〈三〉最厄の友人
翌朝、身支度を整えて北広場の教会へ向かった。下宿先を出るとき、いつものように鉄剣を腰に下げていくべきか迷ったが、結局はやめておいた。今の俺は傭兵でも何でもないし、町中でこんなものが必要になる機会などまず無いだろう。荷物になるだけだ。
下宿先のあるイクスラハ湾岸の商業区から内陸に向けて通りを一本進むと、巨大な石壁造りの灰色の建物が見えてくる。二年前に出来た大陸横断鉄道の停車場、イクスラハ中央ターミナルだ。
ターミナル周辺はいつの頃からか新商業区と呼ばれ、多くの商業施設が建ち並んでいる。店舗数は二年前のおよそ五倍にもなると言われおり、建造物の密集率はイクスラハの中で最も高い。おまけにこの一帯は古くから教会の管理する塔の数も多い為、古代建築と近代建築が同時に建ち並ぶ、街の中でも殊更に奇妙な光景が広がっている。
間近に控えた独立祭のおかげで、その街は更に彩りを増していた。それぞれの店先に飾られた一貫性の無い造花や極彩色の旗が目に痛い。独立祭はイクスラハの毎年恒例の行事のはずだが、今年の装飾は明らかに昨年よりもけばけばしさを増している気がした。おおかた、昨夜ヒュウが言っていた『聖女』の参列とやらに対する期待が過剰に反映されているのだろう。
ターミナル前の膨大な人々の雑踏を抜け、北側の一番街へ続く参道に入る。駅馬車の数が減り、代わりに一頭立てのカブリオレと呼ばれる馬車を多く見かけるようになる。
一番街は雑多な新商業区とは打って変わって、教皇庁の役職者や企業経営者など上流階級が住まう閑静な住宅街だ。整備された石畳に沿って並木が続き、建ち並ぶ全ての家々にはまるで決まり事のように青い芝生の庭がついている。俺のような人間には将来的にもあまり縁のない区画である。
その参道の突き当たり、大きな噴水のある広場に面して目的の中央教会はあった。
教会前の噴水広場は多くの人々でごった返していた。ざっと見る限りでも百人は下るまい。おそらくはそのほとんどが今日の教会騎士団選抜試験の説明を受講しにきた連中だろう。見渡してみると、その大半がどこかで見たことのある顔だった。ヒュウの予想は当たっていたらしい。
受付を済まそうと教会前の門の列に足を向けた、そのときだった。
「意外だなァ、オイ。こんなところにおまえが居やがるなんてよ」
その半笑いのような声に、俺は内心で舌打ちを漏らす。声の方を振り返ると、案の定、見知った顔がにやにやと笑いながら俺を見つめていた。
「よォ、二週間ぶりか? 久しぶりだなァ、ソード」
金髪を短く刈り上げた痩躯の男。口元にはいつものように不敵な笑みが浮かび、しかしその瞳は猛禽類のような鋭い光を宿している。
「……ゴルド」
傭兵組合時代の同僚、ゴルドだった。
なんだか出鼻をくじかれたような気分だった。気分が落ち込んでくる俺の肩に、奴は馴れ馴れしく腕を回してくる。
「オイオイ、せっかく大親友のこの俺サマと再会したってのに、随分とテンションが低いじゃァねえか? 何だ、生理か?」
「なるかよ、馬鹿野郎」
下卑た冗談に顔をしかめてゴルドの手を振り払うが、それでも奴の顔に浮かんだ笑みは消えなかった。
「相変わらずツレねぇなぁ」
「おまえも相変わらずだな」
苦虫を噛みながら俺はかつての同僚を睨みつける。
いつも軽薄そうな笑みを浮かべつつも、俺は奴の目が笑っているのをこれまでほとんど見たことが無い。この男の目に宿っているのは、いつだって獲物を探すような獰猛な光だけだ。
ゴルド・ボードイン。
かつて俺と同じ『夕陽の組合』に属し、そのトップであるハン首領に次ぐ実力を持っていた傭兵である。
いつの頃からかは分からないが、何故か俺はこいつに気に入られている。組合時代からことあるごとに俺に絡んでくる上、毎度のことのように任務に同伴させられたりもした。その度に俺は憂鬱な気分になったものだ。
敢えて言葉にすることでも無いかもしれないが、実は俺自身は昔からずっとこいつが苦手だ。何を考えているか分からない人間と一緒にいることほど、ストレスの溜まることは無い。
しかし、奴はそんな俺の気持ちなど全く意に介す様子は無い。幾度と無く俺の本音を、しかもかなり直接的に伝えてやったが、奴の姿勢は一向に変わらなかった。
この男がいったい俺の何をそこまで気に入っているのか、いつも疑問である。
「おまえは何してるんだ、こんなところで?」
「野鳥観察さ、この広場には鳩がたくさんいるからな」
小馬鹿にしたように言うゴルド。相変わらず人の神経を逆撫でするのがうまい男だ。
「くだらない冗談はいらないんだよ。まさかお前も団員試験を受けるつもりか?」
「『お前も』ってことは、ソード、お前は受けるんだな」
ゴルドは目を細めて嫌な感じに笑った。
失言だった、と俺は再び苦虫を噛む。
「てめぇ、冷やかしかよ」
「そう、まさに冷やかしだ」
底意地の悪そうに笑ったまま、ゴルドの視線は周囲の受験者たちを舐める。
「なに、昔の馴染み連中が再就職に汗水流すところが見たくてな」
いっそ清々しいほどに根性の曲がった男だった。
俺は吐き捨てる。
「だから俺はおまえが嫌いなんだよ」
「残念ながら俺はおまえのことが大好きだぜ」
俺の軽蔑の視線をゴルドは喰らいつくすような獰猛な笑みで受け止める。まったく、砂漠にジョウロで水を撒いている気分だ。
俺は呆れながら諫言を口にする。
「再就職が必要なのはおまえだって同じだろう。他人の不幸を笑ってないで、おまえも少しは真面目に生きたらどうだ」
「ソード、不幸っていうのは常に相対的なものだぜ。それは幸福であるものから見て、幸福ではない者の状況のことを言うんだ。俺の言っている意味が分かるか、ア?」
一拍遅れて、俺は愕然とした。
「次の仕事、決まってるのか?」
「おまえがこの街に戻ってくる一週間前にはな」
俺は思わず目頭を押さえて俯いた。つくづく神様っていうのは理不尽な野郎だ。何故、こんな性格破綻者に職があって俺は路頭に迷っているのだ。
「何の仕事だ?」
「傭兵時代とほとんど変わらねぇ、血生臭い仕事さ。良ければおまえにも紹介してやるぜ?」
一瞬沈黙を挟んでしまった自分を呪いながら、俺は首を左右に振った。悪魔の甘言だ。こいつの紹介する仕事がまともなものであるはずが無い。
「いらん。自分の道は自分で決める」
「立派だねぇ。だがこんなところに来てる時点で、いささか周りに流されているようにも見えるがなァ」
周囲を見渡してから、くっくっ、と笑うゴルド。俺は今日いくつ舌打ちを漏らせばいいのだろう。俺の口から出たのは、言い訳じみた理由だった。
「背に腹は変えられないだろ。綺麗事で世の中渡っていけるわけじゃないんだよ」
俺も周りの受験者たちを見ながら言う。誰もが傭兵時代に見たことのある顔ばかりだ。そんな連中が、今度は自分たちから職を奪った教会側に付こうと躍起になっている。つくづく、この現実とやらは美徳に欠ける世界だと思う。
「おまえも鬱屈してるなぁ。どうだ、ソード。俺と一緒にパーッと一発、反乱でも起こしてみるか?」
ゴルドが再び俺の方に腕を回してくる。
「手始めに大陸横断鉄道でもジャックしてよ、皇都に乗り込んでクーデターを起こしてやるんだ。傭兵上がりの仲間たちも連れてな。そうすりゃ……」
俺は目頭を押さえて盛大なため息をついた。こいつと思考回路が同じだったことが今日一番の鬱屈である。
俺はゴルドの腕を再び振りほどいて踵を返す。
「やりたきゃ一人でやってろ」
「余裕の無い奴だな。人生にはユーモアも大事だぜ、ソード」
ゴルドのそんな言葉を背に、俺は教会の入り口に向かう。あいつの言うユーモアとやらが、俺の持つ価値観と合致したことなど無い。今までも、そしてこれからも、だ。
教会の門扉の前には簡易な長机が置かれ、どうやらそこが受付所のようだった。そこには係員らしき男が二人座っており、青と白を基調とした制服姿から教会騎士団の団員であることが分かる。
そしてその二人の傍らにもう一人、異なる出で立ちの団員が立っていた。
それは陽光を照り返す銀色の鎧を纏った、女騎士の姿。
鎧と同じ見事な銀髪を肩口で切りそろえた、美しい女だった。兜は被っておらず、その涼しげな美貌を惜しげもなく衆目に晒している。細身の体躯ではあったが、その凛とした立ち姿から鎧の下の精練された肉体が容易に想像できた。
女騎士は冴えの入った鋭い瞳で、周囲に群がる受験者たちを睥睨していた。ゴルドのような飢えた獣のような視線ではない。この女の眼は獲物を選別する狩人のそれだ。
無意識のうちに身体の芯を微かに緊張させている自分がいた。
強さという概念は結局は相対的なものだ。それを計る物差しがあって初めて練度を理解できる。長年、その物差しを振るってきた俺にとって、目の前の人物の強さを推し量るのはさほど難しいことではない。
改めて見ると、鎧の胸元には十字の刻印、鎧の肩には三本の青い線が見えた。教会騎士団、士長の証だ。なるほど、プレッシャーが違うわけだ、と俺は一人納得する。
と、その女騎士と目が合う。睨まれた、と言っても過言では無いだろう。ゴルドならば口元をにやつかせながら睨み返しているだろうが、生憎、俺は奴よりも社会性に長けている。自然な動作で目を反らし、気にしない風を装って受付の名簿に自分の名前をつづる。
だがその間も、俺の全身には女の視線を感じた。
なかなか落ち着かないものだ。
おそらく、この段階から何らかの選別は始まっているのだろう。果たして俺の評価は如何なるものか。
受付を終え、要項の入った封筒を受け取って教会の中に入ろうとした、その時だった。
「そこのおまえ」
その女騎士から声がかかる。俺の前に受付を済ませた奴には何も声がかからなかった。見て取れる練度が、彼女に伝わったりでもしたのだろうか。
「名は何という?」
余計な返答は要らないと言わんばかりの、冷たく端的な問い。それに応じて俺は答える。
「ソード」
「姓は?」
「無い」
「無い?」
「十年前に無くしたんだ」
俺の答えに、僅かに女騎士の顔に感情が生まれた。目を凝らさねば見えないような、微細な揺らぎだ。
「そうか。詮索を詫びよう」
見た目に反せず、道義に厚い人物らしい。俺は軽く手を挙げ、気にしなくていいと意思を示す。
「俺が何か?」
「いや、靴紐が片方切れている。気をつけたまえ」
……あ、そう。
拍子抜けした気分で目をおろすと、確かにブーツの靴紐が片方解れて切れていた。昨日切れていたのとはまた別の、左の靴紐だった。
俺の口から、意図せずしてまた舌打ちが漏れた。