〈三十七〉廃都の幻影
林の小道に入ってから、すぐに鈍い頭痛がし始めた。周囲の空気はどこか濁っていて、景色も匂いも、そして音までもが不明瞭に感じられる。
セピア色の混濁。
その彼方から、小さな子供たちの声が聞こえるような気がした。
俺は思わず頭を振る。
幻聴だ。そんな筈が無いのだ。
「どうした、ソード。大丈夫か?」
バーダの声で、俺は我に帰った。途端に、先ほどまで俺を取り囲んでいた不確かなヴェールが霧散する。気づけばそこはただの林の中で、何処まで突き詰めてもただの現実でしかなかった。
「……ああ、何でもない」
そう答えながら、額に汗が浮かんでいることを自覚する。バーダは横目で俺の顔をしばらく見つめてから、言った。
「確認しておきたいことがあるんだ」
「何だよ」
「いや、私としては自分の目的が達せられればそれでいいんだが、この部分についてはお前の意思を尊重したい。可能か不可能かという条件は一旦保留にしておいて、な」
「だから、何だよ」
「―――お前は、アーサー・トゥエルヴを殺したいのか?」
それはまさに、核心を貫く問いだった。
殺す。
俺が。
アーサー・トゥエルヴを。
あまりにも直接的すぎて、あまりにも明白で、そしてある意味では馬鹿馬鹿しくすら思える命題。
それは思わず、笑い出したくなるほどに。
そう、結局のところ、それこそが俺がこの旅で出さねばならない結論なのだろう。
俺の口元には、自分でも分かるほどに冷え切った笑みが浮かんでいた。
「……そうだな。殺したい、いや、きっと殺さなきゃいけないんだ」
自らの右手を目の前で開き、その手がいずれ為すべきことを思う。
「俺がこの手で、あいつを」
バーダはしばらく何も言わなかった。ただ沈黙のまま俺の隣を歩き、やがて何かを諦めたように言った。
「―――そうか」
続く追求は無い。律儀にもこいつは、昨日の俺の約束を守ってくれているのだろう。すべてが終わったら話す、という約束を。
……もちろんそれは、終わらせられたなら、という仮定の上だが。
「昨夜も言ったが、今一度だけ言っておくぞ。これは忠告だ」
釘を刺すように、バーダが言う。
「後悔の無い選択肢など存在しない。必要なのは、その先の後悔を受け止める覚悟が出来ているかどうか、だ」
俺は何も言わない。彼女は続ける。
「覚悟の無い選択だけは、するなよ」
「……分かってるさ」
分かっている。
―――本当に?
そんな自問を無視して、俺は歩を進めた。
やがて林を抜け、旅の終着点が我々の前に姿を表した。
◆
滅びた街並みだった。
イヴィルショウ山岳地帯、その山間の斜面に並ぶのは、いくつもの灰褐色の建物の姿。それらは傾斜地を段状にした土地に建てられており、大小の差こそあれど、数は三十を下らない。いくつかの壁は崩れ、いくつかの窓硝子は割れ、いくつかの木戸は破られている。共通して言えるのは、そのすべてが既に滅びの運命を許諾しているということだ。
命の営みをすべて過去に奪い去られた、既に『終わってしまった』場所。
長い旅路の果てで俺たちを迎えたのは、そんな荒涼とした光景だった。
アタヘイ。
その全景が今、我々の前に広がっていた。
「本当に、あったのね……」
興奮して歓声でも上げるかと思いきや、バーダは落ち着いていた。信じていなかったわけではないだろうが、こうして改めて実在を確認したことに、まだ感情が付いてきていないのだろう。
「C'est incroyable……」
「まさカこれほど大規模な集落があるトは……」
エズミも、そしてハプワス大佐もまた、目の前の光景に呆然としていた。
一方、その横で俺は自分のこめかみに指を当てた。先ほど治まったはずの鈍痛が、此処に来てまたぶり返してきやがった。
……くそったれ、いったい何だっていうんだ?
俺はその煩わしさを振り払うように頭を振って、口開く。
「……とっとと済ませよう。マルムスティーンの件もある」
「あ、ああ。そうだな」
バーダが我に帰って頷いた。
林からの小道はそのまま集落へと続いており、我々はそのまま正面からアタヘイの街に足を踏み入れる。
段状に並ぶ街の最下段は石畳が敷かれた広場となっており、その中央には滑車が二基備え付けられた大きな井戸があった。バーダが手近にあった小石を投げ入れてみると、少しの間を置いてから水を打つ涼しげな音が響いた。
「ふむ、潤沢な水脈に当たっているらしい。住民の水源は此処でまかなっていたというわけか」
「しかし、この山の岩盤は相当堅い筈でス。これほど大きな井戸を、しかも精密な円形で掘削するにハかなり高い技術が必要ですガ……」
ハプワス大佐も不思議そうに井戸をのぞき込んでいる。
「噂通りの技術力、か」
そう言って、バーダは手近にあった民家の壁に手を触れる。砕けた欠片を眼前に持ってきて、しげしげと眺めた。それを指の間で擦り合わせてみる。
「建築資材は通常の消石灰よりも粘土分が多い。これは東歐由来の技術、水硬性石灰コンクリートで間違い無い。あの亡命軍人の話は本当だったようだ」
バーダの視線が再び周囲を巡り、やがて側にある建物に止まる。それは高さ二十五フィートはある石灰造りの小高い塔だった。入り口の鉄扉には、鋭い何かで抉られたような生々しい傷跡が伺える。
「そしてあれがおそらく、例の手記を書いた男―――アーサー・トゥエルヴの父親が最期にいた監視塔だろう」
バーダはそう言って、片手を胸に当てて小さく追悼の一礼を見せた。
俺は無言でその建造物を見上げる。荒廃しながらもまっすぐに天を突くその塔は、さながら墓標のようにも見える。頂上にある小部屋を見つめながら、俺もまた気づかぬうちに右手を左胸に当てていた。
彼の手記がバーダを―――俺を、この旅に誘った。
それがアーサー・トゥエルヴの父親だということに、皮肉な運命を覚える。
あの怪物を止めてくれ、と、そう言われているような気がした。
……感傷だな。俺らしくもない。
自嘲して、俺は煙草を一本口にくわえた。
「街の最頂部に続く石段があるな。その先にあるのは……あれは教会か?」
バーダの言葉に、紫煙を吹きながら視線を向ける。そこには明らかに周囲の建物とは趣が違う、煉瓦造りの建物があった。建物の屋根にはその象徴らしき彫刻が掲げられている。垂直と水平の直線が交差している、シンプルな彫像だ。
「―――十字架?」と、バーダの目が胡乱に細められる。「だが、ユナリア教皇庁のものと微妙に違う。どちらかと言えばあれは……」
「アルダナク連邦の丁字教団のものに似ていまスね」
と、ハプワス大佐が言葉を継いだ。バーダもそれに同意する。
「ああ。しかし、シンボルの頭頂部が突き出ている。正確な表現をするなら、ユナリア教皇庁の十字架をそのまま斜めにした、というべきかな」
バーダが考え込むように顎に手を当てて唸る。
「ふむ……ユナリアやアルダナクとも異なる、この集落独自の信仰があった、と考えた方がいいのか」
「実際にあそこに行ってみればわかるんじゃないのか」
俺が言うと、バーダが首を横に振った。
「そう急かすな。まずは街の住民たちの暮らしについて調べたい。メインディッシュはその後だ」
調子が戻ってきたらしく、そう嘯くバーダの瞳には、今や好奇心の光が爛々と輝いている。俺は半ばうんざりとした気分で紫煙を吹いた。
そういえば、傭兵組合に勤めていたときに、何度か依頼人の女の買い物につき合わされたことがある。まさに今の俺の心境はそのときに酷似していた。
「いくつか建物を調べよう。まずはそうだな、あそこからだ」
バーダの足が手近にあった一際大きな建物に向かう。
俺は思わず舌打ちを小さく漏らし、まだ長い煙草を足下に落として踏みつけた。浮かない気分で、バーダの後に続く。
建物の扉は既に破られており、その横の壁は若干日焼けして、何か看板らしきものがかけられていた形跡があった。
我々が足を踏み入れると、すえたような臭いが鼻孔をくすぐった。
入り口から入ってすぐの空間には三台ほどの寝台が置かれており、壁際の戸棚には無数の硝子瓶らしきものが並んでいる。だが、そのほとんどが朽ち果ててボロボロだ。年月の経過によるものというよりは、何らかの暴力によって荒らされた、といった様子である。
「病院、でしょうカ」
後から入ってきたハプワス大佐が室内を見渡しながら言った。その傍らには、エズミがしっかりとその軍服の裾を握りしめてついてきている。
「いや、手記に記されていた病院にしては設備規模が小さい。奥に生活空間らしき場所もあるから、町医者の自宅といったところだろう。簡易な診療所も兼ねていたようだな」
荒れ果てた室内を見渡して、バーダは眉を寄せる。
「惨状を見るに、ここも例の怪物化した子供たちに襲われたらしい」
バーダはそう言いながら、寝台の傍らに転がっていたものにかがみ込んだ。
「……人骨の一部だ。住人たちの遺体があまり見あたらない理由は、どうやらこの山の獣たちが処理したせいだな。所々にウルガの体毛が落ちている」
「実に無情な話でスね……」
ハプワス大佐とエズミもまた、そこにかがみ込んで哀悼の礼を示した。
バーダが立ち上がり、薬品棚に手を伸ばす。その中から一本を取り出し、自分の眼前に持ってきて観察する。
「残念だが、やはり中身は気化している、か。しかし瓶のラベルに書かれた言語はユナリアのものだ。まぁ、あの手記がユナリア語で書かれていたのだから当然だが」
と、そこでバーダの口元に嬉々とした微笑が浮かぶ。
「見ろ、ソード」と彼女が俺にその小瓶を見せる。「C4H10O、つまりジエチルエーテルだ。こっちには吸引機らしき機材の残骸もある。全身麻酔という最先端技術がこの街に存在した証拠だよ」
「へえ、そりゃすごい」と俺は乾いた笑いを浮かべた。「ところでそいつは何の呪文だ?」
俺の皮肉を無視して、バーダの視線は再び薬品棚に戻る。
「モルヒネにアスピリン、これはサリチル酸か。壮観だな、現代の医療施設に常備されている最先端の薬品がずらりだ」
こいつは俺の無知を揶揄する為だけに、わざと難解な単語を並べているような気がしてならない。
「フォレスターさんは医療の心得がお有りなのでスか?」
ハプワス大佐が問うと、バーダは苦笑を浮かべた。
「知識だけだよ。実際に医術経験があるわけじゃあない。こういった知識は執筆の過程でどんどん増えていくものなんだ」
バーダはそう言うが、俺にはそれが真実ではないように思えた。こいつの医学知識は、おそらく並々ならぬ勉学によって得られたものだ。
おそらくは、目の前で死んでいく親友に何も出来なかった、かつての自分を悔やんで。
―――いや、買いかぶりすぎだろうか。
そんな失笑を漏らしたとき、俺の視界の片隅にある物が映った。かがみ込んでそれを手にとったとき、後ろからバーダがのぞき込んできた。
「なんだそれは。写真、か?」
そう、それは一枚の色褪せた古い写真。
そこには二人の人物が映っていた。白衣らしきものを着た男と、その傍らに寄り添うように立つ少女。場所はどうやらこの建物の前らしい。当然、写真の中の世界は今のように荒れてはおらず、被写体の浮かべる微笑には、平穏と慈しみが満ち満ちている。
それを見た瞬間、頭痛がさらに増したような気がした。まるで頭の奥底で何かが暴れているような感じだ。
「白衣、ということはこの家の主かな。ちょっと見せてくれ」
と、バーダは俺の手元から写真を取る。裏返し、そこに書かれている名前に目を丸くする。
「『最愛の娘、ペリノアと―――アグロヴァル・ゼロ』……?」
バーダがはじかれたように、改めて室内を見渡す。
「そうか、ここが最初の『不死の子供』、ペリノアの生家か……!」
どこかでまた、子供たちの声が聞こえたような気がした。
◆
写真の中のペリノアは、彼女が最も美しかった時代でその時を止めていた。
肩口で切り揃えられた亜麻色の髪、生来から意志の強そうな瞳と、まるでカトレアの花のように凛と整った顔立ち。十四歳くらいだろう。好奇心と期待に溢れながらも、同時に傷つきやすい心を抱えた物悲しい年だ。
先の死亡事故の前に撮られたのだろうか、彼女はこの先の非業の運命など知らず、父親の隣でただ穏やかに微笑を浮かべている。
俺はその写真を何の気無しにそっとジャケットのポケットに突っ込み、奥の書斎らしき部屋に足を向ける。
そこでは先ほどからバーダが戸棚という戸棚を物色していた。側の壊れかけたデスクの上には、彼女が掘り出した資料がいくつか積み上げられている。目ぼしいと思われるものを手当たり次第に発掘しているのだろう。
二階からも何やら物音が聞こえる。どうやらハプワス大佐とエズミも探索に駆り出されているらしい。
「やれやれ、これじゃまるで空き巣だな」
背中からそんな声をかけると、バーダが埃に汚れた顔を上げた。しかし、その顔はまるで子供のようで、今まで砂遊びをしていたとでも言わんばかりに、爛々と瞳を輝かせていた。彼女は俺の顔を見て自虐的に口元を歪めてみせる。
「家主はもう帰って来そうに無いけどね」
「それで、収穫はありそうか?」
デスクの上の資料に目をやりながら訊ねると、バーダが大きく頷いてみせた。
「興味深い物が二つ、そして奇妙なものが一つ、ね」
そう言って、彼女はその発掘資料のうちの一つを手に取った。それは赤い革表紙の、どこか女学生風の手記だった。
「まずはこれよ。どうやらペリノアの日記らしいわ」
俺の反応も待たずに、彼女はそれをぺらぺらとめくり始める。
「例の子供たちについて色々と記述がある。彼らの人物像や普段の生活を探るにあたって重要な資料よ」
バーダはページを開き、デスクの上に置いて俺に見せた。彼女の唇が、ペリノアの言葉を無造作に拾って読み上げる。
「『七十八年八月一五日。昨日、剣術で負かしたアーサーがまた懲りずに勝負を挑んできた。でも結局はまた私の勝ち。悔しがるアーサーを宥めるために「あなたが弱いのではなく、私が強いだけ」と言ったら、余計に不機嫌になった』」
ページをめくる。
「『七十八年九月三日。またアーサーは寝坊、約束の時間になっても来なかった。ランスロットたちは待ちきれず先に森へ探検に行ってしまった。仕方なく私が迎えに行くと、あいつはまだ寝ていた。世話が焼ける奴だ』」
次のページへ。
「『七十八年九月三〇日。アーサーとガウェインの帰りがあまりに遅かったので、大人たちみんなが探しに出た。結局夜更けに二人は帰ってきた。二人がかりで獣を一匹仕留めてきたらしい。大人たちにこってり怒られていたが、アーサーは私を見ると得意げに笑って見せた。まったく、人の気も知らないで!』」
と、そこでバーダは言葉を区切った。俺は無言で腕組みしながらそれを聞いていた。
「―――どうやら、ペリノアという子はアーサーに想いを寄せていたようね。非難しているようでいて、ほぼすべてのページに彼の名前がある。思春期特有の恋心、といったところかしら」
「あのな」と俺は呆れながら言った。「ガキの色恋の話を探る為に、わざわざこんな場所まで来たのか、俺たちは?」
俺の言葉に、バーダはどこかつまらなそうに鼻を鳴らした。
「最果ての街の淡い恋模様、という絶好の詩情よ。それが分からないなんて、とことん不粋な男ね」
俺の白けた視線が彼女を刺す。それに気づき、彼女は我に帰って咳払いを一つ挟んだ。俺は改めて問う。
「それで、もう一つの気になるものってのは?」
彼女は気を取り直し、黒い革表紙の冊子を指さした。
「これだ。例の十三人の子供たちの血の序列が書いてある」
「血の序列?」
「ああ……不死性の強さ、ネクローシス作用の順位だよ」
バーダの指がそのリストの一番上の欄を指す。
「最上位にあたるのはアーサー・トゥエルヴ。彼の血液は以下の子供たちすべてを殺すことが出来る。逆を言えば、誰も彼を殺すことは出来ない」
そして彼女の指が次の項目へ動く。
「次がランスロット、ガウェイン、トリスタンの三人。彼らは以下の九人の子供たちを殺害可能。ただお互いを殺すことは出来ないらしい」
さらに下の欄へ。
「続いてボールス、ルーカン、ガラハッド、モルドレッドのグループ。その下にケイ、ベディビア、ガレス、パーシバルのグループ。そして―――」
リストをなぞるバーダの指先が、最下段に至る。
「序列最下位が、ペリノア・ゼロだ」
バーダの顔には、苦々しさのようなものが浮かんでいた。俺は何も言わない。ただひたすらに無言を貫く。
「例の手記によればあの夜、ペリノアはアーサーとランスロットと行動を共にしていたと書いてあった。彼女の死について明確な記述は無かったが……先ほど我々が発見した崖際の墓のことを考えると、あまり愉快な結末は想像できない」
ランスロット、そしてガウェインの名前が刻まれた二つの墓標。この資料によれば、彼らを殺害出来るのはアーサー唯一人だ。
「経緯は分からないが、アーサーがランスロットとガウェインを殺害したのは間違いないだろう。だとすればおそらく、あの墓を掘ったのはアーサーとペリノアだ。それ以降、二人が行動を共にしていたとすれば……彼女はアーサーが発症した時に真っ先に殺された可能性が高い」
そこでバーダは言葉を区切った。憐憫の瞳で、先ほどのペリノアの日記の表紙を撫でる。
「―――自分が恋焦がれる者に殺されるというのは、どういう心境なんだろうな。それは悲劇なのか、それとも……その状況下にあっては、救済なのか」
バーダが顔を上げて、俺の顔を見る。その顔はどこか悲しげで、救いを求めているようにも見えた。
「どう思う、ソード?」
俺は目を逸らした。
……俺に答えを求めてどうするというんだ。
俺に、何か救済めいた返答でも期待しているのか?
俺が何を言ったところで、何も変わらない。
―――その仮定に、救いなど無いのだ。
「ペリノアが先に怪物化した可能性だってあるだろう」
だから、俺に捻り出すことができたのは、先ほどの問いに対する答えではなかった。だが、対してバーダは落胆の様子は見せなかった。
「だとしたら、私はアーサーを哀れむよ」彼女は再び、その瞳に悲哀の色を宿す。「それではあまりにも、彼が可哀想だ」
……可哀想、か。
一瞬、思考がその感情をなぞろうとした。が、慌てて首を振る。
駄目だ―――その躊躇いはきっと、俺にとって命取りになりかねない。
確信にも似た予感を覚え、俺は無理矢理に話題を変えた。
「それで、最後の『奇妙なもの』っていうのは何だ?」
俺の質問で、バーダは思い出したように一冊の大判のスクラップブックを取り出した。
「ああ、なんと言えばいいのか……奇妙というより、奇怪と言った方がいいかもしれないな、これは」
彼女自身、どこか戸惑うような口振りだった。表紙を開くと、そこにはインクの字までかすれた、かなり年代物の古新聞が綴じられていた。記事の上部の新聞名さえ、ほとんど読みとれないほどだ。しかし、その独特の書体は俺が何度も見かけたことがあるものだった。
「これは……イクスラハの『グランヨーク・タイムズ』か? 随分古そうだな」
「日付を見ろ」と、バーダが指さす。「一八六三年七月一四日、今から十年前の新聞らしい」
「十年前? それにしては古すぎる気がするが……」
その新聞紙はボロボロと言ってもいいほど劣化していた。捲ろうすればそのまま砕けてしまいそうだ。
「それも奇妙だが、それより奇妙なのはこの中身だよ」
バーダがそこに書かれた記事を読み上げる。
「『市民の暴徒化、数千人へ―――徴兵事務所でのトラブルがきっかけで苛烈の一途を辿っていた徴兵暴動だが、昨日十三日の時点でピークを迎え、ついにその規模は数千人に迫った。新移民差別を背景とするこの暴動により、英国系移民の富豪たちの邸宅や新聞社が襲撃されたほか、今年一月にリンカーン大統領によって奴隷解放を宣言された黒人がリンチで多数殺害された。市民は武装して略奪を繰り広げ、やがて警察との銃撃戦に突入したが、夕暮れには連邦軍が到着し、交戦の末鎮圧された。しかし、南北戦争が激化する中での兵力供出は戦線に大きな影響を及ぼすと見られ、最終的な逮捕者と死者数からも莫大な経済的損失は避けられないと考えられる』―――」
「何だ、これ?」
思わずそんな言葉が俺の口から飛び出た。
市民の暴徒化? 徴兵? 銃撃戦、だって?
「ユナリアで銃撃戦なんかある筈がない。だいたい、徴兵なんて皇国時代の制度じゃねえか」
俺の言葉に、バーダが大きく頷いた。
「ああ、だから奇怪だと言ったのだ。他にもあるぞ。国内の奴隷解放を宣言したのはクルト・コヴァイン卿のはずなのに、この記事ではリンカーンという人物になっている。それに、例の南北戦争だってその勃発を回避した筈だ。聖女アトラビアンカのおかげでな」
バーダは眉を寄せ、紙面を睨みつけながら言う。
「そう―――あり得ない歴史の新聞なんだよ、これは」
「作り話じゃないのか、この街の大衆娯楽の一つとか」
俺の口にした考えに、バーダは皮肉げに口元を歪めた。
「仮想年代記、というのは確かに娯楽小説の一つの形式だが、それを新聞でやるというのは斬新だな。おまけに娯楽にしてはいささかユーモアに欠ける内容だ」
「まぁ、確かにこれを読んで楽しめる奴は少なそうだな」
俺が言うと、バーダも肯定するように鼻で小さく笑った。
「その意図はともかくとして」と彼女は続ける。「おまえの言った通り、この新聞自体が街の住人が作った空想の産物であるという可能性は高いだろうな」
「そうなのか?」
「こんな新聞が十年前に実際に出回っていれば、ある意味、現在まで語り継がれる伝説になっているよ。それによく見てみろ、新聞の名前が本家と微妙に違っている」
言われて、俺はもう一度紙面に目を落とす。独特の装飾めいた書体のせいで先ほどは見落としていたが、確かによく見ると、それは俺の見慣れた新聞ではなかった。
バーダが言う。
「これは『グランヨーク・タイムズ』じゃない―――『ニューヨーク・タイムズ』だ」




