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傭兵と小説家  作者: 南海 遊
Part 1. The Soldier and The Novelist.
24/83

〈二十二〉二人の冷たい雨の時代


 宿にたどり着いた頃には、我々はずぶ濡れだった。

 だが意外なことに、小説家はそれほど不機嫌そうな様子には見えなかった。あの店でのささやかな談笑が尾を引いているのか、むしろその表情は明るく感じられた。


 雨は夜が更けるごとに強くなり、宿場町に漂う喧噪と酒の香りをぬぐい去っていく。


 部屋に備え付けられた浴室で小説家が入浴している間、俺は窓際で煙草をふかしながら、ぼんやりとそんな雨の町並みを眺めていた。


 連続する雨音は、俺の奥底の『何かしら』を静かに刺激している。あの店の雰囲気のせいで、心が少し緩んでいるからかもしれない。そういえば、あの日も雨が降っていたのを思い出す。あれは孤児になる前の……。


 と、そこで俺は我に返り、回顧を止める。

 そしていつものように、答えを先に放り投げる。

 今はまだ、目の届かないところへ。

 とりあえずは、考えなくてもいい方へ。


 ―――だがそれは無駄な抵抗だ、と思考が呟く。


 俺自身も実は既に気づいているのだ。

 俺はこれまでに何度もそれを繰り返してきた。

 だからもう、ここから先に。

 答えを放り投げられそうな場所は無いのだ。


 そう……ここまで、来てしまったからには。


 浴室の方のドアが開く音がして、俺はそちらに目を向ける。麻の寝間着に着替えた小説家が、髪にタオルを当てながら出てきた所だった。


「粗末な浴室だな。身体を洗うだけで精一杯だ」


 不服そうに漏らしながら、彼女は寝台の上に腰をかけた。


「贅沢を言うなよ」俺は煙草を灰皿に押しつけて言う。「部屋に備え付けがあるだけマシだろ。街道沿いの宿屋じゃ滅多に無いんだぞ」

「ま、それはそうだが……」


 と、そこで彼女は何かに気づいたようにハッとし、手に持ったタオルで胸元を隠した。


「……湯上がりの淑女をジロジロと見るな、デリカシーの無い男め」


 火照った顔と濡れた髪、そして無防備な寝間着姿。それは日中の小説家の姿からは、にわかには想像しにくい光景だ。言われてみれば、確かに扇情的な姿のような気もする。

 小説家は毅然とした口調で、釘を刺すように言う。


「もう一度言うが、私に指一本でも触れたらただでは済まさんぞ。そのときは星の裏側まで響くような叫び声を上げるからな」

「つまり、まず最初はその口を塞げばいいってことか?」


 俺は真顔でそんなことを嘯いてみせた。

 すると小説家は寝台の端まで飛び退き、タオルを抱きしめて俺を睨んだ。しかし、その瞳には怯えが伺える。


「け、けだものめ……!」


 その様子を見て、俺はくつくつと笑う。やっとこの女に一矢報いることができた。笑いを噛み殺す俺を見て、ようやく彼女は自分がからかわれたことに気づいたようだった。

 小説家が何かを言い返そうと口を開いたが、やがて馬鹿馬鹿しくなったのか、言葉の代わりに小さく吐息が漏れる。


「……貴様が私に夜這いを仕掛ける気が無いのは分かった。それで良しとしよう」

「どうかな、気が無いふりをしているのかもしれないぞ」


 この女を言い負かす好機とばかりに、俺はさらにおちょくってみる。しかし、返ってきたのは小説家のじとりとした冷めた視線だった。彼女は呆れ混じりに言う。


「貴様は私に気なんか無いよ」

「……なんだ、随分と謙虚だな」


 何となく拍子抜けしたような気分になる。こいつの性格のことだ、てっきり自意識過剰な発言が返ってくるものと思っていたのだが。

 やがて彼女は、抑揚の無い声で告げた。


「―――貴様は私ではない、別の誰かを想っている。違うか?」

「な……」


 返す言葉を、躊躇った。

 狼狽は俺の視線を彼女から外させる。

 その後で、しまった、と思った。

 後悔の念を覚えながら苦虫を噛む。

 案の定、今度は小説家の噛み殺すような笑いが聞こえてきた。


「―――カマかけやがったな」


 顔を上げて睨み返すと、小説家は我慢しきれなくなったのか、可笑しそうに笑い出した。


「あはは、これほど綺麗に引っかかってくれるとはな」


 舌打ちが漏らす俺を見て、小説家はますます愉悦の色を瞳に宿す。


「密室に二人きりという状況下で、この私に劣情を抱かない理由にようやく合点がいったよ。そうか、想い人の存在ゆえに、というわけか。意外と純情な奴だな、少しだけ好感を持ったぞ」

「てめぇ本気で押し倒すぞ」

「ほう、やってみろ。報酬十割減という笑い話にすらならない珍事に遭遇したいのならばな」


 冷静に言い返してくる小説家に、俺は押し黙るしかなかった。

 彼女の言う通りだ。依頼人である以上、どれだけ胸糞の悪い奴であろうとこの女に手を上げるわけにはいかない。それは損得勘定以上に、傭兵としての不文律である。もしそれを侵したならば、俺はもはやただの畜生に成り下がるだろう。


「それで、どんな女なのだ? 貴様の想い人とやらは?」


 小説家がにやにや顔で訊いてくる。悪戯半分、興味半分といった表情だ。俺はかぶりを振った。まったく、女という生き物は何故、こういった話に過剰な反応を見せるのだろうか。


 俺としては、これ以上膨らませて楽しい話ではない。

 だが、俺はこいつとの話をはぐらかせるほど器用でもない。

 そんな二律背反の末に俺の口が紡いだのは、あくまでも端的な言葉だった。


「―――俺はあの店のカミさんとは逆だよ」

「……何?」


 視線を窓の向こう、雨の町並みへと向ける。

 続く言葉は、その宵闇の彼方へ。



「『最後まで生きられなかった』」



 明日の天気のことを考える。

 例のキャラバンを追えというオーダーに答えるならば、出立は早い方がいい。

 その頃には、この雨が止んでいればいいのだが。


「―――そうか」


 雨音の狭間から、静かにそんな呟きが耳に届いた。そこから続く言葉はない。俺にも、彼女にも。ただ断ち切られた回顧の残滓だけが、雨の隙間を縫って夜へと流れ去っていく。


 それからしばらく、我々の間には沈黙が降りた。


 やがて小説家は無言のまま鞄からタイプライターを取り出し、寝台の上でスクロールをカタカタと日中の続きに取り掛かった。無言のまま無為に時間を過ごすよりマシと考えたのだろう。しかし既に夜も遅いというのに、不摂生な奴だ。


 明日の為に寝ておけ、とも言おうと思ったが、何故か会話を切り出すことが躊躇われてしまった。

 何となく気詰まりな雰囲気になってしまっている。

 ……まったく、我ながら余計なことを喋ってしまったものだ。

 そんな自責の念を覚えるも今更遅い。日中この女に指摘されたように、どうやら俺は自分自身のことを語るのが不得手であるらしい。


 彼女が口を開いたのは、俺がそんな空気にいい加減うんざりし始めた頃だった。


「―――このタイプライターは友人から貰ったものなんだ」


 そこで俺はようやく小説家を見やる。彼女は手を止めず、印字されるスクロールを真剣な眼差しで見つめていた。

 俺は訝しさに眉を寄せる。


「いきなり何の話だ?」

「『何でもない話』だよ。貴様の言葉を借りれば、な」


 視線は動かさずに、しれっと言う小説家。まるで黙って話を聞け、と主張しているかのようだ。なんだか釈然としない気持ちだったが、俺はとりあえず無言で耳を傾けてみる。


「その友人も小説家志望だった……いや、違うな。その表現は正しくない。私はそもそも、その友人に憧れて文筆の道を選んだんだ。彼女の方が先で、私はその後を着いていっただけだ。言うなれば、私の小説家としての先輩だな」


 思わぬ話に、俺は少し面食らった。まさかこいつの口からそんな自分の身の上話が飛び出てくるとは思わなかった。


「私は文筆作法の多くを彼女の書いた小説から学んだ。ほとんど全部、と言っていいかもしれない。彼女の文章にはリズムがあり、呼吸があり、何より誠実さがあった」


 タイプライターを叩きながら、彼女は滔々と語る。


「もちろん、文章力とやらの定義を論ずる不毛さは私も重々承知している。しかし、それまで文章が単なる情報の伝達手段に過ぎないと信じていた私は、彼女の書いたものを読んで己の浅はかさを猛烈に恥じた。彼女の書く文章は、言葉の選び方からその組立に至るまで、ただただ美しかったんだ。その配列は物語性と相まって私の心の深奥を貫き、『小説』という媒体の真髄を暴力的なまでに見せつけた。あれほどの若さで、あれだけの物を書ける人物に私は未だ出逢ったことがない。『美しい文章には魂が宿る』、それが彼女の口癖だったよ」


 この独尊的な小説家がこれほどまでに太鼓判を押す人物に、少し興味が引かれる。だが、俺はそれ以上に彼女の意味深な言い方が気になり、思わず聞き返していた。


「だった、ってことは、その友人は小説家にはなれなかったのか?」

「ああ。なる前に死んだからな」


 彼女の手が止まり、その表情がふっと悲しげな笑みを宿す。


「―――だから、このタイプライターを貰った、というのは正確に言えば嘘になる。私が勝手にそれを引き継いだだけだ」


 その指先で、どこか愛おしげにその機材を撫でる小説家。

 その様子を見つめながら、俺は押し黙った。


 何をどう答えていいやら、俺には分からなかった。彼女は『何でもない話』と言ったが、それは軽々しく扱っていい話ではない気がした。


 小説家という自分を作った親友。

 そして、小説家になれずに死んでいった親友。


 そんな昔話をこの場で語ったところで何になるというのだ。むしろそれは、本人にとってもただ過去への悔恨が募るだけではないだろうか。

 ましてや、彼女が言うところの『見ず知らずの男』が、適当な慰めで流して良い話ではない。こいつだってそんなことは望んでいないし、期待だってしていないだろう。

 だから沈黙の先に俺の口から出たのは、まずその疑問だった。


「……なんでそんな話、急にするつもりになったんだ? しかも俺なんかに」

「貴様の領域に土足で踏み込んだ詫びだよ」


 すぐにそう返して、彼女は視線を逸らす。そしてぼそりと呟いた。


「……これでおあいこだ」


 思わず唖然としてしまう。

 おあいこ、だって?


 しばらく呆けた顔を浮かべた後で、俺は思わず吹き出してしまった。小説家は憮然とした表情を浮かべる。


「何がおかしい?」

「いや、なんでもねぇよ」


 正直な話をすれば、俺はこの二日間ほどで薄々気づき始めてはいた。最初は高飛車で嫌みたらしい女だと思っていたが、しかし、実際の彼女の本質は俺の第一印象とは違うのかもしれない、と。

 思い返せば、あのゴルドの糞野郎に対しても、そして傭兵の依頼を断ったヒュウに対しても、彼女は決して相手を蔑むような素振りは見せなかった。


 そう―――何だかんだで、こいつの立ち位置は常に公平なのだ。


 単純に俺の時は、我を忘れるほどにショックを受けていただけで。


 俺は小説家の手元にあるタイプライターに目を向ける。綺麗に手入れはされているが、よく見ればそれなりの年代物であることが分かる。友人の形見、と彼女は言っていた。


「……悪かったよ」


 だからその言葉は、自然と俺の口からこぼれた。小説家は首を軽く傾げる。それがいったい何に対する謝罪なのか計りかねる、といった顔に、俺は答える。


「最初に出逢ったときさ。そのタイプライター、乱暴に扱っちまった」


 そこで思い出したように、小説家は「ああ」と声を漏らした。

 そしてどこか居心地が悪そうに顔を背け、その視線が言葉を探すように周囲を泳ぐ。


「いや、あのときは、まぁ……振り返ってみると、私もちょっと感情的すぎたというか……壊れた部品もすぐに修理できたし、今はもうそれほど気にしてはいないというか……」


 しどろもどろに言葉を濁して、彼女は口をつぐんだ。

 意外な反応である。てっきり俺は、彼女がまたあの出来事を思い出して不機嫌になるのでは、と若干の危惧を抱いていたのだが。


「……いや、やはりこういうのは良くないな」

 やがて彼女は小さく諦観めいた吐息をついた。

「私も悪かったよ。あのときはアトラの形見を盗られて、私自身冷静じゃなかったんだと思う」


 そして正面から俺を見据える。何故かそのとき、俺には彼女が別人のように見えた。


「あなたは私の大事な物を取り返してくれたのにね」

「いや、別に俺はそんな、恩を着せるつもりじゃな……」


 俺の言葉を遮るように、彼女は言う。



「―――あのときは、ありがとう」



 向けられたのは、どこか困ったような笑顔。

 まるで、使い慣れない言葉に自分自身が戸惑うような。

 それでもその言葉を言わねば、という意志を孕んだような。

 それは真摯さと、気恥ずかしさの入り交じった微笑だった。


 初めて見る小説家の一面に、俺の心拍が一瞬だけ乱れる。顔を逸らして頭をぼりぼりと掻いた。

 ―――まったく、調子が狂う。

 だから俺の口から飛び出たのは、捨て鉢な言葉だった。


「……らしくないぞ。変なもん食ったか?」


 ぶっきらぼうな俺の返答で、小説家の顔に朱が射した。


「し、失礼ね。わたしはただ、ちゃんとお礼を言ってなかったのを思い出しただけよ」

「口調」

「え?」

「素に戻ってるぞ」


 俺の指摘で、彼女の顔がさらに赤さを増す。そして恥ずかしさからか、口を閉ざして俯いてしまった。

 不覚にも、その様子に妙な罪悪感を覚えてしまった。彼女はただ、自分の行動を己の誠実さの天秤にかけて省みただけだ。その言葉を真っ向から受け止められないのは、きっと俺の性根の問題なのだろう。

 やれやれ、だ。

 そんな自分自身に軽く嫌気が差しながら、俺は人差し指を一本立てて、それを彼女に向けた。


「ひとつだけ、言っておくぞ」

「……何?」


 羞恥の色を宿しつつ睨む小説家に、俺は言った。


「今の俺とおまえは主従関係だ。つまり、金の切れ目が無い限り、俺がおまえを裏切ることは無い。どれだけ罵詈雑言を浴びせられようが、どれだけこき使われようが、絶対にだ」


 そりゃもちろん、仕事は理不尽なものよりも楽な方が良いに決まっている。しかし、このまま彼女に調子が狂わされるよりだったら、不条理に舌打ちを漏らしていた方がマシだ。



「―――だからおまえはこれまで通り、傍若無人に俺を顎で使ってりゃいいんだよ」



 俺のそんな言葉に、今度は小説家が呆けたような顔を浮かべる。そんなことを言われるとは思ってもみなかった、という顔だ。しばらくしてから、彼女は可笑しそうに吹き出した。


「ぷっ……ははは、おまえは本当におかしな奴だな」


 俺は顔を歪める。ひどく心外だ。俺は俺なりに誠意ある返答をしたというのに。

 彼女はそんな俺を余所に腹を抱えて笑っている。思わず舌打ちが俺の口から漏れた。


「何がそんなに可笑しいんだ。俺はただ、てめぇが妙なことを言うから……」

「傍若無人、とはなかなか愉快な表現だ。貴様はアレか? まさか被虐的な嗜好でもあるのか?」

「あるわけないだろ」

「何なら、モントリアの町に着いたら首輪でも買ってやるが?」

「心の底からいらねぇよ」

「鎖付きだぞ」

「だからいらねぇって言ってるだろ! つーかおまえの隣でその絵面は相当やべぇ奴だろうが!」

「当然、鎖の先端は私が持つ」

「だろうな!」


 俺が憤慨すると、彼女はより一層可笑しそうに笑うのだった。

 ……まったく、余計なことは言うものじゃない。


 ひとしきり笑った後で小説家は寝台から降り、腕組みしながら椅子の俺を見下ろした。


「―――よかろう、従僕自らがそう言うのならば是非も無い。お望み通りにこき使ってやるとしよう」


 その口元に浮かぶは、いつものような不敵な微笑。

 立ち居振る舞いにこそ例の魔女めいた威厳が戻っていたが、寝間着姿だと少しばかり滑稽にも見える。俺は口の端を歪めた。


「お手柔らかに頼むぜ」

「善処しよう」


 思ってもないことを、と俺は内心で呟いた。


 ……まぁ、何にせよ。

 彼女の調子が戻ったことにささやかな安堵を覚える。同時に倦怠と辟易が蘇ってくるのを感じながら、俺は煙草をくわえて火をつけた。

 紫煙が流れゆく先では、雨が少しだけ、弱まってきていた。



              ◆


 翌朝、我々はまだ陽が昇り出す前に宿を出た。おかげで宿の朝食を食いっぱぐれたが、仕方がない。「可能な限り早くモントリアの町へ」というのが小説家の出した注文だったからだ。


 泣き出しそうな天気ではあったものの、幸いにも出立する頃には雨は止んでいた。水捌けの良い土地柄らしく、思っていたより路面に足を取られる心配もなさそうだ。馬房を出てすぐに俺は手綱を強く振るった。


 まだ暗い曇天の下、宿場町を離れて我々の馬車は街道を駆ける。岩肌を露出させた地形はやがて丘陵にさしかかり、その先には再び田園地帯が広がった。北に進むにつれて仄かに甘い香りが鼻を掠めるようになり、道沿いのイタヤカエデの樹の数が増えてくる。目的地が近い証拠だ。この馬の速度なら、モントリアの町には昼前には到着できるだろう。


 荷台は雨に対策して幌を半分だけ降ろしている。その下では小説家が毛布にくるまりながら、相も変わらずタイプライターを叩いていた。昨夜からずっと書き続けである。俺の把握している限りで、二、三時間も寝ていないだろう。ちなみに、彼女が書いているスクロールはこれで五巻目だ。


「少しは寝た方がいいぞ」


 荷台に投げかけるも、返ってきたのは低いうなり声だった。相当に眠いらしい。横目でちらりと見やると、彼女の目の下に隈が出来ているのが分かった。


「おい、大丈夫かよ」


 さすがに心配になって振り返る。小説家は首を左右に振った。


「私の不眠期間の最高記録は四日間だ。これくらい、何でもないよ」

「いったい何を書いてるんだ? いい加減教えてくれてもいいだろう」


 痺れを切らして訊くと、彼女は目をぎらつかせながら笑みを見せる。寝不足とは思えない瞳だ。


「すべては町に着いてからだ。とにかく宿に着いて、おまえが一仕事を終えたら全部説明してやる、もう少し待て。それより連中には追いつけそうか?」


 その問いかけで、俺は路上に目を向ける。実は俺は先ほどからそれに気づいていた。


「―――大型の轍が少なくとも三種類。ついさっき連なってこの道を通ったって感じだ。どこで夜を越したのかは分からんが、朝早くからご苦労なこった。真新しさから見るに、俺らがモントリアの町に着くのは半刻差ってとこかな」

「上出来だ」

 と、満足げに頷く小説家。

「……なぁ、おまえ、本当に何を企んでいるんだよ? まさか本当に教皇庁へのクーデターとかじゃないよな?」


 何となく不穏なものを感じた俺は、再三訊ねてみる。しかし、小説家は辟易の面もちで首を横に振るだけだった。


「せっかちな奴だな。伏線の回収は終盤でなくては効果が無いぞ、エディ・ランプの小説を読んだことがないのか?」


 あるわけないだろ、と内心で答えておく。


「真相を知りたい気持ちは分かるが、今は我慢しろ。いずれこのフォレスターがすべて白日の下に晒してやるよ。あの連中の正体、イヴィルショウの滅んだ町の謎、そして―――」


 そこで小説家の瞳が、一際鋭い輝きを放ったように見えた。



「『イクスラハから傭兵が消された真意』までな」



 ……なんだって?


「おい、ちょっと待て、それってどういう……」

「それとソード」


 俺の疑問を遮って、彼女は言う。


「モントリアの町では鉄剣は携帯するな」

「は?」

「目立つわけにはいかないんだ。その鉄剣は馬車の中に隠しておけ、いいな」


 俺は呆れてしまった。そんな注文に俺が応えられるわけがない。


「おいおい、傭兵が得物を手放して、どうやって依頼主を守るつもりだ?」

「おまえに一仕事頼んでいる間、私は宿の部屋で鍵をかけて眠っているよ。その間の護衛の件は気にしなくていい。田舎都市とはいえ、錠前のしっかりしたホテルぐらいはあるだろう」

「いや、それにしてもだな……というか、おまえは俺にいったい何の仕事をさせるつもりなんだ?」


 そういえば、こいつは昨日の道中から一仕事がどうのこうのと言っていた。昨夜は大言壮語を吐いた身ではあるが、どんな無理難題が飛んでくるのか、俺の胸に湧いてくる不安は否定できない。

 小説家は「ふむ」と言葉を選ぶような沈黙を挟んでから、答えた。


「まぁ、やや物騒な側面もある仕事だな」

「……そんなことを言われたら、なおさら剣を手放したくなくなってきたんだが」


 俺は口元に乾いた笑みを浮かべてみせる。しかし、彼女は心配するな、と言わんばかりに胸を張った。


「従僕の自衛手段を奪うほど、私は無慈悲ではないぞ。その間はこれを使え」


 小説家は自分の荷物の中を漁り、一つの黒い小箱を取り出した。何の気無しに差し出されたそれを、俺は馬車の手綱を取りながら片方の手で受け取る。革張りの、随分とずっしりした箱だ。どことなく高級感すら感じられた。


「何だ、これ?」


 俺は手綱を口にくわえ、両手でその箱を開けてみる。


 ―――その中に鎮座している物を目にして、危うく俺の口から手綱が落ちるところだった。


 慌てて蓋を閉じ、手綱を手に掴む。これほど動揺してしまったのは久しぶりだ。小説家を振り返って、思わず大きな声を出してしまう。


「おまえ! これ、どうやって……!」

「何だ、実物を見るのは初めてか?」

「いや、初めてじゃないが……しかし、バレたらとんでもないことになるぞ、分かってんのか?」

「仮定の話というのは、大抵の場合は無意味なものだ」


 いっさい気にした風でもなく飄々とする小説家を見て、俺は戦慄してしまった。


 ……つくづく、何者なんだこの女は。

 怖いもの知らずにも程がある。


 彼女は得意げな笑みすら浮かべながら、言う。


「いいから持っておけ。使う機会があるかもしれないからな」


 俺はそんな彼女と手元の黒い箱を見比べて、大きくため息をついた。


 いったい何をやらされるんだ、俺は?


「……絞首台だけは勘弁だぞ」


 暗鬱な呟きは、風と共に後方へと走り抜けていった。




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