緑の雨
花にまみれたその街を、黒い男が流れて歩く。
紫の蝶が死に絶えて、紫の花が咲き誇る。
ガス灯の光は霧の海、地面に触れずにかすれて消える。
白にたゆたう秋の街。人影離れて久しい空の街。
カツカツと木製の足音響かせて、男は十字路に差し掛かったとき。白い少女が左手からそっと飛び出してきた。足の無いような足音だった。
少女の眼窩はうろ穴のようにぽっかりと黒く開いていた。
少女はなんにも言わずに十字路をまっすぐ進む。男はさしたる驚きもなく、淡々と少女の背中についていく。
右に左に左に右に。曲りに曲がった道の先、再び十字路に差し掛かる。
迷っているのではないか。そんな疑問が男の帽子によぎってうねる。
鳥の仮面の嘴を、疑問を交えて撫でようと、男が左人差し指を伸ばしたとき、白い少女が振り返る。
「どこに行きたい?」最初に問われるはずの問いは、思い出したときにやってきた。
男はブーツの踵で地面をたたく。道の向こうに飲まれる音に、任せるといった趣の声が混ざっていた。
「時計塔が一番高いわ」少女はなんとなしに提案し、なんとなしに空を見上げた。
男もつられて空を見上げる。霧の向こうに塔は見えない。
男がカチコチと首を下ろすと、少女はもう歩き出していた。やはり足音はない。
男は外套からステッキを取り出して、音の無い街に彩りを添えながら、やはり再びついていくことにした。
秋のような風が吹く。少女の髪をすり抜けて、男の服をかすかに揺らす。
二人の歩みは大きな道から小さな道へ、歩道の間隔は狭まり、周りを囲むのはお店からお家へと替わっていった。
どの家にも必ず大なり小なり庭があり、必ず花が咲いていた。
赤青紫灰黄色。どの色も決まっておぼろげで、水をたっぷり混ぜ込んだ水彩絵の具ようだった。
「サラニナの花」少女は止まらずに口を開く。
「人々はみんな咲いてしまった」少女の瞳に涙はない。
男に語り聞かせる口調だったが、そんな必要はないと、分かりきった口調でもあった。
聞いてか聞かずか分からない、鳥の仮面は無表情。
されど観光名所を巡るよう、バスガイドの指示に従うよう、ぽっかり空いた仮面の瞳を花へと注ぐ。
男の瞳はしばしば、空と少女にも向けられていた。
花、花、空。花、花、少女。花、少女、空、少女。
緩慢な動作ながらせわしなく、ひょこひょこと帽子のつばが揺れる。
ドールハウスの家々は、埃も積もらず綺麗なままだった。
住宅街が裂けて開いて、寂しい公園が見えてきた。
すべり台、ブランコ、ベンチ、噴水を真似た水道、砂場、花。
入り口の脇ではうらぶれた自動販売機がぴかぴかとボタンのランプを光らせる。コーラとラムネとホットココアが売り切れていた。
二人は公園を通路として通り過ぎていく。レンガを模した道を外れず、遊具の傍には近づかず。
公園にもぽつぽつと花が咲いていた。
「かくれんぼ中に通り雨」と、少女は滑り台の下に隠れんぼ中の青い花を指差した。
男は成る程と言わんばかりに、黒い手袋をぴったりとはめた指で仮面を三回叩いた。
「時計塔ができる前」男の返事に気を良くした少女は話を続ける。
「雨の予報ができる前」
「通り雨に降られた人もいっぱい居た」小さなバスガイドは止まらない。
「ここに居るのはそんな子ばかり」成る程確かに、ここの花は不規則に、通り雨から逃げる人々を連想させる姿でまばらに咲いていた。
男は仮面を三回叩く。
その肯定を合図にして、少女の観光案内は終わった。
なんだかんだと二人は歩き、公園の出口についていた。
時計塔は街の中央、よりかは少し左に外れて立っていた。
時計塔の周りは円形に開けていて、四方八方へと道が伸びている。それらの道の行先は、誰にも分からない。
花にまみれていた。時計塔を飾り付けるように、時計塔を軸としたブーケのように、花々が咲いていた。
花弁は一つ残らず天を仰ぎ、ぴんと張った子葉が空に腕を広げる。
花に埋もれて、道はなくなっていた。少女も男も花を踏み抜いて時計塔に近づかなければならなかった。
男はむしゃむしゃと音を立てて花を踏み踏み歩いていく。少女は音もなく歩いていく。花が踏まれたかどうか、定かではなかった。
時計塔は藍色の石でできていて、夜の雲の色をした石たちが湿り気につやつやと光る。
時計板の見える正面に扉はなく、そこから180度と3度ほど向こう側に、しみったれたマホガニーのドアが薄い影をたたえてちょこんとついていた。
少女の肩越しに腕を回して黒い男がドアを開けた。
ドアに見た目に反してすんなりと滑りよく開き、きぃ、と音を立てさえしなかった。
二人の眼前に現れた暗い空間へ、するりと少女が入り込み、一拍置いて男が続く。
時計の針が4時25分をさして止まった。
時計塔の中には、マトリョーシカじみた構造で、歯車の塔がそびえていた。
大小さまざまな歯車は、軸も支柱も噛み合って、歯車の上に歯車が乗り、サーカス団の玉乗り男の上に逆立ちの女が乗るように、奇妙に均整のとれた、しめやかなバランスで、上へ空へと積み重なっていた。
かつてはカチカチコチコチとうるさかったであろう歯車塔。
今ではもう歯車が回ることもなく、音を立てることもなかった。時計の歌は聞こえない。
少女は右手に螺旋階段の始まりを見つけて、するすると登り始めた。男ものろのろと登り始める。
少女の歩みは早く、男の歩みは遅かった。
少女は時おり歯車の陰に隠れて、男の視界から消えてしまうこともあった。
男はとても飽きっぽかった。階段を登るに際しても、じっとせずに、うろうろふらふらと、視線をくゆらせていた。
男の目下の焦点は歯車の軸穴だった。軸穴には通されるべき軸がなく、決まり悪く空洞になっていた。
歯車塔の向こうに消えた、少女の腕が穴から見えた。男はふと、己の仮面の眼窩をなぞる。
右中指が眼窩をなぞり終えたころ、少女の腕は消えていた。
螺旋階段の終わり際、少女はおしゃまに待っていた。少しだけ息を弾ませ、肩をわずかに上下に揺らして。
彼女には期待も失望もなかった。口元は楽しげに上がっていた。
「遅いのね、足」と少女は笑った。
遅いを細いと間違えて、男は外套の内の二本の足に思いを馳せる。
それから少女の足をそっと見て、分かりやすく疑問の意を示すべく、首をかしげる。
男には言われる筋合いはないように思えた。それに応えて、少女も分かりやすく首をかしげた。
男の勘違いには見当がつかなかったようだが、それでもちょっと愉快そうな様子だった。
男の耳には、象牙の仮面の白い耳には、歯車の回る、カチコチと乾いた、仕掛けの音がくるくると漂っていた。
少女はふと右を向き、壁を目線で指し示す。壁に見えた箇所には、こっそりと奥ゆかしい扉があった。
「ここから外に出られるわ」
「上から眺めはとても綺麗よ」最後の観光案内は控えめで、それっきりだった。
壁に溶け込んだ扉のノブに、男が触れる。ノブを回すと、かちゃりと鳴った。男が押すと、きぃと開いた。
霧が吹きこんでくる。湿り気は強まり、視界の全てに白みがかかる。
男が扉を押して開け放すと、黒い外套をすり抜けて、少女が外へと出て行った。
男は数歩進んで街へと視線を滑らせる。色とりどりのその町は、緑色の印象を受ける。
赤レンガの家がある。青いタイルの屋根がある。黄色い花の庭がある。
されど、それらを包んで消してぼやかして、よりいっそうの緑があった。
バルコニーの先端。手すりがあるのに落ちてしまいそうになる先端に、少女は居る。
ふわりと浮かぶその姿は、落ちてしまいそうなのに落ちることなどないようだった。
少女は手すりに背中を預けて、緑の街を背中に背負って、男の眼窩へ瞳を向ける。
男は屋根の下に居た。少女は屋根の外に居た。
鐘の音一つ降ってきた。風になびかない少女の髪は、鐘の音になびいた。
この世はきれいな処刑場。花の転がり咲く処刑場。うめき声もあげないで、淡々とノスタルジックな海に揺れる花々。
墓石に手向けられた花。淡い色合いの花々。過去を見やる花々。鳴らない足音。
少女は手すりにぺたんと座り、霧の向こうにあるものを見上げた。男は付き添って見上げるが、彼には空までしか見えなかった。
「雨のにおいがする」少女の声は、置き去りにされた秋の鈴、木枯らしに鳴る鈴の音を思わせた。
男は分からなさそうに外套を三回揺らした。さらに、ステッキで地面を四回叩いた。
少女はにべもなく、空の向こうを見るだけだった。
少女は男に、そこから踏み出さないよう、屋根から出ないように言っておくつもりだった。
だが、そんなことは言うまでもなく、男には分かっていた。
霧が深くなっていく。水滴の冷たさが肌に触れ、それは三日月の先端よりもひんやりと冷たかった。
少女はそっと吹き上げられるが如き動作で、左腕を天へとかざす。
それとまったく同じ頃、空の真ん中で、霧が集まって雲が生まれた。少女は傘を持っていなかった。
「花って冷たいものなのかしら」少女はなんとなしに訊いてみた。問いに意味はあんまりなかった。
男は帽子を、きゅっと鳴らしてかぶり直した。帽子の立てた布の音色は、否定の色を帯びていた。
少女は嬉しそうに笑った。
嬉しそうに笑ったほほに、緑の粒がつぅと流れた。音も立てずに少女は消えた。
少女の左足のついていた、つま先の触れていた石畳の端っこに、真っ白い花が咲いていた。
緑の雨が降っていた。
まっさらなカンパスに、水で溶かしたエメラルドを落としたような雨だった。
時計塔の一番上で、雨宿りを続ける男の仮面の耳の奥で回るぜんまいに、柔らかな雨音だけがしみ込んだ。