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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 1. The Soldier and The Novelist.
36/83

〈三十四〉魔の山

 翌朝、東の空が白み始めた頃に俺たちは野営地を立った。俺と小説家、そして新たな同行者のエズミを乗せて、馬車は再び荒野を駆けていく。やがて朝陽が地上の暗闇を切り裂き、雄大なレンブラント荒原の全景が我々の目の前に現れる。彼方まで続く赤茶けた大地の隆起は、太陽の光の中でまるで巨大なオブジェのような見事な光陰を作り上げていた。


 しかし荒原を抜ける間、お互いに交わす言葉は無かった。おそらく、それぞれ胸中に底知れぬ感情を抱いていたのだろう。エズミはもちろん父親のことを。バーダはもしかしたら、昨夜の話がきっかけで亡くなった友人のことを思い出していたのかもしれない。


 或いは自分は、昨夜の時点でバーダの話を遮るべきだったのではないか。俺はそんなことを思った。彼女が何らかの悲しい過去を持っていることには薄々気づいていた筈だし、わざわざそれを掘り返す必要性など、俺の今回の仕事の中では何一つとして無いのだ。


 それでも止めなかったのは何故か?


 自問自答して、俺はひとり自嘲的に口の端を歪める。その答えは既に何となく分かっていた。


 きっと俺は、自分が思っている以上にこのバーダロン・フォレスターという人間に関心を持っているのだろう。要するに惹かれ始めているのだ。たぶん、女性的にというよりは、人間的に。


 それから一時間ほど走り、荒原地帯がようやく終わりを迎える。再びホワイトスプルースの林が我々を迎え、俺は馬車の速度を少しだけ落とした。『牙持つ獣たち』の生息域に突入したこともあるが、何より道無き林の中を馬車で駆けるのは至難の技だからだ。


 やがて林の木々の隙間から、目的地の偉大なる山水が我々の前に現れる。


 『イヴィルショウ』とは、かつての先住民族たちの言葉で『魔の森』を意味するという。山岳はその名の通り、裾野に広がる鬱蒼とした針葉樹林帯から始まる。陽の光すら阻む薄暗いその森は、しかし山頂に近づくに連れて徐々に削ぎ落とされ、天空には岩肌を露わにしたいくつかの山嶺が高くそびえ立つ。


 イヴィルショウ山岳地帯。


 その天剣は既に、俺たちの視線より遙か上空に近い場所に臨めた。


「目的地だ」


 と、俺は馬車の荷台に向けて肩越しに言った。


「ああ」


 小説家がどこか緊張した声色で返答するのが聞こえた。振り返ってみると、彼女の視線は枝葉の隙間から垣間見える山の中腹に注がれていた。そこに目指すべき謎の街、アタヘイの片鱗を探すかのように。


 道のりが本格的な勾配に差し掛かる前に、俺は馬車を止めた。その一帯は周囲とは違って、木々が切り開かれ、赤茶けた大地が剥き出しになっている。明らかに、かつて人為的に開墾されたことのある場所だった。目の前には山の斜面に掘り開かれた洞窟が、ぽっかりと暗い口を開けている。


「ここは……?」

 バーダが口にした疑問に、俺は答える。

「前に言っただろ。昔、この辺りで少しばかり金が採れたって」

「なるほど、鉱山跡地、ということか」小説家は納得しながら周囲を見渡した。「たしか、おまえたちが五年ほど前に駆り出されたとかいう」


 頷きを返し、俺も辺りに視線を向ける。

 当たり前だが、五年前に俺とヒュウ、ゴルドの三人が訪れた時と比べて、周囲は荒れ放題だった。撤退の際に取り壊されたであろう坑夫小屋の木材が、炭坑の横で腐食の為すがままにされていた。方々には打ち捨てられた木箱や折れ曲がったピッケルが転がっている。


 かつての栄光を思い起こさせるような、なかなかに郷愁的な光景だった。


 馬車を薄暗い炭坑の中に少し進ませてから、俺は御者台から降りた。そして車体と馬を繋ぐ胸曳き具を取り外し、馬を自由にしてやる。我らが愛馬は戸惑うように、ゆっくりとした足取りで出口に歩いていった。


「ソード、何を……?」

 バーダの困惑したような問いかけに、俺は答える。

「馬車はこの炭坑の中に隠しておくとしても、馬はそうはいかない。此処は『牙持つ獣たち』の群生地だ。馬車に繋がれたままじゃ、すぐに連中の餌になっちまうよ」


「だが、それでは帰りはどうする?」

「馬は人間以上に帰巣本能に優れた生き物でね。見てな」


 と、俺は右手の指を咥え、甲高い口笛を鳴らしてみる。我々の愛馬は耳を何度かはためかせてから踵を返すと、俺の元へとやってきてその鼻面を差し出した。その頭を撫でながら、俺は言う。


「道中、休憩の度に仕込んでおいたんだ。よほどのことが無い限り、馬は拠点から勝手に遠出はしない。俺たちの登山中は、こうして手綱を解いてやった方が安全なんだよ」


 既に馬車の中の食料類のほとんどは昨夜の夜営地に捨て置いてきた。おかけで帰路は少しばかり強行軍にはなるが、とりあえずこれで獣たちに馬車が荒らされる心配も無い。


 二人も荷台から降りて、登山の為に身支度を整える。バーダはあらかじめ用意していたのだろう、靴底に鉄板の入った安全靴に履き替えていた。


「しかし」と、準備をしながら小説家が言った。「自分で言うのも何だが、かつてこんな辺鄙な場所まで来る人間がいたのだな」


 バーダの目は炭坑の片隅に積み上げられた燃石炭の木箱に注がれていた。中身はまだ入ったままだ。

 俺は鼻を鳴らす。


「黄金ってやつには、それだけ人を動かす力があったんだろ」

 人類がこれほどまでに発展できたのは、すべて欲のおかげだ。欲望が大地を開墾し、街を作り、大陸を駆け抜け、この時代を作った。だが―――。

「だがリスクと見返りを天秤にかけて、その傾きが逆転したとき、この炭坑は役目を終えたってことだ」


 炭坑の中には、まだ油が気化しきっていないランプや、未使用の雷管、導線の束まで転がっている。度重なる『牙持つ獣たち』の頻出に、坑夫たちは結局そのまま逃げ出してしまったのだろう。


「さながら、老兵たちの夢の跡、か……ん、あれは?」

 と、バーダがその中に何かを見つけたように呟いた。その一画に歩み寄り、屈み込んで何やら物色を始める。


「どうした?」

 俺が訊ねると、バーダは肩越しに振り返る。その口元には不敵な微笑が浮かんでいた。

「―――いや、後続の連中の為に念を入れておこうと思ってな」

「?」


 はてな顔の俺を余所に、彼女は帆布製の小さな背嚢にその何かを詰め込んでいるようだった。


「……どうでもいいが、あんまり荷物を増やすと登山の邪魔だぞ」


 最終的に俺の荷物になりそうな気がして、俺はやれやれと吐息をついた。


「―――あとバーダ、そいつは置いて行った方がいい」


 と、俺は立ち上がった彼女の足下に目をやった。そこに鎮座するのは例の牛革の旅行鞄。彼女は一瞬、逡巡する。


「え、でも……」

「命より大事なものなんだろ」俺のその言葉に、皮肉は無かった。「正直、この山に持って行くより馬車の中の方が安全だ」


 バーダはやがて諦めたように、馬車の荷台にその鞄をそっと載せた。


 ひとしきりの準備をし終え、我々は炭坑を出て、改めて目の前の山を見上げる。俺は鉄剣のみを腰に下げ、護衛対象の二人に確認する。


「それじゃ、準備はいいか?」

「ああ」と、バーダは頷き、傍らの少女を見る。「まずは、エズミの父親を探そう」


 俺もその意見に同意を示した。おそらく、結果的にはそれが例の不死の怪物の居場所、つまりはアタヘイの廃墟に繋がるだろうと思ったからだ。


 バーダはエズミと外国語でいくつか言葉を交わしてから、今度は俺に向けて口開いた。


「この場所にも見覚えがあるらしい。強襲された場所まで、ある程度は道案内が出来るかもしれないそうだ」


 俺が視線を向けると、エズミは毅然とした瞳でこくりと頷きを返した。この場所を訪れたのは五年ぶりだが、俺にも若干の土地勘は残っている。大まかなルートは俺が補正してやればいい。


 バーダが言う。

「護衛を頼むぞ、ソード」

「ああ、了解だ」

 腰の鉄剣の柄を右手で軽く握り、俺は頷きを返す。


 こうして、ついに我々は魔の山へと足を踏み出した。


             ◆


 既に分かり切ったことではあったが、山道と呼べるべき立派なものは無かった。炭坑脇の林からそのまま入山し、俺たちは道無き道を息も絶え絶えに登る。傾斜はかなり厳しく、特にバーダは体力的にかなり辛そうだった。樹の幹を手で掴み、体重を支えながら次の幹へ、といった調子で、やっとの思いで登っている。


「大丈夫か?」

 殿を務めながら、俺は目の前の女にそう投げかける。

「はぁ、はぁ……当然だ……これくりゃい、大したことはない……」

 いや、噛むほど参ってるじゃねぇか。

 まだ道のりは十分の一も来ていないというのに、先が思いやられるな、と俺は頭を振った。


 一方で、エズミはある種の妄執すら感じられる勢いで、息を切らしながら黙々と登っていた。父親のことが気がかりで仕方ないのだろう。もしかしたら、バーダが弱音を吐かないでいるのは、そんな彼女の存在があるからなのかもしれない。


 しかし、先導するエズミはあまりにオーバーペースだ。あまり先行されると、俺の護衛範囲から出てしまう。


「バーダ、少しペースを落とすように伝えろ」

「Esme,attends-moi!」


 バーダの言葉で、エズミは一瞬足を止めて振り返った。その瞳には少しだけ、涙の残滓があった。彼女に追いついてから、俺はその小さな頭を右手で軽くポンと叩いた。


 安心しろ、と軽々しくは口に出来ない。だがその代わり、不安を少しでも拭えるようにと、俺は僅かに口元を緩めてみせた。エズミはそれを見て、謝るように小さく頭を下げた。


 先ほどよりもペースを落として、エズミはまた登り出す。その後を追いながら、バーダが囁くように呟いた。


「……意外ね」

「何がだ?」

「あなたも、そうやって笑えることがよ」


 俺は自嘲気味に鼻を鳴らす。

「おまえ、俺が血も涙も無い男だと思ってないか?」

 仏頂面で言うと、彼女は可笑しそうに小さく笑った。

「今は思ってないわ」


 今は、という部分が気になったが、口調からして本音のようだったので、それ以上は問い詰めずにおいた。


 それからみっちり二時間、我々はほとんど無言で山道を登り続けた。途中、何度か『牙持つ獣たち』の足跡を見つけ、その度に足を止めては周囲に神経を張り巡らせた。しかし、幸いなことに直接遭遇することは無かった。


 傾斜が緩み、台地のような場所にたどり着いたところで、我々は小休止を取った。さすがのエズミにも疲労の色が見えていたし、何よりバーダはもう限界に近かった。俺は体力的には問題なかったが、どちらかと言うと神経的に疲労を感じ始めていた。周囲の針葉樹の幹は視界を奪い、足下の傾斜は俺の稼動範囲を狭める。おまけにこちらの護衛対象は二人だ。『牙持つ獣たち』が何処から飛び出してくるか分からない以上、気を緩めるわけにはいかない。


 バーダは傍にあった切り株に腰を下ろし、水筒の水に口をつけながら、袖で額の汗を拭った。


「ふぅ……どれくらい登ったかしら」


 空高く枝を伸ばす木々のせいで、下界の様子は臨めない。俺は頭上の太陽の高度を確かめながら、ここまでの道のりを計算してみた。


「俺たちが以前、例の怪物と遭遇した場所まで―――そうだな、ざっと半分程度、ってところか」


 俺の言葉に、バーダはがっくりと肩を落とした。そして深いため息と共に言う。


「……そこは嘘でも『あと少しだ』くらい気の効いた言葉を言って欲しいものだな」


 俺は小さく鼻で笑った。口調がいつもの小説家に戻る程度には、気力は回復したらしい。

 彼女は傍らに座り込むエズミに水筒を渡し、訊ねた。


「Est-ce que avoir reconnu ce quartier,Esme?」


 エズミは周囲を見渡してから、こくりと一度だけ頷いた。バーダがその意を伝えるように、俺に口開く。


「この辺りにも見覚えがあるそうだ」

 俺もまた、その言葉に頷きを返した。

「ああ、ルートとしては間違い無い。どうやらこの調子だと、エズミがあいつと遭遇したのは、五年前の俺たちとほとんど同じ場所だったみたいだな」


「しかし、五年前の出来事だというのに、お前もよく道順を覚えているものだな」


 と、バーダが感心したように言う。対して、俺は呆れたように首を振った。


「おいおい、お前が俺を雇ったのは、それが一番の理由だからだろうが」

「まぁ、それはそうなんだが……控えめに言っても、お前はそれほど記憶力に自信のある人間には見えないからな」


 俺は乾いた笑いを漏らす。こいつの皮肉も久々に聞いた気がした。お返しとばかりに、俺は顎で彼女の腰掛ける切り株を指した。


「そう言うお前も、観察力不足は小説家としてなかなか致命的じゃないか?」


 バーダは一瞬だけ小首を傾げる仕草を見せた後、自分の下にある不自然な存在に気づいて苦虫を噛んだ。彼女が言葉を放つ前に、俺は回答を提示してやる。


「五年前も俺たちはこうしてこの場所で休憩を取ったんだよ。その切り株は、ゴルドの野郎が腰掛け欲しさにぶった斬った物だ」


 そう、人が立ち入らぬ場所に木の切り株などある筈がない。バーダは己の疎漏さを誤魔化すように咳払いをして、話題を切り替えた。


「しかし……座る場所欲しさに木を切り倒すというのは、あのボードインという男もなかなか常軌を逸した奴だな」

「なかなか、だって?」と、俺は思わず鼻で笑う。「そんな生易しいもんじゃない。あいつは狂人の極致だよ」


 バーダはそこで疑問ありげな目で俺を見る。

「以前から気になっていたのだが、お前とあのボードインは、いったいどういう関係なんだ? もともとは同じ組合の仲間なんだろう?」


「建前としては元同僚で、今は商売敵」

 そう言って俺はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

「そして真相としては、俺の天敵だ」


 紫煙と共に吐き捨てるように言う。タールの苦々しさが口の中に残った。バーダの瞳に興味の色が浮かんだ。


「ふうん、面白い逸話がありそうだな」

「ま、テーマの退屈さに目を瞑れば、俺と奴の話には終わりが無いぜ」

「退屈さ?」

「ああ。何せ―――」


 と、俺はそこで自虐的に口元を歪めてみせた。


「あいつは一貫して、単に俺を殺したいだけなんだ」


 バーダが胡乱な表情を見せた。彼女が何か問いかけようと口を開いた時、不意にエズミが立ち上がった。そしておずおずとバーダの服の裾を掴み、山の上方を指さす。そろそろ出発しよう、と言いたいらしい。


 その少女の瞳に切迫したものを読みとったのか、バーダは宥めるように表情を緩めて頷きを返した。俺はまだ長い煙草を足下に落とし、ブーツの底で踏みつける。


「さて、次の休憩は二時間後だ」

 と、俺は二人に向けて言った。

「言い直すと、目的地に着くまで休憩は無しだ。準備はいいか」


 付け加えた俺の言葉に、エズミの視界の外で暗鬱そうに顔を歪めるバーダがいた。



              ◆



 濃密な森の空気が、記憶の琴線に触れる。まるで、張りつめた糸を朝霧の露が伝っていくような、そんな微かな振幅。それは目的地が近づくに連れて強くなっている気がした。


 山道を登りながら、俺は額の汗を拭った。いつの間にか心拍数は僅かに乱れ始めている。もしかしたらこうして歩を進めるごとに、俺は奴を―――アーサー・トゥエルヴの存在を意識し始めているのかもしれない。


「……珍しいな」


 バーダの声で、俺は意識をいつもの座標に戻す。彼女は傍らで、物珍しそうに俺の顔をのぞき込んでいた。俺は仏頂面で問い返す。


「何がだ?」

「まるで捨てられた飼い犬みたいな目をしている」


 言葉の内容に反して、彼女の口調に揶揄するような響きは無かった。言い返さずに沈黙していると、バーダは続けた。


「一応、言い聞かせておくとしよう」登りで呼吸を荒くしながらも、淀みのない真剣な声色だった。「過去に何があろうと―――今の貴様は飼い犬でも野良犬でもない。私の番犬だ。それは忘れてくれるなよ」


 思わず俺の口元に自虐的な笑みが浮かんだ。

「口座に振り込まれる護衛料金に賭けて、了承したよ」

 俺の冗句に、バーダもまた不敵な微笑を返した。まったく、まるで見透かしたような口振りだ。或いは、実際にそうなのかもしれない。


 それから一時間ほど登ったところで、前を行くエズミが足を止めた。確認するように周囲を何度か見回してから、俺たちを振り返る。頷いてみせるその瞳には、再び涙の予兆があった。


「此処なのね……」

 そう呟いて、バーダもまた辺りを見渡した。


 そこは先ほど休憩をとった場所と同じような台地だった。一帯は古木に取り囲まれ、地面はまるで岩盤のように乾き枯れ果ている。異様なほどに殺伐とした空気が辺りに漂っていた。少し右手に進んだところは切り立った崖になっており、その先には空が見えた。


 俺は腰の鉄剣に意識を傾けつつ、周囲の気配を探る。今すぐにでも奴が林の陰から飛び出してきそうな気がした。


「……ソード」とバーダが俺の背に隠れながら問う。「お前たちが例の怪物と会敵したのも、この辺りか?」


「あれを見てみな」と、俺は正面にある岩肌が露出した斜面を指す。「岩盤が削り取られた跡があるだろ。俺たちが此処で奴と戦った時に出来た傷だ」


 その岩には深々とした五本の直線が刻まれていた。バーダはそれを目にして驚きに口元を覆う。


「これ……もしかしてその怪物の爪痕なの?」

「奴は全身が攻殻、五指はその一本一本がまるで短刀並みのサイズだ。正直、三人がかりでも歯が立たなかった」と、そこで俺は右手の断崖を顎で指した。「結局、俺たちは満身創痍のまま、あの崖から転げ落ちるようにして撤退したんだ」


「この辺りが例の怪物の縄張り、ということね……あれは何?」


 俺が指した崖の方を見やり、バーダが呟いた。それにつられるようにして視線を向けたエズミが、何かに気づいたように駆け出した。俺とバーダも慌てて駆け寄る。


 その先、崖の側にあったのは二つの小さな岩塊だった。その一方の上には、およそこんな場所にある筈の無いものが引っかかっていた。


「ジャケット……? しかもこれは」

 俺はその革張りのジャケットの肩口に施された刺繍を見やる。言葉尻はバーダが継いだ。

「アルダナク連邦、国軍の印だ」


 エズミがそのジャケットを手に取り、襟裏のネーム刺繍を確認して、涙目を上げた。バーダが外国語で何かを尋ねると、彼女はこくりと頷きを返した。


「エズミの父親のものらしい」

「やっぱりか……しかし、妙だな」

 と、俺はそのジャケットの違和に気づく。バーダもそれに同意した。

「ああ。汚れてはいるが、このジャケットはほぼ無傷だ。少なくとも袖から胴部にかけて引き裂かれていない」


 つまり、人間が意図的に脱がない限りは、この形状で道端に落ちていることはない、ということだ。

 バーダがエズミに何言か言葉をかけると、彼女の表情にかすかに光が指した。


 先ほどエズミは、この場所で父親たちが例の怪物に襲われたことを伝えた。しかし、こうして父親のジャケットがほぼ無傷でこの場所に落ちているということは。


「難を逃れて、まだ生きてる可能性があるってことか」

 周囲を見渡しながら、俺は呟く。一方で、バーダは自分の顎もとに手を当てて何かを考え込む。

「だが、わざわざジャケットを脱ぎ捨ててく意図は何だ?」

 それは俺も疑問に思ったが、考えて答えが出るものでもない。

「さあな。当人の気まぐれと言ってしまえばそれまでだろ」

 俺が投げやりに言うと、バーダは呆れ顔で吐息をついた。

「二時間前に観察力が云々と講釈を垂れていた奴とは思えんな……ん?」


 突然、バーダの表情が変わる。俺はそれを無視して立ち上がった。


「おい、ソード、これを見ろ……!」


 彼女の口調には微かに興奮の色が宿っていた。指差す先にあるのは、ジャケットがかかっていた二つの小さな岩塊。そこには、それぞれに文字が刻まれている。小説家の視線はそこに釘付けになっていた。


「―――これは、いったいどういうことだ?」


 半ば呆然としながら呟く小説家の横で、俺は頭をぼりぼりと掻いた。


「そいつは、俺が考えて答えが出るもんなのか?」


 ため息と共に言って、俺はその二つの石―――『ガウェイン』『ランスロット』と刻まれた墓標を見下ろした。



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