〈二十一〉太っちょのオバサマ
俺たちの駆る馬車は速度をさらに上げて街道を北上する。
しかしその荷台では、小説家がそれ以上の速度でタイプライターの上に十指を走らせていた。彼女の指はけたたましい勢いで文字を叩き出し、機械は見る見るうちに巻紙を吐き出していく。馬車の走る音よりも、そのタイプライターの放つ音の方が五月蠅く感じられるほどだ。
小説家がいったい何を始めたのか、俺には分からない。彼女の瞳には鋭い冴えが宿り、とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。よほどその作業に集中しているのか、今のところ馬車の揺れを気にした風には見えない。
普通はこんな場所でこんな作業をしていれば、すぐ酔ってしまうものなのだが。それとも、馬車酔いにすら気づかないほどに集中しているのだろうか。
一応、小説家に気を使って俺は煙草を我慢していた。しかし、脇目も振らずタイプライターのキーを弾く彼女を横目にしていると、何となく不毛な我慢のようにも思えてきた。
―――こりゃ、吸っても気づかなそうだな。
俺は残り二本の煙草のうち一本を口にくわえ、馬車の速度を少し上げた。
日が暮れ始める前に林道を抜け、車上からの景色は雑木林から田園地帯に変わる。道に面してぽつぽつと民家が見え、ようやく人の営みが感じられる地帯に入った。
最後の煙草を吸い終える頃、我々の馬車はようやく第一の目的地に到着する。予定よりも二時間ほど早い到着だ。
我々が進むルート八七と、他の二本の街道の合流地点、グランヨーク州境関所である。
関所の周辺一帯には小さな集落が出来ており、そのほとんどが宿場の看板を掲げている。夜間は州境の門が閉まる為、旅人たちの為に宿を構える商人が多いのだろう。我々の馬車の音につられたように何人かが入り口から顔を覗かせ、愛想良く微笑んでみせた。
しかし、まだ宿に荷を下ろすには早い時間である。
「宿を取るのはオールドシャープ州に入ってからにしようと思うが」
荷台にそう投げかけると、不機嫌そうな小説家の声が返ってきた。
「……ああ」
邪魔をするな、という主張がありありと感じられる返答だった。無為に反感を買う前に沈黙を選び、俺は隣州に続く門扉へと馬車を進ませる。
通り抜ける関所集落は、五年前に俺が来た時よりも閑散としていた。単純に街道を行き来する人々が減っているのだろう。現在は沿岸に鉄道網が敷かれた為、単にオールドシャープ州に入るだけならわざわざ馬車で長旅する必要も無いのだ。
それに関所と一口に言っても、実はそれほど大仰なものではない。街道に建てられた木製の門の傍らに、同じく小さな木造の小屋があるだけだ。抜けようと思えば野良道を通っていくらでも抜けることが出来る。しかし、ユナリア合衆教皇国では各州の自治体によって微妙に条例が異なる場合がある為、ここで越州の承認を取った方が後々の面倒が少なくて良い。
我々が門扉の前まで近づくと、小屋から軍服を着崩した保安官が出てきた。西部風のつば広の帽子を斜めに被った、赤ら顔で恰幅の良い中年男性である。俺が御者台の上から書類を手渡すと、一秒ほど目を落としてからすぐさま証印を押した。仮に童子の落書きの紙片を渡しても、この男は特に何も言わずに判子を押すのではないかと、俺は何となくそんなことを思った。
保安官は荷台でタイプライターに熱中する小説家を一瞥すると、俺に向けてにっこりと笑ってみせた。
「恋人二人で馬車旅か。ハネムーンか何かかい?」
なかなかに面白い冗句だった。俺は肩を竦めてみせる。
「結婚式で詐欺にあってね、箱馬車と御者を雇う金が無かったんだ」
保安官は大きく口を開けて笑った。
「この先のモントリアの街は旅行にはぴったりの、風光明媚な場所だ。きっと気に入るだろう」
俺は口の端を歪めた。
風光明媚。ただの古くさい田舎町も、言い方次第ということか。
保安官が開けてくれた門を通ろうとした時、俺はふと思い出した。この先で煙草が買えるような場所があるか確認しようと思ったのだ。しかし、俺の言葉は荷台からの小説家の問いによって阻まれた。
「―――保安官、昨日今日で大型の馬車三台が此処を通らなかったか?」
その不意な問いかけに彼女の視線は伴わない。顔は印字される羊皮紙を睨んだまま、その指先は相変わらずキーを叩き続けたままだ。保安官は首を傾げてみせる。
「いや? そんな大所帯は見てないな」
……見ていない?
俺は疑念に眉を寄せる。
しかし、何故か荷台の小説家は、その返答に口元をふっと緩ませた。まるでこちらの計算通りといった顔だ。
「そうか、ありがとう」
言葉の意とは裏腹に抑揚を欠いた口調の小説家。保安官はしばらく疑問顔を浮かべていたが、やがて取るに足らぬことと思ったのか、破顔して軽く右手を上げた。
「良い旅を」
現状では皮肉にしか取れないその言葉に、俺は申し訳程度に右手を上げて返した。
馬車を進ませ、我々はついにオールドシャープ州に入る。しかし、特に荷台から感想の言葉は無い。俺は馬車の速度を少しずつ上げながら、思わず問いかけた。
「どういうことだ? 例の連中、もしかしてオールドシャープ州に入ってないのか?」
先ほどの関所地帯からは他にも街道が伸びている。そのまま東の沿岸部に抜ける道と、州境沿いに大陸西部へ向かう道だ。しかし、目をやった小説家は首を横に振ってみせる。
「違うな。関所を通過せずに州を越えたんだ」そう返答する小説家の声は冷静だ。「野良道を通れば物理的には可能だろう」
「いや、まぁ、それはそうだろうけどよ」
俺の疑念はまだ拭えないままだったが、どうやら彼女には何かしらの根拠があるらしい。小説家はここでまた口の端をつり上げた。
「あの保安官が目撃していない、というのが逆に私の推論を裏付けた。連中は関所を『通らなかった』んじゃない、『通れなかった』んだ」
「通れなかった?」
「そう―――おそらくその馬車には積まれていたんだ、本来ならこんな場所で目撃されては困るものが、な」
ようやくタイプライターから引き剥がされた小説家の目が、ぎらつく光を宿して道の先に向けられた。
「目撃されては、困るもの……? なんだそれ?」
俺の質問に、だが小説家は澄まし顔で言う。
「いずれ分かる。それらの解答の提示は後にしよう。推論の段階での断言は私のモットーに反するからな」
俺は顔をしかめる。そこまで言われて気にするなというのはあまりに酷だ。何とかこの女から聞き出す術はないか、と頭を働かせてみる。
十秒後、俺は無言で馬車の速度をさらに上げた。
そんな術、俺に思いつくはずが無かった。
◆
同じルート八七といえど、オールドシャープ州の街道は半ば荒野を突っ切るような有様だ。昨日の大草原のような緑はほとんど視界には入らない。道の両脇には露出した岩肌や大地が、無骨な起伏をもって彼方まで広がっている。
そんな中を、関所からさらに馬車を一時間ほど走らせたところで、俺たちは本日の行程を終えることにした。街道と州間道路の交差地点に差し掛かったところで、ちょうどよく小さな宿場町を見つけたからだ。日もすでに暮れ始めていたし、ここから先に宿が見つかる保証もない。おまけに西からの雲がかなり厚くなっていた。予想通り、一雨来そうだ。
適当な宿に目星をつけ、備え付けられた馬房に馬車を入れる。御者台を降りつつ俺は言う。
「今夜はご所望の枕が準備できそうだぜ」
小説家はつまらなそうに鼻を鳴らして、荷台でタイプライターの入った鞄を閉じた。結局、今日の旅の半分以上、こいつはずっとタイプライターに向かったままだった。よく酔わなかったものだと俺は感心する。
既に印字された用紙は二巻きにも及んでいた。
いったいそこに何が書かれてあるのか少し気になったが、どうせ今は教えてくれる筈もない。諦観の吐息をつき、俺は自分の荷物を持って宿の受付に向かう。
両開きの粗末な木戸を開けると、ランプの赤橙色の明かりが我々を包んだ。そこでようやく、思っていた以上に外が暗くなっていたことに気づく。
入ってすぐの狭苦しい店内はささやかな酒場となっており、片隅の席で三人の男たちがどことなく疲弊した様子で、ちびちびと杯に口をつけていた。あまり流行っている宿ではないらしい。
「宿泊かね?」
受付では針金のようにやせ細った老人が宿帳をめくっていた。
俺は言う。
「一泊で朝夕の食事をつけてくれると有り難い」
「朝はともかく夕食は今からじゃ材料が足りんよ。外で食ってきてくれるかい?」
「その分をまけてくれるなら、それでいいさ」
俺が首肯を返すと、老主人は我々をそれぞれ一瞥し、特に感慨も無さそうに何度か頷いてから宿帳に羽ペンを走らせた。そして、しゃがれた声で言う。
「それで、一部屋でかまわんかね」
「ああ」
「はぁ!?」
傍らの小説家から非難の声が上がる。
半ば予想していた反応に、俺は暗鬱なため息をついてから視線を向けた。案の定、彼女は腰に両手を当てて憤慨していた。
「貴様、何を血迷ったことを言っている? 私と貴様が同室だと?」
「俺はおまえの護衛なんだよ。朝起きたら隣の部屋で護衛対象が死んでました、じゃ、さすがに笑えねえからな」
俺がうんざり半分で説明するも、当然、小説家は納得しない。
「見ず知らずの男と一晩同じ部屋で過ごすことの方が笑えん。貴様が夜に私に襲いかからないという保証は無いだろ」
ほぼ丸二日も行動を共にしているというのに、まだ俺はこいつにとって『見ず知らずの男』であるらしい。まあ、今更こいつの暴言など気にすることではないが。
しかし、どうして傭兵として雇われたこの俺が、自ら護衛対象を襲うなどという本末転倒なことをしなければならないのだ。まだ今件の報酬すら貰っていないというのに。
俺は呆れながら言う。
「あのな、冷静になって考えてみろ。俺がおまえを襲うと思うか?」
「私相手には欲情しないということか?」
「だからそういう意味じゃ―――っていうか、欲情していいのか?」
「な……い、いいい、いいわけ無いでしょこの馬鹿っ!」
小説家は赤面しながら怒鳴る。いつもの口調すら忘れるほどに動揺していた。
やれやれ、まさかその年で生娘でもあるまいに。
と、そこで俺はふとした疑問を覚える。
……そういえば、こいつはいったいいくつなんだろう?
「と、とにかく!」
小説家は居住まいを正して、言う。
「私は同室など断固として認めないからな!」
「ご婦人、これは老婆心で言うんだが」
と、そこで目の前の老主人から言葉が返ってきた。
「この辺りの治安は決して褒められたもんじゃない」そう言って彼は鍵をひとつだけカウンターに置く。「悪いことは言わん、旦那と同室になさい」
老主人は意味深に酒場の方に目をやる。片隅の席で酒を飲んでいた三人の男が、ひそひそと会話をしながらこちらを睨んでいた。どことなく剣呑な雰囲気である。
その様子を見て後込みをする小説家。一度俺に目をやり、再び男たちを一瞥する。彼女が懊悩する様が見て取れるようだ。
やがて彼女は小さく唸りながら、受付の上の鍵を手に取った。身の危険の天秤は、どうやらあの連中の方に傾いたらしい。そのまま自分の荷物を持って二階への階段に向かう。振り向きざまに彼女は言った。
「……私に指一本でも触れてみろ、絶対に許さんぞ」
じとりとした視線に、俺は辟易しながら首肯を返した。部屋に向かう彼女を見送ってから、俺は視線を向けずに老主人に訊ねてみる。
「―――で、本音は?」
「どうせ宿代は二人分いただくんだ。あんたらが泊まった後、清掃係に二部屋頼むより一部屋の方が安上がりだからな」
しれっとして答える主人を横目に、俺は鼻で軽く笑った。
「大した商売人だよ、あんた」
そこで老獪は笑みを見せる。
「おかげさまでね」
「煙草はあるか?」
「ああ。これだけまけといてやろう」
老獪は指を二本立てて、真新しい煙草の箱を差し出す。
俺は口元を緩めて、申し訳程度の小銭をカウンターの上に置いた。
◆
狭苦しい部屋に寝台が一つしか無いという事実に小説家の異議が飛んでくる前に、俺は自ら窓際の椅子で寝ることを宣言した。一旦荷物を置き、未だに不審そうな目で睨んでくる小説家を連れて、夕食を摂る為に宿場町に出る。
しかし、まともに食事を取れそうな店を見つけるのに我々は少しばかり手間取ることとなった。こういった街道沿いの宿場町にはありがちなことだが、どの店にも酔っぱらった男たちの下卑た笑い声が響き、路傍では派手な化粧をした女たちが男たちの財布を虎視眈々と狙っている。中には当然、正当な対価を払わずに財布を狙おうとしている物騒な輩もいるだろう。
宿の主人が言っていたように、確かにここは護衛対象を連れて歩き回るには不向きな場所のようだ。店を探す道中、小説家はしかめっ面を浮かべたままだった。案の定、この町の雰囲気は気に召さないらしい。
ようやく落ち着いて食事ができそうな店を見つけた時には、さすがに空腹感が苦痛になり始めていた。
そこは通りの外れにある小さな店で、唯一店頭から酒の匂いと笑い声が漏れていない店だった。
扉を開けると古びた鐘の音が店内に響いた。細長の室内には壁際に三席ほどの卓が並び、対面はカウンター席となっている。客の姿は一人もいない。しばらくして、奥の方から店主らしき人物が姿を現した。
「おや、いらっしゃい」
それは先ほどの宿屋の老主人とは対照的に、恰幅の良い体格をした中年女性だった。丸まるとした顔の目尻には人好きのしそうな笑い皺が刻まれている。彼女は俺たちの来店を歓迎するように、にっこりと微笑んだ。
「好きなとこに座っておくれ、どうせ他に客はいないんだ」
自分の台詞に可笑しそうに笑って、彼女は席を勧める。小説家は迷わずにカウンターの席についた。その席を選んだ理由は訊かなくてもわかる。単純に、俺の対面で食事をするのが嫌なだけだろう。
俺が小説家の隣に腰掛けると、女主人が注文を訊ねる。
「さて、何を作ろうかね?」
それには小説家が苦笑しながら答えた。
「恥ずかしながらかなり空腹でね。すぐ出来るものでいい」
「そうさね……それならシチューがあるよ。それにミートパイ。こっちは昼に作ったやつだから冷めてるけど、あたしの自慢の料理だ。味は保証するよ」
悪くない献立だ。我々はそれを二人前注文する。そしてほとんど待つ間もなく、目の前には料理が運ばれた。温かな湯気を上げるシチュー、そしてたっぷりとしたミートパイ。
パイを一口食べた小説家が、かすかな驚きに目を丸くする。
「……美味しい」
自然と口からこぼれたような呟きだった。それが聞こえたらしい女主人が嬉しそうに快活に笑う。
「言っただろう、あたしの自慢の料理だって」
口にした俺も思わず唸った。確かにとんでもなく美味い。イクスラハのターミナル前で売り出したら行列が出来てもおかしくないほどの味だ。
小説家が店内を見渡し、不思議そうに言った。
「これほどの料理で、繁盛していないのが不思議だ」
「ウチは酒を出してないからね。この宿場町に来る連中は夕食には必ずエールかラム酒がついてくるもんだと思ってるからさ」
と女主人。今度は俺が訊ねる。
「どうして酒を出さないんだ?」
「昔は出してたんだけどね。酒を飲めば誰もが騒ぐ、誰かが騒げば誰かが怒る、そうすりゃ翌朝の店の掃除が大変さ。だから最近は面倒くさくなってやめちまったんだよ。あたしも若くないからねぇ」
そう言って女主人は再び一笑する。よく笑う店主だ。つられて俺の口元も思わず小さく緩んでしまった。傍らを見ると、小説家の目元も柔らかな微笑を描いている。
どうやらこの店を選んだのは正解だったらしい。雇用主の機嫌が良好であればあるほど、労働者への八つ当たりの可能性は低くなるからだ。
食事をする我々を眺めながら、女主人が問う。
「見たところ商人じゃないね。旅行者かい?」
俺は無言でシチューを啜り、その質問へは小説家が答える。
「ああ。ちょっとした取材でね」
「取材? っていうと、あんたら新聞記者か何か?」
「まあ、そんなところかな」
小説家は苦笑して曖昧に首を振った。
「へえ、辺鄙なとこまでご苦労なこった。ってことは行き先はモントリアの町だね」
「どうしてそれが?」
「まあ、そこぐらいしかこの辺りで見るとこなんて無いからね。それ以外の場所を記事にしたら、三行程度で終わっちまうよ」
それは俺の意見と見事に合致する見解だ。しかし、隣の小説家は食事の手を止め、不敵に口元を緩める。
「そうだろうか? 私はなかなか魅力的な州だと思っているが。たとえば……そう、イヴィルショウの山岳地帯とか」
俺は辟易の吐息を漏らした。
それを魅力的に思っているのはおまえだけだろう、と言いかけたが、その言葉をミートパイと共に喉の奥に飲み込む。雇用主へ反意を示して得られるものは殆ど無い、というのは彼女の言葉である。
女主人は小説家の言葉に一瞬意外そうに目を開いてから、意味深に微笑んだ。
「―――へぇ、なかなか見る目があるねぇ。じゃあ、あんたらの取材っていうのは、つまりはアレかい? 例の『星降る山』の伝説ってことかい?」
聞き慣れぬ単語に、今度は俺の手が止まった。俺の唇がその言葉をなぞる。
「星降る山……?」
「伝説?」
傍らの小説家も呟きを漏らし、思わずといった様子で椅子から腰を浮かす。興味津々といった小説家の顔を見て、女主人は再び驚いたような顔を浮かべた。
「何だい、知らないのかい? てっきりそれが目当てだと思ったんだがね」
「それはいったいどんな話なの?」
訊ねる小説家の口調は、いつの間にか素に戻っている。未知なるものへの興奮に、自分を抑えられないのだろう。相変わらず、こういう所だけ子供のような女だ。
「何、この辺りに伝わる昔話さ……ちょっと待ちな、最近は立ち話が辛くてね」
女主人は緩慢な動作でカウンターの奥にあった小さな椅子に腰掛けた。どっこいしょ、という声をこぼした後で、彼女は口開く。
「まぁ、昔話といっても、それほど昔のことじゃなくてね―――ああ、そういえばもうすぐ独立祭かい」
一度、その視線が壁のカレンダーに向けられた。
「それが起きたのは、まさに九〇年前のその日……そう、先代皇帝が亡くなった日だったそうだよ」
◆
いつの間にか小説家は椅子に腰を戻し、傾聴の姿勢に入っていた。
しかし、俺は話半分に目の前の食事に集中することにした。生憎、俺の関心は今のところ空腹感の解消にしかない。小説家が一瞬、非難めいた視線を寄越したが、気にしないことにした。
女主人は語り始める。
「イクスラハで皇帝レオネが討たれた夜、モントリアの住人の多くが、夜空を無数の流星が飛び去っていくのを見たんだそうだ。その数を正確に数えられた者はいない。それくらい夥しい量の流れ星だったらしいよ。しかもそれは夜空の彼方に去っていったんじゃなく、全部イヴィルショウの山に落ちたんだとか」
「山に、落ちた?」
小説家が疑念顔で繰り返す。対して、女主人は苦笑を浮かべた。
「その昔話によると、だよ。そりゃ当然あたしが見たわけじゃない。ただ当時の多くの人間が見たんだそうな。流れ星が集まって、光の柱みたいになって山の中腹に落ちるのをね」
小説家はその話を聞きながら、顎に手を当てて考え込むような仕草を見せた。その口元が独り言のように紡ぐ。
「『光の柱』……つまり、流星が収束して一斉に地表に落ちた、ということ……? 現象としては考えにくいけど……」
真剣に考える小説家を見て、女主人はカラカラと笑った。
「ははは、だから伝説さ、伝説。落ちた星を確かめに行った奴の話も聞かないし、どこまで本当かは分からないよ。もしかしたら、国の大きな節目のせいで誇張された作り話かもしれないしね。ほら、よく言うだろ、『流れ星が落ちると国が滅ぶ』とかってさ」
「『凶星流るる時、国落つ』」小説家が言う。「東大陸の真国の故事ね」
女主人が感心したように頷く。
「へえ、博識だね、あんた」
だが、そんな賛辞の言葉でも、小説家の顔に浮かんだ思慮の色は消せなかった。
「しかし、その故事がユナリアに伝わったのは、たしか正暦一八〇〇年代に入ってからのはず。皇国時代のこの国に、その意味合いが見聞されていたとはとても思えないわ……」
ぶつぶつと呟く小説家。そこで、俺の持つスプーンが空になった食器の底を打つ、凛とした音が響いた。
「ごちそうさん」
俺は平らげた皿の前で両手を合わせる。
それを見た小説家が呆れたような顔を浮かべた。
「……貴様が何か物事に関心を持つという姿を、一度は見てみたいものだな」
「見てただろ、今」
俺はそう返して、素知らぬ顔で水の入ったグラスを口に運んだ。
そんな我々のやりとりを見ていた女主人は、小説家を宥めるように言う。
「どうもお話に夢中になっちまったね。ほら、あんたも食べておくれよ。シチューが冷めないうちにさ」
促された小説家は、ひとつ何かに区切りをつけるような吐息を小さくこぼした。一旦思考を保留にしたのか、思い出したように自分の食事を再開する。
俺は椅子の背もたれに体重を預け、満足感と共に口開いた。
「いや、世辞抜きで本当に美味い飯だった」
「そうかい、そりゃ良かった」
俺の感想に女主人が嬉しそうに破顔する。
「こいつを毎日食える旦那は幸せ者だな」
「ははは、正確には幸せ者だった、だね」
何気ない言葉のつもりだったが、その女主人の返答で俺は微かな罪悪感を覚えた。そういえば、と俺はふと思い出す。この店はいつからか酒を出すのを辞めた、と言っていた。酔っぱらいたちの面倒を見るのが辛くなったからだと。その時点で俺は気づくべきだったのだろう。
しかし、そんな俺の感情の揺らぎを表情から察したのか、女主人は苦笑めいた顔のまま首を左右に振る。
「なぁに、気にすることは無いさ。ウチの旦那が亡くなったのはもう三年も前のことさね。それに長い間病気だったし、その間に心の準備も出来てたしさ。今更めそめそ泣くような話じゃないよ」
女主人はそこで小説家に目を止める。
「ほら、お嬢ちゃん、スプーンが止まってるよ。せっかくの温かいシチューなんだ、早く食べな」
「あ……うん」
手を止めて神妙な顔をしていた小説家は、再びシチューを口に運ぶ。その様子を見ながら、女主人は満足げに頷いた。
「そうそう。何よりも食べることさね。生きるってのは食べ続けるってことなんだから。たくさん食べて、たくさん生きな」
「―――寂しくないのか」
不躾な質問と自制する前に、その問いは思わず俺の口からこぼれた。女主人は少し困ったような顔を浮かべる。
「旦那がいなくなってからかい? そりゃ、寂しくないわけじゃないけどね。でもね、それについては、あたしはこんな風に思ってるんだよ」
女主人はそう言って、窓の向こう、宿場町のまばらな灯りに目を向けた。
「あたしは旦那を『亡くした』んじゃなくて、旦那と『最後まで生きた』んだってね」
そこで浮かべられた彼女の笑みが、何故か妙に俺の胸の奥底に染みた。丸まると太った、年老いた中年女の笑顔が、だ。
笑える話だ。
何故か俺にはそのとき―――その顔が、この世で最も美しい物のように思えたのだから。
「そう思えば悲しくはないね、そうだろ?」
「……ああ、そうかもしれないな」
俺は囁くような声でそう返した。
小説家は俺の横で、静かにミートパイを口に運んでいた。
お互いに交わす言葉も、交わす視線も無かった。
『最後まで生きた』。
女主人は容易くその言葉を口にしたが、俺にはその重さも、そしてその威厳も計り知れなかった。それはきっと、俺や傍らにいる小説家のような若輩者では、到底口に出来ない類の言葉なのだろう。
やがてそんなしんみりとした空気を崩したのは、思い出したような女主人の言葉だった。
「ああ、そういえば、実はあたしも見たことがあるんだよ、山に星が降るのをさ」
「え、本当に?」
小説家が顔を上げて関心の瞳を見せる。俺も顔を上げると、どこか得意げな女主人の顔が迎えた。
「本当さ。といっても、あたしが見たのは昔話みたいな無数の流れ星じゃなかったけどね」
「それはいつの話?」
小説家の質問に、女主人はこめかみに指を当てて記憶を探るような仕草を見せた。
「ええと、あれは確か、旦那とこの店に越してきたときのことだから……そうそう、今から十年前のことだね」
十年前。
その時系列に、俺の奥底で何かが疼いた。
少しの間だけ瞳を閉じ、俺はそれを押しとどめる。
目を開けて、女主人の話に意識を傾ける。
「あたしと旦那はモントリアの町の生まれでね。自分たちの店を持つのが兼ねてからの夢だったんだけど、あそこの物件はあたしらの財産じゃ残念ながら手に入りそうになかった。それで、この街道沿いの物件を見つけて引っ越してきたのさ」
自分の昔話を語る女主人は、どことなく幸せそうに見えた。もしかしたら、それが亡くなった旦那との思い出話だからなのかもしれない。
「モントリアの町を出た夜、街門の外で、ふとあたしらは住み慣れた町を振り返ったんだ。夜に浮かぶ町の灯りをね。何となく、ああ、違う場所に行くんだな、って実感が欲しかったのかもしれない。あたしと旦那がその星を見たのは、ちょうどそのときだよ。一つだけ、あたしらの頭上を流れ星が飛んでいったんだ。するとそいつは、なんと遠くに見えるイヴィルショウの山に落ちていくじゃないか。いや、見間違いじゃないよ。落ちたときに一際大きく光ったからね。うん、落ちたのは間違いない」
小説家は俺の傍らで彼女の話に相づちを打っていた。
「そりゃもう、あたしと旦那は大はしゃぎさ。小さい頃に聞いた昔話の出来事が、目の前で起きたんだからね。郷愁なんて吹っ飛んじまったよ」
そこで女主人は大笑いをした。
「でもそこからが大変だったんだよ。旦那ときたら、あの流れ星を拾ってくれば大金になるんじゃないか、って言い出してね。引っ越しを放っぽり出して今から山に拾いに行こう、なんて言うんだ。馬鹿なこと言ってんじゃないよって話さ。旦那を黙らせて馬車を進ませるのには苦労したね、本当に」
つられて、小説家も思わずといった様子で笑い声を漏らした。いつもの演技めいた魔女のような笑い方ではない。その姿はまるで、母親の昔話を面白がって聞く娘のようだ。
その様子を横目に、俺は少しだけ意外に思う。
この女がこんな風に可笑しそうに笑う姿は、初めて見た。
まったく、この女の化けの皮は厚すぎる。
やがて彼女の関心は、流星の話よりも女主人自身の話に傾いたようだった。いつもの大物然とした口調は、とうに彼女から剥がれ落ちてしまっていた。
「ねえ、他にあなたと旦那さんの話を聞かせてくれないかしら?」
「あら、やだよ。なんだかこっ恥ずかしいじゃないか。やめておくれよ」
俺は頬杖をつきながらそんなやりとりを見つめる。食事を終えてからもしばらく、我々はその女主人の昔話に耳を傾けた。目の前の中年女は照れくさそうに、だがどことなく嬉しそうに、自らの人生を笑い声と共に語った。
やがて外の方で雨音が聞こえてきた。雨足は少しだけ強い。或いは明日の朝まで降り続きそうな雨だ。
だが不思議なことに、そのときの俺には、その雨音がそれほど憎々しげには聞こえなかった。




