〈三十一〉夏への扉
「修道院では誕生日の子がいると夕食の時にささやかなお祝いがある。まぁ、お祝いと言っても料理が一品増えたりするわけではないし、食後にケーキが出てくるわけでもない。修女長が祝いの言葉を述べて、誕生日の子がそれに感謝の言葉を返す。それだけだ。
その日も修女長が私の誕生日を皆に告げ、ほとんど定型文と化した祝辞を述べたよ。その後、私を一瞬困ったような表情で眺めて、小さく諦めるような吐息をついた。私から言葉が返ってくることは期待できないと踏んだのだろう。
そこで私は椅子から腰を上げて、口を開いたんだ。
『―――修女長、お祝いの言葉をありがとうございます。何より、こうして七歳の誕生日を迎えられたことを神に感謝いたします。皆様も行く末健やかに、幸多からんことを』
それだけすらすらと言って、私は澄まし顔で再び着席した。子供たちもシスターも、みんな口をあんぐりと開けて呆然としていたよ。
はは、内心では痛快だったね。隣のアトラも笑い出したいのを必死にこらえているみたいだった。
……それからというもの、私はそれまでのブランクを埋めるかのような勢いで大いに語り、そして笑った。
勉学の時間に牧師様を上回る知識を披露したり、授業中の講師の誤りを指摘したりした。それまでの読書量のおかげで、実に多種多様な知識や雑学が頭にたたき込まれていたからね。下手に理論武装した子供ほど厄介なものは無い。シスターたちはそれまで以上に私の取り扱いに頭を悩ませているみたいだったよ。
性格がまるで反転したおかげもあって、修道院の子供たちの中にも友人と呼べるべき存在が出来ていった。大人でさえ手を焼く私の存在に、子供たちはある種の羨望のようなものを抱いたんだろう。自分で言うのも何だが、私はいつしかアトラと同じくらい院内の人気者になっていったよ。
ヴィリティスもまた、そのときに出来た友人の一人だった。彼女は昔からあんな堅物で、規則や礼節に関してはアトラ以上にうるさい人間でね。そのせいで私と彼女は何度か衝突したりもした。はは、思い返せば、お互いにまだまだ子供だったということだろうな。
こっそりアトラやヴィリティスと修道院を抜け出して、アルノルンの街に遊びに出たりもした。ヴィリティスは半ば監視役だと言い張りながら、だったがね。そのおかげで、修道院の外にも実に多くの知り合いが出来た。
名家アンダープラチナ家の令嬢、オーリア。路地裏喫茶のマスターのブルーと、ウェイターのリット。探偵のギュスターヴ・オーデュ。電信技術者のラムベル博士とその息子のアレックス……名前を挙げたらキリが無い。それらのエピソードで、私はそれぞれ一本ずつ小説を書くことが出来るだろう。
―――それは私の人生にとって、最も充実して幸福な時代だったよ。私の人格のすべては、ほとんどその時期に形成されたと言ってもいい。
興味の赴くままにあちこちを駆け回る私に、教会のほとんどの人間が頭を抱えていた。が、唯一、コヴァイン卿だけは私のそんな変化を喜んでいたよ。
例の大陸横断鉄道事業のせいで逢う機会は少し減ったが、私とアトラはコヴァイン卿の部屋に足繁く通った。私にとってもアトラにとっても、彼が最大の理解者だったからね。
『様々な意見があるが、今の君たちの年代にとって最も重要なのは、自身の興味に純粋に従うことだと私は考えているよ。多くを見て、多くを聞いて、多くを学びなさい。ただし……なるべく規則の範囲内でね』
苦笑して言うコヴァイン卿に、私とアトラは顔を見合わせて悪戯っぽく笑った。私が言葉を手に入れてからというもの、アトラの性格もいささか変わったようだった。私の影響もあって、何というか、まぁ……少しばかり不道徳な方向へ、ね。以前よりもずっと馴染みやすくなった、というのが正しいだろう。
ある日、私はコヴァイン卿に、そのアトラの件で前々から気になっていたことを訊ねてみた。
『どうしてコヴァイン卿はアトラのことを「シスター」とは呼ばないの?』
『うん? ああ、それはだね』
コヴァイン卿はアトラに一瞬目配せして、自分の机の引き出しから一つの紙の束を取り出した。
『彼女はシスターとなるべき人間ではない。アトラにはまったく別の、賞賛すべき資質がある』
彼が見せてくれたのは、原稿用紙の束だった。
『これは……小説?』
私が目を落として言うと、隣でアトラが少し気恥ずかしそうに言った。
『―――小説家になりたいのよ、私』
そんなアトラの告白に、コヴァイン卿は誇らしげに頷いた。
『彼女には間違いなくその才能がある。そしてそれを育もうとする誠実さがある。故に、私はアトラをシスターとは呼びたくないのさ。彼女はいずれ文筆を糧に生きていくであろう人間だからね』
その話を聞いて、私はまるで自分のことのように嬉しくなったよ。アトラの小説の素晴らしさを誰よりも知っているのは、この私だったからね。
『アトラならなれるわ、絶対』私は彼女の手を両手で握りながら言った。『絶対よ』
『……ありがとう、バーダ』
アトラは照れくさそうに、だがそれ以上に嬉しそうにはにかんだ。
『ああ、そうだ』と、そこでコヴァイン卿が思い出したように言った。『アトラ、君の誕生日は二週間後だったね』
コヴァイン卿は部屋の片隅から、何か大きな木箱を取り出してテーブルの上に置いた。ずっしりとした、随分と重そうな箱だった。
『私は明日からイクスラハに向かわねばならなくてね。鉄道と馬車を乗り継いで一ヶ月の旅だ。残念ながら当日に居合わせることは出来ない。だから、少し早いが―――私からの誕生日プレゼントだ』
『プレゼント……?』
アトラは呆然としながらその木箱を見下ろした。それを見てコヴァイン卿は悪戯っぽくウインクをした。
『開けてごらん。きっと気に入るはずだ』
アトラが恐る恐るその木箱の蓋を開けると、そこには見慣れない物が鎮座していた。黒光りする鉄製の筐体と、アルファベットが刻印された二十六のキー。
『タイプ、ライター……』
唖然として呟くアトラに、コヴァイン卿は自慢げに言った。
『そう、レミルトン社とフレア社が共同製作した最新型、バレンタイン222型。既に名器として名高い逸品だ。気に入ってくれたかな?』
『そんな……こんな高価なもの、どうして……』
『アトラ、君は私の命の恩人でもある』
コヴァイン卿は自らの左胸に手を当て、真剣な顔で言った。
『君がどう思おうと、そのときの出来事は紛れもない事実だ。これはそのお礼も含めた私なりの誠意だよ。お願いだから受け取ってくれたまえ』
アトラは少し戸惑っているようだった。
先のコヴァイン卿の暗殺未遂事件。そのときアトラの身に起きた出来事は、私たちの間で暗黙の話題となっていた。彼女自身、その事象を消化しきれていなかったし、私もそんな彼女を更に問いつめるようなことは出来ればしたくはなかった。
あれ以来、修道院には教皇庁から何度も役人たちが訪れ、アトラに対して審問を行っていた。アトラがコヴァイン卿に対して起こしたのは間違いなく『奇跡』と呼べる現象だったし、教会としてそれを放っておくわけにはいかなかったんだろう。つまりは―――そう、彼らは彼女を聖人認定しようとしていたんだ。
教皇庁が定める聖人の定義は知っているな。生前に少なくとも二度以上の奇跡を起こした人間、だ。教皇庁はアトラに幾度と無くそのときの事象、治癒の再現を求めた。わざわざ掠り傷を作った役人を連れて来たりもしてね。だが、彼女にはどうしてもそれが出来なかった。
……いや、もしかしたら『出来なかった』のではなく、意図して『しなかった』のかもしれない。アトラ自身、その審問に消極的だったし、たぶん聖人認定自体も避けたかったんだろう。
彼女の夢はあくまでも小説家であって、聖女なんかではなかったからな。
タイプライターを前に躊躇うアトラに、私は明るく言った。
『アトラ、貰っちゃいなさいよ』
『でも……』
アトラの瞳には迷いの色が見えた。これを受け取れば、最初に起こした奇跡を認めることになってしまうのでは、そんな懸念が読みとれた。
だから、私はそれを笑い飛ばしたんだ。
『だって、これで小説家の夢にまた一歩近づけるじゃない』
私のそんな言葉にアトラは一瞬目を丸くした。
『今の小説家のほとんどはタイプライターを使ってるらしいし、それにこれ、たしかあの作家のエディ・ランプが使っているのと同じ型よ。そうでしょ、コヴァイン卿?』
『え、ああ。さすが博識だね、シスター・バーダ。その通りだよ』
エディ・ランプは当時の文学界を代表とする、今の大衆小説の流れを作った作家でね。私もアトラもその作品に傾倒していたんだ。
『だから、ね、アトラ』
私がまっすぐに瞳を見つめると、やがてアトラは口元を緩めて頷いた。
『―――うん』
エディ・ランプ云々の話が決め手ではない、と私には分かったよ。ただ一人の人間として、彼女は私とコヴァイン卿の意を真摯に汲み取ってくれたんだ、とね。
アトラは枢機卿に向き直り、深々と頭を下げた。
『ありがとうございます、コヴァイン先生。私、これでもっとたくさん小説を書いてみます』
『ああ、頑張りたまえ。私も応援するよ』
『書き上げた時は、また読んでくださいますか?』
『ああ、もちろんだ。心待ちにしているよ、アトラ』
コヴァイン卿は本当に楽しみにしているように、にっこりと微笑んだ。
―――それからの二年間、私とアトラの日々は常に活字と共にあった。
二人で歴史に残る数多の小説を読みあさり、流行の小説も片っ端から読破していったよ。お互いに意見を交換し、どうすれば名作と呼ばれる作品が書けるのか、技法からテーマに至るまでを議論した。アトラは馬車馬の如き勢いで小説を書き、一章節を書き上げるごとに私が校正していった。
すべて、彼女の小説家という夢の為だ。
私にはね、それがまるで自分の夢であるかのように感じられたんだ。そのための協力であれば、どんなことだって苦にはならなかった。
人生における真の贅沢というのは、自分の目指すものの為に時間を自由に使えることだ。そういった意味で、あの日々は私たちにとって非常に充実した歳月だったよ。
修道院では九歳を迎えると、勉学の優秀な人間に修学の機会が与えられる。その年は私とアトラ、そしてヴィリティスの三人が進学の権利を得た。ま、私の素行には若干の問題もあったが、成績の優秀さでは院内一だったからな。当然、新たな環境への誘いは幼い私たちの好奇心を大いに刺激した。私もアトラも、ヴィリティスもまた、二つ返事でその権利を行使したよ。
斯くして九歳になった我々三人は、その夏から公立アルノルン女学園に六年間通うことになったわけだ。
修道院の寮から出て、学園の寄宿舎へ。そこで私たちに与えられた部屋は四人部屋だった。奇しくもルームメイトは私たち三人。そして、修道院時代に街で知り合った友人―――そう、オーリア・アンダープラチナだった。新しい環境に少なからず緊張していた我々にとって、それはささやかな僥倖だったよ。
初めての学生生活は新しい経験ばかりだった。特に個人の実力が重視されるというコミュニティの構造は、修道院時代には無かったものだったからね。私とアトラは知っての通り既に尋常ならざる知識量を持っていたし、ヴィリティスもまたそれに負けじと勉学に励んできていた。結果として、私たち三人は入学初年で学園始まって以来の高い成績を修めた。
そして新たな友人のオーリアもまた、非凡ならざる才能を持った人間だったよ。さすが名家育ちというか、幼い頃から数多の美術作品と触れ合ってきたせいもあって、彼女は芸術の分野で凄まじい才覚を発揮した。その一年で彼女は国内の絵画コンクールで三つも賞を取り、しかもそのうちの一つは学生で受賞可能な賞の中でも最も権威があるとされる教皇奨励賞だった。もっとも、本人は受賞後も至って平静としていて、いつも通り宙に浮いているようなふわふわとした微笑を浮かべていたがね。まったく、『芸術家』というのはよく分からん人格を持っている者だと、そのとき初めて思ったよ。
一年が経ち、二回生に上がる頃には、我々四人は学園でも一目置かれる存在になっていた。……ふふ、この話は誇張ではないぞ。機会があればアルノルン女学院の校長室前の廊下を覗いてみるといい。一八六〇年度の成績最優秀者のプレートには、多くの上級生を抑えて我々四人の名前が刻まれているからな。
その年、我々が十歳を迎えた頃には、かつての大恐慌がもたらした経済的爪痕は癒え始めていた。三人の枢機卿が立案した大陸横断鉄道事業は民衆に広く受け入れられ、多くの雇用が生まれていた。国内の生産性は向上し、時代の車輪が勢いよく回転を始めていた。誰もが、世界がこのまま明るい方向に走っていくものだと疑わなかった。もちろん、私たち四人もね。
私たちはよく、大陸横断鉄道が完成したら何処に行きたいか、という話をした。そのとき決まって誰もが口にするのが『海』だったよ。私たちはみんな大陸中心部の出身だったし、誰も海というものを見たことがなかったからな。
当初、大陸横断鉄道が完成するのは一八六五年と言われていた。とすれば私たちは十五歳、ちょうど女学院の卒業の年だ。だから私たちは卒業したらすぐに四人で海に行こうと約束したんだ。夏の太陽が照りつける西海岸の海辺へ、な。
それまでにどうやって旅費を貯めようか、というのが、しばらくの間、寄宿舎での私たちの夜の話題だったよ。学外で日雇いの仕事を見つけてお金を貯めよう、とか、卒業までに論文で賞金を当てようだとか、はたまたアトラが早々に作家デビューしてその印税を使おう、とか……夜遅くまでそんなことを話していた。楽しかったよ。あんなに楽しかったことはない。私たちはまだ十歳で、未来には無限の可能性があると信じていた。
……だが、その年の春。
―――私たちの夏への扉は、永久に閉ざされてしまったんだ」
◆
「一八六一年四月十二日、ユナリア国内で非常にナーバスな事件が勃発した。ターマス要塞砲撃事件、と言えば聞いたことがあるだろう。
サウスキャロライン州の最南東、真珠海に面して築かれたターマス要塞は、かつてのユナリア独立戦争時代に皇国軍によって作られたものだ。
……まぁ、実はこれがまた厄介な代物でね。建造物としての所有権はかつての皇国軍大佐であったアンダーソン家にあったんだ。故に当時の所有者はその子孫であるロビン・アンダーソン。彼は旧帝派の幹部の地位にあたる人物で、その施設で旧帝派員を統率していた。
知っての通り、旧帝派は教皇庁にとってまさに目の上のたんこぶだ。武装蜂起を警戒する政府は何度も施設の視察を申し入れたが、当然、連中がそんなものを許すはずがない。そのせいで要塞周辺では幾度と無く騎士団と小競り合いが起きていたらしい。
だが、そんな中、突如としてロビン・アンダーソンがターマス要塞の所有権を放棄し、ユナリア政府に譲渡するという声明文を一人の枢機卿に送ったんだ。そう、無血開城だよ。どうやらアンダーソンは、近年の旧帝派閥の動向に対して疑問を抱いていたらしい。そこにとある枢機卿が密かに接触し、説得を続けていたのだそうだ。
その人物の名はシンドラー・ビシャス卿。そう、大陸横断鉄道事業の若き立案者の一人だった。
ターマス要塞の開城というのは歴史的にも非常に意義深い出来事だった。要塞は港の正面にあり、昔から水路の封鎖という役割が非常に大きかったんだ。そのせいでサウスキャロライン州の貿易業は長年の間阻害され続けてきた。それが無くなったとなれば大陸北部や東歐諸国からの海運が活性化し、遅れていた南東部の開発がようやく進んでいくことになる。それはまさにユナリアの国力拡大に他ならない。
―――だが、もちろんそれを許さない者たちもいた。旧帝派と一口に言っても連中は一枚岩ではない。そう……いわゆる過激派の連中だ。
ターマス要塞の城門が開放され、ビシャス卿率いる視察団が現地を訪れたその日、事件は起こったんだ。
旧帝過激派は要塞内の武装を施設開放の前夜にすべて持ち出していた。もちろん、裏切り者であるアンダーソンには秘密裏にな。その数、実に大砲五〇門。連中はそれを入り江に隠してあった鉄板被覆艦に積み込み、翌日の城門開放と同時に出航、海上から要塞に向けて一斉に砲撃を開始した。武装を持たぬターマス要塞はたちまち崩壊し、ロビン・アンダーソンはその戦火の中で死亡。ビシャス卿もまた重傷を負った。
それが、ターマス要塞砲撃事件。
旧帝派とユナリア政府の内乱、いわゆる『南北戦争』の引き金に『なりかけた』事件だよ。
旧帝過激派の真の目的は、アンダーソンとビシャス卿の暗殺ではなく、大義名分を得ることだった。連中は砲撃が終えると同時に艦を放棄、積み込んだ大砲五〇門と共に海上で爆破した。それが木造帆船ではなく、最新鋭の鉄板被覆艦だったというのが大きなポイントだ。すべては海底深くへと沈み、砲撃の証拠ごと隠蔽された。そこで奴らはこう主張し始めたんだ。
『あの砲撃は教皇庁により仕組まれたものだった』とね。
連中の言い分はこうだ。そもそものアンダーソンの開城声明そのものが教皇庁の捏造であり、政府はそれを旗印に施設捜索を強行、拒絶する旧帝派と戦闘状態に突入した。籠城戦に持ち込まれた教皇庁は秘匿開発していた火薬兵器により要塞を攻撃、アンダーソン含む多数の旧帝派を虐殺―――馬鹿馬鹿しい筋書きだが、教皇庁にはそれを否定する証拠が無かった。
大砲を積んだ軍艦は海の藻屑と消え、政府の視察団は全滅、唯一の証人たり得るビシャス卿は意識不明の重体。おまけに施設内にはアンダーソン一派の死体がごまんと転がっていた。ご丁寧にそれぞれ額に銃弾を打ち込まれ、銃は視察団員の死体の傍に添えてあったそうだ。
証人はおらず、目撃者の話でも『海上から船が大砲を撃っていた』という情報しか無かった。状況はすべて教皇庁にとって逆風だった。旧帝過激派の妨害を避けるために秘密裏にアンダーソンと接触してきたことが裏目に出てしまったわけだ。このままビシャス卿の意識が戻らねば、事態は最悪の方向―――そう、南北戦争の勃発に向かうことになる。
現体制との明確な線を引き、沈静化しつつあった旧帝穏健派を巻き込んで組織化を計ること。それこそが旧帝過激派の真の目的だった。たとえそれが虚構であっても、戦いの火蓋が切って落とされてしまえば、もう誰にも止められないからな。
……ソード、おまえもさすがに、あの当時の国内の雰囲気は覚えているだろう。そこはかとない奇妙な緊張感。日常の首もとに、非現実という名のナイフが押しつけられたような空気感……今思い出しても嫌な感じがするよ。
私たちは事件以降、新聞に毎日目を通して経過を見守っていた。特にビシャス卿の容態についてね。私とアトラはコヴァイン卿の繋がりで何度も彼に会っていたし、少なからず敬意も抱いていたからな。信心深いヴィリティスはもちろん、性根の優しいオーリアもまた、ビシャス卿の心配をしていた。
事件から五日経ったある日のことだった。授業中に院長先生が突然教室に入ってきて、私とアトラを呼び出した。私たちに来客がある、とね。私とアトラは顔を見合わせて首を傾げたよ。わざわざ授業を遮ってまで私たちを呼び出すような人物に、心当たりは無かったからね。
通された院長室では、一人の黒衣を纏った人物が待ちかまえていた。白髪交じりの金髪を短く刈り揃えた、厳格そうな中年男性だ。私もアトラも、思わず目を丸くしたよ。
『……君たちに会うのは、これが二回目だな。大きくなったものだ』
その人物は私たちを見て、ほんの少しだけ口元を弛めた。私の口からは、呆然とその名前がこぼれ落ちた。
『グレン、卿……?』
教皇庁国庫金融省統括、ルドマン・グレン枢機卿。
そう、コヴァイン卿、そしてビシャス卿と共に大陸横断鉄道を立ち上げた、三人の枢機卿の一人だった。
修道院時代、私たちはコヴァイン卿の部屋で一度だけ彼に会ったことがあった。国庫金融省のお偉方というだけあって、一言も喋らずに気難しげな顔をしていたことだけを覚えている。私たちとの間で特に何か会話をしたとか、個人的な繋がりがあったというわけではない。面識がある、という程度だ。
だからこそ、私たちは少しだけ混乱した。何故、そんな人物が私たちを訪ねてくるのか、とね。
『……通常は世間話でも挟みたいところだが、実はあまり時間が無い』
そう言ってグレン卿は腰掛けていた椅子から立ち上がり、私たちの前まで歩み寄った。
『アトラ・クロムシェード君、そしてバーダロン・フォレスター君。今日は君たちにお願いがあって参上した』
何故かは分からない。
そのとき、なんとなく私には嫌な予感がしたんだ。
なんとなく、そう。
―――これまでの日常が、壊れてしまうような。
そして突然、グレン卿は私たち対して深々と頭を下げたんだ。
『―――どうか、頼む。彼を、シンドラー・ビシャス卿を救ってくれ……!』
予感は的中した。そこでようやく、私はこの来訪の真意を理解した。彼が求めているのが、アトラの持つ力……かつてコヴァイン卿を救った、治癒の奇跡だと。
急な展開に言葉を失う我々に、グレン卿が続けた。
『ビシャス卿は今朝がた、此処アルノルンの国立病院に搬送された。しかし、国内最先端の医療技術を持ってしても、彼の命はもはや風前の灯火だ』
グレン卿は一向に頭を上げなかった。冷静に考えてみれば異例の光景だったと思う。一介の女学生に、国の重鎮たる枢機卿が頭を下げているのだからな。
『今、彼を失うことはユナリアという国を失うに等しい……それだけは、断固として阻止せねばならない』
それは、つまり。
『アトラを聖女に仕立て上げようっていうんですか!』
私は思わず叫んだ。叫ばずにはいられなかった。グレン卿の申し出とは、結局のところはそういうことだったからだ。彼女がビシャス卿の傷を癒せば、それはすなわち教会が観測する二度目の奇跡―――そう、アトラに聖人認定が下りることになる。
『そんなの、そんなのって……!』
許せるはずがなかった。
それでは、私たちが積み上げてきた物は何になる?
彼女が小説家になる為に、彼女を小説家にする為に、私たちが二人で費やしてきた時間は何になる?
グレン卿の懇願は、アトラの夢を潰すことと同じだった。
枢機卿はゆっくりと顔を上げた。その表情には苦渋が色濃く表れていた。
『今、私が教会の人間としてあるまじきことをお願いしていることは分かっている。アトラ君、君のことはコヴァイン卿からすべて聞いている。その才能も、その努力も、その目指す先の夢も。そして、そのためにバーダロン君が献身的に支えてきてくれたことも……全部、知っているつもりだ。コヴァイン卿からもまた、君たちを国政に巻き込まないで欲しいと強くお願いもされている』
『だったらどうして……!』
『この国を、守る為だ』
私たちを真っ直ぐに見つめるグレン卿の瞳は、未だに忘れられない。暗い悲しみの向こうに宿る、烈火のごとき使命感。彼が計り知れぬ重責を抱えながら此処に立っているのだと、私は一目で思い知らされた。それほどまでに説得力のある瞳だったよ。
その迫力に気圧される私の前で、枢機卿が絞り出すように続けた。
『このままビシャス卿が死ねば、先のターマス要塞の真相は闇に葬られてしまう。そうなれば、おそらく旧帝派と教皇庁の対立は決定的だ。最悪、戦火が国を燃やすこととなる。数多の人々の努力でようやく経済が立ち直り、この国が息を吹き返してきたというのに……!』
グレン卿の握る拳が、小さく震えていた。
やがて、グレン卿はその両膝を折り、さらに両の手のひらまでも床につけた。
『頼む! 私の枢機卿権限のすべてを剥奪してもいい。ビシャス卿を、この国を救ってくれ。今、それが出来るのはアトラ君、君しかいないのだ……!』
何か反論を口にせねば、と私は思った。だが、どんな言葉を口にしたとしても、今目の前で頭を下げている人物の信念には遠く届かない気がした。
『……どうしてその話を、アトラ本人にだけではなく、この私にまで?』
ようやく口にできたのは、そんな結論にならない問いかけだった。グレン卿は膝をついたまま顔を上げ、私の目を見つめた。
『言った筈だ、バーダロン君。コヴァイン卿からすべて聞いている、と。この件については君を蔑ろにすることは出来ない、私はそう判断した』
ルドマン・グレン枢機卿の懇願は国の未来を憂いてのものだ。故にそれは慈愛的であり、だが同時に利己的でもあり、そしてその一方で、何よりも誠実だった。もう、私の口から言葉は出なかった。出せなかった。感情的に拒絶できればどれだけ良かっただろう。だが、そのときの私は既に、状況も理屈も理解できてしまっていたんだ。
当のアトラはずっと沈黙したままだった。それまで、私は彼女に気遣う余裕すら無かった。そこでアトラの声が静かに響き、ようやく私は彼女の方を振り向いた。
『―――分かりました』
顔を上げたアトラの瞳に、躊躇いは無かった。悔しさも、悲しみも、怒りすらも無かった。彼女の顔に宿っていたのは、すべてを決意した真摯さだけだった。
『急ぎましょう。私をその病院に案内してください』
『アトラ!』
『いいの、バーダ。分かってるから』
いったい何が分かっているというのか。何も分かっていないじゃないか。その決断が何を意味しているのか、自分がこれからどうなってしまうのか。
『……ごめんね、バーダ。でも、あなたにも分かっているでしょう。今、この国がどういう状況になっていて、どういう未来が待ちかまえているのか』
私は押し黙り、彼女は続けた。
『私ね、あなたが生きる世界を……ヴィリティスやオーリアや、コヴァイン先生、みんなが生きている世界を、私は失いたくない。その為に私に出来ることがあるのなら、私はそれを為すべきだと思う』
『でも、それじゃあなたは……』
そこでアトラは少し困ったように微笑した。
『うん、聖女様になっちゃうかもしれない。小説家とはちょっと違うけど……でも大丈夫よ、きっと聖女様でも小説は書けるから。もしかしたら、史上初の聖人小説家ってことで売れちゃうかも』
それが彼女の強がりだということが、私には分かっていた。聖人認定を受けるということは、俗世からの超越者として教会に扱われるということだ。そんな人物の書いた大衆文学など発刊出来る筈が無いし、何より教皇庁が許す筈が無い。
『―――本当にごめんなさい、バーダ。でも、もう決めたから』
だが、アトラの言葉に宿っていたのは、自身の夢を諦める絶望ではなく、私への深い謝罪だった。それでも尚アトラを止めようとするならば、それは彼女への侮辱になるような気がした。
悔しさで張り裂けそうになる胸を両手で押さえながら、私はグレン卿を振り返った。
『……私から条件があります、グレン卿』
半ば睨みつけるようにしながら、私は言った。
『どんな状況になってもアトラに小説を書く権利をください。そして、それに対する世間の正当な評価も』
グレン卿は立ち上がり、力強く一度だけ頷いた。
『この命にかけて、約束しよう』
そこで私は堪えきれなくなった。歪めた顔の頬を、熱い流線が伝っていくのが分かった。アトラはそんな私をそっと抱きしめてくれた。
本当は私が彼女に対してそうしてあげるべきだったのに。
誰よりも悔しいのは私ではなく、アトラの筈なのに。
『ありがとう、バーダ。私、あなたが親友で本当に良かった』
それが、アトラ・クロムシェードとしての彼女と、私の最後の会話。
―――こうして、聖女アトラビアンカは生まれたんだ」




