〈三十〉流れよ我が涙
「当時の社会情勢について、念の為に少し補足しておこう。その年は前年に起きたグランドリバー生命保険信託会社の破綻に端を発する、大恐慌の年だった。
通称『一八五七年恐慌』、さすがにその名前くらいは知っているだろう。グランドリバーの負債総額七〇〇万ドルは、主に信託で強い繋がりを持っていた東部の投資銀行に飛び火した。その大きな被害を被ったのは農園経営者たちだ。東部各州の農園は軒並み閉鎖され、州都には失業した農夫たちが職を求めて大挙した。農作物の価格は軒並み高騰し、都市の路上には浮浪者たちが増え、まさに荒廃を絵に描いたような有様だった。
教皇庁は失業者対策として緊急融資を立案したが、既に時期は手遅れだった。実施されたところで焦げ付きは目に見えており、結果としてそれは政府への国民の不信感を加速させることになった。
……まさに暗澹とした時代だったよ。修道院のシスターたちは連日のスープキッチンで疲弊していた。院内までどことなく暗い雰囲気だったな。
教皇庁が最も危惧していたのが、労働条件の改悪による奴隷制度の再来だ。半世紀以上を費やしてようやく根絶せしめた悪習を蘇らせることは、引いてはかつての皇国制度を是とする連中―――そう、旧帝派の増進に繋がる。事実、連中はこれを好機とばかりに派閥の増強に躍起になっていたそうだ。
だが、そんな世の流れを止めようとした人物たちがいた。それがシンドラー・ビシャス卿、ルドマン・グレン卿、そして我らが修道院の院長、クルト・コヴァイン卿の三人だ。
自慢ではないが、私はそのビシャス卿とグレン卿にも実際に会ったことがある。グランドリバーの破綻以降、彼らは何度かコヴァイン卿を訪ねていたからな。
特に一番若いビシャス卿は足繁く修道院に通っていたよ。彼は三十六歳という若さで枢機卿の地位まで上り詰めた人物で、その若さゆえに三人の中で最も情熱的な人物だった。私がコヴァイン卿の部屋の前を通ったとき、たまたま彼の熱弁が聞こえてきたことがあった。
『今の世の流れを変えねばならない。その為にコヴァイン卿の力を借りたいのです』
『私も力を貸したいのは山々だが……しかし、貴兄は如何なる方法で、この状況を打破するつもりかね?』
偶然とはいえ、その歴史的な会話を聞くことが出来たのは、私の人生の幸運の一つだろう。ビシャス卿は自信ありげに言った。
『西部と東部を繋ぐ、一筋の線を作り上げるのです』
『一筋の線? ふむ、それはまさか……』
『ええ、その通りです―――大陸横断鉄道の開通に他なりません』
『なるほど、西部のゴールドラッシュは沈静化したとはいえ、確かに現状の大陸の両端では大きな貧富格差がある。人の流動化が計れれば経済効果も見込める、というわけかね』
『はい。シエラサクラ鉄道が既に事業主として名乗りを挙げています。これは非常に大きな事業となりますし、そうなれば多大な労働力も必要となります。失業した農夫たちにも仕事を行き渡らせることが出来るでしょう』
『しかし、だ。そのために越えねばならぬ壁は、かなり多いと思うがね。事業指導の壁、財源の壁、そして―――』
『人心の壁、ですね』
『……ふむ、それらを把握しているということは、それなりの見通しが立っているということかな?』
『事業自体の主導は私が携わります。幸い、その業界に関して私の人脈には自信がございますので。財源についてはグレン卿がお力添えしてくださると、固く約束してくださいました』
『なんと、あのルドマン・グレン卿がかね?』
『ええ、それほどまでに、国内の経済状況は絶望的であるということでしょう。ご存じの通り、グレン卿は教皇庁国庫金融省の最たる実力者です。その厳格さ故に財界の信頼も厚い。ましてや、約束を反故とするような人物でもありません』
『なるほど―――委細、理解したよ。貴兄が私に求めていることまで、ね』
『人権の父たるコヴァイン卿への国民の信頼は、政治不信が叫ばれる昨今においても未だ偉大なままです。どうかこの事業の立案に、枢機卿のお力をお借りしたい』
『私の名前を、かね』
『それは卿の名状しがたき人格があってのお名前です』
コヴァイン卿はしばらく考え込むような沈黙を置いてから、答えた。
『―――一線を離れたとはいえ、私もこの国の行く末を憂う人間の一人だ。私に出来ることがあるならば、尽力しよう』
『嗚呼、ありがとうございます! 猊下のお力添えは百の軍勢にも勝ります』
『はは、それは買いかぶりすぎだよ』
『三日後には事業立案の会見を開きます。さすがに先の緊急融資政策の失態もありますので、国民からはおそらく様々な疑念や反対の声も出てくるでしょう。しかし、この事業の真なる必要性、何より未来への希望をその場で民衆に訴えねばなりません』
『そこが私の最初の仕事となるわけだね。よかろう、すぐに演説の準備に取りかかるとしよう』
『私は明日、グレン卿と共にまた伺います。段取り等の詳細はその際に―――コヴァイン卿、改めて感謝いたします』
『それは私の台詞だ。これからのこの国には、貴兄のような若く情熱的な力が必要だよ。老い先短い身とはいえ、共にユナリアの夜明けを目指そう』
私はたまたま部屋の前の廊下で聞き耳を立てていただけだった。特に関心が引かれたわけではない。何となく最後まで聞いてしまっただけだ。或いはもしかしたら、無意識のうちにその会談の重要性を予感して足を止めたのかもしれないな。
とにかく、そう―――その時の二人の枢機卿の会話こそ、今の『前進する息吹』と呼ばれる時代の分岐点、大陸横断鉄道事業の始まりを告げるものだった。
その翌日にはアルノルン中央修道院の礼拝堂に三人の枢機卿が集った。二日後に控えた会見の打ち合わせの為にね。礼拝堂はその会談の為に終日立ち入り禁止とされた。
が、どうやらアトラはそれをこっそり盗み聞きしに行ったらしい。部屋に戻ってくるなり、少し興奮した様子で語ったよ。
『凄いわ、バーダ! もうすぐこの国の端から端までを繋ぐ鉄道が出来るのよ!』
既に昨日の時点でその話を知っていた私は全く驚かなかった。ま、仮に知らなかったとしても、浮かべる表情は変わらなかっただろうがな。
だいたい、いったいその話の何が凄いのか、当時の私には見当がつかなかった。アトラはそんな私を見て、呆れたように言った。
『いい、バーダ? その鉄道が出来れば、これまで行くことが難しかった色んな場所に行くことが出来るのよ』
彼女はそこで自分の机の棚からユナリアの国土地図を取り出し、私の前に広げて見せた。各所を指さしながら興奮した様子で彼女は語った。
『西海岸のロアの人形図書館も、東海岸の百塔の都イクスラハも、そこから真珠海を渡った歐州諸国にだって行けるわ。ねぇ、バーダ。私たちが大人になる頃には、世界中を見に行けるようになるのよ』
目を輝かせて言うアトラに、私は羨ましさのようなものを覚えた。
世界。
そのときの私にとって、その単語がどれだけ無機的に響いたことか。それは私のいる場所から線を一歩越えた所にあるものだ。
では結局、私はそれに触れることが出来ないじゃないか。
もし声が出せたなら、私はそう叫んでいたかもしれない。
無表情のまま俯いていると、アトラはそんな私の手をそっと取った。
『―――バーダ、焦らせるつもりはなかったの。ごめんなさい』
そして、アトラは見透かすような瞳で私を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
『でも忘れないで。あなたはいつだって世界の中心にいるの。あなたはまだ、それに気付けていないだけ。あなたは、あなたの物語の主人公なのよ』
でも、そのときの私にとって、アトラのその言葉はやはり空虚な単語の羅列でしかなかった。私がその言葉の本当の意味を理解できたのは、結局それから二日後―――私の七歳の誕生日のことだったよ。
……だが、事件はその前日に起きたんだ。
私の六歳最後の日は日曜日だった。修道院の礼拝堂は一般に公開され、定例の礼拝が行われていた。アルノルン中央修道院の日曜礼拝には、院長であるコヴァイン卿の人望もあって多くの聴衆が集まる。ましてや卿の説教は当時の薄暗い時勢では、信仰厚い民衆のささやかな松明にもなっていたからな。
基本的に礼拝には修道院の子供たちは皆出席することになっていてね。私とアトラも当然その場所にいたよ。例のごとく、私は半ば渋々だったがな。
礼拝の終盤、いつも通りコヴァイン卿が参列者の間を献金袋を持って回っていたときだった。礼拝堂の出口の傍に座っていた男が突然立ち上がって叫んだ。
『皇国を貶める、惰弱な信仰に鉄槌を!』
次いで、何か乾いた破裂音のような音がした。
そのとき、私は不思議と冷静だった。その環境下で破裂音を放ち得る物など、ほとんど限られている。初めて聞いた筈なのに、過去に読んだ文献の知識から、私にはそれが銃声であると分析できた。
次いで私の視線の先で、コヴァイン卿が胸を押さえながら倒れ込んだ。
それに一拍遅れるようにして騒然となる堂内。参列者の叫び声が木霊し、シスターたちが倒れ伏すコヴァイン卿に駆け寄った。黒光りする拳銃を手にした男は、教会の男性の牧師たち三人が取り押さえた。拘束されてからも、その男は始終怨嗟の声を上げていた。
―――旧帝過激派によるテロ行為だったよ。
大陸横断鉄道事業の話を耳にした旧帝派が、その立案を阻止する為にコヴァイン卿の暗殺を企てたんだ。後々聞いた話だが、当時、旧帝派は大恐慌に乗じて大規模な革命を計画していたらしい。知っての通り、革命に必須なのは大衆の扇動だ。教皇庁への国民の不信感を利用して火種をくべていた連中にとって、国家団結を成し得るであろう事業は、まさに恐れるべき火消しの水だったのだろう。
……だが、そんな奴らの企ては、誰もが予想し得なかった形で失敗に終わったんだ。
『コヴァイン先生っ!』
私の傍らでそう叫んだのは、アトラだった。
左胸から大量に血を流し、蒼白になりながら倒れ伏す枢機卿に、彼女は駆け寄っていった。アトラは息も絶え絶えにシスターたちをかき分け、コヴァイン卿の傍らに膝を着くと、法衣を暴いてその傷口を露わにさせた。私も間近で見ていたが、心臓を貫かれていることは明らかだった。それくらい夥しい出血量だったからな。そして既にコヴァイン卿の意識は無く、呼吸も止まっていた。
『あ、ああ……』
言葉にならぬ声を発しながら、アトラはその小さな手で傷口を覆った。何とかして出血を止めようとするみたいに。
『アトラ、下がりなさいっ!』
『猊下を早く病院へ!』
『アトラ!』
口々に叫ぶシスターたち。その視線の先で、それは起きた。
傷口に当てたアトラの小さな両手が、突然淡い光を放ち始めたんだ。
見ていた者たちは誰もが言葉を失った。自分たちの目の前で、いったい何が起きているのか分からなかったんだろう。
光は次第に強さを増していき、それと反比例するようにして、コヴァイン卿の左胸から流れ出る血の量が減っていった。
二分くらいだったろうか。
アトラの両手の光が消えたときには、出血は完全に止まっていた。アトラが自分の修道服の裾で血を拭ってみると、そこに穿たれていた筈の傷も消えていた。
『う……げほっ、げほ……っ!』
驚くべきことに、そこでコヴァイン卿の呼吸が戻った。瞼をうっすらと開け、意識まで覚醒していた。
途端、周囲から歓声が上がったよ。目の前で起きたのは、紛れもない奇跡だった。
それを成し得た当のアトラは、額に大粒の汗を浮かべながら呆然としていた。自分が今、何をしたのか分からない、そんな顔だったよ。彼女自身、それまで知らなかったんだ。
―――自分に、聖女たり得る『奇跡』の力があることに。
『バーダ、私……今、何を……』
アトラはどこか戸惑うような目で私を振り返った。彼女のそんな顔は初めて見たよ。だが当然、私の口から言葉を発することは出来なかった。私にだって何が起きたか分からなかったし、それ以上に、目の前で起きた非科学的な現象に驚愕していたからな。
コヴァイン卿はその後、病院に搬送され、修道院は第一騎士団の厳重な警備が置かれた。子供たちはそれぞれ自室での待機を命じられたが、アトラだけがシスターたちに連れられて別室へと連れて行かれたよ。彼女が部屋に帰ってきたのは、その日の夜遅くになってからだった。
部屋に戻ってきたアトラは疲弊しているというより、どちらかと言えば混乱しているように見えた。何か話しかけてやれば良かったのだろうが、生憎、私はかけられる言葉を持ち合わせていなかった。二つの意味でも、ね。
アトラはそんな私を見て、少し困ったように微笑んだ。
『私が戻るのを待って、ずっと起きてたの?』
そのときの私の手元には、いつもの本は無かった。私は肯定も否定もしなかった。
『ありがとう、でも今夜はもう寝ましょう、バーダ。明日はあなたの誕生日なんだし』
こんなときにまで他人に気を遣える彼女に、子供ながらに私は驚かされたよ。私は素直に頷きを返して、ベッドに潜り込んだ。
だが、なかなか睡魔は私の意識をさらって行かなかった。妙に気分が落ち着かなかったんだ。たぶん、恐怖だったんだと思う。未遂だったとはいえ、人が殺される所を見たせいだ。
その日の出来事は私の奥底の、何かしらの古い記憶をくすぐった。まるで魔女の冷たい舌先が背筋をざらりと撫でていくみたいに。とにかく、それは凄く嫌な感じだったよ。
私がようやく眠りに就いたのは明け方近くになってのこと。結局、目を覚ました頃には太陽は高く昇ってしまっていた。
『おはよう、バーダ』
ベッドで眠気眼をこする私に、アトラは窓辺の藤椅子でにっこりと微笑みかけた。窓から差し込む強い無色。陽だまりの彼女の服装はいつもの修道服ではなく、質素な麻の白いワンピースだった。
『シスターがね、今日は一日自室で清貧に過ごしなさい、だそうよ。修道院は今日は一切出入り禁止ですって』
昨日のことを考えれば、当然と言えば当然の措置だ。しかし、私はいつも通り枕元の修道服に袖を通した。それ以外の服を、私は持っていなかったからね。
『―――コヴァイン先生は、今朝がたにはもう歩けるようになっていたそうよ。出血が心配されたけど、もう心配無いわ。予定されていた会見も今日、行われるみたい』
その話を聞いて、私はどこか心の緊張が緩んだのを感じた。それもまた、私にとっては初めて味わう感覚だった。
ふと気づくと、アトラは自分の両の手のひらをじっと見つめていた。昨日自分の身に起きたことの実感を確かめるみたいに。だが、やがて私の視線に気づくと、追求を拒むように首を小さく左右に振った。
『そうだ―――ねえ、バーダ。約束を覚えてる?』
しばらく沈黙を挟んでから、私は小さく頷いた。
その日は私の七歳の誕生日。アトラはその日に、私に見てもらいたいものがあると言っていた。
すると彼女の表情に、子供らしい無邪気な喜びの色が射した。まるでこの日を本当に楽しみにしていたみたいに。
『良かった! それじゃ、これ……』
そう言って彼女が差し出したのは、一冊の本。
『―――バーダ、誕生日おめでとう。私からのプレゼントよ』
深紅の革張りの瀟洒な装丁で、随分と分厚かった。一目でかなり高級な書物であることが分かった。
プレゼント。
未だかつて貰ったことの無いそれを、私は戸惑いながらも両手で受け取った。
『この世で一冊だけの、あなただけの本よ。コヴァイン先生にお願いして製本してもらったの。バーダ、本が好きだったでしょ』
得意満面の笑顔でそう告げるアトラ。
『私が書いた、小説よ』
―――そう、夜な夜なアトラが机に向かってペンを走らせていたもの。彼女が私の為に書いた小説。
私は半ば呆然としながら、その本の表紙を撫でた。これだけの文量を書くのに、いったいどれほどの労力と時間がかかるのだろうか。それを、私一人なんかの為に?
『気に入ってくれるかは分からないけれど……一応、コヴァイン先生は良い出来だって褒めてくださったわ。ねえ、バーダ。読んでくれるわよね?』
私はゆっくりと、小さく頷いた。頷くべきだと本気で感じたからだ。コヴァイン卿が言っていたように、彼女の好意に応えねば、と。
『ありがとう。読み終わったら、感想を聞かせてね』
だが、それには応えかねた。約束することが出来なかった。そのことに若干の心苦しさを覚えながら、私は無言で彼女の対面の藤椅子に腰掛けた。しかしアトラはまるで何もかも分かっているという風に、いつも通りにこにこと微笑みながら私を見つめていた。
私は一呼吸置いて、そのページを開いた。
―――親愛なるBへ。
一ページ目の冒頭には、そんな文句が書かれてあった。
物語は一人の少女の幼年期から始まっていた。
個人貿易商を勤める父親と、料理の上手な母親。主人公の少女はそんな両親と共に幸せに暮らしていた。
だがある日、三人を乗せた馬車が隣市まで行く道中で崖崩れに遭ってしまう。生き残ったのは五歳になったばかりの少女だけだった。少女はやがてアルノルンの修道院に預けられ、修道女として生きていくことになる。
……その主人公のモデルが私であると、すぐに分かったよ。私の父も貿易商を営んでいたからね。おおかた、アトラはシスターたちから聞いたんだろう。
だが、その登場人物の性格だけが、実在の私とは大きく違っていた。
当初は両親の死で塞ぎ込んでいたものの、やがて少女は修道院のシスターや同年代の子供たちのおかげで少しずつ立ち直っていった。
作中の修道院では様々なことが起きた。それらはすべて、現実の私自身が蔑ろにしてきた物事だった。
同年代との軋轢があり、やがて和解があり、絆とも呼べるべき繋がりが出来た。それらを通して、少女は少しずつ他人との距離を知っていった。
シスターや院長からの善意があり、友人からの親切があり、何よりそれらに対する自分自身の義務感が生まれた。そんな風に、少女は報いることの大切さを知っていった。
理不尽さに直面してはやり場のない悲哀と怒りを覚え、大海に投げ出されたような絶望感を味わった。その中で少女は、自らが認められる喜びや誇りを小さな手に握りしめ、その大海を渡る為のコンパスとした。
そして両親の死と、天涯孤独の身の上―――その事実の上に、それでもなお辛うじて立っている、自分自身の底知れない強さを知った。
少しずつ、少しずつ、少しずつ。
その物語の少女は、笑えるようになっていった。
いつの間にか私は、その少女に自分自身を投影していた。
―――それは、あるべき筈だった私の幻想そのものだったんだ。
そうなっていたかもしれない、私自身の別の可能性。
読み進めていく内に、どこかで何かがひび割れていく音が聞こえたような気がした。
だが、それらを通して尚、主人公の少女の胸中には薄暗い過去が小さく渦巻いていた。両親だけが死に、自分だけが生き残ってしまったという、強迫観念にも似た自責。自分が生きる意味、或いは死ななかった理由。子供ながらにその答えを追い求める少女に、私はシンパシーのようなものを抱いたよ。
……それは、当時の私の根底にある『くらやみ』と全く同じだったからな。
物語の締めくくりで、少女の親友が養子縁組により修道院を出て行く場面があった。その親友は最後に、少女に向けてこう言った。
『大丈夫、あなたはこの世界で生きていいんだよ』
その章節を読み終えた時、とうとう私を取り囲んでいた何かが決壊した。城壁が地を打ち、射し込む強烈な無色が、私を取り囲んでいた暗闇をぬぐい去っていくのを感じた。
……気がつけば長い時間、私はその本を読んでいたらしい。窓の外の太陽は既に西の空に傾き始めていた。どこかから、シスターたちの作る夕食の匂いが鼻をくすぐった。開いた窓から暖かな春の風が流れ込み、私の頬を撫でていった。私の目の前で、橙色の斜陽が照らすページの上に、何か煌めく物が落ちていった。
一粒、二粒。
もう、そこからは止まらなかった。
気がつけば、私の瞳から止めどない涙が溢れていた。耐えきれず嗚咽を漏らし、仮面のようだった顔を歪め、ただひたすらに私は泣いた。
『なん、で……』
私が読み終わるのを待っていたのだろう。アトラは自分の読んでいた本から顔を上げて、驚きに目を見開いていた。
『バーダ、あなた、今……?』
絞り出すようにこぼれた私の言葉が、この世界の空気を震わせた。
『なんで、分かるの……っ!』
この世界で、生きていい。
―――それこそが、私が何よりも欲した言葉。
凍り付いた心の片隅で、辛うじて望んでいた答え。
再び歩き出す為の『許し』だった。
『う、うう……うわあぁん……!』
恥も外聞も無かった。それまでの沈黙を補うかのように、私は大声を上げて泣きわめいた。
喜びと悲しみ、怒りと安堵。それらすべてを孕んだ滂沱の落涙。渦巻く感情の輪郭は掴めず、私の身体から溢れ出てどんどん拡大していった。それはまるで、この世界すべてを埋め尽くすかのように。
『バーダ……』
泣きじゃくる私をアトラがそっと抱きしめた。気づけば、彼女も同じように泣いていた。良かったね、良かったね、と何度も繰り返しながら。
しばらくの間、私たちは夕陽の射し込む窓辺で抱き合っていた。私が泣きやむまで、ずっとね。
それが私にとってもっとも強く記憶に刻まれた情景―――私が、生まれ変わった日のことだ」
◆
「……『物語』という媒体の特筆すべき機能にして最大の責務とは、『有り得なかった現実の追体験』にある。アトラの小説は私にそのことを教えてくれた。事実、私はその物語を通して心の有り様を掴むことができたわけだからな。空想が、いびつに欠けてしまっていた私の人生経験を埋めてくれたんだ」
そこまで話し終えて、小説家は一息ついた。
俺はそれまでの間、一言も言葉を発しなかった。そのエピソードは間違いなく、彼女が初めて俺に見せる個人的な一面だった。それを無碍に扱うほど、俺自身の性格は歪んではいない。
「……退屈な話だったら、この辺で切り上げるぞ」
ふと、そこで小説家が苦笑めいた顔で言った。俺は首を左右に振る。
「いや、続けてくれていい」
「そうか?」
「ああ」
「なんだか変な気分だよ」と小説家は吐息をつく。「こんな風に誰かにこの話をするなんて、初めてだからな」
「きっと、いつかは誰かに語るべき話だったんだろう」俺は焚き火に木をくべながら、淡泊に答えた。「それがたまたま今で、たまたま相手が俺だったんだ」
「おまえは稀に得心のある言葉を言うな」
小説家はくすりと笑い、俺は不服さに鼻を鳴らした。
「だが、確かにおまえの言う通りかもしれない。たぶん、私自身も誰かに語りたかったのかもな」
揺れる炎に照らされた彼女の顔に、少しだけ翳りが射したように見えた。小説家の話はまだ終わっていない。その行く末が、決して救済的ものではないことは容易に汲み取れた。
俺は膝の上で両手を合わせ、再び彼女の言葉を待った。
「―――続きを話そう。私が、私自身の言葉を手に入れてからの話だ」




