〈三十六〉サンクチュアリの墓標
踏み出す靴底に蹴られた小石が、乾ききった微かな音を立てる。それは断崖を転げ落ち、やがて眼下の遠景の中に溶けて消えていった。足下から吹き上げてくる風が、額の汗のみならず肝までも冷やしていく。
「はは……これは気を張っていないと失神しそうになるな」
バーダが余裕ぶった台詞を言うも、その笑みは完全に引き吊っていた。
崖下までは一五〇フィートはあるかもしれない。落ちればほぼ確実に死に至る高さである。
そんな絶壁沿いの道を、我々はバーダ、俺、エズミの順番で慎重に進む。万が一、どちらかが足を踏み外しても即座に反応出来るように、俺が中央に陣取った。護衛の身としては、前後から獣が強襲して来ないことを祈るしかない。
しかし、バーダの言った通り、しばらく進むと道幅はかなり広くなった。当初は壁面に背中を張り付けて進まねばならなかった道も、やがて大人一人分はなんとか楽に通れる程となる。
そこまで来てようやく、バーダが安堵の吐息を漏らした。
「ふぅ、なかなか生きた心地がしないな」
「気を抜くなよ。風に煽られでもしたら崖下に真っ逆様だ」
「そのときは崖下で私を受け止めてくれ」
「重力より速く山を降りる自信はねぇよ」
お互いにそんな軽口の応酬が出来るくらいには、余裕が生まれ始めていた。
さらに少し進んで、ようやく道と呼べるくらいには足場が広くなってきた頃に、バーダがエズミに向けて口開いた。
「Ca va bien,Esme?」
たぶん「大丈夫か」といった意味だろう。尋ねられたエズミは少し慌てた様子で、俺から一歩距離を取った。先ほどからずっと、彼女は俺の後ろでコートの裾を握り締めていたのだ。
「Tout,Tout va bien,Medames Forester.Merci.」
照れ笑いを浮かべて言うが、エズミの顔はやや蒼白だった。どうやら高いところは苦手らしい。まぁ、気持ちは分からないでもない。
「帰路も同じ道かと思うと、さすがにうんざりするな」
ため息をつく俺を見て、バーダは呆れたように首を振った。
「目的地に着く前から帰りの心配などやめろ、興醒めにも程がある」と彼女は道の先を指さした。「それに見ろ、どうやら正解のルートだったようだぞ」
先ほどの場所からは角度的に見えなかったが、道は断崖に開いた洞窟へと続いていた。その入り口には落盤防止の為の木枠が建て付けられている。バーダが得意げに言う。
「あれが自然に出来たものだとしたら、私は今後絶筆しよう。賭けてもいい」
「それなら賭けは不成立だ。俺も同じ方に賭けるからな」
と俺は片手をひらひらと振った。
ぽっかりと口を開けた洞穴は幅が七フィート程度、高さが一〇フィートほどもあり、大人が楽に歩いて進めるほどの大きさだ。入り口の木枠はかなりの年代物だったが、崩れる気配も無くどっしりとその役目を果たし続けていた。
バーダがその柱をしげしげと観察する。
「ふむ、イタヤカエデの木材らしい。作られてから三〇年は経っている。おそらく、例のアタヘイの住人が作ったものだろう」
「だが、なぜこんな崖っぷちに?」
俺が訊くと、彼女は自分の指先をぺろりと舐めて、洞窟の入り口の方に掲げて見せた。
「奥から風が吹いてる。つまり、これは洞窟ではなくトンネル―――向こう側から掘られてきたと考えるべきだ。隠し通路、といったところか。故に、わざわざ出口をこんな場所に選んだんだろう」
バーダの瞳がまるで子供のような輝きを宿した。
「この先にきっと、アタヘイの街があるんだ」
確かに、状況から考えてその可能性が高そうである。だが気になるのは、この洞穴の中の危険についてだ。街が滅んで十年以上も人の出入りが無かったということは、獣たちが住み着いていてもおかしくはない。
俺たちは無言で目を見合わせる。バーダも同様のことを考えていたようだが、やがて首を竦めて見せた。
「まさかここまで来て、怖じ気づくわけにもいくまい?」
「まぁ、その通りだな」
俺も気を引き締め直し、荷物の中から携帯用の小型ランプを取りだそうとした、その時だった。
突然、ゴロゴロという地鳴りのような、低い音が上空から聞こえた。
バーダが胡乱な表情を見せる。
「なんだ、春雷か? こんなに晴れているというのに……」
釣られて俺も頭上に目をやる。
―――瞬間、戦慄が走った。
『それ』は俺たちの頭の上、切り立った断崖をほぼ垂直に駆け下りてきていた。殺意に瞳を血走らせ、口腔の刃を剥き出しに、『それ』は砂煙を上げて我々の眼前に着地する。
漆黒の四肢、刃の如き爪と牙。そしてその体躯は、数分前に遭遇した個体よりも一回りほど大きい。俺の脳裏にゴルドの野郎の言葉が蘇った。
『今の奴は雌だ。気をつけな、「つがい」が何処かにいるぜ』
状況を理解した瞬間、俺は己の迂闊さに歯噛みした。先ほどの死骸を蹴落とした時、少しばかりブーツに血が付いてしまっていたのだろう。
―――血の臭いを追ってきたか。
それは復讐に燃える一匹の獣、ウルガの黒色個体だった。
◆
獣の咆哮が空気を震わせるのと同時に、俺は鉄剣を抜いていた。
反射的というよりも、それは強迫的な動作。瞬時に殺意を絶対零度のように研ぎ澄まし、思考を―――過去と未来を繋ぐ線形を捨てて、刹那の狭間に閃きを走らせる。
経験則からの、半ば確信を持った剣撃。
しかし、獣の俊敏性は人間の思考を遙かに上回る。炸裂はあまりにも浅かった。俺の振るった剣線は獣の右目を斬り抜け、わずかに血飛沫を中空に舞わせただけだった。
俺は舌打ちすら忘れ、鉄剣を鞘に納めると即座に、二人の手を掴んで走り出した。
方向は目の前の洞窟。もはや中の危険などに構ってはいられない。
くそったれ、最悪の展開だ。
右目を失った激痛の怒号が、背後の世界を震わせる。
「走れッ!」
「分かってるわ!」
俺とバーダの叫びが呼応する。
幸いなことに洞窟はほぼ直線に続いていた。分かれ道で一方が行き止まり、という絶望的な展開は考えたくもないし、そんなものが無いことを今は祈るしかない。
俺は二人の手を引っ張るようにして駆け抜ける。人間の足で獣に勝てる筈はないが、背後からは獣の足音の他に、岩がぶつかり合うような無骨な音が聞こえていた。走りながら横目で後ろを確認すると、黒ウルガがまるでもがき苦しむように洞窟の壁面に身体をぶつけながら追ってきていた。
どうやら、片目を潰されたことで平行感覚を失っているらしい。復讐と痛みに怒り狂っているせいもあって、もはやそれは暴走と言ってもいい走り方だった。巨躯が壁にぶつかる度に、洞窟全体が地震のように揺れる。
その様子を見て、俺は冷静さを取り戻す。
―――我を忘れているならば、仕留めるチャンスはある。死角を突ける分、同種と戦闘経験のある俺が有利である。
しかし、それもこの狭い洞窟を抜けてからの話だ。
俺は走る速度を少し上げた。バーダもそうだが、特に体格的に俺と大きな差があるエズミは苦しそうだった。だが、残念ながら足を緩めてやれるような余裕は無い。
「エズミ、頑張れ! もう少しだ!」
言葉が通じないと知りながらも、俺は華奢な手を引っ張りながら激を飛ばす。エズミはもう一方の手で胸を押さえ、顔を歪めながら必死に俺に着いてくる。やがてそれに報いるかのように、前方に光射す終点が見えてきた。
「出口よ!」
バーダが叫ぶ。どうやら彼女の予想通り、洞窟は吹き抜けのトンネルとなっていたらしい。
まだ安心は出来ない。怒り狂う獣は洞窟の壁を削りながらすぐ側まで迫っている。
俺は脳内でこの先の展開を組み立てる。まずは二人の安全の確保が最優先、状況の開始はその後だ。洞窟を抜けた先が開けた場所であれば、裏を書いて獣の背後を取れるチャンスも―――。
と、その時だった。
出口まであと二〇フィートといったところで、それは起きた。
俺の左手から抵抗が消える感覚。
何が起きたのかという理解は、絶望と共に脳裏をよぎった。
エズミが足をもつらせ、転んだのだ。
大人の俺が息を切らせるほどの速度に、振り落とされてしまったのだろう。だが後悔は一旦保留し、俺は思考を切り替える。
すぐさまバーダを出口の方に突き飛ばし、俺は鉄剣を抜いて方向転換する。
「ソードッ!」
バーダの叫び声を背に、眼前に迫った獣を見据える。俺が知覚する世界が、その速度を一段階落とす。
迫り来る獣の牙が、小柄なエズミの身体を狙う。
それを阻止せんと駆けるも、だが、俺に戦況の逆転を計算するような余裕は無い。
そのとき俺の脳裏を過ぎったのは、もはや願いにも似た感情だった。
くそったれ、間に合え―――!
「伏せタまえッ!」
突然響いた男の叫びに、俺もバーダもほとんど反射的に身を縮めていた。そして大きな破裂音。
それに続き、迫る獣の巨躯が血飛沫と共に大きく仰け反った。
一瞬だけ、俺は声の方向―――出口に現れた男に目をやる。
其処に立っていたのは、煙立つマスケット銃を構える軍服の中年男性の姿。彼は続けざまに、俺に向けて叫んだ。
「今ダ!」
理解が電流のように駆けめぐり、俺の身体を突き動かした。洞窟の光と闇の狭間を蹴り、俺はがら空きになった獣の懐に潜り込む。その首を一撃で斬り飛ばす、覚悟と殺意を握りしめて。
「うおおぉぉらァッ!」
手に伝わり、駆け抜け、やがて再び空を斬る、その確かな感覚。
俺の咆哮と共に、渾身の力を込めた一閃が、黒獣の断末魔を奏でた。
◆
エズミを抱き抱え、バーダと共に洞窟を出ると、その男はマスケット銃を片手に頭上の軍帽を取った。
黒髪を短く刈り上げた、厳格そうな顔つきの中年男性だった。年の頃は四十代半ばだろうか。背格好は俺よりやや低かったが、肩幅は広く筋骨は隆々としており、その戦歴の老練っぷりが伺える。纏う軍服は汚れてボロボロではあったが、その立ち姿にはある種の公正さと力強さが宿っていた。
「Papa!」
その姿を見るなり、エズミは叫んで俺の腕から飛び降り、彼に駆け寄っていった。抱きつく彼女をしっかりと抱擁し、その男は大きく安堵するように表情を緩める。
そこでやっと、俺は突然現れたその人物の正体に思い至った。バーダがその答えを代弁するように呟く。
「エズミの父親、か。やはり生きていたんだな」
それを聞いて、男が深く頭を下げた。
「どなたかハ存じませんが、娘を助けてくださってありガとうごザいました」
少しばかり訛りはあるものの、流暢と言っても差し支えない口調だった。バーダが少し驚いて訊ね返す。
「こちらの言葉が話せるのですか?」
「ええ、少しダけですが。申し遅れましタ、私はハプワス・サリンジャー。お察しの通り、アルダナク連邦の者でス」
差し出された手をバーダが握り返す。俺もまたそれに倣った。
ハプワス氏は自分が連邦陸軍連隊長大佐であり、国からの亡命者であることを隠さずに申し出た。自らの素性を明かしたのは、言葉から我々がユナリアの人間だと知った為だろう。ユナリアでは難民の受け入れ体制が表明されている為、いずれは政府に保護を申し出るつもりだったらしい。
バーダがその場でこれまでの経緯を簡単に説明した。自分たちが小説家と傭兵であり、取材の為にこの山を訪れたこと。道中でエズミに出逢い、あなたの捜索を頼まれたこと。大佐はそれを聞いて再び、深々と頭を下げた。
「娘を救ってくれたことに、改めて感謝いたしまス。エズミには護衛を一人つけたのでスが、そのお話ではおそらく道中でやられてしまったのでしょウね……」
「あなた方の部隊にいったい何があったのですか? そして、どうしてあなたはこんな場所に?」
バーダの質問に、ハプワス大佐は大きく頷いた。
「少し歩きながらお話ししましょうカ」
そう言って、彼はゆっくりとした足取りで歩き始める。我々もその後に続いた。
洞窟を抜けた先は大きく開けており、なだらかな丘陵となっていた。先ほどまでの禿げ山の光景とは一変し、大地には芽吹き始めた緑の草々がある。とてもではないが、頭上にそびえるイヴィルショウの険しい天剣と同じ山とは思えない。
「驚いたな、まるでここだけ違う世界のようだ」
バーダが周囲を見渡しながら言う。大佐が頷きを返した。
「ええ、私も驚きましタ。おそらく昔、人の手による開墾があったのでしょウ。この辺りの土地は固い岩盤ではなく肥沃な土で出来ていまス」
と、そこで大佐の足が止まる。
「……ここなら、彼らも安らかに眠れるでしょウ」
我々の目の前には、墓標と思わしき七つの石があった。そこは丘陵のちょうど頂上のような場所で、草花が咲き乱れる美しい一画だった。それぞれの墓石には即席で掘られたらしき七つの名前が刻まれてある。
「あんたの護衛の連中か」
俺が訊ねると、ハプワス大佐は重々しく頷いた。
「うち三つには遺体は埋まっていまセん。獣たちが集まってきて、とても弔ってやれるような状況ではありまセんでしたから……ですが、彼らの誇り高い魂はいつも共にありまス」
そう言って、彼は手近な場所から同じような岩を持ってきて、その隣に置いた。周囲の花を何本か摘み取って、その墓前に添える。
「これはエズミの護衛を頼んだ、オットー・ノードホッフェンの墓でス」
腰に差した短剣を抜き、彼はその名前を掘り始めた。
「この子が生きていることこそ、彼が私の命令を成し遂げてくれタ何よりもの証……友よ、どうか安らかに」
「四人の遺体を埋葬できる場所を探して、此処にたどり着いたのですか?」
バーダが訊ねると、ハプワス大佐は手を動かしながら首を左右に振った。
「此処にたどり着く前まで遺体は二人分だったのでス。しかし残る二人も深手を負い、もはや命は風前の灯火という有様でしタ。助けを求め、人の住む痕跡を追って此処までたどり着いたのですが、その二人も今朝がた事切れてしまいましタ」
墓標を刻み終え、大佐はその八つ目の石を並べた。その前に屈み込んだまま、左胸に手を当てて黙祷を捧げる。バーダとエズミもまた、それに倣った。
「あんたらを襲ったのは何だ?」
構わず、俺はそんな問いを投げる。大佐は立ち上がり、どこか戸惑うような表情を見せた。
「獣、だったのだと思いまス。しかし、あのような獣は見たことが無い。ユナリアにのみ生息する種別なのでしょうカ。二つの足で歩キ、その姿はまるデ……」
「剣の鎧を着ているようだった」とバーダが言葉尻を次ぐ。「ですか?」
「はい、まさにその通りでス。しかし、どうしてそれヲ?」
ハプワス大佐の返事を聞いて、俺とバーダは目を見合わせる。小隊級の人数が潰された時点で、並の獣ではないと思っていたが―――案の定、というわけだ。
バーダが答える。
「我々はその獣の噂を確かめる為に此処まで来たのです。それで、その怪物は何処へ?」
「私たちを強襲した後、いずこかへと去っていきましタ。山の上の方へと向かったように思いまス」
バーダは腕組みをして考え込む。
「―――ということは、補食の為に襲ったというわけではない、ということか? 縄張り意識ゆえの行動とすれば、奴の住処が襲撃地点の周辺にあると考えられるが……おまえはどう思う、ソード?」
俺に意見を求めるとは、こいつもだいぶ変わったものだ。そんなことを思いながら、俺は鼻を鳴らした。
「奴の行き先なんて決まっている」と、俺は丘陵の更に先に目をやる。「あの聖女の予言通りなら、俺と奴は例の滅びた街で決着をつけることになってるんだからな」
『どちらかの死をもってしかその運命は終結せず、そして世界はその運命のこれ以上の延命を許しません』
数日前、イクスラハで聖女に言われた言葉を思い出す。
我々の旅の最果て、それはつまりアタヘイの廃墟のことだ。
バーダもそのことを思い出しているのか、何とも言えない表情で俺の瞳を見つめていた。俺は思わず顔を背ける。
―――よせよ、そんな目をするのは。柄にもない。
「滅びた街、と言いましたカ?」
と、不意にハプワス大佐がその単語を復唱した。
「ええ、それが何か?」
問い返しながらも、バーダの瞳に光が射す。大佐は丘陵の先、小さな林の方を指さした。
「あの林の入り口に、小さな木こり小屋がありまス。野ざらしで、とても人の暮らしている場所には思えなかったので引き返しましたガ……たしかに小屋の傍らには、林の先に進む小道のようなものがありましタ」
「きっと街はその先よ、間違いないわ!」
バーダがやや興奮気味に叫んで、同意を求めるように俺を振り向く。その表情はまるで十代の少女のように喜色に染まっていた。
……まったく、さっきまでの俺を心遣う瞳は何処へ行ったんだか。
頭をぼりぼりと掻いて、俺は大佐とエズミに目を戻した。
「それで、あんたらはどうする?」
俺の問いかけに、大佐は一度エズミを見やってから答える。
「我々だけで此処から下りるのは少しばかり不安でスね。ご迷惑でなければ、下山まで行動をご一緒させていただきたイ。よろしいでしょうカ?」
「願ってもない申し出だよ」
俺は改めて、ハプワス大佐の手を握った。軍閥を率いた連隊長であれば、護衛の戦力としては申し分ないだろう。
「準備が出来たなら、出発しよう」
待ちきれない、といった様子でバーダが言う。
「私たちの旅の終点へ、な」
旅の終点。
或いは―――俺の運命の、か。
誰にも気取られないように、俺は自虐的に笑った。




