〈二十九〉想い出の速さはどれくらい
その少女、エズミ・サリンジャーはアルダナク連邦のとある軍属家系の娘で、内乱の悪化から軍大佐である父親と共に亡命してきたのだという。軍閥の重要人物だった父親は、越境の際に八人から成る親衛隊を引き連れてイヴィルショウ山脈に入山した。以降のあらましは、殆ど先の亡命軍人と同じだ。山の中腹で何かに襲われ、エズミは父親の「早く逃げろ」という声を背に命辛々下山してきたらしい。
「Je vous presente mes sinceres excuses pour le desagrement qui vous a ete cause...」
一通りを話し終えると、エズミはうなだれながらそう言った。言葉の意味は分からないが、何となく謝罪を口にしているのであろうことは伝わってくる。
バーダがそれを宥めるように口開いた。
「Ne vous en faites pas, Esme.Je vais aller en cette montagne」そう言って、彼女はそっとエズミの肩に手を置く。「Je vous souhaite sains et saufs ton pere...」
彼女の父親の無事を祈る、とか、おそらくはそんな意味合いだろう。意外と雰囲気で伝わるものだ。
エズミはその手にすがるように手を重ね、俯いたまま肩を震わせ始めた。煌々と燃ゆる焚き火の灯りに照らされて、少女の頬を一筋の涙がこぼれていくのが見えた。
太陽は既に暮れ、辺りは宵闇が降りている。
我々はあの後、そのまま北東に馬車を走らせ、牙持つ獣たちの生息域から少しばかり外れた所で日程を終えた。岩塊に囲まれた窪地を見つけて焚き火を起こし、今に至るというわけだ。基本的に獣たちは火を怖れる。完全に安心出来るとは言えないが、火を絶やさない限りはそこまで神経質に危惧する必要は無いだろう。
頭上にはうっすらと薄い雲が広がっているようで、星々の瞬きは殆ど見えない。月の無い夜だった。
エズミはひとしきり泣いた後で、やがてゆっくりと立ち上がり、呟くような声で言った。
「Desole...Laissez-moi tranquille...」
「Oui, Bonne nuit, Esme」
小説家はそう答え、エズミの肩を支えながら幌を降ろした馬車の荷台まで付き添ってやった。戻ってきた小説家はどこか沈痛そうな面もちで、俺の傍らの灌木に腰を落とした。
「眠りたいそうだ―――泣く所をあまり人に見せたくないんだろう」
俺は煙草の煙を吹くにとどめ、特に返答はしなかった。だいたい、どんな感想を口にしろと言うのだ。
「私も今夜は外で寝よう。護衛をしっかり頼むぞ、ソード」
苦笑めいた顔で言う小説家。俺は思わず目をしばたかせた。
「なんでだ、女同士なんだから一緒に馬車で寝ればいいだろう?」
「私を人心を解さぬ屑どもと一緒にするな、と以前にも言った筈だが?」小説家はやれやれと首を振る。「……あの子は一晩中泣き明かすよ。利発な子だ。たぶん、父親の状況が絶望的であることぐらいは分かっている」
俺は眉を寄せた。
「だったら、なんでまたあの子は山に戻ろうとしてるんだ?」
「その現実をしっかりと受け止める為に、だ。父親は生きているかもしれない―――その幻想を、これからの心の支えとするのは逆に辛いんだ。この先の長い人生を送っていく上ではね」
小説家はそこで瞳を伏せた。
「だからこそ、現実を受け止める必要性を理解できている。強い子だよ、彼女は」
俺は頭上に紫煙を吹き、短くなった吸い殻を目の前の焚き火の中に弾き捨てた。
幻想を心の支えとして生きていく、その辛さ。
何となく、他人事のような気はしなかった。
俺は意識を切り替え、言う。
「しかし、随分とあの娘に肩入れするじゃあないか」
「ん……まぁ、彼女のこれからを考えると他人の気がしない、というのが本音だよ。私も元々は『みなしご』だったからな」
俺は素直に驚いてしまった。それは初耳だ。それが表情に出ていたのだろう、彼女は俺の顔を見てくすりと笑った。
「あまり知られている話じゃない。両親は私が五歳の時に馬車の事故に巻き込まれて死んだ。兄弟姉妹も親族もいない、正真正銘の天涯孤独だよ。それからずっと、私は修道院で育ったんだ」
「修道院って……は?」俺の口から呆けた声が漏れる。「え、いや、おまえ、もともとシスターだったのか?」
その事実の方が先ほどのものより驚愕だ。小説家はそんな俺の反応に、どこか不機嫌そうに眉を寄せた。
「そんなに驚くべき所か? 清貧純潔を絵に描いたような私とそれほどイメージのギャップは無いと思うが」
いや、お前と修道女を掛け合わせたら破戒僧のイメージしか出ねぇよ。
そんなことを反射的に思ったが、口には出さないでおいた。
小説家は気を取り直し、続ける。
「あの子もおそらく、政府に保護された後は修道院に送られるだろう。そこから先は、よほどのことが無い限りは修道士としての道しか無い。女性の社会進出が叫ばれ始めているものの、現実的に家柄を持たぬ女性が望む道を歩むのは、それほど容易なことではないからな」
「ってことは、お前にはあったわけだ。その『よほどのこと』ってやつが」
何の気無しにそう返してみると、小説家は押し黙ってしまった。俺が訝しむと、彼女は小さく諦観めいた吐息をついた。
「―――まぁ、おまえの話だけを聞きたいというのも、かなり虫の良い話だな」
小説家はそこで顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。
「これは公平性を期する為に話すだけだ。興味が無ければ聞き流せ」
「何の話だよ?」
「身の上話だよ。この私―――バーダロン・フォレスターのな」
公正性。
そこでようやく、俺はその言葉の意味を理解した。
俺は確かに日中、明日話すと約束した。
俺の過去を。
俺と、あの怪物の因縁を。
俺は内心で苦笑を漏らす。まったく、つくづく律儀な女だ。
「……ところで、ソード」とバーダが尋ねる。「この世でもっとも速いものは何だと思う?」
俺は首を傾げる。その答えも、その問いの真意も俺には掴めなかった。小説家はそんな俺の反応を確認してから、答える。
「それは『記憶』だよ」
「記憶?」
「そう―――魂に刻まれた記憶は、この世の何よりも速い。私がこれまで歩んだ十数年の歳月を、それは刹那のうちに飛び越えて追いついてくる。まるでつい昨日のことのように、な」
小説家は遠い目をしながら、ゆらゆらと揺れる焚き火を見つめた。いや、あるいはその視線はその炎の先、歪んだ現実の彼方に向けられていたのかもしれない。
「私には、そんな『記憶』が二つある。一つは親友の書いた小説を初めて読んだ日のこと。そしてもう一つは、その親友が殺された日のことだ」
……何だって?
予期せぬ物騒な単語に、俺は眉根を寄せた。
―――殺された、だと?
「彼女の名はアトラビアンカ。今から十二年前、皇都アルノルンで旧帝過激派のテロにより殺された―――『あらゆる傷を癒す』奇跡の聖女だ」
そんな言葉から、小説家の話は始まった。
◆
「順を追って話そう。まずは当時の私のことからだ。
私は幼少期のすべてを皇都アルノルンで過ごした。
修道院に入ったのは五歳の時、今からもう十六年も前のことだ。私はそのときのことを不思議と明瞭に覚えている。院の寄宿舎に案内された時の部屋の匂いも、廊下に出来た格子状の陽だまりも、私の手を引くシスターの手の温かさも、な。
自分で言うのも何だが、幼少期の私はなかなか聡明な子供でね。そのときの私は両親が死んでしまったことも理解していたし、自分が身よりの無い人間になってしまったという事実も漠然と分かっていた。
……ただ、何故かそのとき、私にはそれらの出来事が、此処ではない『向こう側』で起きていることのように思えていたんだ。
奇妙に現実感が無くて、まるで私と世界の間に一枚のぶ厚い硝子が存在しているかのようだった。私は世界に触れられない、世界の言葉は私に届かない、私はただ見ることしか出来ない―――そんな感じだよ。
事実、私は五歳から七歳までの二年間、一言も言葉を発しなかった。意図して喋らなかったんじゃない。喋れなかったんだ。何故か、ね。どれだけ叫ぼうとしても、声は私の口からは出なかった。声どころか、表情すら変えられなかった。まるで自分の体が『人形』にでもなってしまったかのようだったよ。
シスターたちはあの手この手を尽くして、どうにか私を笑わせたり喋らせたりしようとしてくれたが、すべて無為に終わった。当時の私自身、それに対して申し訳無さのようなものをかすかに抱いていた。抱いてはいたけれど、相変わらずそれを他人に伝えることは出来なかった。
もう想像は出来ていると思うが、私は孤独な子供だった。修道院には私の他にたくさんの少女たちがいたが、誰も私に接してくる者はいなかった。接した所で何も反応が返ってこなかったからね。誰もが私の存在すら忘れているようだった。
だから、私は専ら図書室で本を読んで過ごしていた。いや、読んでいた、という表現は適切ではない。機械的に、ただひたすらに情報を取り込んでいた、と言った方が正確だ。私は黙々と文字の羅列を目で追い、意味を頭の中で理解し、その意味同士の繋がりを、知識という名の倉庫にむやみやたらに入れ込んでいった。
……はは、思い返してみると、我ながら随分と嫌な子供だったと思うよ。何せ、その年代の子供が読むべき絵本や童話には目も暮れず、ひたすら歴史書や哲学書を読みふけっていたんだから。プルートウの『空想国家論』を読む五歳児を想像してみるがいい。万人が一切の愛らしさを抱けないことは必至だろう。
毎朝誰よりも早くに起きて礼拝を済ませ、質素な食事を取り、訓戒と授業の時間を沈黙のままに過ごし、午後は図書室にこもり、毎晩決まった時間にベッドに入って、睡魔が身を包むまで活字を読む。
それが当時の私のすべてだった。
まるで変数の無い数式が、一つの解しか導き出せないかの如く決まりきった日常。
―――そんな生活に変化があったのは、六歳になってすぐのことだった。
修道院の子供たちは全員、敷地内の寄宿舎で寝泊まりをするのが常だ。両親がいて、帰る家がある子供はまずいない。通常は二人一部屋が基本なんだが、何故か私は当初から一人で一部屋をあてがわれていた。シスター達が私の極度の対人不全を考慮したのか、それともたまたま一部屋だけ余っていただけだったのか……いや、今思い返せば前者だったんだろう。
とにかく、私が六歳の誕生日を迎えて少し経った頃、また一人の少女が修道院にやってきた。
その少女の名はアトラ・クロムシェード。当時は私と同様に、身よりの無い六歳の少女だった。
既に察しがついていると思うが、彼女が私の部屋の新たな同居人となった。
私にとってアトラの第一印象は『奇妙な子』だった。修道院に連れて来られたばかりだというのに、彼女は常に物腰穏やかで大人びていた。他の子たちのように泣きわめくことも、声を上げて走り回ることもなかった。いつも柔らかな微笑を浮かべて、他人の話をよく聴き、自分の意見を理路整然と述べた。
言うなれば、彼女はその時点で奇妙なほどに高い精神年齢と完成された人格を兼ね備えていたんだ。
思えば、とても六歳児とは思えない立ち居振る舞いだったよ。だからこそ、私には彼女が異質に見えた。明らかに普通の子供ではない。いったいどのような人生を辿ればこんな風になれるのか、まったく想像がつかなかった。
……まぁ、同じ六歳児にしてそんな風に他人を分析する私も、異質と言えば異質だったのかもしれないが。
必然、すぐさま彼女は院の子供たちの人気者になった。遠巻きに見ていても、まさに面倒見の良いお姉さん、といった感じだったからな。もしかしたら、彼女が私と同室にあてがわれたのは、彼女のそういった気質が理由かもしれない。
当時の私は、言ってしまえばある意味で問題児でね。訓戒の時間に一人別の本を黙々と読んでいたり、屋外での写生の時間にカンバスに数式を書き連ねていたり……まぁ、そんな具合で、著しく協調性に欠ける性格だったんだ。今の社交的な私からは想像も出来ないほどに、な。
……ん? なんだ、その顔は。何か言いたそうだが。
―――まぁ、いい。
とにかく、アトラの話だ。
彼女は同居人のそんな私に対しても、まるで実の姉のように面倒見よく接してくれた。世話役、といった感じだったな。
最初は私も気にせず無視するように立ち回っていたんだが、やがて段々とそんな彼女の存在に煩わしさのようなものを抱き始めた。これまでの生活に様々な制限がついたようなものだったからな。
だが、そう……その『煩わしさ』が、きっと私に現れた最初の変化だったんだろう。そのときの私は気づきもしなかったが、両親が死んで以来初めて私は他人に対して感情を抱いていたんだ。
私が自分勝手な行動を取るとき、アトラはいつも私に言っていた。
『この世界にはあなた以外の人もいるのよ』
だが、当時の私にはその言葉の意味がまるで分からなかった。彼女の口にする『この世界』というのは、結局のところ私が硝子越しに見ている『向こう側の世界』のことでしかなかったからだ。
アトラと出会ってから、私は読む本の数が少しばかり減った。夜更かしして本を読もうとすると、いつもアトラが邪魔をしてきたからな。早く寝なさいと口酸っぱく言うアトラに、それでも頑なに本を手放そうとしない私、そんな不毛な押し問答が毎晩繰り広げられた。そのせいで私の読書時間は毎晩三十分は削られた。
ただ結局根負けするのはいつだってアトラの方だったよ。私に眠る気が無いと分かると、彼女はいつもため息をついてから、自分の机で何か物書きを始めた。私が睡魔を覚えて本を閉じるまでずっと、ね。
―――そのとき彼女が書いていたものを読むのは、もう少し後になってのことだ。
ところで、実はアトラとほぼ時期を同じくして修道院にやってきた人間がもう一人いるんだ。といっても、修道女ではなかったがね。
その人物の名はクルト・コヴァイン卿。
まぁ、さすがに聞いたことのある名前だろう。
―――何? 無い?
やれやれ……初等教育の教科書にも載っている人物だぞ。
通称、ユナリア人権法の父。独立戦争以降の混沌としていた各州の人権制度を整理し、国内奴隷制の完全撤回にまで至らせた偉人だよ。
当時で既に七〇を越えた高齢で、見た目は痩せ細った白髪頭の老人だった。彼は正暦一八五七年に教皇庁内の政権から退いて、私たちのいた修道院の院長として転任してきたんだ。
とにかく功績のみならず、人徳も兼ね備えた人格者でね。院の子供たちにもすぐに慕われたよ。修道院というのは割と閉息的な場所のはずなんだが、コヴァイン卿はすぐにその環境に溶け込んでいった。
いつもにこにこと微笑みを浮かべていて、言葉を一切発しない私にも、ことあるごとに声をかけてきてくれた。『シスター・バーダ』と彼はいつも私のことを呼んだ。不思議な気分だったよ。もちろん、バーダロンというのは私の本名であって洗礼名ではない。通常は『シスター』とは洗礼名に対してつける。
だが、コヴァイン卿はこう言っていた。
『洗礼名は十歳を迎えねば付けられない決まりだろう。では、それまで君たちのことは何と呼べばいい? 逆説的に、十歳になるまで君たちは社会的地位は得られないということかね? 否、今の君たちの存在にも意義があり、そして居場所がある。それを主張する為にも、私はシスターと呼ばせてもらうよ』
まさに人権法の父と呼ばれるに相応しい理念だったよ。身よりの無い孤児すべてに対して、そんなことを言ってのけるんだからな。
―――ただ、何故かアトラに対してのみ、彼は『シスター』とは呼ばなかった。
私にはそれが奇妙で仕方なかった。二人の関係が不良だったわけではない。むしろ、コヴァイン卿とアトラの間には、他の子供たちには無いような親密さのようなものがあった。事実、アトラは足繁くコヴァイン卿の部屋を訪ねていたからな。
二人が修道院にやってきて間もなく一年になろうかという頃、ある日曜の昼下がりのことだった。私が図書室へ向かう廊下を歩いていると、アトラが院長室から出て来るのが見えた。その表情はとても朗らかで、何というか、達成感に満たされているように見えた。アトラは私を見かけるとどこか嬉しそうに駆け寄ってきて、こう言った。
『バーダ、もうすぐあなたの誕生日ね』
私はそう言われてようやくそのことを思い出した。そうか、もうすぐ私の誕生日だったか、とね。ただ、自分が果たして何歳になるのかすぐには思い出せなかった。
『その日、あなたに見て欲しいものがあるの。ね、見てくれるって約束してくれる?』
私はそのとき、半ば呆然としながらも頷きを返していたんだ。小さく、肯定の意味でね。彼女の清々しいまでの笑顔に気圧されたのかもしれない。私のそんな反応を見ると、アトラは嬉しそうに部屋へと駆けていった。胸に紙束のようなものを抱えて。
私はその後ろ姿を見送ってから、何を思ったのか、彼女が今出てきた院長室のドアをノックしていた。今思い返してみても、そのときの自分の行動の理由が判然としない。或いはそのとき既に、私は少しずつ変わり始めていたのかもしれないな。
『どうぞ、入りたまえ』
いつもの穏やかな調子の声が聞こえてきて、私は恐る恐るドアを開けた。院長室に入ること事態、そのときの私には初めてだった。
室内に入ってまず私の目に飛び込んできたのは、部屋の壁面を埋め尽くす累々たる本だった。ほら、イクスラハのグリーン店主の店があるだろう? まさにあんな感じだ。表題から見るに、そのほとんどが小説のようだった。
『シスター・バーダ! ああ、よく来たね』
コヴァイン卿は窓辺の革張りの椅子から立ち上がり、私の姿を見ると、嬉しそうに両手を大きく広げた。皺だらけの顔を、さらに皺くちゃにするような笑顔でね。とにかく、私の来訪を心から喜んでいるようだった。
『いらっしゃい。つい先ほどまでアトラがいたんだよ。そこの椅子にね。さぁ、こちらに来たまえ。今、紅茶を入れてあげよう』
私は促されるままに、先ほどアトラが座っていたという椅子に腰掛けた。ここまで来て、今さら帰るわけにも行かなかったからね。
紅茶を煎れるコヴァイン卿は鼻歌まじりで、かなり上機嫌だった。
『はは、凄い数の本だろう。私は専ら活字中毒でね、すべて私の蔵書さ』
しげしげと室内の本棚を眺める私の前に、コヴァイン卿は笑いながら湯気たつ紅茶を置いた。
『そういえば、シスター・バーダ。君もかなりの読書量を誇ると聞いているよ。どうだい、この中に君の読んだことのある本はあるかな?』
私はすぐさま首を横に振った。当時の私が読んでいたのは哲学書や歴史書、化学書といった類の専門書ばかりだったからな。壁面の書棚にそれらしき本は見あたらなかった。
『なるほど……もしや君は小説というものを読んだことが無いのかな?』
その問いに、私は素直に首肯を返した。
『ふむ、その様子だと、絵本や童話の類にもあまり親しみは無さそうだね』
コヴァイン卿は納得するように何度も頷き、目をにっこりと細めたまま私の全身を眺めた。何となく私は居心地の悪さのようなものを感じて、目の前の紅茶に手を伸ばした。
『シスター・バーダ』私がカップに口をつけようとした時、コヴァイン卿は言った。『有り体な言葉で言っても、君は非常に早熟な人間だ。座学の考査結果を見せてもらったが、わずか六歳にしてこれほどの教養と知識を身につけている人間に、私は出逢ったことが無い。賞賛に値するよ』
出し抜けに言われた褒め言葉に、私は少し自分の顔が熱くなったことを覚えている。性格が性格だったからね、当時の自分はあまり他人に褒められることには慣れていなかったんだ。
『しかし』と、彼は少し困ったように微笑した。『これは私見だが、まだ君はそれほど生き急ぐ必要は無いんじゃないかな』
生き急ぐ、という単語が、意味の紐付けを失ったまま私の眼前に漂った。当たり前だろう、当時の私は『生きる』ということすら非現実的なものに思えていたのだから。
『控えめに言わずとも、君はまだ非常に若い。世間的には幼い、という言葉を使っても差し支えないだろう。だから……』
と、コヴァイン卿はそこで言葉を区切り、戸惑う私をしばらく無言で見つめていた。やがて、ふっと息をついて、首を左右に振った。
『……いや、そうか。違うんだね』
私の沈黙の意を汲み取るかのように、彼はじっと瞳を覗き込んできた。
『―――なるほど、君は「生き急いで」いるんじゃない。そもそもの「生き方がまだ分からない」んだ。世界そのものへの触れ方が、今の君の心に馴染んでいない』
私の瞳孔が反射的に開くのを感じたよ。
『だからこそ、それを知る為に書物を読み漁っている。おそらくは本能的に』
それはまさに、現状の私が最も求めていた分析だった。思わず少し身を乗り出してしまっていたことを覚えているよ。
コヴァイン卿はそんな私の無言の訴えを悟ったのだろう。淡く微笑んで、ゆっくりと頷いた。
『シスター・バーダ、君の境遇は他のシスターたちから聞いている』
そう言って、彼は私の両肩にその皺だらけの両手を置いた。
『……私は君の非業な運命を心から憐れむ。だが、それは既に通り過ぎたものだ。君はあの場所から歩き出さねばならない。何しろ、君の心臓はまだちゃんと動いているんだからね』
だが、コヴァイン卿のその言葉は、少しだけ私に失望に似たものを抱かせた。それは、そのときの私が求めていたものではなかった。
では、どうすればいいのだ?
それこそが、どの書物を紐解いても得られない、私が求める解答だった。
コヴァイン卿はやがて不意に、いつものにっこりとした笑顔を浮かべた。
『ところでシスター・バーダ、君はアトラのことは好きかな?』
唐突な問いに、だが私は相変わらず沈黙した。頷くことも首を振ることもしなかった。
好きか否か。
そもそも、その判定が結果的に如何なる意味をもたらすのか、私には推測しかねた。
……ははは、今思い返してみると滑稽だな。結果を見据えて感情を決めることなど、人間に出来るはずもない。だが、当時の私にはそう思えてしまったんだよ。それくらい、感情というものがうまく掴めていなかったんだ。
―――そうだ、心が麻痺していたんだ、結局のところ。
コヴァイン卿は両手を離して、今度は右手で私の頭を軽く撫でた。
『アトラは君のことが好きなようだ。あの子は非凡なほどに心優しい子だからね。今も君の為に……ああ、これは私の口から言うべきことでは無いね』
首を傾げる私に、コヴァイン卿は優しく説いた。
『君がどう思っているのであれ、或いは何も思えていないのであれ、とにかく彼女を大切にしようという姿勢には努めるべきだよ。向けられた好意に誠意を見せること。それは人として生きていく為に忘れてはいけない道義だ。分かったね?』
本当は分かってなどいなかった。理解できてなどいなかった。ただそれでも、私は小さく頷きを返していた。
たぶん、分かりたい、理解したいとは、思えていたんだろう。
そんな私を見て、コヴァイン卿は満足そうに頷いた。
その優しげな微笑は今も記憶に残っている。
彼がそのとき言った言葉と共に、ね。
―――事件が起きたのは、それから五日後。
私の七歳の誕生日の前日だった」




