〈九〉三人の回顧録
その日、喫茶店『緑の騎士』は初の臨時休業となった。店主のヒュウ曰く「それどころではない」とのことだ。
本日臨時休業、という即興の札を店先にかけた店内で、俺たちはヒュウの熱っぽい抗弁に耳を傾けさせられていた。
「……というわけで正歴一八六八年、若干十七歳という若さで史上最年少カルネギア賞を受賞したのが、こちらにいるフォレスター先生なんだ」
俺たち四人は円卓テーブルを囲んで腰掛けていた。俺の右にヒュウ、左にゴルド、そして対面に件の女流小説家、という構図である。
「処女作『開拓者たち』で鮮烈なデビューを飾った先生だけど、もちろんそれだけじゃない。続く『修道士奇譚』から始まる連作長編小説は大ヒットを記録し、それまでの文芸界に『物語革命』と呼ばれる流れを生みだした」
悦に浸りながら語るヒュウの横で、小説家は満足げな笑みを浮かべながら頷いていた。俺は目を半分だけ開き、頬杖をしながら話が終わるのを待っていた。いつもニタニタ顔のゴルドも、さすがに辟易の表情で自分の耳の穴をいじっている。
「先生の作品は作法的に凝り固まっていた純正文学に対するカウンターとして俗に言う『森緑派』を生みだしてだね……」
ヒュウのいつ果てるとも思えぬ話を聞き流しながら、俺はその小説家に視線を向けていた。彼女は対面に座っているにも関わらず、着席からこれまでまったく俺と目を合わせようとしなかった。どう考えても意図的である。どうやらこの女自身も俺のことは忘れていないらしい。
さすがに痺れを切らした俺は、そこでヒュウの話を遮る。
「あー、その、何だ。そいつが今売れてる小説家だってのは分かった」
話の腰を折られたヒュウは少し不機嫌そうに眉を寄せた。
「何だい、まだ十分の一も紹介が終わってないよ」
その事実に軽い戦慄を覚えながらも、俺は話を本題に持って行く。
「その売れっ子作家の時間をいたずらに奪うわけにはいかないだろ。とっとと仕事の話をしよう」
俺の言葉にヒュウは渋々ながらも了承する。まったく、普段冷静なこの男がここまで熱狂するとは、にわかには信じられない光景だ。そういえば、ポールじいさんの読んでいた本にも、こいつの名前が書いてあった気がする。
……人気の小説家、ねえ。
胡乱な視線を対面に向ける。当然、無視された。なるほど、とことんまで俺をいない者扱いするつもりらしい。
俺はうんざりした気分で、隣に言葉を投げかける。
「で、この作家先生がおまえの依頼人なのか、ゴルド」
「らしいな」
椅子の背もたれに体重を預けて揺らしながら、ゴルドは他人事のように答えた。俺は訝しみの視線を向けて言う。
「らしいな、っておまえ、自分が受けた仕事なんだろ」
「依頼自体は封書で貰ったのさ。返信も手紙だ。俺も初対面、ってわけだ」
いつものニタニタ笑いを顔に宿すゴルド。俺は暗鬱なため息を漏らした。ということは、実際に面識があるのは俺だけというわけだ。
そこで、小説家がゴルドに向けて口開いた。
「あなたが、私が最初に仕事を依頼したボードイン?」
それに答えるように、ゴルドは芝居がかった調子で胸に手を当てる。
「左様で。ただ手紙の通り、別の仕事を先に受けちまったんでね。代わりの傭兵をご紹介しようと、本日はご足労いただいたわけでさァ」
「構わないよ。代役ということで少し不安も抱いてはいたが、実際に会ってみれば教養も深く紳士的で素晴らしい傭兵だ。依頼を取り消す理由は全くない」
小説家はそう言って、微笑を浮かべつつ隣のヒュウに視線を向ける。ゴルドは可笑しそうに吹き出した。
「だ、そうだ。良かったな、ソード」
俺は乾いた笑みを口元に浮かべた。
「いえ、その、申し訳ありませんね、フォレスター先生」
とヒュウは困ったように眉を寄せる。
「先生のご依頼に同行したいのは山々ですが、私は傭兵ではなく喫茶店主の身でして」
小説家の微笑が凍り付いたように見えた。『可能性としては考えていたけれども感情が全力で否定していたことが事実として突きつけられた』、そんな顔だ。
俺には分かる。俺の方がずっと先にそれと同じ表情を浮かべていたからだ。
ヒュウは微苦笑しつつ、左手で俺を紹介する。
「先生のご依頼をお受けするのはこちらの男性、名をソードといいます」
「……ち」
あ。今、舌打ちしやがったぞ、この女。しかも微笑したまま。
「どうかしましたか?」
ヒュウがのぞき込むと、彼女は先ほど同様に澄まし顔で首を振った。
「いいや……しかし、そちらの男性が代理の者とするなら、一つ気になること、というか、不安な点があってね」
小説家は居住まいを正し、一瞬だけ、今日初めて俺に視線を向ける。胸中がありありと伝わる一瞥だった。
「不安、ですか?」
問いかけるヒュウに、彼女は苦笑めいた表情を浮かべる。
「自分で言うのも何だが、これでも一応は女なんだ。見ず知らずの殿方と二人きりで旅をするということには、さすがにある程度の危機感を覚えないわけにはいかない」
「ああ、それは無理もありません。女性としては当然のことでしょう」
「理解いただけて幸いだ。まあ、あなたのような紳士的な礼節を心得ているような方なら、そんなことはないのだけれど……」
そう言って、小説家は真正面から俺を見た。しかしそれはおよそ人間を見るような目ではなく、まるで路上の鼠の死骸でも見下ろすかのように冷え切っていた。そして言う。
「どうもこの男性からは、そういった安心感が伝わってこなくてね」
俺は辟易した気分で鼻を鳴らした。昨日の今日で好かれてるとは思えなかったが、ここまで明確に嫌われているといっそ清々しいくらいだ。
憮然とする俺の横で、ゴルドは可笑しそうに笑っていた。
「ははは、凄いな、ソード。初対面の女にここまで嫌われる奴なんて、なかなかいないぜ? ア?」
「……初対面じゃないから、ここまで嫌われてるんだよ」
俺はぼそりと独り言で反論する。しかし、腹を抱えるのに必死なゴルドには聞こえなかったようだ。
ヒュウは苦笑を顔に張り付けたまま、小説家に言う。
「確かに、この男の風貌が紳士と呼ぶにはいささか知性と教養が欠けることは、僕も認めましょう」
どっちの味方なんだ、てめえは。
ヒュウは俺の非難の視線を無視し、続ける。
「しかし、傭兵としての実力は保証いたします。殊更、護衛に関して言えば特にね。何でも、今回の先生のご依頼は道中の護衛だとか?」
「まあ、そうだが……」
しかし小説家は釈然としない様子で、相変わらずじとりとした視線を俺に注いでいる。ヒュウは続けた。
「粗暴そうな顔つきをしていますが、これでも組合時代、ソードは護衛の仕事で失敗したことがございません。ただの一度もです。採用する上での前歴としては十分かと思いますが」
「では、ひとつ聞かせてくれ」
と小説家はゴルドの方を向く。
「私が最初に依頼したそちらのボードインと、この代理の男。戦ったらどちらが強い?」
俺の顔が思わず歪む。それは俺がこの世でもっとも嫌いな質問のひとつだった。そんな俺とは対照的にゴルドの瞳が愉悦に輝き、口の端が歪む。
「それァ、間違いなく俺だな」
自信ありげに答えるゴルド。残念ながら俺はこの事実に対しては反論を持ち合わせていない。実際、その通りだからだ。
しかし、横目で俺を見下すような視線を送ってくるゴルドを前に、しずしずと後ろに退けるほど俺は人間が出来ていなかった。
「―――だが、てめえとヒュウが戦えば、勝つのはヒュウだろうが」
俺の一言でゴルドの顔から笑みが消えた。そしてつまらなそうに鼻を鳴らして顔を背ける。奴が一番嫌うのは敗北だ。勝敗という基準に限って言えば、ゴルドよりも頭の切れるヒュウが上である。
俺は内心でざまあみろと悪態をついた。
「でも」
と、そこで今度はヒュウが口を挟んだ。穏やかに微笑みながら、俺に目を向ける。
「僕とソードが戦ったら、負けないのはソードだよね」
予想外の言葉に一瞬呆けてしまった。しかし、しばらく冷静に考えてみてから、俺は頷きを返す。
「まあ、それは……そうかもしれないな」
「―――なんだそれは?」
黙って聞いていた小説家が、訝しげに眉を寄せる。何を話しているのか理解できない、といった表情だ。
「それはつまり……なんだ、お互いの戦いの相性のようなものなのか? じゃんけんのような?」
「うーん、そうですねえ」
とヒュウが考え込む。
「相性、というのも少し違う気がします。かといって、うまく別の言葉にするのは難しいんですが」
「わかった、では質問を変えさせてくれ」
小説家はひとつ吐息をついて、さらに問いを投げかける。
「この三人が戦ったとしたら、最後に生き残るのは誰だ?」
「そりゃ、ソードだな」
「ソードですね」
「たぶん俺、かな」
ゴルドもヒュウも、そして俺も、さも当然のように答えた。
「なんだ、それは……?」
再び同じ台詞を言って、小説家の顔に混乱の色が濃くなる。
「この男よりもボードインの方が強く、ボードインと店主が戦えば店主が勝ち、店主とこの男が戦えば男の方が負けない、しかし三つ巴なら最後に生き残るのはこの男……?」
ぶつぶつと呟いた後で、彼女は諦めたようにため息をついた。
「まるで禅問答だな」
「混乱させてしまったのなら申し訳ありません」
とヒュウが言う。
「ただ、彼がとにかくしぶとい護衛向きの男だということだけ、ご理解いただければ」
その言葉を受け、ゴルドが俺を見て挑発するように笑う。
「ま、ゴキブリ並みの生命力、ってことだなァ」
「……言ってろよ」
先ほど一矢報いてやったので、俺は大人の対応で小さく頭を振るだけにとどめた。悔しくない、悔しくない。
「む……まあ、多数がそう言うのならば、実力に関しては認めるしかあるまい」
渋々といった調子で言って、小説家は俺を見る。口ではそう言いつつも、未だ瞳から疑念の色は消えていなかった。
「しかし」と小説家は目を伏せ、少し語気を強めた。「どれほど実力のある傭兵でも、人間性が伴わなければ話にならん。どれほどの名刀であっても柄まで刃であれば誰も振るえないのと同じだ」
俺はゴルドを横目に乾いた笑いを漏らすしかない。
……そいつはまさに、あんたが最初に依頼しようとした人間のことなんだが。
「とにかく、どうもこの男には心を許せん。自分でも何故かは分からないがな」
後半部分にわざとらしく力を入れる小説家。俺は思わず「嘘つけ」と小さく声を漏らした。俺には心当たりしかない。
しかし取り付くしまもない、といった有様だ。どうしたってこの女は俺に関わりたくないらしい。
俺にしても、出来ることならこんな面倒な依頼人は願い下げだ、というのが本音である。だが、二人の前で受けると言った手前、鼻から門前払いをするのも憚られた。やれやれ、と俺は小さくため息を漏らす。
そんな俺と小説家を見比べながら、ヒュウが困惑顔で頭を掻く。
「困ったな。いったいソードの何がそこまで嫌われてるんだろう。まだまともに言葉すら交わしてないというのに」
ははは、確かに今日はまだ会話すらしていないが、因縁は今日に限った話じゃないんだよ、ヒュウ。
「ボードイン、あなたの先約をキャンセル出来ないのか? 条件によっては報酬を見直すぞ」
少し苛立たしげに小説家が言う。ゴルドは肩を竦めてかぶりを振った。
「魅力的な話だが、自由契約の傭兵は明日の飯が食えりゃ良いってわけにはいかないんでさァ。今後の経営を考えるにゃ、顧客の信頼は裏切れないんでね」
忌々しげに小さく舌打ちを漏らす小説家。その視線が今度は反対側に向いた。
「ならば店主、ええと……」
「ヒュウ・グリーンです」
「グリーン、あなたは?」
「はは、ご冗談を。私はただの喫茶店主、傭兵ではありません」
「以前は傭兵だったんだろう? そのカウンターの上に飾ってある双剣は、あなたのものではないか?」
小説家がカウンターを指さす。その壁に掛けられているのは、よく手入れされた二振りの鉄剣。言うまでもなく、ヒュウの傭兵時代の得物である。
「ああ、よくご覧になっていますね。しかし、あの双剣は私の過去です。ただ時折思い出に浸りたいが為に飾っているだけのこと。今はしがない喫茶店の主でしかありません。店を空けるわけにもいきませんし」
「もちろん、休業中の報酬なら……」
「何よりも」
と、ヒュウは彼女の言葉を遮った。
「今の私は、コーヒーの香りを血の臭気で濁すわけにはいきませんので」
そう言って、眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めるヒュウ。
小説家は言葉を吟味するような沈黙を挟み、やがて反論するでもなく頷いた。
「……無粋な誘いだった。詫びよう」
「いえ、お力になれず、こちらこそ申し訳ございません」
頭を下げる小説家に、それよりも恭しく頭を下げるヒュウ。小説家はため息をつき、顔を上げて俺と目が合うと、更に大きなため息をついた。まったく、嫌みな女である。
「じゃァ、依頼を取り消すかい、作家先生?」
ゴルドが意地悪そうに訊くと、小説家はまたもや押し黙る。その表情は真剣に思い悩んでいるように見えた。傭兵組合が存在しない以上、代わりの傭兵を見つけだすのも楽ではないはずだ。その労苦と俺を雇うこと、果たして彼女の天秤はどちらに傾くのか。
黙考の末、やがて小説家は答えた。
「……理性でわかってはいても、やはり生理的に受け付けないものは無理だな。せっかくで悪いが、そうさせて貰うとしよう。見つかるかは分からんが、他の傭兵にでもあたってみるよ」
「他の傭兵? かかか、そいつァ無理ってもんだなァ」
ゴルドが揶揄するように笑い出した。小説家の顔が不審そうに歪む。
「無理?」
「今やこの街に、イヴィルショウの地理に長けた傭兵はいねぇよ。俺たち三人の他にはな」
話に突然出てきた地名に、ヒュウの顔が驚きに染まる。俺は内心で「やっぱりか」と思っただけだった。昨日の一件以降でこの女が傭兵を必要とするなら、それしか理由はない。
「イヴィルショウ? 先生はまさか、あの山に登ろうというのですか?」
ヒュウの質問に、小説家はややうんざりした様子で頷いた。
「だからこそ、同行してくれる傭兵を探しているんだ。傭兵ならば地図に載らない場所にも詳しいと聞いてな」
そこで彼女は胡乱な目をヒュウに向ける。
「まさかグリーン、あなたもその辺の凡俗のように、私にやめておけとくだらない忠告を言うつもりじゃあるまいな?」
「いえ。ならば、尚更にソードを連れて行くべきです」
小説家に訴えるヒュウの眼は、真剣そのものだった。
「……意外だな、止めないのか?」
「あなたの作品を読んでいればわかりますよ。ここで止めて辞めるような人は、あんな作品は書かない」
小説家はふっと笑みを漏らす。その様子は少し嬉しそうだった。
「それは私にとっては賛辞と同じだな」
彼女はゴルドを振り返って続ける。
「しかし、この三人の他にいない、というのはどういう意味だ?」
ゴルドは不敵な笑みを崩さなかった。
「そのままの意味だぜ。あの山に登って生きて帰ってきた傭兵は俺たち三人以外にはいない、ってことさァ」
「ゴルド、その表現はあまり的確ではないね」
とヒュウが付け加える。
「その分母の数がそもそも僕たち三人だけなんだから。正確には、あの山に登った傭兵が僕たち三人くらいしかいない、だ」
小説家の表情に色彩が灯る。それは驚きと、かすかな興奮だった。
「それは本当か? あの山に登ったことがあるのか?」
確認を求めるような瞳が、対面に座る俺に向けられる。ようやく今日初めて、彼女から普通の人間に向けられるべき視線を浴びた。どうやら自身の好奇心の前では、俺への嫌悪は先立たないらしい。
俺は口を開く。
「もう五年も前に、ちょっとした仕事でな。といっても、山の二合目くらいまで足を踏み入れた程度だ。それでも、馬鹿みたいな量の『牙持つ獣たち』に出くわしたが」
「しかし、あの近辺に傭兵の仕事があるようには思えないが?」
その質問にはヒュウが答えた。
「実は一時期ですが、あの一帯で金が採掘できたんです」
小説家は意外そうに目を見開く。
「金? それは初耳だ」
「ご存知ないのも無理はありませんよ。採れる量もごくごくわずかでしたし、金脈も一年程度ですぐに枯渇して、西部のゴールドラッシュのような展開にはなりませんでしたから。ただそれでも、あの近辺の町にとっては重要な収入源になったわけです。この街からも何人か傭兵が採掘に雇われたりしてね」
「ところが、だ」
と今度はゴルドが話を継ぐ。
「採掘を進めるうちに、愚かな人間どもは大自然の怒りに触れちまったのさ」
大仰に語るゴルド。小説家は首を傾げる。
「怒り?」
ヒュウが頷く。
「山岳地帯に住む『牙持つ獣たち』が、山の麓の炭坑近くにまで降りてくるようになってしまったんです。人間たちがまた住処を奪いにきたと思ったんでしょう。もともと、あの山岳地帯は街道整理などで住処を追いやられた『牙持つ獣たち』の終息地でしたから」
ヒュウの言葉に当時のことを思い出し、俺の口元に自虐的な笑みが浮かぶ。そのまま俺は言う。
「そのせいで、ただ燃石炭を運ぶだけだったはずの俺たちが、その討伐に駆り出されたってわけだ。たまたまそこに居合わせたというだけでな」
「……まあ、安請け合いした僕ら自身が若かった、というのもあるけど」
ヒュウが苦笑する。俺はゴルドの方をじとりと睨んだ。
「いいや、どちらかと言えば、あんなクソ仕事をする羽目になったのはこの戦闘狂いのせいだろ。勝手に単騎で飛び出しやがって」
「かかか、あの時は楽しかったなァ。あれだけ興奮する殺し合いは滅多に無いぜ。ちっとばかし長かったのが玉に瑕だが」
ゴルドもまた当時を思い出すような遠い目をしていた。しかし我々と違ってその目には陶酔の色が窺える。同じ出来事の記憶でここまで受け取り方が違うとなると、やはりこいつの人間性が壊滅的に狂っているのは間違いないようだ。
「何が楽しかった、だ。骨折り損もいいとこだぜ。こちとら必死になって山道を登って、血反吐はきながら連中を掃討したってのに、結局あの町は『組合に正式に依頼したわけではない』とか言って代金を踏み倒したじゃねえか」
思い出しただけでも胸糞が悪い。徒労と呼ぶにしても、いささか理不尽にすぎる記憶だ。
「……まあ、あれは良い勉強になったと思うしかないね」
「ああ。確かに人間の欲深さを思い知るには良い経験だったよ。おかげで今はいい具合に人間不信だ」
ヒュウはその顔に諦観を宿し、俺は天井に向けて一人悪態をついた。これがまともな人間の反応だろう。
「それで」
と、小説家が不意に話を断ち切る。その瞳には、鋭い冴えが宿っていた。
「―――そのとき、あなたたちは何と戦った?」
我々三人は絶句し、ほぼ同時に驚愕の視線を向ける。
何と、だと?
俺は動揺を隠しつつ問い返す。
「……どういう意味だ?」
しかし、小説家はその顔に不敵な微笑みを宿した。
「ボードイン、あなたは今こう言った。『討伐』ではなく『殺し合い』とね。その表現は『牙持つ獣たち』に対して使うのはいささか不自然ではないか?」
「……へえ」
ゴルドが感心したように口の端を上げる。ヒュウが吐息をつき、居住まいを正した。そして彼は小説家に問う。
「―――フォレスター先生。そろそろ教えていただけませんか。貴女があの山を目指す理由は何です? そして、貴女はいったい何を知っているんです?」
「ああ、そうだな。少し順を追って説明させてもらおう」
そう言って、小説家は静かに椅子から立ち上がった。




