〈二十八〉剣と牙
それから一時間、小説家は俺と口を効かずに馬車に揺られていた。無言が続くとさすがに気が滅入ってくる。二本目の煙草の火を消してから、俺は振り返って口火を切った。
「―――そろそろ機嫌を治したらどうだ?」
だが、書物から顔を上げた小説家はぽかんと口を開けていた。
「……ん、何がだ?」
どうやら不機嫌で口を噤んでいたわけではなく、単に読書に集中していただけのようだ。肩すかしを食らったような気分で、俺は頭をぼりぼりと掻いた。
「あー、いや……」とは言うものの、自ら話を振った身だ。「随分と集中してたみたいだが」
俺がそう言うと、小説家は「よくぞ聞いた」と言わんばかりに大きく頷きを返した。
「ああ、実は例のアタヘイの手記を読み直していたんだ。そこでちょっとばかし気になる部分があってな。思索を巡らせていたところだよ」
「気になる部分? そんなもの、おまえに言わせりゃほとんど全部じゃないのか」
「ふん、なかなか上質な皮肉を言えるようになったな」小説家は自嘲的に口の端を歪めてみせる。「だが、その中でも特に異質なもの―――いや、何というか、奇妙な予感がする部分があったんだよ」
奇妙な予感。
俺にはその意味するところがうまく汲み取れない。
「何だよ、それは?」
「ほら、ここだよ。十二月二十五日のところ。例のペリノアという人物が蘇生した日についてだ」
と、彼女はその手記を開いて一部分を指さして見せる。
「こう書かれてある。『奇縁なるかな、主の降誕と同じ日だった。吉兆であると言えよう』」
そこで、彼女は一呼吸分の沈黙を挟む。
「―――この『主』というのは、いったい誰だ?」
小説家の瞳に鋭い冴えのようなものが宿った。それはさながら、何かの核心を貫くかのような、自信に満ちた輝きだった。
しかし、対照的に俺は呆れ顔でやれやれと頭を振った。
「俺が知るかよ。文脈からして、それを書いた奴の雇用主のことじゃないのか」
そんな適当なことを返すと、小説家もすぐに頭を振る。しかしそれは辟易ではなく否定の意味だった。
「いや、それはあり得んな」
「なんでそんなことが言える?」
「ここには『誕生』ではなく『降誕』と書いてある。この表現は通常、一般的な人間には使われない」
俺は小さく鼻で笑う。一般的でない人間とやらが、果たしてこの世に存在するのだろうか。
「それじゃ、どんな奴に使われるんだ?」
冷やかし半分で訊ねると、小説家は真面目な顔で答えた。
「―――『聖人』だ。それも殊更に大きな偉業を成し遂げた、な」
俺は眉根を寄せる。
「聖人っていうと、イクスラハで面会したあのハヴァンディアみたいな連中か」
我々の目の前で過去と未来を言い当てた、『世界の歴史を読み取ることが出来る』という奇跡の聖女、ハヴァンディア。
たしか彼女を含めても、ユナリア合衆教皇国に現存する聖人は数人しかいないはずだ。
「だが、それがおかしいのさ」とそこで小説家は指を一本立てる。「この日付、十二月二十五日に生まれた聖人は、歴史上では存在しないんだ」
断言する小説家の瞳は真剣だった。が、俺は肩を竦めてみせる。
「歴史上に名前が残らないほど、知名度の低い聖人なんじゃないか」
「歴史上に名が残らなくても、教会が定めたのであれば私の記憶には残っている」
小説家の口ぶりには何らかの確信が秘められている。その根拠を読み取ることが、俺には出来ない。
俺はやれやれと首を左右に振り、再び視線を道の先に向ける。問答やら推論やらは俺の得意分野じゃない。
「それも全部、例のアタヘイの街に行けば分かることだろ」
投げやりに言うと、小説家はふっと皮肉げな笑みを漏らした。
「そうであることを祈るよ」
それからしばらく馬車を北上させると、背の高いホワイトスプルースの林が見えてきた。街道はそれとぶつかるのを避けるように、大きく西へと方向を変えている。だがここから先、この街道は我々を目的地までは導いてくれない。馬車の行く先は、林の中の獣道だ。
「この林を抜ければレンブラント荒原、そしてその先がイヴィルショウだ」
俺は馬の鼻先を北に向けたまま、手綱を振るう。
「ここから異貌の生息地に足を踏み入れることになる。準備はいいか?」
「心待ちにしているくらいだよ」
俺の投げかけに、小説家はさらりと答えた。
まったく、気楽に言ってくれるもんだ。俺は辟易の吐息をつき、来たる危険にささやかに神経を尖らせた。
◆
林はすぐに抜けた。
人の営みから離れ、無骨で粗暴な世界へと我々は進む。馬車を走らせるに連れて道が荒れていき、同時に視界を掠める緑がどんどんと失せていく。それはまるで旅路から生命そのものが次々と削ぎ落とされていくかのようだ。
太陽が最高点を迎えた頃、俺たちの駆る馬車はレンブラント荒原に入った。
モントリア北部からイヴィルショウ山岳地帯にかけて広がるこの区域は、赤茶けた大地が隆起する広大な荒野である。元来から人通りも皆無に近く、故に街道と呼べるような立派なものも無い。辛うじて残る道のほとんども岩塊に狭められているため、横断するとなると馬脚を傷めぬようにやおら気を削らねばならない。
この荒野を抜ければ遂に旅の終着点、イヴィルショウ山岳地帯に到達する。
しかし、既にこの辺りは『牙持つ獣たち』の生息地だ。突然、岩陰から連中が飛びかかってくることも稀ではない。俺は全方位に神経を向けながら、馬車の速度を少し落とす。
「……いるのか?」
さすがに緊張しているのか、荷台から控えめな小説家の声が届く。しかし俺はそれを軽く鼻で笑い飛ばした。
「わからねぇよ。だいたい、人間に気取られるほど獣は愚図じゃない」
「頼りにならんな。そんなことで私を本当に守れるんだろうな?」
呆れ半分、非難半分といった調子で小説家がそう漏らす。
「ま、給料分の働きはするさ」
俺の投げやりな返答に、小説家は無言で鼻を鳴らすに止めた。
しばらく沈黙のまま馬車を進ませる。岩塊地帯を抜けたところで視界が開け、はっきりと目的の山が見えてきた。しかし、そこで俺は進路をやや北東に取る。
「どうした? 真っ直ぐ向かわないのか?」
荷台からの小説家の胡乱な声に、俺は答える。
「このまま直行すれば山への到着は日没、牙持つ獣たちの住処で一晩越すことになる。ここからちょいと北東に、連中の群生地から外れた区域があるんだ。今夜はそこで野宿だよ」
「なるほど、入山は明朝か」
「そりゃ夜通し獣どもの巣窟を突き進むのは自殺行為だからな。今から向かう野営地も絶対に安全というわけじゃないが、まぁ、あの山よりはマシだ」
「日程に不平を言うつもりはないよ。目の前に念願の目的地がありながら、ぐっすり眠れる自信は少し無いがな」
と、小説家は口元を歪める。
「……意外だな」
俺が肩越しに言うと、小説家は首を傾げた。
「何がだ?」
「いや、野宿に対しても随分慣れたもんだと思ってよ」
彼女は一瞬惚けた顔を浮かべた後、くすりと笑った。
「さすがに、この乱暴な旅も間も無く五日目ともなれば、な」
イクスラハを立ってからもうそんなになるか、と俺は手綱を片手に指折り数えてみた。そう考えると、随分と長い時間この女と行動を共にしてきた気がする。正直な話をすれば、当初の彼女に抱いていた不満や苦手意識は、不思議なことに今はそれほどでもなかった。
―――心を許す、というほど大仰ではないが、それなりの信用を彼女に抱き始めている自分もいた。
何となく肩越しに再び視線を送ってみると、小説家と目があった。俺の瞳を覗き込みながら、彼女は真面目な声色で問う。
「……そろそろ、話す気になったか?」
俺は一瞬鼻白む。
「話すって、何をだ」
「例の怪物、アーサー・トゥエルヴとお前の因縁について、だよ」
思わず言葉に詰まった。
因縁。
そうだ、旅立つ前にこいつは言っていた。俺が語りたくなるまで待つ、と。
明日には我々は目的地に到着する。当然、例の不死の怪物との対峙は免れないだろう。語るとすれば、或いは今がちょうど良い時期なのかもしれない。
しかし、と俺は躊躇う。
しかし果たして、俺とアーサー・トゥエルヴの間に因縁と呼べるべきものがあるだろうか?
俺とあの怪物の間にあるのは、ただの……。
―――ただの、何だ?
俺は答えられなかった。
その質問に答えられるのだとしたら、俺は今更こんな場所まで来ることは無かった。
答えられないからこそ、俺は此処にいるのだ。
「……いや、いい。悪かった」と小説家が目線を外す。「語りたいときに語れと言っておいて、急かすのは少々品が無かったな」
俺はよほど沈痛な顔を浮かべていたのだろうか。彼女のそんな反応で、自分自身への不甲斐なさを覚える。それを振り払うように、首を左右に振った。
「……明日だ」
端的に、俺は言う。
「明日、全部話す。それまで待てるか」
視線は向けなかった。だが何故かそのとき俺には、彼女が背後で微笑んだのが分かった。
「ああ、待つよ」
小説家もまた、端的にそう答えた。
俺にも、分かっている。
この旅が終局へ近づくに連れて、分かっていたことだ。
俺に足りないのは、結局のところは覚悟だったのかもしれない。
いずれ其処に辿り着いたときに迫られる選択。
……いや、違う。もうこの旅に出ている時点で、選んでいるようなものだ。
それはきっと自分だけでは決められなかった。
だから俺は彼女を利用したんだ。俺が旅立つ理由として。
だから、俺は……。
その時だった。
「――――――!」
俺と小説家は思わず目を見合わせる。
お互いに、それが聞き間違いではなかったことを確認するように。
「今のって……!」
俺は頷く。それはこんな辺鄙な場所で聞こえる筈のないものだった。
「悲鳴だ……!」俺は勢いよく手綱を振るった。「飛ばすぞ! 掴まってろ!」
馬が大きく嘶きを上げて、勢いよく馬車は声の聞こえた方に走り出す。車輪が岩肌を飛び跳ね、車体が大きく軋みを上げる。荷台に気を使っている余裕は無い。先ほどの声は間違いなく若い女の悲鳴だった。ということは、つまり、
「案の定か!」
巨大な岩塊を大きく回り込んだところで、俺たちはその光景を目にする。
岩肌の露出した窪地、そこを取り囲む五匹の獣。
そして―――その中心で震える、一人の少女の姿。
身に纏う衣服は泥で汚れボロボロだったが、施された刺繍などは何処か異国風だった。それを見た小説家が叫ぶ。
「あれは北方の衣装……アルダナク連邦の亡命者だ!」
何故こんな場所に人がいるのか、そこで合点がいく。イヴィルショウ山脈を越えてユナリアに逃げ込んできたところで、奴らに襲われたということだろう。しかも、相手はよりにもよって、
「ちっ、『灰ウルガ』か!」
少女を取り囲む獣たちに視線を移し、俺は舌打ちと共に吐き捨てた。
牙持つ獣たち、餓狼の種族『灰ウルガ』。
四肢と牙に攻殻を持つウルガ種の中で、灰色の毛並みを持つこの個体は常に群で行動する種族だ。単体であればさほど労無く駆除出来るだろうが、恐れるべきはその群体による狩りへの執着―――そう、厄介なことに、奴らにはチームワークがある。正直、駆逐するのは容易ではない。
俺は荷台に向けて叫ぶ。
「バーダ! 俺に代わって手綱を取れ!」
「え、ええ?」
「早くしろ! あの子が死ぬぞ!」
俺の怒号に、バーダは狼狽を押し込めて頷きを返した。
彼女と御者台の席を代わり、俺は腰の鉄剣を抜いて荷台に構える。手綱を握るバーダが叫ぶ。
「ど、どうすればいいのよっ!」
「あの窪地にこのまま突っ込め!」
「ちょ、本気で言ってるの!?」
「俺が連中を蹴散らす、おまえは手綱を緩めずに駆け抜けろ」
「でも……!」
「バーダ」俺は振り返った彼女の目を見つめる。「俺を信じろ」
小説家は一瞬の狼狽の後、微かに、だが確かに頷いた。
やがて灰ウルガたちが俺たちに敵意の視線を向ける。しかし駆ける馬脚に恐怖は無い。我々の愛馬は忠実に手綱の意に従い、牙の群れに特攻していく。
灰ウルガたちの一体、その前脚が地に深く沈むのが見えた、その刹那。
俺は意識を一つ上の次元に放り上げる。
極限の集中力の世界で、俺は荷台を強烈に踏み抜いて宙空に躍り出た。
そのまま馬と小説家の頭上を飛び越えて抜剣、さながら矢の如き速度で獣に斬りかかる。遅滞する視覚情報の中、それでも尚、高速で飛びかかってくる獣。大きく開いた口腔、そこに並ぶ攻殻の牙、そしてけたたましき咆哮。
だが恐れを抱く暇など無い。鉄剣を振るう運動神経の伝達は、剣線を思考するよりも早い。
―――即ちそれは、俺の血塗れの経験のみが為す斬撃の軌跡。
俺が砂埃を巻き上げて地に足を着けたのと、喉元から派手に血をぶちまける獣の死骸が地に落ちたのは、ほとんど同時だった。
一匹。まず突破口は開いた。
俺は瞬時に駆け出し、さらに迫り来るもう一匹の猛攻を紙一重でかわす。そのまま剣を握らぬ左手を延ばし、目前、呆然と立ち尽くす少女の襟元を掴んだ。その瞬間、少女の背後からさらにもう一匹が飛びかかってくるのを確認。
「伏せろっ!」
左手で少女の身を屈め、同時に俺は筋繊維が悲鳴を上げるほどの速度で右手の鉄剣を振り抜く。一拍遅れて、口を全開にした獣の頭部が荒野の空を舞った。
―――これで前方、脱出口を確保。
「手荒で悪いが我慢しろ」
耳元でそう囁いてから、俺はその華奢な体躯を左腕一本で放り投げる。その先は、すぐ背後まで迫っていた馬車の荷台だ。
「きゃっ!」
短い悲鳴を上げながらも、少女は荷台に無事転がり込む。
「駆け抜けろ、バーダ!」
「わかったわ!」
粉塵を上げて戦場から離脱する二人を見届け、俺は鉄剣を両手持ちに構えた。
生き残る三匹は馬車の後ろ姿を一瞥した後、殺意の視線を俺に向ける。逃げる馬よりも、残った俺の方が仕留め易いと判断したのだろう。
「―――読み通りの愚策だぜ、ケダモノ共が」
酷薄な笑みが、自然と俺の口元に浮かんだ。
両手の感覚が鉄剣の切っ先にまで及んでいるのを感じる。連中に牙と爪があるなら、それは俺とて同じことだ。
じりじりと間合いを計りながら、三匹は俺を取り囲む。暗黙の中で、連中は俺の喉笛を噛み切る算段を取り交わしているのだろう。獣のうなり声が、まるでその交信手段であるかのように、張りつめた空気をチリチリと振動させる。
思考するな、と俺は最後の思考を挟む。
培った経験に―――刻まれた鉄剣の傷に身を任せろ。
そこから先の『認識』は、すべて動作より一瞬遅れていた。
まず二匹が先に動いた。後方から飛びかかるように一匹、そして右前方から地を這うように一匹。その狙いは俺の喉笛と右足の健だ。
防御、という選択肢は反射的に除外。連中の真の目的が、三匹目の強襲だと俺の本能が告げる。故に俺は即座に左足を踏みだし、二匹の攻撃を紙一重でかいくぐった。その動作から流れるように、俺の鉄剣が獰猛な勢いで突き出される。その行く先は、一拍遅れて飛びかかろうとしていた三匹目の鼻面。結果、両耳の間から剣の切っ先が突き抜け、断末魔の暇すら与えずに奴を死の淵へと葬る。
鉄剣を抜く動作から体を反転。右後方の二匹目へと刃は大地を切り裂きながら飛翔、次いで刹那の間も無く炸裂。宙を舞う獣の首が、乾いた地に鮮血の雨を降らせた。
切り返しに一瞬の時間すらかけられない。切り上げた鉄剣は次の瞬間には重力よりも速く振り下ろされる。迫り来る最後の一匹。しかし剣の軌道がその右の爪にぶつかるのを予知し、俺は急制動をかけた。
即座に左足を軸に身体を回転、右足の蹴りを獣の横っ面に叩き込む。ギャイン、という鳴き声を上げて吹き飛ぶ獣。刹那の戦局のリセット。一瞬後には、奴は着地と同時にすぐさま体勢を整え、再び口腔の攻殻を剥き出しに飛びかかってくる。
しかし、その時点で俺の意識は超感覚の世界に追いついていた。迫る牙の本数を視認できるほどに。
―――残念だったな。
体勢を整えたのは俺も同じだ。
連携する仲間のいない灰ウルガに遅れを取るほど、俺のこれまでの傭兵稼業はぬるくない。
決着は一瞬。
交錯は斬撃の炸裂でしかなかった。両断された首と胴体は慣性に従い、俺の後方の岩塊に激突。その一面に血の幾何学模様が描かれたところで、状況は終了した。
初動から決着まで五秒。止めていた呼吸を再開すると同時に、全身から汗が吹き出した。やれやれ、と思わず首を振る。
「……しんどいな、さすがに」
強烈な脱力感と共に、俺の口から独り言がこぼれる。
下手に連中の攻殻に剣を当ててしまえば、必然的に俺の武器の方が破壊されてしまう。牙持つ獣たちとの闘いは、これだから神経を使う。
俺は着いた血を払う意味も込めて、右手に握る鉄剣を何度か振るってみる。
まぁ、何はともあれ、腕が鈍っていないようで安心した。
馬の蹄の音に振り返ると、小説家の駆る馬車が舞い戻ってくるところだった。御者台の彼女は俺の健在を確認すると、どこか安堵したように吐息をついた。
「無事で良かったわ」
口調からして本音のようだ。俺は首を竦めておどけた仕草を見せる。
「心からの心配、痛み入るよ」
そこで自らの口調に気づいた彼女は、居住まいを正すように咳払いを挟む。
「さすがというべきか……いや、もはや驚嘆に値するな。あれほどの数の『牙持つ獣たち』を屠ってしまうとは」と、そこで満足げに頷く小説家。「やはりお前を雇った私の目に狂いはなかったようだ」
「いや、むしろ序盤は狂いっぱなしだった記憶があるんだが……」
てめぇ頑なに俺を雇うことを拒んでたじゃねーかよ。
「さて、問題はこの少女だが……」
都合の悪いことは記憶から消せるらしい。つくづく羨ましい性格である。
俺もまた、そこで荷台の少女に目を向けた。
年は十代になってまだ間もないだろう。小柄で色白、利発そうな黒い瞳が印象的だ。色素の薄いブロンドの髪を頭頂部で結っている。酷く疲弊し、身なりも泥と砂埃で汚れていたが、もともと見目美しい娘であることはわかった。
彼女は怯えの宿る目を我々二人に交互に向け、何かを言いたげに口をぱくぱくと動かしていた。
「安心していい。俺たちは敵じゃない」
俺が荷台に上がって手をさしのべると、少女は突然腕に抱きついた。呆気に取られる俺を見上げて、少女はまくし立てる。
「Au secours mon pere!」
「は?」
俺は思わず一歩身を引いてしまった。何だって?
「Aidez-moi,s'il vous plait!」
疑問符を頭に浮かべる俺に代わり、小説家が少女に駆け寄る。
「ランスフール語だ。アルダナクの通用言語だよ」
と小説家は少女に向き直り、穏やかな調子で口開いた。
「Enchante. Je m'appelle Bardalong. Qu'est-ce que vous avez?」
いきなり外国語を喋り出す彼女を前に、俺は目をしばたかせた。唖然とする俺を余所に、何言か確認するように少女と言葉を交わしてから、小説家は俺を向いた。
「やはり彼女はアルダナク連邦からの亡命者だ。父親と、その親衛隊と共にイヴィルショウを越えてきたらしい」
「父親と? しかし……」
「ああ、まだ彼女の父親は山だ。あそこで何かに襲われた、とこの子は言っている」
それを聞いて、俺は苦虫を噛む。いつぞやこの小説家が面会したという軍人と同じパターンだ。例の不死の怪物に襲われたのだろう。
「彼女は父親を助けてくれ、と言っている」
小説家はそう言って、俺をまっすぐに見上げた。もうそれ以上は言わなくても分かっている。だいたい、俺への命令権を持っているのはこいつだ。俺は言う。
「生きている保証は無い。それでもか?」
「死んでいる確証も無い」
試しに言ってみたが、案の定の返答だった。
だいたい、この少女をこのまま此処に置いていくわけにもいかない。それに、今からモントリアの街に戻って政府機関に保護を求める時間的余裕も、我々には無かった。
結論は既に状況で決まっているようなものだ。
俺は頭をボリボリと掻いて、吐息をついた。
投げやりに言う。
「……護衛の料金は此処から二人分だ。それでもいいか」
「―――話の分かる男は嫌いじゃないわ」
本音とも演技とも取れる口調で言って、彼女は微笑した。
俺は立ち上がり、冷徹に言う。
「だが入山の予定は変わらず明日だ。いくら俺でも、夜の山でお前ら二人を守れる自信は無い。その点だけは、何とかしてその子を説得しろ」
「……ああ、分かったよ」
小説家は傍らの少女に気の毒そうな視線を落としてから、小さく頷いた。
おそらくバーダにも、ある程度は事態の絶望視が出来ているのだろう。それでも尚、この少女を同行させようと言うのは己の目的の為か、或いは彼女への同情からか。
俺には何となく、後者のような気がした。
理由は無い。何となく、だ。
―――やれやれ、つくづく面倒事に縁のある旅路だ。
御者台に席を移し手綱を取りながら、俺は空を見上げた。西の空に向けて太陽がゆっくりとその身を沈ませかけていた。
旅の最後の夜が、始まろうとしていた。




