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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 1. The Soldier and The Novelist.
25/83

〈二十三〉小説家のオーダー

 街壁を持たぬ町。

 それがオールドシャープ州都、モントリアの呼び名である。


 町はロレンス川とサンオート川の合流地点である川中島に築かれ、遠景から臨めば、さながら湖に浮かぶ島のようにも見える。『牙持つ獣たち』の巣窟であるイヴィルショウ山岳地帯を背にしながらもイクスラハのような街壁を持たないのは、こういった地理によるものだろう。幅広の川が壁の代わりを成しているというわけだ。


 街へ渡る石橋に車輪が乗り上げたとき、大きく車体が揺れた。石畳の先、開かれた門扉をくぐる。それは三日間進み続けたルート八十七の終着点に、ようやく我々の馬車が到着したことを意味する。


 感無量、と言いたいところだが、しかし荷台から感嘆の声は無い。小説家はつい先ほど五巻目のスクロールを書き上げると、毛布の上に突っ伏して寝入ってしまっていた。

 まったく、本当にこいつは丸四日も不眠でいたことがあるのか?

 誇張を疑いながら、俺は荷台に声をかける。


「ほら、着いたぞ」


 小説家はのそのそと緩慢な動きで身を起こし、あからさまに不機嫌そうな目で俺を睨んだ。


「さっき寝たばかりなのよ……もう」

「馬を預けて宿を探さなきゃならないんだ、もう少し頑張れ」


 うー、という返事とも取れない声を出して、小説家は眠そうに目をこすった。やれやれ、これじゃまるで子守りだ。


 街門の側の馬房に馬車を預け、馬によくブラシをかけてやるようにと庫主にチップを渡す。小説家の指示通り、腰の鉄剣は毛布でくるんで馬車の荷物の中にしまっておいた。


 最低限の荷物を持ち、まるで軟体生物のように脱力した小説家の手を引いて、俺は町の中心部に向かう。馬房から通りを一本進むと、開けた一画に出た。


 広場には露店が立ち並び、これまでの旅からは久しい数の人々が行き交っている。そこから北へ伸びる大きな参道の突き当たりには、背の高い青銅屋根の建物が見えた。この町の数少ない観光施設のひとつ、モントリア市庁舎である。


 懐かしさから、俺の口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。

 五年前、ヒュウとゴルドの三人で、報酬を踏み倒そうとする役人どもと散々揉めた場所だ。

 あのくそったれな市長はまだいるのだろうか、と詮の無いことを考えていると、傍らの小説家から鈍重な声が漏れた。


「この町で二番目に高級な宿を探せ、今日はそこに泊まる」

「二番目? 一番目じゃなくてか?」

「たぶん一番目には奴らがいる」


 一転して、小説家の目が鋭く細められる。


「先ほどの馬房に奴らの馬車は無かった。となれば馬車でチェックインできる宿に入った可能性が高い。この程度の都市でそれが出来る宿はそれほど多くない。となれば、おそらく最高級の宿だ」


 俺は素直に感心してしまった。睡魔に負けそうになっていると思っていたら、よく見ていたものだ。


「しかし、おまえはどうしてそこまで、その見ず知らずの連中に固執するんだ? まだ何者かも分かってないのに」

「私の推論が確かなら、その連中は私の敵だ。放っておくとこの旅の第一目的にまで関わる可能性が高い。というか、まず間違いなく関わってくる。だからこの町で手を打っておきたいんだよ」


 そう言って、彼女はスクロールが五巻入った鞄を軽く掲げて見せた。どうにもその紙束が小説家の言う『手』であるらしい。


 我々が目星をつけたのは表参道から一本路地を挟んだ、三階建ての小綺麗なホテルだ。受付でチェックインをする際、意外なことに小説家は寝台が二つある部屋を申し出た。


 ……まぁ、ある程度は信頼され始めたということか。


 案内された部屋はかなり上等だった。少なくとも昨夜泊まった宿とは比べものにならない。寝台からカーテンにいたるまで、すべてが新品のように見える。

 部屋の片隅に荷物を置くと、小説家は室内に備え付けられたテーブルの上に町の地図を広げた。先ほど受付で買ったものである。


「さて、働いてもらうぞ、ソード」


 目の下に隈を作りながら、小説家は不敵に微笑する。


「へいへい。で、俺は何をすればいいんだ?」


 辟易を覚えながら訊ねると、彼女は例のスクロールを地図の上に置いた。



「この街の書店を巡って、それぞれの店主にこの小説を売って来い」



 ……はい?


「なるべく大きな書店を選ぶんだぞ。売値は三〇〇ドルからスタートしろ、たぶんすぐ売れるはずだ」

「ちょっと待て、ちょっと待て」


 俺は両手を前に出して話を制止する。


「おいおい、俺は出版社の営業係じゃないんだぞ。なんだ、その命令は?」


 小説家は冷ややかに俺を一瞥し、呆れの吐息をついた。


「昨夜、貴様は何でも私の言うことを聞くと言っていたな? 従僕となり馬車馬のように働く、と。あの言葉は嘘だったのか?」

「そこまで過剰な言い回しはしてねぇよ!」


 極悪に改変しすぎだろ。


「俺は意図が分からないって言ってるんだ。そんなことして、いったい何の意味があるんだ?」

「帰ってきたら説明してやる。いいから四の五の言わずに売ってこい、報酬を減らされたいのか?」


 苛立たしげに言う小説家。睡魔のせいもあってか、かなり不機嫌そうだ。釈然とはしないが、ここは言うとおりにした方がいいだろう。しかし、何処の暴君だ、この女は。


 俺は盛大にため息をついて、目の前のスクロールが入った鞄を手にとった。そこで思い出したように小説家が言う。


「ああ、そうだ」


 彼女は不意に自分の鞄を漁りだし、黒い山高帽とこれまた黒い丸レンズの眼鏡を取り出した。


「売り歩くときはこれを身につけていけ」


 そう言って彼女は俺の頭の上に帽子をのせ、無理矢理に黒眼鏡をかけさせる。部屋の片隅の姿見を見やると、あからさまに胡散臭そうな人物が写っていた。コートまで黒なので、より一層不審に見える。


「……麻薬の密売人みたいじゃないか、これ?」

「いい表現だ」小説家は興味深げに頷く。「そう、まさに密売人だ。なるべく怪しそうに、『目立たないように意識しているのだがそれがむしろ挙動不審で目立ってしまっている』といった風に売ってこい」

「すげぇ難しい注文だな……」


 そんな注文をされたのはこのかた初めてである。俺は二度目のため息と共に頷いた。


「まぁ、やるだけやってみるよ」

「例の『アレ』は持ったか?」


 小説家の問いに、俺は頷いてコートの胸元を軽く叩いて見せる。


「ああ。しかし、何に使うんだ、これ?」

「いざとなったら、だ」


 彼女は真剣な目で言う。

 たかだか書店巡りで、そんな『いざ』という時は来ないと思うのだが。しかしこれも依頼人のオーダーだ。


「それじゃ、行ってくるか。土産の要望は?」

「土産話だけでかまわんよ」


 小説家は興味なさそうに言って、大きく欠伸をした。そしてコートを脱ぎ捨て、そのまま寝台に倒れ込むように横になる。見送りの言葉はないらしい。俺はやれやれと首を振った。

 部屋を出る前に、俺は言う。


「鍵かけておくぞ」

「ああ―――戻ってくるときは、しっかり撒いてからにしろよ」


 眠そうな小説家の声を背に、俺は扉を閉めた。ホテルの階段を降りながら俺は考える。


 ……撒いてから?

 どういう意味だ?



             ◆


 時刻は正午を回った頃。俺はスクロール五巻の入った鞄を手に、モントリアの町中を歩く。約三日ぶりにあの暴君女から解放されて独りになったわけだが、あまり気持ちが軽くならないのは懐に入っている『とある物』のせいだろう。おまけに見るからに怪しい黒ずくめの格好をしているのだから、さらに気が滅入る。この状況下で保安官に声でもかけられたらどうしようか、と正直言って気が気ではない。


 そんなことを考えながらも、俺は目当ての書店の前にたどり着く。市庁舎の見える参道に面したビルの一階に、その書店は店開いていた。イクスラハのターミナル前にある書店と比べれば規模は半分以下だが、この辺りではかなり流行っている店らしく、見ているだけで通行人が何人か入り口に吸い込まれていった。


 俺は店内に足を踏み入れ、会計場所にいる店員らしき女性に声をかけた。


「あー……ちょっとすまない」

「あ、いらっしゃいませ」


 後頭部でまとめた栗色の髪を揺らせて、その若い店員が俺を振り返る。振り向きざまには社交的な笑顔が浮かべられていたが、俺の姿を見ると一瞬だけその輝きが胡乱げに曇った。


 そりゃ、こんな黒ずくめの男にいきなり声をかけられたら戸惑うだろう。気にせずに俺は続ける。


「店主はいるか? ちょっと話があるんだ」

「はぁ……あの、どのようなご用件でしょうか?」


 店員の目には疑念の色が浮かんでいた。俺はそんな視線に既に軽く嫌気が差していたが、努めて冷静な口調で言う。


「ちょっと小説を買い取って欲しいんだ」

「小説を? ええっと……すみません、ウチは新刊書店なので、古本の買い取りはやっていないんですよ」


 と、困ったように言う女店員。


 予想外の返答に俺は戸惑う。イクスラハのポールじいさんの店では、確か古本も買い取っていたような気がしたのだが。どうやら同じ書店といえど、それは普遍的な業態ではないらしい。書店という場所にほとんど足を運ばない俺にとっては初めて知る情報だ。


 しかし、ここで依頼人のオーダーを無視することは出来ない。俺は食い下がった。


「古本というか、原稿そのものなんだ。フォレスターという作家が書いたやつなんだが」


 そう言って、俺は鞄の中からスクロールを一本取り出して見せた。途端、店員の瞳の色が変わる。驚きと、強い関心の込められた目だ。


「フォレスターの……? あの、ちょっと、ちょっと待っていてください……!」


 それだけ言い残して、店員はやや慌てた様子で店の方に走り去っていった。おそらく店主を呼びに行ったのだろう。


 しかし、フォレスターの名前を出しただけでこの反応の変化だ。どうもあの女に対する世間一般の価値観というのは、俺とはかなり大きな乖離があるらしい。


 やがて店の奥から、先ほどの店員と共に背の高い初老の男が現れた。髪はやや後頭部に向けて後退していたが、眼孔炯々といった顔立ちで、どこか気むずかしげな表情をしている。


「店主のコステロです。フォレスターの原稿をお持ちとのことでしたが……」


 軽く会釈を挟み、男はやや懐疑的な口調で言う。俺は頷いた。


「ああ」

「失礼ですが、一度拝見させていただいても宜しいですか?」

「もちろんだ」


 俺が差し出したスクロールを受け取ると、店主は胸ポケットから眼鏡を取り出して鼻梁に乗せる。そして眉を寄せ、真剣な表情で目を通し始めた。

 やがて、段々とその表情に驚きが現れ始める。瞳は大きく開かれ、顔色は上気していた。どこか興奮した様子でスクロールを最後まで巻き解いていき、末尾にフォレスターの直筆のサインを見つけたところで、店主は顔を上げた。


「……ほ、本物のようです」


 少しだけその声が震えている。傍らの女性店員も驚いた様子で両手を口元に当てていた。


 ……まぁ、そりゃ本人が俺の目の前で書いてたんだから当然なんだが。


「文体、完成度、そして何より最後の直筆の署名はフォレスターのもので間違いありません。しかもこれは今までに発表された作品じゃない……あ、あの、これをお売りいただけるのでしょうか?」


 恐る恐るといった様子で訊ねてくる店主に、俺は軽く頷きを返した。


「もとよりそのつもりだ」


 途端、目の前の二人の瞳が興奮に見開かれる。お互いに瞳孔が開いてやがる。


「あ、ありがとうございます! それで、おいくらほどで……?」


 俺はこめかみに指を当てる。あの小説家はいくらと言っていただろうか? ああ、そうだ、たしか、


「三〇〇ドルで頼む」

「三〇〇ドル!?」


 愕然とする二人の様子に、むしろ俺が一歩退いてしまった。

 確かに、たかだか紙束一巻きに三〇〇ドルは俺も高すぎると思う。しかし、あの小説家は確かにその値で売れると言った筈だ。


 ……あの野郎、もしかしてふっかけ過ぎたんじゃないか?


 しかし、目の前から返ってきた反応は俺の考えとはまるで正反対だった。


「それでいいんですか!?」


 ―――なんだって?


「ユナリア中の出版社が血みどろで版権を奪い合う、あのフォレスターの原稿ですよ!?」


 血相を変える店主に俺はたじろいでしまう。まるで俺の発言に非があるような、叱責と言ってもいい言い方だった。

 すると突然、傍らの店員が威勢良く右手を挙げた。


「あ、あの、私が買います!」

「ええい、君は黙っていたまえ!」

「そっちが黙れハゲ。お願いします、私に売ってください!」

「だから君は黙っ……あれ、ドロシーくん? 性格変わってない?」

「私なら四〇〇ドル出しますから!」

「ちょっと、ドロシーくん? それに私はハゲてなどいないよ? まだ髪は残ってるよ、ちゃんと見たまえ」

「根こそぎ毟るぞハゲ。どうか私に! お願いします!」


 目の前で繰り広げられる舌戦に、俺は思わず引いてしまった。女店員の方にいたってはもはや目が血走っている。

 これほどまで他人を熱狂させるようなものなのか、これは?

 こんなものをまだあと四本も抱えているという現状に軽い戦慄すら覚える。とっととここで全部売り払ってしまいたい気分だ。


 俺はしばらく思い悩んだが、結局は小説家の「それぞれの『店主』に売ってこい」というオーダーを優先することにした。傭兵として雇い主の指示を無視するわけにはいかないし、どうせ高値で売ったところで俺の財布に入る金ではないのだ。


 俺がその旨を伝えると、店主は諸手を挙げて歓声を上げ、店員は絶望的な表情を浮かべた後、まるで親の仇を見るかのように俺を睨んだ。女性からここまで突き刺すような視線を向けられたのは初めてである。


 あまりに剣呑な雰囲気に、俺はさっさと退散することにした。店主から恭しく差し出された代金をポケットにつっこむ。すると急に、彼女の殺意の視線は店主へと向けられた。


 ……どうやら所有権が移譲されたらしい。


 俺はこの店主の今後に小さな不安を覚えながら、無言で踵を返す。背中にかかる「ありがとうございました!」という彼の嬉々とした声が胸に痛い。店を出て頭上を仰ぐと、雲の隙間から昼下がりの長閑な陽光が降り注いでいた。


 俺は内心で、あの小説家に向けて語りかける。


 ―――なあ、フォレスターよ。

 もしかしたら、おまえの小説は人を殺すかもしれんぞ、と。



              ◆



 午後四時を回り、西に向かう太陽が少しずつ橙色を宿し始めた頃、俺は参道広場にある喫茶店の片隅で一息ついていた。


 小説家から任された仕事は、残すところあと一巻まで来ている。しかし、正直な話をすれば既に俺はかなり疲弊していた。


 最初の店を出た後、これまで三つの書店を回ったわけだが、そのすべてで似たような騒動に出くわした。フォレスターの原稿が本物と分かると店主は目の色を変え、そばにいた店員まで加わって大騒ぎとなった。


 挙げ句、最後の店ではたまたま店にいた客まで巻き込んで競売めいた事態になる始末だ。そんなどさくさの中、俺は無理矢理に店主にスクロールを押しつけると、そのポケットの財布から一〇〇ドル紙幣をきっちり三枚抜いて、混乱に乗じて店を出たのだった。まさか浮浪児時代のスリの技術がこんな形で発揮されるとは思わなかった。


 大きく天井に向けて紫煙を吹き、軽く首の体操をしてから珈琲を啜る。なんだかどっと疲れた。ここ数日は傭兵の本業以外の部分で疲労している気がする。つくづく、厄介な依頼人に雇われたものだ。


 少なくともあともう一回は、これと同じことを繰り返さねばならないのかと考えると憂鬱である。再び出そうになる溜息を珈琲と一緒に飲み干し、俺は席を立つ。



 その男に声をかけられたのは、喫茶店を出て重い一歩を踏み出したときだった。


「あの、すみません」


 振り返ったとき、俺は自分がいったい誰に声をかけられたのか一瞬戸惑ってしまった。それほどまでに、その人物は周囲の風景に同化しているように見えた。


 スーツを着た、銀行員のような風体の男だ。三〇代半ばくらいだろうか。特徴の無い顔立ちに高くも低くもない身長、そして痩せているわけでも太っているわけでもない体格。まるで『凡庸』という概念をそのまま実体化したような、驚くほど存在感の無い外見である。


 眉を寄せる俺に、男は弁解するようにまず両手を前に出した。


「あ、いや、人違いだったらすみません。ええっと、何から話せばいいかな……」


 男はやや心許なげに思案した後で、弱々しい笑みを浮かべる。


「あの、つい先ほどあの書店で噂話を聞いたんです。あ、すみません。実は私ですね、ここから通りを二本ほど先に行った場所で書店を営んでおります、スミスといいます。ええと……あ、立ち話も何ですからそこで珈琲でも……って、あ。すみません、そういえばさっきあなたはその店から出てきたんでしたね、あはは……」


 あまりに要領を得ない話に、俺の疑念はさらに膨らむ。そんな内心を俺の表情から察したのか、男は再び慌てて両手を前に出した。


「あ、すみません、すみません! 単刀直入に言います!」


 随分と気弱そうな男だ。へこへこと平謝りを挟み、彼は声を潜めて言う。


「あの……フォレスターの原稿を売ってるのって、あなたですか?」


 俺は無言で男を睨めつける。黒眼鏡越しにもその威圧感が伝わったのか、一瞬、男はびくりと身体を震わせた。しかし、何とか逃げ出さずに踏みとどまり、自身の弱気を紛らわせるかのように続ける。


「いえ、あの……実はこの辺りの書店でですね、フォレスターの未発表原稿を売り歩いている人物がいるという噂を聞きまして……あの、あなたがですね、目撃者から聞いた特徴にそっくりでしたので、その……」

「―――だとしたら、どうする?」


 そこでようやく俺は口開いた。自分で聞いても随分と底冷えのする口調だった。対して、男は決意の表情で俺の顔を見つめた。


「どうか、私にも売ってください」


 向き合ったまま、数拍の沈黙が置かれる。やがて先に視線を外したのは男の方だった。


「……実は私の店が経営的な危機を迎えているんです」


 彼は俯き、そんな独白を始める。


「私の店は祖父の代から続く本屋で、かなり古い店です。少ない資金でなんとかこれまでやりくりして来たんですが、表参道に大きな書店が出来てからは売り上げも右肩下がりでして……とにかく、なんとかして店に客を引き込みたいんです」

「それがフォレスターの原稿とどんな関係がある?」


 俺が訊ねると、男はすぐさま返してきた。


「フォレスターは今の文壇を代表する重鎮です。その未発表原稿を持つ店というだけで看板に箔が付きます」


 俺は呆れの吐息を漏らした。


「看板に箔だけついたところで、劇的に客足が増えるわけじゃないだろう」


 俺の指摘に、男は再び俯いてしまった。その口から沈痛そうな声が漏れる。


「分かってます……でも、何かきっかけが欲しいんです。私はこれまで、何をしてもうまくいかなかった。店は傾くばかりで、半年前に妻にだって逃げられました。今はただ、縋るものが欲しいんです。たとえそれが、看板だけだとしても……」


 打ちひしがれた様子の男を見て、俺は二度目の吐息をつく。頭をぼりぼりと掻いて、ぶっきらぼうに言った。


「―――とりあえず、俺はこの原稿を『書店の店主』にだけ売ることにしている。だが今のところ、あんたがそれだという確証がない」


 男はそんな俺の言葉を吟味するような沈黙を挟み、やがて文脈を理解したのか、少しだけ表情を明るくした。


「で、では、私の店を見てください。それが何よりの証明になります、こちらです!」


 男は広場から伸びる裏路地を指さし、先導きて揚々と歩き出す。仕方なく、俺は無言でその後に続いた。


 左右を背の高い建物に挟まれているせいか、その路地は薄暗い。俺とこの男以外、人通りは皆無だった。


 途中でいくつかの路地と交差し、何度かその曲がり角を曲がる。その一画はまるで迷路のように入り組んでおり、薄暗さも相まって方向感覚が狂いそうになった。


 黒眼鏡を外そうかとも思ったが、少し考えてやめておく。


 やれやれ、仮にこんな閑散とした場所に本屋があっても、客は寄りつかないだろうに。


 つくづく、呆れた男だ。



  ―――つくなら、もっとマシな嘘をつきやがれ。



 男の動きは俊敏だった。


 俺の放った殺気が初期動作にまで至る、その刹那。


 男は振り向きざまに具風のような鋭い回し蹴りを放つ。苦虫を噛みつつ身を反らし、俺は辛うじて直撃を回避。しかし前髪が二、三本中空に持って行かれたのが見えた。


 くそったれ、初撃を先に放たれるとは不覚にも程がある!


 殺気を放ったのは俺の方が先だったというのに、何という反応の速さ……いや、驚いている暇は無い。思考の切り替えは運動神経の伝達と同時に行う。


 俺は回避の動作に併せて重心を軸足に移動、お返しとばかりに奴の顔面めがけて右足を蹴り上げる。しかし、男は素早く体勢を立て直し、路上を蹴って俺と距離を取る。空を切った右足を地に下ろし、俺は舌打ちを漏らした。


 人通りの多い表参道では下手に動けない。だからこそ、誘いに乗って先手で仕留めようと思ったのだが、相手のポテンシャルを見誤っていた。


 およそ五歩半の距離を挟み、俺と男は対峙する。


 男の顔からは先ほどの弱々しげな仮面が剥がれ、どこか飄々とした微笑が浮かんでいる。口元を涼しげに緩ませてはいるものの、しかしその瞳は鋭利に冷え切っていた。奴が口開く。


「―――どこから気づいていました?」

「―――今日回った書店に、そんな高そうなスーツを着てる店主はいなかったんでな」


 だいたい、潰れそうな店の主が着る服じゃないだろうが。


「おや、それは不覚」


 思ってもなさそうに言ってから、男は構える。

 両足を大きく広げ、その重心は後ろに引かれた右足に、そして右の拳は顔の高さで制止、指を揃えた左の掌がまっすぐに俺に向けられる。


 その構えを見て、傭兵時代の嫌な記憶が蘇る。思わず俺は顔をしかめてしまった。こういった構えをする連中とやり合って、これまで楽だった試しが無い。


「大陸拳法か」

「ここは正確に、ジークンドー、と呼んで欲しいですね」

「……何者だ、おまえ?」

「答えは単数形で宜しいんでしょうか?」


 苦笑めいた男の言葉に続いて、突然、俺の周囲に気配が生まれる。路地裏に隠れていたのだろう。後方から一人、左右の路地からそれぞれ一人ずつ、静かな殺気を放ちながら視界の隅に現れる。


 目の前の男と合わせて四人。その誰もが一様に黒いスーツを着ていた。外見も体格も身長も、紋切り型でほとんど特色が無い。まるで徹底的な意図のもとに統一されているかのようだ。


 多対一は少しばかり想定外だったな、と俺は吐息をつく。

 つくづく、初撃で一人を仕留められなかったことが悔やまれる。


 先ほどの男の動きからして、この連中はただ者ではないだろう。一昨日の道中で出逢ったあのへっぽこ四人組とは次元が違う。一応、町中とあって目立つ武器こそ持ってはいないようだが、その条件はこちらも一緒だ。


 最初の男が問う。


「我々の目的を明言しておきましょうか?」

「いや、理由は分からんが検討はついてる」


 俺は溜息と共に答えた。

 少し前の小説家の言葉を思い出す。


『まぁ、やや物騒な側面もある仕事だな』

『戻ってくるときは、しっかり撒いてからにしろよ』


 そして俺に手渡した、例の物の意味。


 ……状況の詳細は分からんが、とにかく、これもあいつのシナリオの範疇ってわけか。


「―――やっぱり、あの女は俺の想像以上に嫌な奴だ」

「はい?」

「いや、独り言だよ」


 俺は口元を酷薄に歪め、黒眼鏡を外して放り捨てた。それが路上を打つ、カツン、という乾いた音をきっかけに、俺は身体中の神経を研ぎ澄ます。


「―――では、始めましょうか」


 男の言葉と共に、五つの殺気が路地裏に満ちた。



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