胡蝶の夢・後編
「――ったの?」
とても可愛らしい声音が聞こえた気がした。
うっすら目を開くとそこには天井と自分より少し年かさの少女の顔があった。
辺りをキョロキョロと見回しながら身を起こす。御簾の向こうに見える風景はまるで再現なく広がる闇のようだった。だから明るい室内が余計に際立って浮き上がっているように感じられる。
「えっと……」
「あら、やっと目を覚ましたのね。 突然現れたと思ったら倒れてしまうからとても驚いたのよ?」
まだ幼さが残るものの美しい少女は活闥そうな様子で鈴子に言う。
その顔にはとても見覚えがあった。
「すみません。 ……中姫様?」
鈴子がそう呼んだ瞬間、少女の顔がムッとしかめられた。
それを見て鈴子の背には冷や汗が流れる。
自分は何か不味いことを言っただろうか。凄く似てるだけで人違いだったのかしら。そういえば中姫様はここ3日ほど全く目を覚まされないと言ってたじゃない。中姫様の訳無いのに私ったら何を……
「あの……」
「確かに中姫と呼ばれてはいるわ」
「え?」
少女は「私の愚痴を聞いてくれる?」と前置きをすると、鈴子の返事も聞かず口を開いた。
「呼ばれてはいるけれど、それは“橘大納言の2番目の娘”ってだけで私の名前じゃないわ。 私には“橘瑶子”という名前がちゃんとあるのにお父様すら呼んでくださらない。 だから貴女には瑶子と呼んでほしいの。 あ、そういえば貴女の名前を聞いてなかったわね」
瑶子と名乗った少女はなんだかとても不思議な少女だった。わがままなようでそうでない。いつの間にか周りを自分の調子に巻き込んでしまう力を持った少女。
今まであまり出会ったことの無い性格だった。
「私は賀茂鈴子、と申します。 瑶子様」
「様も付けなくて良いのに……。 まぁそのくらいは良いわ。 賀茂家の方なのね。 鈴、と呼んでも構わない?」
「はい。 あの、ところでここは?」
鈴子はチラリと外を見やりながら瑶子に尋ねた。
ここはとても嫌な感じがする。内装はそっくりだが、ここは少なくとも先ほどまでいた大納言様のお屋敷じゃない。
鈴子の少し訝るような様子に気付いてか、瑶子がふっと笑みを浮かべた。
その様子はとても美しいのだけど、その裏にとても暗いものが潜んでいる気がして、思わず鈴子はごくりと唾を飲み込んだ。
「ここは私の家よ」
当然のように答える瑶子に違和感を覚えた。
「失礼ですが、瑶子様のお屋敷にしては女房が1人も見当たりませんが……」
「そうなのよ。 本当にどこに行ってしまったのかしら。 向こうの寝殿にはお母様もいらっしゃるというのにけしからないわ」
鈴子は背中を冷たいものが撫でていくのを感じた気がした。
事前に聞いた話では、中姫様の母君は1年も前にお隠れになったということだったはずだ。
「私ったらお母様とあすかはもう現世にはいらっしゃらないと勝手に思い込んでいたのよ。 とても悲しくて哀しくて……。 けれどお母様は向こうの寝殿に元気でいらっしゃったわ。 やっぱりあれは夢だったのね。 本当に嫌な夢」
うっとりとそう言う瑶子の目はどこを見ているのかよく分からなかった。
理由がはっきりとは分からないながらも鈴子は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
ふと目の前を紫色が通り過ぎた。
「っこの蝶……!」
「あら、鈴はその蝶を知ってるの?」
「ええ……まぁ……瑶子様こそご存知でしたか」
まさか眠っている貴女に鱗粉をかけていましたとも言えず、鈴子は曖昧に返答する。
瑶子はゆったりと目を細めると紫色の蝶に指を伸ばした。
蝶はまるでそれに応えるかのように鱗粉はキラキラと散らしながら彼女の指にとまる。
「この子はね、私を悪い夢から醒ましてくれたの」
「悪い……夢から」
「そう。 さっき言ったでしょう? お母様は実はお隠れになんてなっていらっしゃらなかったって。 それを教えてくれたの。 そうだわ、鈴もお母様のいらっしゃる寝殿の方に行ってみる?」
心ここにあらず、といった感じの瑶子の様子と、紫色の蝶。 それから寝殿があると言う方向から漂ってくる風。 その存在全てが鈴子へ喧しいほどに警鐘を鳴らしていた。
ここはなにか絶対におかしい。
けど――
鈴子はそっと拳を握りしめた。
私は中姫様……もとい瑶子様から怪異を引き剥がすためにこのお屋敷に来たのだ。逃げてはいられない。
「私がご一緒してもよろしいのでしたらぜひご挨拶したいです」
「なら決まりね!」
瑶子は鈴子の袖をとり、庇へ出て妻戸を開く。
そこに広がっていたのは幻想的ながらもとても異様な情景だった。
深い闇の中に、明るく照らし出された渡殿が浮かび、その先には靄のかかったように見える寝殿が繋がっている。
そして渡殿の下には常よりは少し幅広にひかれた水がさらさらと音をたてて流れ、見たこともない薄紫の3寸ほどの花がいくつもぼんやりと光っていた。
「この渡殿を渡って行くのだけど……」
ふっとその表情に影をさしながら言う彼女に続いて渡殿に降りようとした鈴子は首を捻った。
「鈴、どうしたの?」
「申し訳ありません、その……足が出なくて」
渡殿に降りようと何度頑張ってもまるで透明な壁が立ち塞がってでもいるように進めない。
瑶子もまた、渡殿の中ほど、曲水の真上辺りまで進んだところでため息をつき、鈴子の方を振り返った。
「貴女もダメだったのね……。 毎日試していると日に日に寝殿に近づけるのだけど……私もまだここまでしか来れないわ」
「……瑶子様、やはりここはおかし……!? 瑶子様? 瑶子様!?」
不自然に動きを止めた瑶子に違和感と焦燥を覚え、透明な壁を叩くようにして叫び、呼び掛けても彼女は全く反応しない。
困り果てて視線を巡らせた鈴子は絶句した。
曲水の向こう側に生える薄紫色の花からゆらりと伸びた紫色の靄のようなものが瑶子に絡み付き、包みこまんとしていた。
本能的に瑶子は向こう側に引きずり込まれてしまうのではないかと思った。それは取り返しのつかないことになってしまいそうだと思った。
おそらく“今日”は瑶子曰く日に日に寝殿に近づけるようになっていった“昨日”までとは違う。
直感的にそう思った。
向こう側に連れていかせてはいけない。でもこの手は彼女には届かない。
彼女を助けて――
「――螺鈿!!」
りぃんっと大きく鈴の音が聞こえた気がした。
続いてズンと腹の底に響くような震動。
<全く鈴子様は我を喚ぶのが遅すぎなのだ!>
ちょっと誇らしげな様子の巨大な蛤が突如出現し曲水をせき止める。
「螺鈿!瑶…中姫様を!」
<了解なのだ!>
大きな殻が持ち上げられ、蛤が傾く。
――パクッ――
螺鈿は一瞬でその殻の内に薄紫色の花を取り込み閉じ込めた。
<ん〜っなかなか美味しいのだ!食べにくかったけど>
しばらく殻を閉じてもぐもぐやっていたらしい螺鈿はうっとりと殻を開き、そんな文言を映し出す。
それとほぼ時を同じくして何羽も舞っていた蝶が、ぼろぼろと朽ち果てるようにして全て崩れ消えていった。
「ありがと……って螺鈿!瑶子様が!!」
糸が切れたあやつり人形のように瑶子が渡殿に崩れ落ちる。鈴子は瑶子に駆け寄ろうとして、しかし透明の壁に阻まれそれも叶わない。
そうこうしているうちに瑶子の体が仄かに光り、光の粒子へと変わっていく。
きっと間に合わなかったのだ。私は瑶子様を……
<心配いらないのだ。“夢”から醒めるだけなのだ>
「え?夢……?」
訳が分からず首を捻る鈴子のもとに螺鈿が小型化しながらひょこひょこ寄ってくる。
<ここは中姫の夢の世界。 そして現世と隠世を繋ぐ場所。詳しいことは現の世界で話すのだ。 中姫の夢が醒める前にここを出た方が良いのだ>
「出た方がいいって言われても…どうすれば良いのかしら」
<簡単なのだ。鈴子様が出たいと思えば出られるのだ>
鈴子はぽかんとした。それだけって……拍子抜けにも程がある。
でもあまりに螺鈿が自信満々に言うものだからやや半信半疑ながらも鈴子はそっと瞳を伏せた。
―― 願わくは現世へ ――
―――――――
―――――
―――
「……という次第でありまして」
鈴子と螺鈿の話を忠家が要約し、大納言へと伝える。
それをふむふむと頷きながら聞いていた大納言をそっと目許を拭いながら口を開いた。
「なるほど、妖しき蝶を媒介に姫に憑いた隠世の花が姫を連れていこうとしていた、そしてそれを其方の娘とその式神が退治たということか」
「ええ、大まかに申し上げますと」
本当はあの蝶は幻で、どこからか中姫に寄生した隠世の花が彼女から効率よく生気を吸い上げるために壺を“門”として使っていたとか、だから蝶や壺ではなく姫から妖気が感じられたとか、現世と隠世の狭間にある花の本体を倒さなくてはいけなかったとか、術者目線ではいろいろある。
でもとりあえず雇い主にはこの程度説明しておけばいい。
「実はな、先日喪が開けた北もしばらく眠り続けて還って来なかった……そして姫の女童も……」
それを聞いた忠家の目がグッと細められた。
「大納言様、北の方様がお隠れになった後、北の方様から中姫様へお譲られになったものはございますか?」
「あぁいくつかあるが……」
「拝見してもよろしいでしょうか」
「構わぬ。持ってきなさい」
大納言は二つ返事で女房に命じ持ってこさせる。
さして時も経たないうちに、華麗な品がいくつも並べられた。
「持ってこさせたが……」
「ありがとうございます。怪異の“種”を滅します」
きりりと引き締まった面持ちで忠家は品々を見据え、1拍おいて立ち上がった。
彼は迷いもせず、先程“門”に使われていた壺を手に取る。そうして懐から取り出した、札付きの巾着へと中身を出し、素早く封をした。
そんなに大量の中身が入っていたわけではなかったのに真ん丸に膨らんだ巾着に忠家は剣印を押しあて、2つ3つ呪を唱えた。
ぱん、と軽やかな音が響き、膨らんでいた巾着はぺちゃんこになった。
礼の1つだとして牛車に乗せられ、賀茂の父娘は帰途についていた。
「牛車って思ったよりゆっくりなのね。 結構揺れるし」
「そうだなぁ。 まぁでも唐衣裳のお姫様や長い裾をひく公卿の方々にとってはとても楽なのだろう」
<裾の長さどんどん長くなってるもんね! 最近のは長くなりすぎちゃって遊び難いんだよね……>
「……内裏の内にも妖を見ることができる者はいるだろう。 気を付けなさい。 ところで鈴子」
半ば呆れ顔で螺鈿をたしなめ、忠家は表情をゆるめ、鈴子の頭をぽんぽん、と撫でた。
「今日はお疲れ様だったね。 部屋に入ってすぐあの壺に着目したそうじゃないか。 よくやった。 本当は“種”にまで気付けると良かったが……とりあえず今日は上出来だったよ」
本職の陰陽師でもないのに、と忠家は呟く。
今回この仕事をやらせたのは果たして良かったのか、それは分からないけど、ひとまず娘が無事に自分のもとへ帰ってきたのだからそれでいい。
ゆっくりと進む牛車の中には時間がゆったりと流れていた。
補足
☆喪について
当時、親族が亡くなると遺族は喪服を着て喪に服しました。
喪服を着て過ごす期間は亡くなった人との間柄により変化します。
作中では大納言の北の方(奥方)が亡くなりましたが、その際家族喪服を着ていた期間は以下の通りです。
大納言 90日間
瑶子 13ヶ月間
ちなみに夫を亡くした妻の服喪期間は13ヶ月です。
夫が亡くなったときと妻が亡くなったときで服喪期間は異なるんですよね。一夫多妻制ゆえでしょうか。