎚で打たれた鋼鉄は玉鋼と呼ばれ、研がれた刃は金剛石すら両断する、って言われていてなァ」
ゴルドは怪物の血に染まった愛剣を高く掲げてみせた。
「その中でもこの『ヘシギリハセベ』は最上級の一振りだ。てめぇを叩き斬りたいが為に、苦労して手に入れた逸品さ」
あの剣は二年ほど前、ちょっとした仕事の過程でゴルドの手に渡ることになった武器だ。
曰く、斬撃を『受ける止める』ことを捨て、ただひたすらに『断ち斬る』ことに特化した武器。その刀身は俺の鉄剣よりも細く華奢で、一見すればかなり脆そうにも見える。事実、扱い方が悪ければこの類の剣は容易に折れてしまうらしい。しかし一方で、こと切断という行為においては、大陸中の鉄剣をいくら集めても敵わないほどの斬れ味を誇るという。
斬られる前に斬る、を信条とする持ち主にまさにうってつけの武器というわけだ。
そこで、俺は思わず膝を着く。折れた肋骨が今更になって突き刺すように痛み出したのだ。苦渋に顔を歪める俺のもとに、バーダが駆け寄って来る。その手には先ほど弾き飛ばされた俺の鉄剣が抱えられていた。
「ソード! 大丈夫?」
心配するように覗き込むバーダ。剣を受け取り、それを杖代わりにして俺は立ち上がる。額に脂汗が浮かべながら、俺は苦言する。
「馬鹿野郎、なんで出てきたんだ……!」
「あんたが心配だったからでしょ!」
彼女の瞳はあくまでも真剣だった。傭兵が護衛対象に心配されるとは、とんだ笑い話だ。
「……大佐とエズミは?」
「大丈夫、先に隠れてるわ」
俺は吐息をつく。ハプワス大佐のような人物がバーダ一人を置いて身を隠す筈がない。おそらくこいつは彼の言いつけを破って飛び出してきたのだろう。
まったく、性根が歪んでいる癖に、とことんまでお人好しな女だ。
バーダが表情に冴えを戻し、怪物の方を見やる。
「あれが魔の山の怪物、アーサーなの?」
俺は何も言わず同じ方向に目を戻した。右腕を失い地べたを這いずる怪物の姿は、先ほど俺を死線まで追いつめた者とは思えない。その憐れみすら誘う姿には、不死の怪物の威風など感じ取れなかった。
バーダの視線が、悠然と立ち尽くすゴルドに向けられる。
「ゴルド・ボードイン……何者なの、あの男?」
「……ただのイカレた戦闘狂いさ」
「まるで鬼神の強さよ。あの怪物に以前敗北したというのが信じられないわ」
バーダの言葉に、俺は顔をしかめながらも頷く。
「俺たちが敗走したのは、もう五年も過去の話だからな」
単純な話だ。
その五年間は、奴がこの人外じみた強さを得るには充分すぎたのだろう。
そして一方で―――俺が覚悟を得る為には、短すぎた。
先ほどの一方的な戦闘を思い出し、俺は不甲斐なさに歯噛みする。
「嗚呼阿嗚呼亜嗚呼唖ッ!」
再び、怪物の絶叫が空気を震わせた。奴は先ほど切断された右腕を左手で掴み、まるで再び繋ぎ合わせようとするかのように、その切断面を傷口に押し当てている。
「まさか……!」
傍らのバーダが息を呑み、刮目した。
我々の視線の先で少しずつ怪物の出血が止まっていき、やがてその右手の指先がぴくりと微かに動いた。それは自然の摂理から明らかに逸脱した現象。切断された腕の自己回復だった。
「あれが『最愛の霊薬』の効果、不死の力……!」
ものの数十秒も経たぬうちに、斬り落とされた腕は再び怪物の意のままの物となっていた。怪物は動きを確認するように右手の拳を開閉させ、攻殻の爪が擦れ合う無骨な金属音を周囲に鳴り響かせる。
それを見たゴルドが、再び獰猛な笑みを口元に浮かべていた。
「安心したぜ。試し斬り程度でくたばられたんじゃ、わざわざ遠路遙々やってきた甲斐が無いってもんだからなァ」
喜びと殺気を同時に放ちながら男は再び剣を構え、それに答えるように怪物が咆哮する。
「何回斬っても死なねぇんだろ? それじゃあ」
言いながら、ゴルドの体勢が低く沈む。
「―――俺が満足するまで殺してやるよ」
◆
ゴルド・ボードインという男の強さを根底まで突き詰めれば、それは『最善手の高速選択』ということになる。相手の動きを先読みして、それに応じる最善の攻撃を放つ。狂人の如き性格とは正反対に、その戦闘姿勢はあくまでも基本に実に忠実だ。
常人と違う点があるとすればただ一つ、奴の『最善手』が極端に高い水準に設定されていることだ。
曰く、銃を撃たれそうになったら撃たれる前に殺す。撃たれてしまったら銃弾が当たる前に殺す。そして仮に銃弾が当たってしまったら、死ぬ前に殺す。本人に言わせればそういうことらしい。
理屈の上では、確かにそれらが最善手であることは理解は出来る。だが、あまりにも暴論めいた極論だ。それを実際に為すことの出来る人間がどれだけいるだろうか。その理屈が要求する能力は、常人が会得するにはあまりに高すぎる。
だが、ゴルドはそれらを事も無げに為す。如何なる状況においても、その理屈を実現して見せる。笑いながら、苦労の色など微塵もなく。そして何より、躊躇いなど刹那ほども見せずに。その有り様を一言で説明するとすれば、こう言わざるを得ないだろう。
戦闘の天才。
認めたくはないが、つまりはそれがゴルド・ボードインという傭兵だった。
―――ゆえに、その戦局は当然の展開だった。
一方的、と表現するのが適当だろう。手数は明らかに怪物の方が多く、遠目ではゴルドがその猛攻に耐え凌いでいるように見えなくもない。だが実際、怪物の攻撃はすべて紙一重で回避されており、それに連なり返されるゴルドの刃が、確実に怪物の牙の鎧を削っていた。
しかもその一撃一撃が、残虐とも呼べるほどの正確さだ。
ゴルドの放つ刺突はさながら雷光の如き速度で、攻殻の鎧の隙間から幾度と無く怪物の体を貫いていた。この怪物がもし通常の生物であったならば、既に少なくとも三回は絶命しているだろう。
やがて、四撃目の一閃が怪物の心臓を貫いたとき、とうとう怪物の膝が崩れ落ちた。絶え間なく刻まれた致命傷に、回復速度が追いつかなくなったのだろう。
「信じられん……」傍らでバーダが呟いた。「先ほどの腕の再生速度から推察するに、怪物化した状態の回復力は先の手記に書かれていたデータよりも遙かに強いはず……しかし―――」
驚愕と感嘆の瞳が、ゴルドに向けられる。
「あの男の殺意は、それすら喰らい尽くすというのか……!」
血塗れの剣を携えながら、金髪の男は小さく吐息をつく。眼前に屈するかつての仇敵を見下ろし、やがて大きな声で笑い出した。
「はは、はははははははははははァッ!」
その顔に浮かぶのは、恍惚の表情。
「いやァ、背筋が冷える瞬間が結構あったぜ。なかなか楽しめたなァ」
怪物の全身の攻殻は少しずつ回復し始めていた。戦意もまだ失っておらず、殺気だった唸りを上げながらゴルドを睨みつけている。しかし、一方のゴルドは構えていた剣を下ろした。
「もういいぞ、俺は満足した」
戦意を放棄する、というより、見逃してやる、といった口調だった。あまりに高飛車な言い分だったが、奴にはそれを言うに足る強さがある、というのが現状だった。
しかし、怪物にはその言葉を理解する知能は既に無かった。再び立ち上がり、刃の両腕を広げて戦闘態勢を取る。それを見て、ゴルドが嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「おまえの気持ちは嬉しいが―――時間切れ、だ」
……時間、切れ。
その単語の意味を理解したとき、背筋に走る怖気を感じた。俺は咄嗟にバーダを抱えて飛び退く。
不覚だ。疲弊していたせいで頭が回らなかった。こいつが此処にいる時点で気づくべきだったのだろう。目の前でゴルドが繰り広げる戦闘に見入ってしまっていた自分を恨む。
そう、俺はその瞬間まで気づかなかったのだ。
背後からやってきていた、無機質な殺意の軍団に。
「―――撃ちなさい」
初老の男の声が、静かに響いた。
続くようにして、複数の銃声が谷に木霊する。それは俺が数日前に耳にした音よりも、遙かに大きな爆発音。次いで、怪物の全身が爆炎に包まれた。
「嗚呼唖嗚呼亜嗚呼ッ!」
怪物は炎に包まれながら絶叫する。その叫びを打ち消すかのように、今度は乾いた銃声が連続した。銃撃に押し負けるように、怪物は後退していく。
やがて、その足が崖際の最後の大地を踏み損ね、重力が奴を捕らえる。
次の瞬間、魔の山の怪物は炎で全身を焼かれながら、崖下へと墜落していった。
「ふむ、東歐製の焼夷弾というのは、想像以上の威力ですね」
遠のく断末魔を背景に、その男は涼しい顔で言った。柔らかな微笑を浮かべながら、彼はゴルドを見やる。
「少し時間が押していましたので、手を打たせていただきました。しかし、君のその血塗れの剣を見るに、目的は達せられたように見えますね」
「ああ、不満は無いさ。どうせ奴を殺すことなんざ出来ないからな。これで勝負に勝った、ってことにしてやるよ」
ゴルドは特に気にした風でもなく、飄々として首を竦めてみせる。
現れたのは、黒い法衣を纏う初老の男。そして、黒い軍服を身につけた六人の男たち。彼らは一様に、銃口から煙立つ施条式ライフルを構えていた。その足下には、少し小振りな黒塗りの棺桶らしき箱が置かれているのが見える。
そこで、黒衣の男はこちらを―――俺と小説家の方を、改めて向き直る。
「……いやはや、予想外の対面ですね。これは先生の作品並みに意外性のある展開だと思うのですが、いかがでしょう?」
男の口調は実に穏やかだったが、その瞳に宿る光は鋭利に冷え切っていた。対して、バーダは鼻を鳴らして言葉を返す。
「―――ふん、私に言わせれば三流作家が描くプロットだ」
「おや、これは手厳しい」
くつくつと笑いながら、奴は小さく頭を垂れる。
「改めまして、お久しぶりです。フォレスター先生」
まるで道端で出会った知人に挨拶をするかのように。
「すぐに別れの挨拶をせねばならないのが、実に残念です」
黒衣の枢機卿―――ジェームス・マルムスティーンは、そう言った。




