〈三十二〉アトラビアンカに花束を〔前編〕
「翌日のアルノルン中央議事会堂前には多くの取材陣が集まり、その視線の先の演壇には他ならぬシンドラー・ビシャス卿の姿があった。旧帝派にとっては信じられない光景だっただろう。風前の灯火と思われていた筈の枢機卿が、万雷の拍手と歓声の中で力強く拳を掲げていたのだから。
ビシャス卿はその場でターマス要塞事件の真相を告白した。旧帝派の謀略は白日の下に晒され、南北戦争の勃発はすんでのところで回避されわけだ。彼は壇上で『テロリズムには屈しない』という構えを改めて全国民に示し、ユナリア全土の全火器武装の一斉摘発令を発した。後に言う『国土解放宣言』だよ。知ってのとおり、このおかげでその後の旧帝派勢力は衰退の一途を辿っていくことになる。
その演説の後段では記者たちからの質問が殺到した。そのどれもが一様に『ビシャス卿がどのようにして瀕死の状態から復活したのか』というものだったよ。そこで彼は経緯をありのまま、民衆に向けて語った。
『私が今日、こうして己の足でこの場所に立っていられるのは、偏に奇跡のおかげと言う他ございません。それを詳らかにすれば、ある一人の少女が私の傷を癒し、命を救ってくれたのです。誇張ではなく、真なる奇跡の力をもって。この場を借りてご紹介させていただきたい。彼女こそ私の、引いては我らがユナリア合衆教皇国を救ってくれた慈愛の信徒―――アトラ・クロムシェード嬢です』
ビシャス卿の紹介に次いで壇上に姿を表したのは、教会の純白の礼装に身を包んだアトラの姿だった。
私もヴィリティスも、そしてオーリアもその場で実際に見ていた。大衆の前に現れたアトラは、まるで別人のようだったよ。その顔に表情と呼べるべきものはなく、その代わりに敬虔な神秘性のようなものが宿っていた。既にその風格は聖女そのものだったんだ。
大衆は歓声のもとに彼女を迎えたが、私たちは誰も言葉を発しなかった。祝福することなど出来よう筈も無かった。目の前の光景は、他ならぬアトラ自身の犠牲があってのものだと、誰もが理解していたからな。
その翌日、教皇庁から国内全土に向けた認定宣言があった。
アトラ・クロムシェードに聖人認定が下りたこと。
そして洗礼名、アトラビアンカが彼女につけられたこと。
―――今から十二年前のことだ。ソード、おまえも覚えているだろう。内戦の緊張から解き放たれ、新たに聖女の誕生を迎えたユナリア国内は大いに湧いた。一時的な好景気にまでなるほどに、ね。
ヴィリティスもオーリアも私を責めなかったよ。二人ともアトラの性格が分かっていたし、だからこそ最大限、その選択を尊重してあげたいと思っていたんだろう。
しかし、それからの私たちの学園生活は、やはりどこか物悲しいものだった。アトラを欠いた四人部屋は妙に空々しく、タイプライターの音が響かない休日は空虚に感じられた。ついこの前まで窓辺にあった少女の姿は、もう何処にもない。その不在が時折、私たち三人の間にぎこちない沈黙を作った。
一方で、新聞には連日のように聖女アトラビアンカのことが載っていた。教皇庁は皇立病院に特別診療室を開設し、アトラの力を使って難病や奇病の治療に力を入れ始めていた。もっとも、優先的にその治療を受けられるのは政府要人だったがな。まぁ、ある程度は予想できていたことだったが……やるせなかったよ。まるでアトラが国政の道具のように使われているような気がしたからな。
それから二ヶ月ほど経った、六月のある日のことだ。コヴァイン卿が私たち三人を訪ねてきたんだ。コヴァイン卿に会うのは、アトラが聖女となってからそれが初めてだった。
アルノルン女学院の理事長室で再会したコヴァイン卿は、以前にも増して年老いているように見えた。件の大陸横断鉄道事業はまさに過渡期だったし、再び政線に戻って心労が絶えなかったのだろう。
『本当はもっと早くに君たちを訪ねるべきだったのだろうが……遅くなってしまった』
コヴァイン卿は皺だらけの顔を困ったように歪めた。
『―――君がオーリア君だね。アトラから何度も話は聞いている。君の描いた絵は私も拝見したよ。見事な才能だ』
オーリアがコヴァイン卿と会ったのは、それが初めてだった。枢機卿からの賛辞に、オーリアは私の隣で気恥ずかしそうに俯いていた。
そんな風に、最初は穏やかに雑談をしようとしていたコヴァイン卿だったが、やがて沈痛そうに目頭に手を当てた。
『……いや、すまない。本当は私に、こんな風に君たちと和やかな話をする権利など無いのだろう。私は結局、君たちから親友を……夢を奪ってしまったのだから』
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
『本当に申し訳無かった』
『いいんです、先生』と私は言った。『これはアトラ自身が選んだことです。悲しくないと言えば嘘になりますが、私たちは彼女の意志を尊重してますし、ましてやコヴァイン先生を恨んでもいません』
『……ありがとう、シスター・バーダ』
久方ぶりに呼ばれたその名前に、私は懐かしさからふっと笑みを漏らした。私は苦笑しながら言った。
『わざわざそれを謝る為だけに、訪ねてきてくれたんですか?』
『いや、それもあるが、せめてもの罪滅ぼしにと思ってね』そう言って、コヴァイン卿は少しだけ姿勢を前のめりにし、声をひそめた。『アトラに会いたくはないかね?』
私たち三人は同時に目を見開いたよ。アトラは今や教皇庁が定めた聖人だ。一般人の面通りなど、まず機会が無い。
『会えるんですか……?』
私が問うと、コヴァイン卿はにっこりと微笑んだ。
『外に箱馬車を待たせてある。三人ともすぐに準備してくれたまえ』
私たち三人は顔を見合わせて喜んだ。アトラとの別離以来沈んでいた空気が、ようやく払拭されたような気がした。
私たちはすぐさまコヴァイン卿と共に箱馬車に乗り、皇立病院へと向かった。裏門から院内に案内され、やがて通されたのは瀟洒な内装の待合室のような部屋だった。室内の革張りのソファには、見慣れた親友が腰掛けていた。
彼女は我々の来訪を見ると飛び上がるようにして立ち上がり、駆け寄ってきた。
『みんな!』
衣装こそ見慣れぬ教会の礼服だったが、アトラの見せた笑顔は以前と何ら変わりなかった。私たち四人は抱き合うようにして、久しぶりの再会を喜んだ。その様子を見ながら、後ろでコヴァイン卿が優しげに微笑んでいたのを覚えているよ。
椅子に座り、アトラがまず最初に口にしたのは私たちへの謝罪だった。
『ごめんなさい。私、勝手なことをしちゃって……』
だが、それ以上の弁解はヴィリティスが言葉尻を制した。
『もういいんだ、アトラ。私たちも全部わかってる』
『むしろ謝るべきは私たちの方です』とオーリアも続けた。『何も力になってあげられなくて、本当にごめんなさい』
『聖女の職務は辛くない? 酷い事とかされてない?』
私が心配顔で訊ねると、アトラは穏やかに首を左右に振った。
『うん、それは大丈夫。ビシャス卿やグレン卿、それにコヴァイン先生が色々と便宜を図ってくださるから。今みたいにね。ただ……』
そこで言葉を濁し、アトラはコヴァイン卿を見上げた。すると彼はこくりと頷き、言葉を継ぐようにして語り始めた。
『今回、君たちを呼んだことには実は理由がある。シスター・バーダ、君がグレン卿に対して出した条件についてだ』
私は少し表情が強ばるのを感じた。私があの日、グレン卿に出した条件―――たとえ聖女になってもアトラに小説を書く権利をあげること、そしてその小説に対して世間の正当な評価を与えること。
後々で冷静になってみれば、なかなか難しい条件だったと思う。先にも言ったが、聖女、聖人の扱いとは俗世からの超越者だ。本来ならばこのように、一介の女学生たちが面と向かって談話できるようなものではない。それが大衆文芸を出版するとなれば尚更だ。
コヴァイン卿は言った。
『グレン卿はその約束を果たすために尽力してくださっている。アトラの為に執筆の時間、環境までしっかり整えてくれたりしてね。ただ、それを出版社へ持ち込み、書籍化するとなると、やはり現在の教皇庁の定める戒律では難しいようだ』
私は俯き、唇を噛んだ。実は少し予想していたことだっただけに、悔しさよりも悲しさの方が強かった。
『それでね、バーダ』
と、今度はアトラが口を開いた。私が顔を上げると、彼女はまっすぐに私の瞳をのぞき込んでいた。
『私に、あなたの名前を貸して欲しいの』
『え?』
私は一瞬、虚を突かれてしまった。他の二人も横で目を丸くしていた。
名前を、貸す。
私たちには最初、その真意がまるでわからなかった。
その疑問に対しては、コヴァイン卿が説明してくれた。
『アトラは聖女という立場上、その名前で執筆活動を行うことは出来ない。しかし君は別だ、シスター・バーダ……いや、バーダロン・フォレスター』
彼から初めて名前で呼ばれ、私はようやく理解した。
『私の名前で……アトラの本を出版する、ということ?』
私のたどり着いた答えに、コヴァイン卿は頷いた。
『そうだ。アトラの小説を世に出すには、現状ではそれぐらいしか方法が無い。だが、それはつまりバーダロン、君の人生そのものを使って……』
『やります!』
コヴァイン卿の説明も待たずに、私は立ち上がり答えていた。
『それがどんな手段であれ、アトラの作品が世界中の人に読まれるチャンスがあるなら、私は何だってやります』
毅然として言い放つ私を、アトラが心配そうに見上げていた。
『……本当にいいの、バーダ?』
『当然でしょ。私の人生は、あなたが始めさせてくれたのよ。これがあなたの夢の為に使えるなら、こんなに嬉しいことってないわ。それに……』
それに、そう。
その理由さえもが建前になるくらい。
私の本心は、別にあった。
私はにっこりと微笑み、言ったんだ。
『―――これで私たち、ずっと一緒に居られるじゃない』
たとえアトラが聖女になっても。
どこか遠くへ行ってしまっても。
小説家という繋がりがある限り。
私たちは一緒に居られる。
……そうなんだ、私は単純に寂しかったんだよ。今までずっと傍にいた親友が遠くに行ってしまうことが、ね。どんな形でもいい、私はただ単に、アトラと繋がっていたかったんだ。
アトラは泣き出しそうな顔を無理矢理に笑顔にして、一度だけ頷いた。
『うん……!』
そこでヴィリティスが間に入るようにして言った。
『ふむ、そうと決まれば、まずは出版社に持ち込む小説を書かねば』そして口元には不敵な笑み。『編集者を唸らせるような作品を、な』
『作戦会議ですか!』オーリアも両手を合わせて楽しそうに言う。『まるで寄宿舎の夜みたいですわね』
オーリアの言葉に誰もが同意した。そのとき私たち四人を包み込んでいたのは、まさにそんな懐かしい空気だった。
『そんな君たちに朗報だよ』
と、横からコヴァイン卿の声がかかった。
『アトラは今夜、迎賓館に泊まる。そして君たちもその部屋に泊まれるよう手配した。もちろん、これは国家機密級の内緒だがね』
四人の口から歓声が上がったことは、言うまでもない」
◆
「夜が更けるまでずっと私たちは話し込んだ。迎賓館の客室にある大きなベッドの上で、四人で寝転がりながらね。懐かしい雰囲気だったよ。ほんの二、三ヶ月までは当たり前だったこんな光景が、私にはまるで太古のことのように感じられたんだ。……きっとそれくらい、私はアトラとの間に距離を感じていたんだな。
私たちが眠りに就いたのは、満月がもう高く昇りきった頃だった。だがその夜、私は頬を撫でる夜風で不意に目を覚ました。寝ぼけ眼を擦ってから、アトラがベッドから居なくなっていることに気づいた。月明かりを頼りにして、開かれたバルコニーに出てみると、アトラはそこでアルノルンの夜景を見下ろしていた。
『あ、バーダ。ごめんね、起こしちゃった?』
そう言って、彼女は月光の中でうっすらと微笑んだ。
『どうしたの、アトラ? 眠れないの?』
私が訊ねると彼女は小さな振幅で首を左右に振った。
『眠りたくない、が正確かな』そう言うアトラの視線は、ヴィリティスとオーリアが眠る室内。『なんだか勿体ないような気がして』
『きっとまた、こうしてみんな会えるわよ』
私が言うと、彼女はこくりと頷いた。
『そうね。きっとまた……』
それだけ言うと、彼女は再び眼下の街並みに目を戻した。私もまた彼女の隣で、無言で同じ光景を眺めた。
深夜のアルノルンの町並みに人影は無く、各所には寂しげなガス灯の灯りが見えた。青白い月光に照らされた街の建造物は、さながら暗い海に浮かぶ難破船のように、そして窓に灯るランプは静かに救助を待つ乗組員の松明のようにも見えた。
奇妙な光陰と静謐さの夜だったよ。
まるで時間までもが、その歩みを止めてしまったみたいに。
そんな中で、アトラはぽつりと呟いたんだ。
『―――私には、幼い頃の記憶が無いの』
『え?』
私は驚いて彼女の顔を振り返った。アトラはいつの間にか、頭上の満月を真っ直ぐに見上げていた。
『そう、記憶喪失、っていうのかな。六歳の時、私は荒野のルート七〇で教会に保護されたの。自分が何者か分からないまま、ただ呆然と立ち尽くしている所をね』
それは私も初めて聞く話だった。基本的に、修道院育ちの子供たちは殆ど過去の話をしない。お互いに幸福ではない過去を経てこの場所に来ているのだと、暗黙のうちに理解しているからだ。それを語り合った所で惨めさが増すだけだからね。
故に私も、アトラの生い立ちについてはそれまで深く訊ねたことが無かった。
『だから私の最初の記憶は、冷たい風の吹き荒ぶ路上の光景。そこから私の人生が始まったの。アトラという名前も、クロムシェードという姓も、そして生年月日まで、実はコヴァイン先生が決めてくれたのよ』
彼女が修道院に来た当初、やけにコヴァイン卿と親しげにしていた理由が、そこでようやく分かった。彼はアトラの名付け親だったんだ。
『私、ときどき思うの』と、苦笑めいた顔で言うアトラ。『私が小説というものに強い興味をもって、引いては自分から物語を書こうとしていたのは、もしかしたらそういう背景があったからなのかもしれない、って。ストーリーの無い自分自身を、どうにかして埋め合わせようとしているのかもしれない、ってね』
私は押し黙った。どんな言葉をかけてあげるべきか分からなかったんだ。
だが、彼女の言う感覚は、かつての私が抱いていたものに非常に近いものだった。そう、彼女もまた、幼いながらに自分の人生の一部が損なわれた人間だったんだよ。
私が言葉を見つけだす前に、彼女は言った。
『……でも、もういいの』
彼女の顔には、どこか吹っ切れたような清々しさがあった。
『そういう理由づけとか、考え込むのはやめようって思うの。自分の起源や、この能力がいったい何なのか、っていうこともね。今の私は小説を書くことを心の底から愛しいと思うし、そのおかげでバーダとこうして仲良くなれたんだから。それに、こうして私の背中を押してくれる友達や、コヴァイン先生みたいな理解者までいて、これ以上を望んだら罰が当たるわ』
『アトラ……』
『だからきっと、私はこれでいいのよ』
―――そのときのアトラは、おそらく自分自身の得体の知れない運命を完全に受け入れていたんだと思う。
出生が分からないことも、聖女であることも、自分の異能も。おそらく大人ですら容易には飲み込めないであろう理不尽を、彼女は卑屈になることもなく真っ直ぐに見つめていた。
わずか十歳の少女が、だ。
しかし私は、不憫に思うよりも先に憧憬を覚えていた。彼女が持つ、その魂の強さのようなものに。
『―――ねえ、アトラ』
私はようやく、その言葉だけを口にすることができた。
『私、アトラに出逢えてよかったよ』
どんな慰めも、どんな同情の言葉も意味を持たないと思った。
だから私は、私の中にある純粋な気持ちを言葉にした。
そのときはきっと、それだけが意味を持つと思ったんだ。
彼女は振り向いて、にっこりと笑った。それで私には伝わったよ。それ以上の言葉を、あえて口にする必要も無いくらいに。
それからずっと、私とアトラはバルコニーで満月を見つめ続けた。東の空が白み始めて、月がひっそりと蒼穹の中に消えていくまで。
ただ二人で、ずっとね。
……それが、アトラと過ごした最後の夜だった」
◆
「正暦一八六一年の夏は、アトラに会うことが出来ずに過ぎていった。彼女自身も公務と執筆の両立で忙しかったし、何より面会を取りはからってくれるコヴァイン卿が、件の大陸横断鉄道事業でユナリア各地を飛び回っていたからね。
私たち三人は、学院の長い夏休みをずっと寄宿舎で過ごした。私とヴィリティスは修道院に戻って清貧な……というよりも、息が詰まるような連休を過ごすつもりはなかったし、二人が残るなら、という理由でオーリアもまた実家には帰省しなかった。
先日のアトラとの一夜以来、私たち三人が共有していたのはある種の使命感だった。つまり、自分たちも何らかの力を―――そう、いずれアトラの力になれるような、社会的な力を得る必要がある、ってね。だから私たちは連休を使って、それぞれに自己研鑽に励むことに決めたんだ。ヴィリティスは以前から始めていた剣術の鍛錬を、オーリアはアトリエに籠もって絵の勉強を。
私はというと、一人でずっと図書館に入り浸っていた。本を読む為ではない。私もまた、私自身の鍛錬の為だ。
―――そう、私が小説を書き始めたのはその時だった。
いずれアトラの小説を私の名前で出すとなれば、私という人間が脚光の場に姿を出すことになる。そこで私自身に小説家の資質が無いと分かれば問題だからな。
私がやったのは殆どがアトラの小説の模写だった。一般論だが、才能というものの多くは模倣と反復によってのみ研鑽される。私は長い長い夏休みを使って、彼女の文体を、文脈の癖を、そして文章のリズムを身体に染み込ませた。新学年が始まる頃には、私はアトラの書く文章を完璧なまでに再現することが出来たよ。
休暇が終わり、私たちの元にアトラからの手紙が届いたのは、三回生に進級して最初の月曜日だった。そこに書かれてあったことは二つ。出版社に送る為の小説を半分程度書き上げたこと、そして次の日曜日に四人でまた会えるようにコヴァイン卿が取りはからってくれたこと。久しぶりの連絡に私たちは喜んだ。そのときは三人とも次の日曜日が待ち遠しかったよ―――そう、一八六一年の九月八日が、ね。
当日、約束通りコヴァイン卿の箱馬車が寄宿舎まで迎えに来てくれた。窓にカーテンを下ろしたランドー型馬車で、とても一国の枢機卿が乗っているとは思えないほど小さな馬車だった。
『狭くてすまないが、少しの間だけ辛抱してくれたまえ。何せ、お忍びで参った次第でね』
車内でコヴァイン卿は悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
『アトラは元気ですか?』
私が訊ねると、コヴァイン卿は頷いた。
『ああ。多忙な公務の中であっても、執筆の手は速まるばかりだ。先日、あまりの書きっぷりにタイプライターが先に参ってしまってね。彼女に泣きつかれて、キャリッジの部品を交換したばかりだよ』
私たちはその様子を想像して、お互いに笑い声を漏らした。アトラは昔から、機械にさほど強くはなかったからな。
道中、私たち三人はこの夏休みの間の出来事をコヴァイン卿に話した。自分たちが研鑽に努めたこと、出来るようになったこと、そしてこれから先に目指すこと。コヴァイン卿はいつものにこにことした表情でそれを聞いていた。
途中で私は我に返って、口元に手を当てた。
『あ、ごめんなさい。一方的に私たちの話ばかり……』
コヴァイン卿は例の鉄道事業で日々ユナリア中を走り回る毎日だ。疲労も溜まっているだろうに、こんな小娘たちの騒がしい話を聞かされたのでは気が滅入ってしまうだろう。
しかし、彼は穏やかな表情のまま首を左右に振った。
『いや、かまわない。むしろ、もっと聞かせてくれたまえ』
そう言って、彼は三人の瞳をそれぞれ順番に見つめ返した。
『君たちのこれまで、そして未来のことを、もっと語ってくれたまえ。それだけで、私はこれからどのような試練にも挑むことが出来る』
コヴァイン卿のそのときの瞳は、とても七〇を越えた老体のものには見えなかった。力強く、慈愛的で、かと思えばまるで―――そう、夢を語る子供のようにも見えた。
『諸君等の未来を思えばこそ、私はいくらでも強くなれるのだよ―――さぁ、着いたようだ。行こう、アトラが待っている』
いつの間にか馬車は王立病院の裏門に到着していた。馬車の戸を開けて降り立ち、私たちは以前と同じように病院の裏口に向かって歩み始めた。だが、途中でコヴァイン卿がふと立ち止まり、空を仰いだ。
『嗚呼、今日もまた素晴らしい青空だねぇ』
『コヴァイン先生?』
先ほどと打って変わり、急に年寄りじみた物言いをする枢機卿に、私は面食らってしまった。
『あ、いや、突然すまないね。先ほどの話だが……正直な話をすると、老い先短いこの身が少しばかり恨めしくもあってね。自分で言うのも何だが、私はいつお迎えが来てもおかしくない年齢だ。君たちがこれから作り上げていく新しい時代を見届けられないというのは、やはり残念で仕方ないよ』
『何を急に、お年寄りのようなことを言い出すんですか』と私は呆れてしまった。『鉄道事業だってまだ佳境でしょうに。今、先生にいなくなられたら困るのは私たちだけじゃありませんよ。国全体が迷惑です』
『ははは、こりゃ手厳しいなぁ。なかなか言うようになったね、バーダロン』
『先生はもっとずっと長生きするんです。私たちが大人になるまで、ずぅっと』
私が言うと、枢機卿は困ったように頭を掻いた。それから不意に目を優しげに細めて、私たち三人を見回した。
『安心しなさい。私たちの責務は最後まで果たすつもりだよ。それに、事業自体はちゃんと先まで見据えて進めているんだ。君たちの未来には必ず―――』
そこから先の言葉は、無かった。
遮ったのは一つの破裂音。
『え?』
私の口から、疑問の声が漏れた。
時間が止まったような気がした。
コヴァイン卿は呆然としながら、ゆっくりと自分の左胸を見下ろした。
いつの間にか、其処には一点の穴が穿たれていた。
やがて、その穴から赤い血が滲みだし、その雫が黒衣を伝って路上に滴った。
―――撃たれた。
何に?
銃だ。
コヴァイン卿が、銃で撃たれた。
その状況を把握するのに少し時間がかかった。
『コヴァイン先生っ!』
『いやぁぁぁっ!』
崩れ落ちるコヴァイン卿を前に、ヴィリティスとオーリアが絶叫する。私は咄嗟に反対方向に目をやった。病院の裏門の傍に三人の男たちの姿があり、そのうちの一人が白煙立つ銃口をこちらに向けていた。
『ここでクルト・コヴァインを仕留める! 作戦開始だ、全班に伝えろ!』
男が叫ぶと、傍らにいた二人の男たちがそれぞれ別の方向に走り去っていった。
咄嗟に私の脳裏に浮かんだのは、数年前の出来事だった。そう、コヴァイン卿の暗殺事件。あのときと全く同じことが、再び目の前で起きていた。
混乱と衝撃に呆然とする私の方へ、その男は銃を構えたまま歩み寄ってきた。コヴァイン卿にとどめを刺すつもりだったんだろう。
『どけ、小娘!』
殺気走った眼で怒号を上げる男。我に返った私は、倒れ伏すコヴァイン卿の肩を担いで叫んだ。
『オーリア、早くコヴァイン先生を院内へ!』
『う、うん!』
私とオーリアは彼の両肩を担ぎ、よろよろと病院の入り口に運び始めた。しかし何せ、体格差は十歳の子供と成人男性だ。運び込むにしてもあまりに時間が掛かりすぎる。
そこで動いたのは、ヴィリティスだった。彼女は傍らに置き捨てられていた園芸用の長柄シャベルを手に取り、それを携えて男へ疾走した。
『てやぁぁぁっ!』
『貴様っ!』
迎え撃つように、男の銃口が彼女に向けられた。
『ヴィリティスっ!』
私の叫びと、銃声が鳴り響いたのは同時だった。私たちの眼前で、ヴィリティスの左肩から鮮血が飛び散る。だが、彼女の激走は止まらなかった。
舞い散る血と共に路上を蹴り、ヴィリティスは男に飛びかかった。そして狼狽する男の顔面に、彼女の振るうシャベルの鉄板が猛烈な勢いで叩きつけられる。男は声を上げる間もなく大地に伏した。
ヴィリティスはその勢いで路上を転がり、やがて左肩を押さえて立ち上がった。
『行け、バーダ、オーリア!』
『でも……!』
『私は軽傷だ! それよりもコヴァイン卿を!』
ヴィリティスの指摘に、私はコヴァイン卿に視線を向ける。顔は蒼白で、呼吸は今にも断ち切れんばかりに細くなっていた。私は唇を噛みしめ、頷いた。
『行くわよ、オーリア。はやく先生をアトラの元へ!』
コヴァイン卿は見るからに致命傷だ。状況は完全にあの時を再現していた。もはや選択肢はアトラの治癒の能力しか考えられなかった。
息を切らしながら院内への扉を開け、私は大人たちの助けを呼ぼうとした。
『誰か、助けてくだ―――』
しかし、私の言葉は突然、巨大な爆発音により遮られた。
同時に、建物全体を強い揺れが襲う。
『きゃ……!』
オーリアが叫び声を上げる。
一方で私の頭には、先ほどの男の言葉が蘇っていた。
作戦、開始。
『まさか……』
それが意味するもの。
そもそもの、奴らの正体。
導き出された結論に、私は戦慄する。
『旧帝派の、テロ……!』
そう―――一八六一年九月八日、正午。
先の国土解放宣言により軍備縮小を強いられていた旧帝過激派は、残る武装勢力を総動員して最後の行動に出た。奴らは皇都アルノルンの主要施設の五箇所に対して武装攻撃を開始。皇立競技場、チャンドラー劇場、国庫金融局本所、アルノルン中央教会、そして皇立病院が標的となった。連中はそれぞれの場所で一斉に爆発物を爆破させ、それを『制裁』と称して、合衆教皇国が掲げる文化と体制への反発を示したんだ。
それが、建国以来最悪と呼ばれた同時多発テロ事件、アルノルン事変。
追いつめられた旧帝派による『交渉の余地無き拒絶』だった。
それにより、国庫金融局ではルドマン・グレン枢機卿が、中央教会ではシンドラー・ビシャス卿が凶弾に倒れ、わずか一時間足らずのうちに実に四〇〇人以上の死者を出した。
もちろん、そのときの私はそれを知る由もない。だが現状を推察した時、反射的に頭に浮かんだことがあった。
『アトラ……!』
アトラが危ない。旧帝派が此処を襲ったとすれば、聖女を見逃す筈がない。
そこで、肩を支えるコヴァイン卿が振り絞るように声を出した。
『バーダ、ロン……オー、リア……下ろした、まえ』
既にその顔に生気は無く、口元からは血があふれ出していた。立っているのすら辛そうで、私とオーリアは一旦、廊下の壁に寄りかからせるようにしてコヴァイン卿を下ろした。
『先生、喋っちゃ駄目!』
『いい、んだ……私は、もう、助から、ない……アト、ラを、連れて、逃げ、なさい……』
『先生、そんな!』
『聞きなさい……!』
切れそうになる呼吸の中、精一杯の強い語気で、コヴァイン卿は言った。
『奴らは、旧、皇国主義の、信奉、者……合衆、教皇国のすべてを、敵と、している……それ、は、学徒である、君たちも、例外では、ない……見つかる前に、早く……!』
『いやよ! 先生も一緒に逃げなきゃ! アトラならこれくらいの傷、きっとすぐに治してくれるわ!』
目の前の事象を拒絶するかのように、私は叫んだ。
ほんの数分前まで笑っていたコヴァイン卿の命が、こんなにも容易く失われていくことが信じられなかった。それはどうしようもなく間違っていることのように思えた。
だが、コヴァイン卿は静かに首を左右に振った。目前に迫る終焉を、全て受け入れるかのように。
『私、の……人、生に、悔やむ、ことなど、何一つ、無い……時代を、引き継ぐ者たち、が、必ず、いる……だが、ここ、で、君たちを……アトラを、死なせてしまっては、死んでも死にきれん……』
私の頬に触れるコヴァイン卿の手は血で真っ赤に染まっており、足下には既に夥しい量の血だまりが出来ていた。その凄惨さを見て容態を悟れないほど、私たちは愚かではなかった。
『私、からの、最後の、お願、いだ……せめて、君たち、は……生き延びて、くれ……』
涙が溢れる私とオーリアの瞳を見つめながら、コヴァイン卿は言葉を紡いだ。
『我々の、願った未来へ……!』
私たちはその瞳から目をそらすことが出来なかった。
こんな場面に出くわすなど、誰が思っただろう。
だが、それを直視しないわけにはいかなかった。それは先生の最期の願いさえをも、拒絶してしまうことのように思えたからだ。
だから私とオーリアは、ほとんど同時に頷きを返していた。一度だけ、強く、確かに。
それを見届けると、コヴァイン卿は安堵したような吐息を漏らした。そして、二度と息を吸い込むことは無かった。
『先生……?』
私が先生の手を握ると、無情な静寂が返ってきた。
オーリアがその亡骸に抱きつき、泣き叫ぶ。
『先生……コヴァイン先生っ! いやぁぁぁぁっ!』
途端、かつてない喪失感が私を飲み込んだ。暗い暗い、闇の奥底へと落ちていくような感覚。だが、私は精神力を総動員して、その指先を暗闇の崖に突き立てた。
―――まだ、私にはやるべきことがある。
ここで、死ぬわけにはいかない。
『行くわよ、オーリア。アトラを助けに……!』
血塗れの袖で涙を拭い、私は言った」




